中日新聞に「寂聴の教え(上)」というタイトル、「見返りは求めない」というサブタイトルで、瀬尾 まなほさん(寂聴さん秘書)が投稿されていました。
先生のお墓は岩手県の天台寺にある。
天台宗大僧正の瀬戸内寂聴としてかつて住職も務めた寺院だ。
墓碑銘には言葉がまだ刻まれていない。
昨年十一月に九十九歳で旅立つまでに決めきれなかった。
「『書いた、愛した、祈った』にしようか」と言っていたことがある。
どんな言葉になるにしても私は「愛した」だけは外せないと思っている。
「人は愛するために生まれてきた」。
法話などで先生がよく語った言葉だ。
自身の人生も表現している。
ただ、その道は人に祝福されるばかりではなかった。
むしろ世間を敵に回す愛も多かった。
夫と四歳の娘を置き去りにして年下の男性に走ったこともある。
「恋愛は雷のように落ちてくる。理屈ではない。不倫と言われようが、好きになったのだから仕方ない」
先生はそうは言ったが、不倫は相手とその家族はもちろん、自分も傷つける。
許せるものではないと考える人も多いはずだ。
だからこそ、愛には「覚悟」が必要だと強調する。
責められ苦しむこともあるだろうが、愛が導いたものとして受け入れ、見返りは求めない。そんな覚悟だ。
仏教で、見返りを求めるような愛は「渇愛」と呼び戒められる。
先生によると本当の愛は「慈悲」だ。
「慈」とは楽を与えることで「悲」とは苦しみを抜き去ることを意味する。
先生は「慈悲」としての愛に生きようとしてきた。
もちろん仏さまでもないし、そこまで立派にはなれない。
むしろ、自分も含め人間は煩悩(欲望)の塊であることを十分認識していた。
誰もが煩悩を抱えていると思えば人は責められないし、煩悩ゆえに痛い目に遭った人の痛みもよく分かりやさしく寛容になれる。
先生は自ら認める「ダメ男」好きだった。
仕事も中途半端でお金にルーズ、女性にだらしなく嘘もつく。
実際に付き合ってきた男性もそういうタイプが多い。
先生が助けてあげなければ生活もままならないような人もいたと聞く。
それでいて、見返りを求めない。
人間は、そもそも不完全だからこそ人間らしく、愛おしい。
「落雷」「不倫」「覚悟」「煩悩」ーすべてを飲み込み、矛盾も抱えながら先生ならではの「愛の道」を歩んできたと思う。
「慈悲」とともに、先生が大切にしてきた仏教の言葉に「忘己利他(もうこりた)」がある。
自分以外の人の幸せも考え生きることが思いやりの極みであるという意味だ。
だから、社会のどこかで苦しんでいる人がいることに、常に思いを馳せていた。
大震災と原発事故、あるいは安全保障関連法が成立したときも自分は何をすべきか悩み行動してきた。
安保法の時は圧迫骨折やがんの大手術の直後で抗議集会に出掛ければ命の危険もあったが、「死んでもいい」と私たちの反対を受け入れない。
先の大戦で家族を失った先生は戦争に近づく可能性のある法律は何としても反対の意志を示したかった。
もちろん「自分の活動により何かを変えられたことなどない」ことも分かっていた。
でも「あきらめないことを示さなければならない」。
それを見て、未来を生きる人が一人でも何かを感じてくれればいい。
こうした生き様も先生なりの「愛の道」だったのではないかと考えている。
以上です。
ロシアの暴君がウクライナを攻めているこの時に、瀬戸内寂聴さんのように平和のために行動し、発言力が多くの方に影響する人物がいなくなられたことが残念で仕方ないです。
>そんな私の問い掛けに先生は「それは許せないでしょう」と認めながら、「ならば愛するのをやめておこうと初めから考えるのでは本当の恋愛ではない」と断じた。
瀬戸内寂聴さんのお言葉に反発すれば、心惹かれる方にたとえ出会っても不倫に走らない、それが私は大切だと思っています。
本当の恋愛は一度でいいです。
妻や子どもたちを泣かせるような恋愛はやめた方がいいと思います。
岩崎宏美 春おぼろ 歌詞 字幕入り