中日新聞の「人生のページ」という欄に「広がる お寺の掲示板」というタイトルで、江田智昭さんという僧侶さんが投稿されていました。
「お寺の掲示板コンテストを行ったら面白いのでは?」と思い浮かんだのは、約四年前のことでした。
掲示板を使った布教は昔から「掲示伝道」と呼ばれ、百年以上の歴史があるといわれていましたが、近年それを行うお寺は減少傾向にありました。
そこで、私は「輝け!お寺の掲示板大賞」という企画を二〇一八年に立ち上げました。
この企画はお寺の掲示板の言葉をスマホで撮影して、ツイッターやインスタグラムといった会員制交流サイト(SNS)に投稿してもらい、賞を決めるシンプルな企画です。
ちょうど二年前、この紙面で最初の紹介機会をいただきました。
必要とされるのが賞品代のみという低予算企画にもかかわらず、昨年の四回目の掲示板大賞には四か月の応募期間に二千八百八十七作品が集まりました。
十八年の一回目が七百作品でしたので、四年間で四倍になったことになります。
大賞の運営者として、この間五千以上の掲示板の文言を読みました。
現在、私はダイヤモンド・オンラインというネット媒体で掲示板の文言を紹介する連載を行なっており、連載は新潮社から「お寺の掲示板」「お寺の掲示板 諸法無我」というタイトルで出版されています。
ずっと読み続けていますと、二十年の新型コロナウィルス発生により、全国のお寺の掲示板の言葉に若干の変化が生じたように感じます。
それまでは定番だった、人生に活を入れるような厳しい言葉が減り、人々の不安を和らげる言葉が増えたのです。
コロナ禍の先の見えない状況の中で少しでも人々の不安を取り除きたいと思った寺院関係者が多かったのでしょう。
実際にそのような言葉を多くの人々が求めていると私自身実感することがありました。
それは昨年十月、ネット媒体の連載の中で「置かれた場所で 咲けないときは 逃げてもいいよ 咲けるところへ」(広島県・妙慶院)という掲示板の言葉を紹介したときのことでした。
コロナ禍を受け、自殺者の数が増加しているという報道を見て、「生き続けてほしい」「逃げることは恥ではない」などと記事の中で訴えました。
すると記事のページビューが百回続く連載中の最高を記録し、その日の記事の中の一位を取ったのです。
たくさんの人に読んでいただけたことはもちろんうれしいことでしたが、社会の中で多くの人が疲れ、追い詰められていることがページビューの数から伝わってきました。
以前、「ボーッと生きてもいいんだよ」(石川県・恩栄寺)という掲示板を紹介したときも反響が非常に大きかったのを覚えていますが、頑張ることに疲れている人が増えていることは間違いないようです。
「ボーッと生きてもいいんだよ」という文言を読んで、「仏教の教えとは本来、ボーッと生きてんじゃねーよである」と主張する仏教者の方もいました。
そのかたの言いたいこともよく分かりますが、私が所属している浄土真宗では「阿弥陀仏がそのまま救ってくださる」という教えです。
すべての人間が死ぬまでずっと頑張り続けることはできません。
頑張れなくてボーっとしてしまう人間も決して見捨てないのが阿弥陀仏という仏様なのです。
子どもの頃から常に頑張ることを要求され、社会に出てもオンリーワンの人材になるよう求められる世間の風潮。
このような社会の空気に疲れている人が少なからずいることを掲示板の反応を通して非常に強く感じました。
以上です。
お寺さんも金儲けばかりでなく、掲示板を通して布教活動もされているのですね。
私が散歩に出かける途中に、ある新興宗教の玄関先にある掲示板が目に留まります。
読んでみると、感心する文章が書かれていて勉強になります。
「置かれた場所で 咲けないときは 逃げてもいいよ 咲けるところへ」
「ボーッと生きてもいいんだよ」は、文言は印象に残りました。
>子どもの頃から常に頑張ることを要求され、社会に出てもオンリーワンの人材になるよう求められる世間の風潮。
このような社会の空気に疲れている人が少なからずいることを掲示板の反応を通して非常に強く感じました。
このように頑張っても、幸せになれるとは思いません。
ボーッと生きても幸せになれると思います。
ラ・ノビア ペギー葉山 1996' (25) UPC-0444