泰緬鉄道
12月9日 カンチャナブリー&ナコーン・パトム の現地ツアーに参加しました。2200B
7時10分ウェンディーツアー会社事務所のあるホテル(BTSシーロム線ナショナルスタジアム駅)に集合です。
5時半に目覚ましを掛けたのですが、5時に目覚めたので前日用意した朝食[サンドイッチ、リンゴ、バナナ、ヨーグルト、ミルク]
を済ませ、6時半にホテルを出ました。
ピックアップ場所は、BTSを乗り継いで2駅ですが、早朝なので早めに出ました。
電車はかなりの本数走っているようで乗客も多かったです。6時50分には着いてしまいました。
ツアー参加者は、私の他の一グループ3人の計4人でした。7:10に出発
8時過ぎにワット・プラ・パトム・チェディに着きました。
世界最大と言われる仏塔は120mあるそうです。30分ほどの自由時間しかありません。
途中、高速道路のガソリンスタンドの立ち寄ってトイレ休憩があり、10時にカンチャナブリー戦争博物館に着きました。
この博物館は、JEATHの名前が付いています。
ジャパン・イングランド・アメリカ・オーストラリア・タイ・オランダの頭文字を取って命名されたそうです。
この鉄道はDEATH鉄道という言い当てていた名前が付いていたのですが、この新しい名前に置き換えれれたそうです。
「Fogive but not forget」は美化し過ぎと思います。
案内にあった 日本軍の命令="…If you work hard you will be treated well but if you do not work hard you will be punished"
は過酷過ぎます。
博物館
幼稚園児が遠足に来ていました。
戦没者慰霊碑、日本人だけしか訪れないそうです。
↓来訪者の名前
第二次世界大戦ミュージアム(入りませんでした。)
KWAI川鉄橋周辺、汽車待ちのため30分ほどの自由時間後、11:05に列車が駅に到着しました。
カンチャナブリー・クワイ川橋駅
チケットは300B、指定席代が100Bのようです。座席は板張りでお尻が痛いです。 途中の駅
ダイヤ表のようです。
途中駅で撮影タイム
洞窟
ゴムの木林 タピオカの木
おしぼりと水が無料で配られ、チケットに写真が印刷された記念品は100Bでしたが買いませんでした。
途中駅を4つほど通り過ぎ、12:30頃タムカセー駅で下車しました。 車両のプレート
1:30まで昼食、バッフェ式でした。広いレストランで、静かにのんびり食事が出来ました。
タムカセー駅から徒歩10分ほどの所に洞窟があるのですが、往復20分はちょっときついので行きませんでした。
ガイドはサットさん、若い男性ですが好青年でした。日本語学校で学んだそうです。
先日、JTBのガイドの一人が癌で亡くなったそうで、ガイド仲間たちがその人への香典200Bを集めていました。
1:30分に帰路に付きました。帰りは、電車ではなく、マイクロバスです。4時頃バンコク市内に入り大渋滞でした。
10m進むのに10分なんてこともありました。
ラマ8世ブリッジ
昨日場所がわからず難儀したワット・インドラウイハーンは、この橋を渡り終えた市内に入ったすぐの所にあることがわかりました。
そこからホテルまではそんなに距離はなく、ホテル前を通ったので私は降りました。
ちょうど5時頃だったと思います。エアコンの効いた車の移動で、寝ることも出来、かんかん照りの所を歩くことは無く、
木陰が多かったこと、また気温もそれほど高くなっかこと、歩いた距離も1万歩以下でしたので、
ほとんど汗をかくこともなく疲れも感じませんでした。
夕飯は、ホテル近くで魚のフライ(45B)、魚のすり身を油で揚げたもの(薩摩揚げみたいなもの)、鶏肉のフライ、トマトなどを買い、
ホテルの部屋でそれらをつまみにビール、ウイスキィを飲みました。
さて、日本軍は第二次世界大戦中、タイからビルマに通じる400km余の鉄道建設ジャングルを切り開いて行いました。
デヴィッド・リーン監督、ウィリアム・ホールデン、早川雪舟らが出演した「戦場にかける橋」は、私も見たことのある映画です。
イギリス人捕虜達が奏でる「クワイ河マーチ」の口笛は大ヒットしました。
約3万人の連合国捕虜、10万人以上のアジア人(中国・インドネシア・ビルマ・マレーシア・インド・シンガポール・タイ)が
強制労働させられたと言われ、半数の戦争捕虜、ほとんどのアジア人が過酷な労働で命を落としたと言われます。
彼らへの賠償・償いが行われたかを私は知りません。おそらく全くなされてないのでは無いでしょうか。
沢山の日本軍兵士が餓えと病でこの地で命を亡くしたことは比較的知られ、慰霊されていますが、
戦争捕虜と強制労働されたアジア人の真実はほとんど語られていません。
冬でさえ30度を超える暑さで、歩くだけでもつらいのに、真夏はどれほどか想像も付きません。
この鉄道を、人々は「死の鉄道」と読んだそうですが、満足な食事や休息も与えられず、命を失って行った彼らの絶望的過酷さを
思うと私は言葉がありません。
南京虐殺・慰安婦問題と並んでインドシナ半島で犯した日本軍が犯した戦争犯罪は今も裁かれず、
被害者への賠償や謝罪は私が知る限り行われていません。 【12月9日終わり】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12月10日 スクムウィット通り周辺を歩きました。
アソーク交差点
タイ最後の12月14日夕方、タイマッサージの店を予約したので、午前中、その下見もかねてスクムウィット通り周辺を歩きました。
ガイドブックによると、「様々な人種、国籍の人々が行き交う」と書かれています。
BTSプロムポン駅で降り、その店に行こうとしたのですが、間違って反対に歩いてしまいました。
引き返して、すぐわかりました。日本人の経営のようです。
マッサージ店は、町中にたくさんあるのですが入りづらいので、少し高めでも代理店を通じた方が良いと思ったからです。
店を確かめた後、駅前のベーンチャシリ公園をのぞいてみました。
ジョギングしたり、公園内の器具で運動したり、筋トレしたり、ウエイトトレーニングをしたりしていました。
大きなカタツムリにはびっくりでした。
若い人は、元気です。籐球を楽しんでいました。
手作りのダンベルで汗をかいている青年がいました。私は、筋力は1週間も間を置くと弱まると言われ、
私はもう2週間以上もトレーニングしていないので、少し試させてもらいました。
コンクリートを固めた手製のダンベルなのでどの位の重さか検討がつきませんが、弱まっていると感じました。
私は、ストレッチ用のミニマットを持ってきたのですが、夜は日記を書くと時間が無く、全く使わず、宝の持ち腐れでした。
また、公園内にはたくさんの彫刻がいくつかあって心が和みました。
ガイドブックには「様々な人種、国籍の人々が行き交う」とあり、ソイと呼ばれる大通りから入る路地の何本かを散策しましたが、
特別変わった様子は感じませんでした。
日本語の看板はちょっとけばけばしく、夜になると全く変わった雰囲気になるとのことです。
一般道路で80kmは驚きです。 通りには、少ないですが、水飲み場があります。
タイの水は、比較的安全と言われていますが、硬水のため、生水は飲まない方が良いようです。
バンコクのホテルには湯沸かし器があったので、私は水道水を沸かし、冷まして飲んでいました。
カムティエン・ハウス [タイの昔の高床式の家を移築し、博物館にしたものですが、入りませんでした。]
カムティエン・ハウスは、現在では、入り口はコーヒーチェーンです。
隣のサイアム・ソサエティは関連施設で結婚式場などに利用されているようです。
アソーク交差点がとりわけ大きい訳ではなく、ごく普通です。この交差点は跨線橋になっていますが、なっていない交差点の
横断は簡単ではないことがおわかりでしょう。
何度も書いていますが、本当に自動車のわがまま・強引さに私は頭に来ています。
タイの交通に関して一番悪いのは、信号が無いこと、相互の信号間の連携が良くないこと、
横断歩道が極端に少ないこと、
一番悪いのは車の一時停止標識が無いことです。
左折車は、信号に関係なく左折できるのもとても危険です。[オレンジ色線で囲った所]
私の興味あるバンコクの観光スポットはほとんど見終えたので、午後は休憩にしました。
ところが、私が使っている「goo、Yahoo、 Biglobe」などの日本語のサイトが開きません。
悪戦苦闘の結果、ウインドウーズのアップグレードに関するもののようでした。
アップグレードのインストール中に何らかの事情でクラッシュしていたようでした。
バンコクに2週間ほど泊まった訳は、郊外の都市をいくつか訪れたいと思ったからですが、私の調査不足でした。
一番の問題は、鉄道など公共交通のインフラが不十分でアクセスが簡単ではないことです。泰緬鉄道などのカンチャナブリーへは昨日現地ツアーで訪れることが出来ました。
カンチャナブリーは見所が離れて散在していますし、泰緬鉄道の予約など個人だとかなり容易でないと思ったからです。
また、現地ツアーは申込者が少ないと催行されないので、一人参加はなかなか容易ではありません。
そんな中で、ロッブリーはアユタヤより遠いのですが、ミニバスの便が良さそうなので明日早起きして行こうと思っています。
ガイドブックでは2時間とありますが、果たして上手くいくでしょうか。ただ行っただけとなるかもしれませんが…。【12月10日終わり】
12月9日 カンチャナブリー&ナコーン・パトム の現地ツアーに参加しました。2200B
7時10分ウェンディーツアー会社事務所のあるホテル(BTSシーロム線ナショナルスタジアム駅)に集合です。
5時半に目覚ましを掛けたのですが、5時に目覚めたので前日用意した朝食[サンドイッチ、リンゴ、バナナ、ヨーグルト、ミルク]
を済ませ、6時半にホテルを出ました。
ピックアップ場所は、BTSを乗り継いで2駅ですが、早朝なので早めに出ました。
電車はかなりの本数走っているようで乗客も多かったです。6時50分には着いてしまいました。
ツアー参加者は、私の他の一グループ3人の計4人でした。7:10に出発
8時過ぎにワット・プラ・パトム・チェディに着きました。
世界最大と言われる仏塔は120mあるそうです。30分ほどの自由時間しかありません。
途中、高速道路のガソリンスタンドの立ち寄ってトイレ休憩があり、10時にカンチャナブリー戦争博物館に着きました。
この博物館は、JEATHの名前が付いています。
ジャパン・イングランド・アメリカ・オーストラリア・タイ・オランダの頭文字を取って命名されたそうです。
この鉄道はDEATH鉄道という言い当てていた名前が付いていたのですが、この新しい名前に置き換えれれたそうです。
「Fogive but not forget」は美化し過ぎと思います。
案内にあった 日本軍の命令="…If you work hard you will be treated well but if you do not work hard you will be punished"
は過酷過ぎます。
博物館
幼稚園児が遠足に来ていました。
戦没者慰霊碑、日本人だけしか訪れないそうです。
↓来訪者の名前
第二次世界大戦ミュージアム(入りませんでした。)
KWAI川鉄橋周辺、汽車待ちのため30分ほどの自由時間後、11:05に列車が駅に到着しました。
カンチャナブリー・クワイ川橋駅
チケットは300B、指定席代が100Bのようです。座席は板張りでお尻が痛いです。 途中の駅
ダイヤ表のようです。
途中駅で撮影タイム
洞窟
ゴムの木林 タピオカの木
おしぼりと水が無料で配られ、チケットに写真が印刷された記念品は100Bでしたが買いませんでした。
途中駅を4つほど通り過ぎ、12:30頃タムカセー駅で下車しました。 車両のプレート
1:30まで昼食、バッフェ式でした。広いレストランで、静かにのんびり食事が出来ました。
タムカセー駅から徒歩10分ほどの所に洞窟があるのですが、往復20分はちょっときついので行きませんでした。
ガイドはサットさん、若い男性ですが好青年でした。日本語学校で学んだそうです。
先日、JTBのガイドの一人が癌で亡くなったそうで、ガイド仲間たちがその人への香典200Bを集めていました。
1:30分に帰路に付きました。帰りは、電車ではなく、マイクロバスです。4時頃バンコク市内に入り大渋滞でした。
10m進むのに10分なんてこともありました。
ラマ8世ブリッジ
昨日場所がわからず難儀したワット・インドラウイハーンは、この橋を渡り終えた市内に入ったすぐの所にあることがわかりました。
そこからホテルまではそんなに距離はなく、ホテル前を通ったので私は降りました。
ちょうど5時頃だったと思います。エアコンの効いた車の移動で、寝ることも出来、かんかん照りの所を歩くことは無く、
木陰が多かったこと、また気温もそれほど高くなっかこと、歩いた距離も1万歩以下でしたので、
ほとんど汗をかくこともなく疲れも感じませんでした。
夕飯は、ホテル近くで魚のフライ(45B)、魚のすり身を油で揚げたもの(薩摩揚げみたいなもの)、鶏肉のフライ、トマトなどを買い、
ホテルの部屋でそれらをつまみにビール、ウイスキィを飲みました。
さて、日本軍は第二次世界大戦中、タイからビルマに通じる400km余の鉄道建設ジャングルを切り開いて行いました。
デヴィッド・リーン監督、ウィリアム・ホールデン、早川雪舟らが出演した「戦場にかける橋」は、私も見たことのある映画です。
イギリス人捕虜達が奏でる「クワイ河マーチ」の口笛は大ヒットしました。
約3万人の連合国捕虜、10万人以上のアジア人(中国・インドネシア・ビルマ・マレーシア・インド・シンガポール・タイ)が
強制労働させられたと言われ、半数の戦争捕虜、ほとんどのアジア人が過酷な労働で命を落としたと言われます。
彼らへの賠償・償いが行われたかを私は知りません。おそらく全くなされてないのでは無いでしょうか。
沢山の日本軍兵士が餓えと病でこの地で命を亡くしたことは比較的知られ、慰霊されていますが、
戦争捕虜と強制労働されたアジア人の真実はほとんど語られていません。
冬でさえ30度を超える暑さで、歩くだけでもつらいのに、真夏はどれほどか想像も付きません。
この鉄道を、人々は「死の鉄道」と読んだそうですが、満足な食事や休息も与えられず、命を失って行った彼らの絶望的過酷さを
思うと私は言葉がありません。
南京虐殺・慰安婦問題と並んでインドシナ半島で犯した日本軍が犯した戦争犯罪は今も裁かれず、
被害者への賠償や謝罪は私が知る限り行われていません。 【12月9日終わり】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12月10日 スクムウィット通り周辺を歩きました。
アソーク交差点
タイ最後の12月14日夕方、タイマッサージの店を予約したので、午前中、その下見もかねてスクムウィット通り周辺を歩きました。
ガイドブックによると、「様々な人種、国籍の人々が行き交う」と書かれています。
BTSプロムポン駅で降り、その店に行こうとしたのですが、間違って反対に歩いてしまいました。
引き返して、すぐわかりました。日本人の経営のようです。
マッサージ店は、町中にたくさんあるのですが入りづらいので、少し高めでも代理店を通じた方が良いと思ったからです。
店を確かめた後、駅前のベーンチャシリ公園をのぞいてみました。
ジョギングしたり、公園内の器具で運動したり、筋トレしたり、ウエイトトレーニングをしたりしていました。
大きなカタツムリにはびっくりでした。
若い人は、元気です。籐球を楽しんでいました。
手作りのダンベルで汗をかいている青年がいました。私は、筋力は1週間も間を置くと弱まると言われ、
私はもう2週間以上もトレーニングしていないので、少し試させてもらいました。
コンクリートを固めた手製のダンベルなのでどの位の重さか検討がつきませんが、弱まっていると感じました。
私は、ストレッチ用のミニマットを持ってきたのですが、夜は日記を書くと時間が無く、全く使わず、宝の持ち腐れでした。
また、公園内にはたくさんの彫刻がいくつかあって心が和みました。
ガイドブックには「様々な人種、国籍の人々が行き交う」とあり、ソイと呼ばれる大通りから入る路地の何本かを散策しましたが、
特別変わった様子は感じませんでした。
日本語の看板はちょっとけばけばしく、夜になると全く変わった雰囲気になるとのことです。
一般道路で80kmは驚きです。 通りには、少ないですが、水飲み場があります。
タイの水は、比較的安全と言われていますが、硬水のため、生水は飲まない方が良いようです。
バンコクのホテルには湯沸かし器があったので、私は水道水を沸かし、冷まして飲んでいました。
カムティエン・ハウス [タイの昔の高床式の家を移築し、博物館にしたものですが、入りませんでした。]
カムティエン・ハウスは、現在では、入り口はコーヒーチェーンです。
隣のサイアム・ソサエティは関連施設で結婚式場などに利用されているようです。
アソーク交差点がとりわけ大きい訳ではなく、ごく普通です。この交差点は跨線橋になっていますが、なっていない交差点の
横断は簡単ではないことがおわかりでしょう。
何度も書いていますが、本当に自動車のわがまま・強引さに私は頭に来ています。
タイの交通に関して一番悪いのは、信号が無いこと、相互の信号間の連携が良くないこと、
横断歩道が極端に少ないこと、
一番悪いのは車の一時停止標識が無いことです。
左折車は、信号に関係なく左折できるのもとても危険です。[オレンジ色線で囲った所]
私の興味あるバンコクの観光スポットはほとんど見終えたので、午後は休憩にしました。
ところが、私が使っている「goo、Yahoo、 Biglobe」などの日本語のサイトが開きません。
悪戦苦闘の結果、ウインドウーズのアップグレードに関するもののようでした。
アップグレードのインストール中に何らかの事情でクラッシュしていたようでした。
バンコクに2週間ほど泊まった訳は、郊外の都市をいくつか訪れたいと思ったからですが、私の調査不足でした。
一番の問題は、鉄道など公共交通のインフラが不十分でアクセスが簡単ではないことです。泰緬鉄道などのカンチャナブリーへは昨日現地ツアーで訪れることが出来ました。
カンチャナブリーは見所が離れて散在していますし、泰緬鉄道の予約など個人だとかなり容易でないと思ったからです。
また、現地ツアーは申込者が少ないと催行されないので、一人参加はなかなか容易ではありません。
そんな中で、ロッブリーはアユタヤより遠いのですが、ミニバスの便が良さそうなので明日早起きして行こうと思っています。
ガイドブックでは2時間とありますが、果たして上手くいくでしょうか。ただ行っただけとなるかもしれませんが…。【12月10日終わり】