話を先日の名松線乗車に戻す。名松線で松阪までやって来て、駅前に出たところ。
松阪の街を歩くのも久しぶりのことである。実質初めてといってもいいかもしれない。三重県南部の中心としてそれなりに賑わっているようにも見えるが、街の中心部でも日曜日のこととてシャッターを下ろしている店も多く、出かけるとすれば広い駐車場がある郊外の大型店などに出かけるのかなと思われる。
さてそんな松阪であるが、ここは現在の三井グループにつながる三井家発祥の地、越後屋呉服店を開いた三井高利の出身地である。そんなところから「松阪商人」という言葉もあり、商人の町としてのPRも行われている。かつて三井といえば「三井○○」というように、あらゆる業界に顔を出していたものだが、最近はちょっと停滞気味、それでも日本企業における「ブランド」であることには変わりないといったところである。
そんな松阪商人の系譜につながる「小津清左衛門家」の旧居を開放したのが「松阪商人の家」。「小津」というのも松阪では力があった家のようだ。その一族の中から、昭和の日本の家族・家庭の姿を描いた作品をものした「オズヤス」こと小津安二郎監督も出たという。
ここで重厚な感じの内装やら、千両箱を収めるために頑丈に造られ、半地下に埋められたという「万両箱」なるものを見学する。旅先でこうした昔の商人の屋敷を見学することがあるのだが、商人にしては質素な造りの屋敷がほとんどを占めているように思える。美術工芸品をコレクションするのは今も昔も変わらないようだが、根本的には質素倹約の精神が流れているのではないかと思われるのだ。「贅を尽くす」といっても、現代のような大量消費社会からみれば小ぢんまりとしたものだったのではないだろうか。
ここまで来れば松阪の城跡は近く、街中の小高い丘に上がる。蒲生レオ氏郷が開いた松阪の城下町。大正時代の作家・梶井基次郎の『城のある町にて』の舞台となったのがこの松阪だとか。石垣がむき出しとなった城跡の一角に石碑も立てられており、そこから眺める松阪の町並みは実に落ち着いて見える。
そろそろ桜の時期で、城跡には桜がつきものであるが、訪れた日は「見ごろまでもう少し」というところ。それでも城内ではゴザを敷いて花見を楽しむグループも何組かいて、春の訪れを感じさせる。城跡で花見、よろしいですな・・・・。
この後は歴史民俗資料館へ。松阪商人が全国にその名を知られるようになったのは、越後屋呉服店でも扱っていた松阪木綿。それにしても、江戸時代からの豪商といえば木綿や(時代が下れば)生糸などで莫大な利を上げた者の名前を聞く。それだけ、繊維産業というのが(数年前までの自動車のように)当時の花形産業ということだったのだろうか。
館内は機織機やら藍染めに関する資料など、地場産業に関するものが多かった。その中で私が見てうなったのは「横綱」。元横綱・三重ノ海こと、現在の相撲協会の武蔵川理事長がつけていたという綱である。三重ノ海は松阪出身で、モノの本によれば、町の風呂屋の三助として働いていたところをスカウトされたとか。最近あえて相撲のことはブログでも書かないようにしているのだが、やはりこうしてみると、「頑張れ、三重ノ海」と声をかけたくなる。
ただ、松阪が生んだ偉人となれば、三井高利でも三重ノ海でもなく、本居宣長ということになるのかな・・・。パッと見た感じ、街の人たちの扱いというのが本居宣長メインのように思われたので。
本居宣長。皆さんはどんなイメージを持っているでしょうか・・・。そもそも「何屋さん」?漠然と、学者とか、頭のいい人とかいうのはわかっていても、何をした人かと尋ねられれば結構答えに迷うところではないだろうか。「国学」ということで、日本人の美しい心は乞食の中にこそ存在するということで古事記を研究したということなのだが・・・。
資料館と、宣長が書斎として使用していた鈴屋を見学し、独特の生垣が残る城下の武家屋敷群を抜け、街の中心部に戻る。そこそこ歩いたし、夕方近くなりこれから遠路鈍行を乗り継いで帰らなければならいので、早めの夕食とする。
松阪で夕食とすれば、もう「松阪牛」ということになるでしょう。
・・・ただし、数ある松阪牛の名店に行けるような身分ではないので、そこは「松阪牛も取り扱っている」という焼肉チェーンの「一升びん」へ。
七輪で焼く肉の味と、歩いた後の生ビールを楽しむ。メニューに「松阪」とない普通の肉もボリュームがあったし、値段も割安。多くの家族連れや、学生風にも人気があるようである。
最後に冒険して「松阪肉カルビ」というのを注文。味はよかったが、先に食べたカルビと比べれば・・・ということになれば、結局私の舌では普通肉と松阪肉の違いはわからなかった。「松阪牛を食す」でなくても「松阪"で"牛を食す」で十分楽しめた。
久しぶりの松阪であったが、さまざまな発見があったところ。ぜひまた訪れてみたいものである・・・・。