7日の早朝、中日新聞と中日スポーツを片手に乗ったのは中央線の中津川行き。前夜のサイコロの結果出たのは、「4.馬籠、妻籠」であった。
8両という長い編成は、前夜から朝まで名古屋市内で遊んだ若者と、リュックやトレッキングシューズに身を固めた中高年の姿が目立つ。私も車窓半分、新聞半分で列車に揺られる。近郊住宅が広がるかと思えば、古虎渓のような渓谷ムードの区間もある。
8時に中津川に到着する。階段を上がって南木曽行きに乗り継ぐリュック姿の人が結構いる。南木曽は妻籠宿への最寄駅で、そちらに向かうのだろう。一方で、多くの人が改札口を出る。改札口を出たところにはオレンジのブルゾン姿の係員が大勢立っている。こちらは私と同じ馬籠宿に向かうのかなと思うが、JR東海の「さわやかウォーキング」の受付である。苗木城を巡るコースである。中津川にある苗木城は江戸時代の苗木藩主・遠山氏の居城で、今も石垣が残る山城である。山城と言えば但馬の竹田城が「天空の城」として爆発的なブームになったが、ここ苗木城も雲海のスポットなのだとか。ちょっとした山登りなので、リュックやトレッキングシューズの人が多いわけだ。こういう城があるというのは初めて知った。一瞬、そちらに切り替えてもいいかなと思ったが、予定通り馬籠行きのバスに乗る。ウォーキングの賑わいに比べ、バスの乗客は私の他はカップル1組だけ。
バスは中津川の町を抜け、山の中に入っていく。遠くに落合ダムを見て、落合宿に入る。バス停の「落合」では英語のほかに中国語、韓国語の案内も流れる。落合にはユースホステルがあり、2004年にドライブで妻籠、馬籠を訪れた時に泊まったことがある。近くに落合の石畳というのがあり、中山道の雰囲気に少し触れたことがある。バスは幅の広い県道を走るので見ることはできないが、落合の石畳を過ぎると美濃と信濃の国境の石碑があり、また「是より北 木曽路」の碑もある。
中津川から30分ほどで馬籠宿に到着する。青空が清々しい。まだ朝のことで観光客の姿はさほど見られないが、欧米系の旅行者の姿もちらほらと見える。今回はこの馬籠宿から妻籠宿まで、合わせて二里(8キロ)を歩くことにする。
まず見えるのは道が直角に2回曲がった「桝形」。宿場町への外敵の侵入を防ぐ目的で作られたものだが、確かこういうのは「鍵の手」というのではなかったかと思う。ところによって呼び方が違うということか。
桝形を抜けると、石畳の並ぶ道が伸びる。両側の土産物屋や食堂がぼちぼち店開きをする頃合いである。観光案内所でパンフレットをもらった時、ふと「完歩証明書」というものに目が止まる。馬籠~妻籠間を歩いたことの証明ということで、200円で買い求め、受付印を押してもらう。後は妻籠の観光案内所でスタンプをもらうことにする。
手板を持った人に声をかけられる。岐阜県の観光アンケートという。馬籠までどうやって来たか、この後はどこに行くか、交通費、宿泊費、食費、土産物代はどのくらい使うか・・・ということの聴き取りである。
岐阜県のアンケートと聞いて、ああそうかと思い出すことがある。この馬籠というのは、先ほど落合での美濃と信濃の国境の石碑にあったように、元々は信濃の国、時代が下って長野県山口村に属していた。ただ地形的には岐阜側の中津川と連なるところであり、宿場町の坂道の東を向けば木曽の山が聳えるのに対して、西を向けば中津川から向こうの盆地の広々とした景色が見える。こうした地形のこともあり、経済的にも岐阜とのつながりが強いところ。それが2005年に長野県から県を超えて岐阜県の中津川市と合併した。当時の田中康夫・長野県知事は合併に強硬に反対していたが、結局は合併ということになった。馬籠といえば島崎藤村の出身地としても有名で、藤村も信州のイメージが強いが、今の呼び方になると岐阜県出身ということになる。
ただ一方で、旧山口村、馬籠というのは律令制の頃は美濃の国であり、信濃の国になったのは江戸時代の話だという。だから岐阜県中津川市になったのは、昔の国割に戻ったのだと。それにしても、「長野県から岐阜県」というのは大きいと思う。これが「愛知県から岐阜県」なら、同じ東海地区の中での県またぎというところだが、長野と岐阜では「信越」から「東海」という地方またぎである。もっと言えば長野県は「東国」のイメージがあり、岐阜県は「西国」のイメージがあり、東日本から西日本に移るということである。考えればこれは大きな出来事である。
地元の人たちは岐阜県民となったことで日常生活が便利になったと感じることが多いだろうが、観光客の中にはやはり馬籠は妻籠とセットで信州というイメージがまだ強く残っている。このアンケートは、「岐阜の馬籠」としてこれからどうアピールするかというのを考える一つの取り組みなのだろう(アンケートのお礼にいただいたのは、飛騨の白川郷の合掌造りの写真をあしらったしおり。何だか複雑な気分)。
アンケートに答えたりするうちに藤村記念館が開く。前に来た時は入らなかったと思う。旧本陣に生まれた藤村を顕彰するために地元の人たちが建て、馬籠のシンボルとなっている。この馬籠、今でも風情ある建物が並ぶが、そのほとんどは復元されたもの。山の尾根に並ぶ坂の町ということで水の便が悪く、過去何度も火災が発生し、本陣はじめ由緒ある建物の多くは焼失している。
記念館の中には藤村ゆかりの品々が展示されている。「木曽路はすべて山の中である」という書き出しで知られる『夜明け前』の直筆原稿もある。馬籠や妻籠という宿場町を全国的に有名な観光地に押し上げたのは『夜明け前』のこの一文もあったところだが、実はこの長編、まだ読んだことがない。ただ、書き出しだけ知って中身を知らないというのは具合がよくないだろう。藤村記念館に来たということもあり、この日大阪へ戻る途中で文庫版を購入した。第一部、第二部とあってそれぞれ上下巻あるから、合計4冊読むことになる。
藤村記念館にほど近い馬籠脇本陣史料館にも立ち寄る。本陣の建物自体は焼失したが、上段の間が復元されていたり、当時の旅の用具なども展示されている。中山道の雰囲気というのを今に伝えるところである。
そろそろ観光客の姿が増えてきた頃で、宿場の上に至る。高札場を過ぎると展望広場が整備されており、ここから恵那山を仰ぐ。眼下には馬籠宿、そして向こうには中津川の町並みも見える。予備知識なしで、地形の感じだけで見ればやはりここは岐阜県なのだと思う。
この広場に「越県合併記念碑」がある。この文面を見ると「もともと山口村(馬籠)は岐阜のものだ」というニュアンスが伝わってくる。記念碑にある合併議案の提出者として長野県議会議長、岐阜県知事、中津川市長、山口村長の名が連なっているが、そこに「田中康夫」という文字はなかった。
ここで家並みはいったん途切れ、ここから馬籠峠への上り、そして妻籠宿へ向かう。県をまたぐウォーキングの始まりである・・・・。
8両という長い編成は、前夜から朝まで名古屋市内で遊んだ若者と、リュックやトレッキングシューズに身を固めた中高年の姿が目立つ。私も車窓半分、新聞半分で列車に揺られる。近郊住宅が広がるかと思えば、古虎渓のような渓谷ムードの区間もある。
8時に中津川に到着する。階段を上がって南木曽行きに乗り継ぐリュック姿の人が結構いる。南木曽は妻籠宿への最寄駅で、そちらに向かうのだろう。一方で、多くの人が改札口を出る。改札口を出たところにはオレンジのブルゾン姿の係員が大勢立っている。こちらは私と同じ馬籠宿に向かうのかなと思うが、JR東海の「さわやかウォーキング」の受付である。苗木城を巡るコースである。中津川にある苗木城は江戸時代の苗木藩主・遠山氏の居城で、今も石垣が残る山城である。山城と言えば但馬の竹田城が「天空の城」として爆発的なブームになったが、ここ苗木城も雲海のスポットなのだとか。ちょっとした山登りなので、リュックやトレッキングシューズの人が多いわけだ。こういう城があるというのは初めて知った。一瞬、そちらに切り替えてもいいかなと思ったが、予定通り馬籠行きのバスに乗る。ウォーキングの賑わいに比べ、バスの乗客は私の他はカップル1組だけ。
バスは中津川の町を抜け、山の中に入っていく。遠くに落合ダムを見て、落合宿に入る。バス停の「落合」では英語のほかに中国語、韓国語の案内も流れる。落合にはユースホステルがあり、2004年にドライブで妻籠、馬籠を訪れた時に泊まったことがある。近くに落合の石畳というのがあり、中山道の雰囲気に少し触れたことがある。バスは幅の広い県道を走るので見ることはできないが、落合の石畳を過ぎると美濃と信濃の国境の石碑があり、また「是より北 木曽路」の碑もある。
中津川から30分ほどで馬籠宿に到着する。青空が清々しい。まだ朝のことで観光客の姿はさほど見られないが、欧米系の旅行者の姿もちらほらと見える。今回はこの馬籠宿から妻籠宿まで、合わせて二里(8キロ)を歩くことにする。
まず見えるのは道が直角に2回曲がった「桝形」。宿場町への外敵の侵入を防ぐ目的で作られたものだが、確かこういうのは「鍵の手」というのではなかったかと思う。ところによって呼び方が違うということか。
桝形を抜けると、石畳の並ぶ道が伸びる。両側の土産物屋や食堂がぼちぼち店開きをする頃合いである。観光案内所でパンフレットをもらった時、ふと「完歩証明書」というものに目が止まる。馬籠~妻籠間を歩いたことの証明ということで、200円で買い求め、受付印を押してもらう。後は妻籠の観光案内所でスタンプをもらうことにする。
手板を持った人に声をかけられる。岐阜県の観光アンケートという。馬籠までどうやって来たか、この後はどこに行くか、交通費、宿泊費、食費、土産物代はどのくらい使うか・・・ということの聴き取りである。
岐阜県のアンケートと聞いて、ああそうかと思い出すことがある。この馬籠というのは、先ほど落合での美濃と信濃の国境の石碑にあったように、元々は信濃の国、時代が下って長野県山口村に属していた。ただ地形的には岐阜側の中津川と連なるところであり、宿場町の坂道の東を向けば木曽の山が聳えるのに対して、西を向けば中津川から向こうの盆地の広々とした景色が見える。こうした地形のこともあり、経済的にも岐阜とのつながりが強いところ。それが2005年に長野県から県を超えて岐阜県の中津川市と合併した。当時の田中康夫・長野県知事は合併に強硬に反対していたが、結局は合併ということになった。馬籠といえば島崎藤村の出身地としても有名で、藤村も信州のイメージが強いが、今の呼び方になると岐阜県出身ということになる。
ただ一方で、旧山口村、馬籠というのは律令制の頃は美濃の国であり、信濃の国になったのは江戸時代の話だという。だから岐阜県中津川市になったのは、昔の国割に戻ったのだと。それにしても、「長野県から岐阜県」というのは大きいと思う。これが「愛知県から岐阜県」なら、同じ東海地区の中での県またぎというところだが、長野と岐阜では「信越」から「東海」という地方またぎである。もっと言えば長野県は「東国」のイメージがあり、岐阜県は「西国」のイメージがあり、東日本から西日本に移るということである。考えればこれは大きな出来事である。
地元の人たちは岐阜県民となったことで日常生活が便利になったと感じることが多いだろうが、観光客の中にはやはり馬籠は妻籠とセットで信州というイメージがまだ強く残っている。このアンケートは、「岐阜の馬籠」としてこれからどうアピールするかというのを考える一つの取り組みなのだろう(アンケートのお礼にいただいたのは、飛騨の白川郷の合掌造りの写真をあしらったしおり。何だか複雑な気分)。
アンケートに答えたりするうちに藤村記念館が開く。前に来た時は入らなかったと思う。旧本陣に生まれた藤村を顕彰するために地元の人たちが建て、馬籠のシンボルとなっている。この馬籠、今でも風情ある建物が並ぶが、そのほとんどは復元されたもの。山の尾根に並ぶ坂の町ということで水の便が悪く、過去何度も火災が発生し、本陣はじめ由緒ある建物の多くは焼失している。
記念館の中には藤村ゆかりの品々が展示されている。「木曽路はすべて山の中である」という書き出しで知られる『夜明け前』の直筆原稿もある。馬籠や妻籠という宿場町を全国的に有名な観光地に押し上げたのは『夜明け前』のこの一文もあったところだが、実はこの長編、まだ読んだことがない。ただ、書き出しだけ知って中身を知らないというのは具合がよくないだろう。藤村記念館に来たということもあり、この日大阪へ戻る途中で文庫版を購入した。第一部、第二部とあってそれぞれ上下巻あるから、合計4冊読むことになる。
藤村記念館にほど近い馬籠脇本陣史料館にも立ち寄る。本陣の建物自体は焼失したが、上段の間が復元されていたり、当時の旅の用具なども展示されている。中山道の雰囲気というのを今に伝えるところである。
そろそろ観光客の姿が増えてきた頃で、宿場の上に至る。高札場を過ぎると展望広場が整備されており、ここから恵那山を仰ぐ。眼下には馬籠宿、そして向こうには中津川の町並みも見える。予備知識なしで、地形の感じだけで見ればやはりここは岐阜県なのだと思う。
この広場に「越県合併記念碑」がある。この文面を見ると「もともと山口村(馬籠)は岐阜のものだ」というニュアンスが伝わってくる。記念碑にある合併議案の提出者として長野県議会議長、岐阜県知事、中津川市長、山口村長の名が連なっているが、そこに「田中康夫」という文字はなかった。
ここで家並みはいったん途切れ、ここから馬籠峠への上り、そして妻籠宿へ向かう。県をまたぐウォーキングの始まりである・・・・。