馬籠宿~馬籠峠~大妻籠と来て、妻籠宿に入る。中山道の木曽十一宿の中で最も有名な宿場町といってもいいだろう。時間も昼近くということで観光客の姿も多い。外国人の姿も目につく。
その宿に入るところで、道路に白い線がある。この日の午前中に、妻籠宿を会場としたマラソン大会が行われていたそうだ。白線はそのコースを示すもので、マラソン自体は終わったのかそれを消しにかかる作業が行われている。今回は馬籠から歩いて来たが、これが妻籠から歩くプランならマラソンランナーが結構目について仕方ないのではと思う。
妻籠は日本で最初に江戸時代の宿場町の保存と復元を行ったところである。幾度の火災で江戸時代の建物がほとんど残っていない馬籠に比べれば、妻籠はその数が多い。もっともその多くは食べ物屋だったり土産物屋だったりするのだが・・・。
妻籠の観光案内所に着く。かつての学校らしき木造の建物。ここで、馬籠宿で買い求めた完歩証明書に妻籠宿としてスタンプをいただく。これで何とか一息つくことができる。でもまあ、こうした証明書は特別なものではなく、ある程度需要があるものだろう。それだけ、馬籠と妻籠を歩いて行くという人が多いということで。
ここで見るのは復元された妻籠本陣。そして少し行った脇本陣の奥谷家。奥谷家では係員が家の造りやら庭やらについて説明してくれる。ここ妻籠も島崎藤村とは縁深い土地ということで、ガイドの説明も「藤村『先生』」である。妻籠は長野県。藤村と言えば信州、長野の人というイメージが強いが、10年前の合併で今は「岐阜県出身」である。今のところそれを意識している観光客などごくわずかなもので、妻籠のガイドも「藤村先生は信州のお人」と自身たっぷりに語っている様子だが、内心はどのようなものだろうか。
妻籠まで歩いて来たことで「名古屋発サイコロの旅」はコンプリート。ここからは南木曽駅までバスで移動することにする。ならばバスの時間を確認しようと、リュックの中から小型時刻表(JTBの時刻表をそのまま縮小した「小さな時刻表」。他の小型時刻表がJRの列車時刻しか掲載していないのに対して、観光地のバスなどの時刻も大型版そのままに掲載されていて、旅先では重宝する)を探すが、底まであさっても出てこない。う~ん、これは名古屋駅のコインロッカーに入れたキャリーバッグに入れてしまったか。携帯電話でバスの時間をチェックするが、少し間が空いている。また一方で、南木曽駅からバスに接続するより一本早い列車もある。ここはどうするか・・・妻籠宿から南木曽駅までは3キロあまり。
・・・ならば、もう少し歩くことにしよう。時間を見ると、ここまで歩いて来たペースで行けば十分に間に合いそうだ。有名な妻籠宿は結構急ぎ足で後にすることになるが、まあいいだろう。
高札場に水車があるところまでは観光客の姿も多いが、その向こうとなると急に人通りが絶える。風情ある家屋も残っているが、ここまで来ると観光エリアではないのだろう。先ほどは見えなかったマラソン大会のコース取りを示す白い線がまた出てきた。この辺りは折り返した選手がすれ違うコースのようで、道の中央にラインが引かれ、それぞれの走る方向に矢印が書かれている。
木曽義仲のかぶと観音というのに出る。源平合戦で名高い木曽義仲が北陸に向けて出陣した際、兜に収めていた観音像を祀ったとされている。境内には手洗場があり、ここでまた顔を洗ったり腕を浸したりして涼を取る。本格的な暑さはまだまだ先だが、歩いてくると暑いのは暑い。それにしても、木曽の山中は雨が多いということもあるのか、あちらこちらで水が湧き出ており、そうしたものに接しながら歩くことができたのはよかった。
神戸(ごうど)の集落を抜けて坂道を下りると、南木曽駅近くの和合(わごう)集落を見下ろすことができた。駅を目指して進むと現れたのは蒸気機関車のD51。かつてこの線を蒸気機関車が走っていたことを記念して、中央線の旧線の線路上に保存されている。今でこそ木曽の渓谷をトンネルで一直線に走る中央線だが、旧線の時代があったということか。往年の苦労がしのばれる。
南木曽駅に到着。中山道はこの先ずっと続くわけだが、今回はここで終了とする。しばらく待てば列車もやって来る。ふと駅前の商店を見ると、「祝新十両 御嶽海」という貼り紙があった。先の夏場所で東幕下3枚目で6勝して、7月の名古屋場所は新十両となった。長野県からの関取誕生は47年ぶり、次は名古屋場所ということで、少し遠いが「ご当地場所」である。このところすっかり陰が薄くなった名門・出羽海部屋の救世主となるだろうか。これから楽しみである。
やって来たのは中津川~南木曽の区間運転の列車。朝も中津川からこの区間運転の列車に乗り継ぐ観光客もいて、JR東海としても一応馬籠~妻籠の観光客に配慮した運転をしているのだろう。ハイキングのグループらしい中高年の客も乗り込み、一気に中津川まで戻る。
中津川で名古屋行きに乗り継ぐ。車内は朝から苗木城への「さわやかウォーキング」帰りの人たちで席が埋まる。そろそろ帰りの時間ということか。その列車にしばし揺られて下車したのは恵那。かつての中山道・大井宿のあったところである。ここで向かったのは、駅から歩いてすぐの中山道広重美術館。歌川広重を中心とした浮世絵の収集・展示を行っているところ。
展示室は1階と2階に分かれていて、1階にはよく知られている保永堂版の「東海道五十三次」が各宿場ごとに展示されている。こちらは、旅人と同じ目線で描かれた作品が多い。ただこれが2階の展示室に行くと、「狂歌入東海道」という別バージョンが見られる。「東海道五十三次」というと先に見た保永堂版が全てなのかという認識しかなかったが、実際はいろいろなバージョンがあるそうだ。この「狂歌入東海道」は、絵の中に狂歌を書き込むとともに、絵の構図も街道から一歩引く、あるいは鳥瞰図のような角度で描かれている。宿場に暮らす人たちや旅人たちの表情は見て取れない作品が多いが、その分、町のあらましがよくわかるようだ。改めて、広重の絵の才にうなるばかりである。
・・・さて、朝から出てきた中山道の旅も、もうこのくらいでいいか。もう一ヶ所くらいは行くことができるのかもしれないが、早々と名古屋まで戻り、何なら帰りの近鉄特急も早い便に替えてもらうことにする・・・・。
(余談)
帰宅途中に寄った書店で、早速島崎藤村の『夜明け前』の第一部を購入。このブログを書いている時点で第一部の上巻を読了したところだが、何と言うか、淡々とした記述である。司馬遼太郎が書くような歴史小説ではない(近いものを挙げるとすれば、同じ歴史物でも細かな取材にもとづき、どちらかと言えば市井の人たちの立場から見た歴史ということで、吉村昭がそれに近いかなと)。これが日本近代文学史上で名高い作品と言われるのに納得するのにはもう少し時間がかかりそうだが・・・・。
その宿に入るところで、道路に白い線がある。この日の午前中に、妻籠宿を会場としたマラソン大会が行われていたそうだ。白線はそのコースを示すもので、マラソン自体は終わったのかそれを消しにかかる作業が行われている。今回は馬籠から歩いて来たが、これが妻籠から歩くプランならマラソンランナーが結構目について仕方ないのではと思う。
妻籠は日本で最初に江戸時代の宿場町の保存と復元を行ったところである。幾度の火災で江戸時代の建物がほとんど残っていない馬籠に比べれば、妻籠はその数が多い。もっともその多くは食べ物屋だったり土産物屋だったりするのだが・・・。
妻籠の観光案内所に着く。かつての学校らしき木造の建物。ここで、馬籠宿で買い求めた完歩証明書に妻籠宿としてスタンプをいただく。これで何とか一息つくことができる。でもまあ、こうした証明書は特別なものではなく、ある程度需要があるものだろう。それだけ、馬籠と妻籠を歩いて行くという人が多いということで。
ここで見るのは復元された妻籠本陣。そして少し行った脇本陣の奥谷家。奥谷家では係員が家の造りやら庭やらについて説明してくれる。ここ妻籠も島崎藤村とは縁深い土地ということで、ガイドの説明も「藤村『先生』」である。妻籠は長野県。藤村と言えば信州、長野の人というイメージが強いが、10年前の合併で今は「岐阜県出身」である。今のところそれを意識している観光客などごくわずかなもので、妻籠のガイドも「藤村先生は信州のお人」と自身たっぷりに語っている様子だが、内心はどのようなものだろうか。
妻籠まで歩いて来たことで「名古屋発サイコロの旅」はコンプリート。ここからは南木曽駅までバスで移動することにする。ならばバスの時間を確認しようと、リュックの中から小型時刻表(JTBの時刻表をそのまま縮小した「小さな時刻表」。他の小型時刻表がJRの列車時刻しか掲載していないのに対して、観光地のバスなどの時刻も大型版そのままに掲載されていて、旅先では重宝する)を探すが、底まであさっても出てこない。う~ん、これは名古屋駅のコインロッカーに入れたキャリーバッグに入れてしまったか。携帯電話でバスの時間をチェックするが、少し間が空いている。また一方で、南木曽駅からバスに接続するより一本早い列車もある。ここはどうするか・・・妻籠宿から南木曽駅までは3キロあまり。
・・・ならば、もう少し歩くことにしよう。時間を見ると、ここまで歩いて来たペースで行けば十分に間に合いそうだ。有名な妻籠宿は結構急ぎ足で後にすることになるが、まあいいだろう。
高札場に水車があるところまでは観光客の姿も多いが、その向こうとなると急に人通りが絶える。風情ある家屋も残っているが、ここまで来ると観光エリアではないのだろう。先ほどは見えなかったマラソン大会のコース取りを示す白い線がまた出てきた。この辺りは折り返した選手がすれ違うコースのようで、道の中央にラインが引かれ、それぞれの走る方向に矢印が書かれている。
木曽義仲のかぶと観音というのに出る。源平合戦で名高い木曽義仲が北陸に向けて出陣した際、兜に収めていた観音像を祀ったとされている。境内には手洗場があり、ここでまた顔を洗ったり腕を浸したりして涼を取る。本格的な暑さはまだまだ先だが、歩いてくると暑いのは暑い。それにしても、木曽の山中は雨が多いということもあるのか、あちらこちらで水が湧き出ており、そうしたものに接しながら歩くことができたのはよかった。
神戸(ごうど)の集落を抜けて坂道を下りると、南木曽駅近くの和合(わごう)集落を見下ろすことができた。駅を目指して進むと現れたのは蒸気機関車のD51。かつてこの線を蒸気機関車が走っていたことを記念して、中央線の旧線の線路上に保存されている。今でこそ木曽の渓谷をトンネルで一直線に走る中央線だが、旧線の時代があったということか。往年の苦労がしのばれる。
南木曽駅に到着。中山道はこの先ずっと続くわけだが、今回はここで終了とする。しばらく待てば列車もやって来る。ふと駅前の商店を見ると、「祝新十両 御嶽海」という貼り紙があった。先の夏場所で東幕下3枚目で6勝して、7月の名古屋場所は新十両となった。長野県からの関取誕生は47年ぶり、次は名古屋場所ということで、少し遠いが「ご当地場所」である。このところすっかり陰が薄くなった名門・出羽海部屋の救世主となるだろうか。これから楽しみである。
やって来たのは中津川~南木曽の区間運転の列車。朝も中津川からこの区間運転の列車に乗り継ぐ観光客もいて、JR東海としても一応馬籠~妻籠の観光客に配慮した運転をしているのだろう。ハイキングのグループらしい中高年の客も乗り込み、一気に中津川まで戻る。
中津川で名古屋行きに乗り継ぐ。車内は朝から苗木城への「さわやかウォーキング」帰りの人たちで席が埋まる。そろそろ帰りの時間ということか。その列車にしばし揺られて下車したのは恵那。かつての中山道・大井宿のあったところである。ここで向かったのは、駅から歩いてすぐの中山道広重美術館。歌川広重を中心とした浮世絵の収集・展示を行っているところ。
展示室は1階と2階に分かれていて、1階にはよく知られている保永堂版の「東海道五十三次」が各宿場ごとに展示されている。こちらは、旅人と同じ目線で描かれた作品が多い。ただこれが2階の展示室に行くと、「狂歌入東海道」という別バージョンが見られる。「東海道五十三次」というと先に見た保永堂版が全てなのかという認識しかなかったが、実際はいろいろなバージョンがあるそうだ。この「狂歌入東海道」は、絵の中に狂歌を書き込むとともに、絵の構図も街道から一歩引く、あるいは鳥瞰図のような角度で描かれている。宿場に暮らす人たちや旅人たちの表情は見て取れない作品が多いが、その分、町のあらましがよくわかるようだ。改めて、広重の絵の才にうなるばかりである。
・・・さて、朝から出てきた中山道の旅も、もうこのくらいでいいか。もう一ヶ所くらいは行くことができるのかもしれないが、早々と名古屋まで戻り、何なら帰りの近鉄特急も早い便に替えてもらうことにする・・・・。
(余談)
帰宅途中に寄った書店で、早速島崎藤村の『夜明け前』の第一部を購入。このブログを書いている時点で第一部の上巻を読了したところだが、何と言うか、淡々とした記述である。司馬遼太郎が書くような歴史小説ではない(近いものを挙げるとすれば、同じ歴史物でも細かな取材にもとづき、どちらかと言えば市井の人たちの立場から見た歴史ということで、吉村昭がそれに近いかなと)。これが日本近代文学史上で名高い作品と言われるのに納得するのにはもう少し時間がかかりそうだが・・・・。