まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第30番「金剛城寺」~新西国三十三所めぐり・15(もちむぎ、ギータ、ゲリラ豪雨)

2016年08月06日 | 新西国三十三所
「民俗学柳田國男ともちむぎ麺のまち福崎町」

福崎駅前に立つ標識に、このように書かれている。金剛城寺参詣の後は、この町を歩いてみようと思う。町の中心がある辻川地区は、駅から2キロのところ。暑い中だが、金剛城寺から戻った勢いでそのまま歩く。

市川を渡る。北から流れる市川流域が広がるのが福崎で、古くから因幡街道と、姫路から生野を結ぶ街道が交わる交通の要衝として開けたところである。今のJR播但線に中国自動車道、播但自動車道にも受け継がれている。その中の一角が観光エリアとして整備されている。

昼を回ったこともあり、まずは昼食。目指すのは「もちむぎのやかた」。もちむぎとは大麦の一種で、食物繊維であるβグルカンをはじめとした栄養価が普通の麦より高いとされている。その中でも福崎のもちむぎは最高級の品質なのだとか。町では特産品としてPRしている。「もちむぎのやかた」はその公式ショップで、レストランもあれば土産物コーナーもあり、さらには製造工程の一部も見ることができる。

ともかく食事としてレストランへ。いろいろあるが、「五種麺」というのを注文する。出雲の割子そばのようなもので、器ごとにいろいろなトッピングを味わえる。出てきたのを見た印象は、「ひやむぎ」。うどんでもなく、そうめんでもないこの太さを久しぶりに味わう。普通の麦とは食感がどのように違うのかを語れるだけのものは持ち合わせていないが、美味いのは確かである。

麦酒ならぬ、もちむぎで作ったチューハイを合わせる。

これで腹ができて、園内を回ることにする。もちむぎのやかたに隣接する麦畑(今は収穫後で何もないが)を過ぎると、池の周りに人だかりができている。子どもの姿も多い。

しばらくすると池に異変。水面がゴボゴボ言った次の瞬間に、池から顔を覗かせたのはカッパ。それでもほんの数秒で池に姿を消し、しはらくするとまた顔を出す。

カッパは池のほとりにもう一体いる。こちらは動かない銅像だが、二匹まとめて「河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)」である。池のほとりの銅像が河太郎で、池から顔を出すのが河次郎。これは柳田國男の『故郷七十年』という作品に、市川に現れる河童を紹介した記述があるのをベースにしている。柳田國男は日本の民俗学の基礎を築いた第一人者であり、もっとも有名なのは『遠野物語』である。この作品では民俗信仰をベースとした不思議譚をいろいろ紹介しているが、妖怪ものも結構ある。今でこそ、ポケモンや妖怪ウォッチ、水木しげる作品などあるが、日本で妖怪を体系化した元祖は柳田國男からなのかなと思う。

柳田國男に敬意を表してか、ここもポケモンGOのスポットのようだ。だから子どもの姿も多かったのだろうが、歩きスマホに注意を促すこういう粋な看板も見られる。

・・・で、なぜ福崎で柳田國男なのかということだが、『故郷七十年』とあるように福崎が彼の出身地なのである。福崎の松岡家の次男に生まれ、後に柳田家に養子となった。彼の他の兄弟は医学や文学、美術で大成しており、「松岡家5兄弟」とも呼ばれている。その生家が保存されている。元々は街道沿いにあったものを、公園の整備とともに移築したものである。

柳田國男は『故郷七十年』の中でこの家を「日本一小さい家だ」と言い、「この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」としている。「日本一小さい」かどうかはさておき、大勢のきょうだいがいたものだから、嫁いできた長男の嫁はあまりの狭さに実家に逃げ帰ってしまったというエピソードもあるそうだ。5兄弟それぞれの成功がハングリー精神にあったということなのであろう。

生家に隣接して柳田國男・松岡家記念館がある。こちらでは松岡家の歴史、柳田國男をはじめとした5兄弟の紹介がされている。企画展示は眼科医・歌人として活躍した三男の井上通泰の展示である。

・・・ここまで「柳田國男」と書いてきて、ずっと「やなぎだ・くにお」と読んでいたのだが、館内で流れていたテレビ番組の録画のナレーションを聞くと、「やなぎた」と言っている。館内の資料にふりがなやローマ字表記がないのでスマホで検索してみると、確かに「やなぎた・くにお」と記載されている。これまでずっと勘違いしていたわけだ。やなぎた、やなぎた・・・「ギータ」やね。

この裏手にある神崎郡歴史民俗資料館に向かうが、朝方は雲もほとんどない晴天だったのが、ここに来て急に雲が広がり、遠くではゴロゴロと言っている。大丈夫かなと思いながら入館。元々神崎郡の役所として使われていた建物を移築したものである。郡の歴史の紹介や生活用品の展示がある。昔の風景の写真パネルもいくつかあり、播但線の風景もある。福崎駅は今でこそ電化されているが、駅の構造は昔と変わらない感じである。

見学している途中、強い雨が建物の窓を叩くのがわかる。外を見るとこれでもかという土砂降り。うーん、晴れの予報だったので傘を持っていない。この雨の中、駅まで2キロの道のりを戻らなければならないのか。やむを得ないとして、受付に声をかけてタクシー会社の電話番号を教えてもらう。記念館の前にはクルマが入れないので、下にあるもぎむぎのやかたの駐車場が待ち合わせ場所だ。資料館の方が「よかったら使ってください」とビニール傘を差し出してくれる。さすがにタクシー、少し大回りをしたがものの5分ほどで駅に到着した。すると雨足は弱まっていた。まあ、こんなものだろう。

元々考えていたのは、駅の近くにある温泉に入って汗を落とそうというものだったが、もういいかなと思い、このまま姫路に抜けて大阪に戻ることにする。駅に戻ったのが14時50分ほどで、ちょうど15時06分発の福崎始発の姫路行きがある。

何やら駅の雰囲気がおかしい。ホームには「14時35分発姫路行き」の案内表示もある。あれ?この列車はすでに出ているのではと思うが、放送が入り、大雨の影響で福崎~和田山間の運転を見合わせているという。来ていない列車は寺前始発のもの。福崎からの列車は普通に動くようでこのまま乗ることにする。

スマホで雨雲情報とJRの運行情報を見ると、関西の広い範囲ということではなく、ここから北のエリアに強い雨が出ていて、播但線のこの区間だけが運転を見合わせているという(この日は関西のいくつかのところで局地的なゲリラ豪雨があったのだが)。何だか不思議なものを感じた。当初、先に姫路から福崎に入って金剛城寺に参詣し、福崎の町を歩いた後で気動車に乗るべく北上しようと考えていたのだが、もしこの通りに動いていたら、福崎から北上できなかったかもしれない。あるいは、北上したものの播但線の途中で閉じ込められていたかもしれない(実際、4時間近く運転見合わせしていたようだ)。逆回りのプランでやって来たのは、ひょっとすると何か見えない力の思し召しだったのかもしれない。

姫路に戻ってきたら雨も上がっており、また晴天である。今回の新西国めぐりもいろいろ波があったなと思いつつ、ホームのえきそばをいただいて新快速に乗るのであった・・・。
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