阪急宝塚線で曽根から雲雀丘花屋敷に移動する。駅の南に車庫があることもあり、宝塚線の各駅停車はこの駅で折り返し、その先へは急行で・・・という運行形態である。これから目指す満願寺は川西市だが、駅があるのは宝塚市である。
この駅で下車するのは初めて。そりゃそうだろう。駅の北側には関西でも有数の高級住宅地が広がり、とても私とはご縁のない世界で・・・。
満願寺へは駅の東口からバスに乗るのが普通の行き方だが、ここはあえて歩いてみることにする。距離にすれば2キロほどあるだろうか。先ほどの萩の寺、そしてこの後で行く中山寺はいずれも「駅近物件」ということもあり、少しは歩きの要素も入れていいかなと。また、せっかくなので高級住宅地も見てみようと。
駅前は狭い道であるが、軒下にタクシー乗り場が確保されている。その前にエリアの案内図があり、ところどころに歴史的建造物のマークがある。これを目印として回ってみよう。
歩いて2分のところにあるのが旧安田邸。大正10年の建造で、丸紅のニューヨーク支店長だった安田辰治郎という人が、駐在中に興味を持った北米の住宅をモデルとして建てたものという。木々に覆われていて建物の一部しか見えないが、いかにも洋館のお屋敷である。現在は宝塚市に寄贈されて、講座やイベントなど不定期に公開されているそうだ。
続いては高碕記念館。こちらは大正12年にヴォーリズの設計で建てられたものである。ヴォーリズ建築は滋賀県に多いイメージだが、東洋食品研究所を設立した高碕達之助の邸宅である。旧安田邸と合わせて、この一帯が大正時代に開発されたことがうかがえる。
歴史的建造物以外にも、さまざまな邸宅が並ぶ。それにしても急な坂だが、角を曲がりながら、少しでも勾配を緩和させる感じで上る。振り返ると市街地、大阪方面の景色が広がり、良い眺めである。ただこういうところなので自転車で行き交う人の姿は見えず、かと言って歩行者も見ない。行き交うのはクルマばかり。高級住宅地らしい高級車がある一方で、なぜか軽自動車も停まっている。軽自動車はさしずめ「ちょっと買い物に行く」程度のセカンドカーなのかな。また、お年寄りなどクルマの運転が難しい人は、タクシーを利用するのだろう。
坂道を上りきるとバス道路に出る。宝塚大学の前を通ると「川西市」の表示が出る。この辺りはごく普通の住宅地の景色である。満願寺の看板が見えて到着。仁王門は一般的なあの形ではなく、ちょっと中国風が入っている印象である。
緑が茂る参道を進み、突き当りが本堂に当たる金堂である。ここでお勤めである。
満願寺という名前の寺はあちこちにあるそうである。奈良時代、聖武天皇の命で勝道上人という人が諸国に満願寺を建立し、摂津の国ではこの地に千手観音を祀って開創したという。聖武天皇の命として国分寺が諸国に建立されたというのは歴史の時間でも習うことだが、満願寺というのがあったのは初めて知った。
金堂向かいの納経所に向かう。丁寧に筆を入れていただき、「これは千手大悲閣と書かせてもろてます」と「解読」していただく。この千手観音だが、先ほど手を合わせた金堂ではなく、一段下がった観音堂におわすとのこと。先ほど金堂でお勤めした後、扉の隙間から中を覗いていたのを見ていたのかな。もっとも、千手観音は春の彼岸の1週間のみの開帳ということで、写真パネルを出して「こんな感じですんで、また春の時にお参りください」と言われる。
境内の奥は自然保護林になっており、その入り口が四国八十八所のお砂踏みの入り口ともなっている。また、坂田金時の墓というのがある。あの金太郎さんである。源頼光の家来として「頼光四天王」の一人として、大江山の酒呑童子の退治などの活躍で知られている。何でまたこんなところに墓があるのだろうか。
この一帯は、源満仲を中心とする多田源氏の根拠地。この向こうに川西市の多田というところがあり、多田神社はよく知られているところだ。そしてこの満願寺も多田源氏の深い帰依を受けて・・・という以上に、元々は多田神社と満願寺というのは神仏習合で一体の関係であった。先ほど仁王門に安置されていた仁王像も、元々は多田神社の山門にあったものだという。それが明治の神仏分離によってこちらに移されたものだとか。
これは後で知ったことだが、満願寺の一帯というのは川西市の飛び地で、周りは全て宝塚市である。近代の行政区画割の時、満願寺は多田神社との関係もあって川西市に編入されたのだが、周囲の山々は今のような住宅地や学校もなく、山の持ち主が入り組んでいて一山いくらの地域だった。その元締めの地主の土地が宝塚市の所属になったことから、満願寺以外の山々が宝塚市に組み入れられた。そして、ここだけが飛び地になったという。飛び地というと不便な、隔離されたイメージがあるのだが、見方を変えれば満願寺の歴史の深さというものの現れだし、広域的には川西市と宝塚市で連携しているところもあるのだろうから、住む分にはさほど影響がないのかもしれない(これは個人的なイメージだが、「兵庫のどこに住んでるの?」と訊かれて、「宝塚」と答えるのと「川西」と答えるのでは・・・と思う方もいるのでは)。
ここまで書くと、満願寺からハイキングコースを伝って多田神社に下りるのが筋、一つのテーマという気がするのだが、今回はこのまま引き返すとする。多田神社については、能勢電鉄の乗り鉄も兼ねてまたの機会に訪れることにする。
ちょうどバスの時間が近いということで、門前のバス停に向かう。ここで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロをしていなかったのに気づくが、まあいいか、駅に戻ってからとしてそのまま乗車する。バス通りは住宅地の外側を走るが、勾配が急である。それこそ45度あるかもしれない。
駅に戻り、次の列車を待つ間に次回の行き先決定である。
1.高槻(神峯山寺、安岡寺)
2.高野山(宝亀院)
3.大津(立木山寺)
4.滝野(光明寺)
5.貝塚(水間寺)
6.赤穂(花岳寺)
大津、滝野、赤穂はくじ引きでよく出てくるイメージである。スマホのアプリでランダムのはずだが、ある程度パターンというのがあるのだろうか。
そして出たのが・・・・「2」。高野山である。あらら。四国八十八所では高野山といえば奥の院へのお礼参りで訪れるところだが、新西国ではその支院の一つが札所。ただ、高野山に行って宝亀院だけけ参詣して次のサイコロ・・・とは行かないだろう。やはり金剛峯寺、そして奥の院にも行かなければと思う。まあ、「最近四国も始めましたんで、まあ今後もよろしゅう頼んますわ」という挨拶に行く感じだろうか・・・。
この駅で下車するのは初めて。そりゃそうだろう。駅の北側には関西でも有数の高級住宅地が広がり、とても私とはご縁のない世界で・・・。
満願寺へは駅の東口からバスに乗るのが普通の行き方だが、ここはあえて歩いてみることにする。距離にすれば2キロほどあるだろうか。先ほどの萩の寺、そしてこの後で行く中山寺はいずれも「駅近物件」ということもあり、少しは歩きの要素も入れていいかなと。また、せっかくなので高級住宅地も見てみようと。
駅前は狭い道であるが、軒下にタクシー乗り場が確保されている。その前にエリアの案内図があり、ところどころに歴史的建造物のマークがある。これを目印として回ってみよう。
歩いて2分のところにあるのが旧安田邸。大正10年の建造で、丸紅のニューヨーク支店長だった安田辰治郎という人が、駐在中に興味を持った北米の住宅をモデルとして建てたものという。木々に覆われていて建物の一部しか見えないが、いかにも洋館のお屋敷である。現在は宝塚市に寄贈されて、講座やイベントなど不定期に公開されているそうだ。
続いては高碕記念館。こちらは大正12年にヴォーリズの設計で建てられたものである。ヴォーリズ建築は滋賀県に多いイメージだが、東洋食品研究所を設立した高碕達之助の邸宅である。旧安田邸と合わせて、この一帯が大正時代に開発されたことがうかがえる。
歴史的建造物以外にも、さまざまな邸宅が並ぶ。それにしても急な坂だが、角を曲がりながら、少しでも勾配を緩和させる感じで上る。振り返ると市街地、大阪方面の景色が広がり、良い眺めである。ただこういうところなので自転車で行き交う人の姿は見えず、かと言って歩行者も見ない。行き交うのはクルマばかり。高級住宅地らしい高級車がある一方で、なぜか軽自動車も停まっている。軽自動車はさしずめ「ちょっと買い物に行く」程度のセカンドカーなのかな。また、お年寄りなどクルマの運転が難しい人は、タクシーを利用するのだろう。
坂道を上りきるとバス道路に出る。宝塚大学の前を通ると「川西市」の表示が出る。この辺りはごく普通の住宅地の景色である。満願寺の看板が見えて到着。仁王門は一般的なあの形ではなく、ちょっと中国風が入っている印象である。
緑が茂る参道を進み、突き当りが本堂に当たる金堂である。ここでお勤めである。
満願寺という名前の寺はあちこちにあるそうである。奈良時代、聖武天皇の命で勝道上人という人が諸国に満願寺を建立し、摂津の国ではこの地に千手観音を祀って開創したという。聖武天皇の命として国分寺が諸国に建立されたというのは歴史の時間でも習うことだが、満願寺というのがあったのは初めて知った。
金堂向かいの納経所に向かう。丁寧に筆を入れていただき、「これは千手大悲閣と書かせてもろてます」と「解読」していただく。この千手観音だが、先ほど手を合わせた金堂ではなく、一段下がった観音堂におわすとのこと。先ほど金堂でお勤めした後、扉の隙間から中を覗いていたのを見ていたのかな。もっとも、千手観音は春の彼岸の1週間のみの開帳ということで、写真パネルを出して「こんな感じですんで、また春の時にお参りください」と言われる。
境内の奥は自然保護林になっており、その入り口が四国八十八所のお砂踏みの入り口ともなっている。また、坂田金時の墓というのがある。あの金太郎さんである。源頼光の家来として「頼光四天王」の一人として、大江山の酒呑童子の退治などの活躍で知られている。何でまたこんなところに墓があるのだろうか。
この一帯は、源満仲を中心とする多田源氏の根拠地。この向こうに川西市の多田というところがあり、多田神社はよく知られているところだ。そしてこの満願寺も多田源氏の深い帰依を受けて・・・という以上に、元々は多田神社と満願寺というのは神仏習合で一体の関係であった。先ほど仁王門に安置されていた仁王像も、元々は多田神社の山門にあったものだという。それが明治の神仏分離によってこちらに移されたものだとか。
これは後で知ったことだが、満願寺の一帯というのは川西市の飛び地で、周りは全て宝塚市である。近代の行政区画割の時、満願寺は多田神社との関係もあって川西市に編入されたのだが、周囲の山々は今のような住宅地や学校もなく、山の持ち主が入り組んでいて一山いくらの地域だった。その元締めの地主の土地が宝塚市の所属になったことから、満願寺以外の山々が宝塚市に組み入れられた。そして、ここだけが飛び地になったという。飛び地というと不便な、隔離されたイメージがあるのだが、見方を変えれば満願寺の歴史の深さというものの現れだし、広域的には川西市と宝塚市で連携しているところもあるのだろうから、住む分にはさほど影響がないのかもしれない(これは個人的なイメージだが、「兵庫のどこに住んでるの?」と訊かれて、「宝塚」と答えるのと「川西」と答えるのでは・・・と思う方もいるのでは)。
ここまで書くと、満願寺からハイキングコースを伝って多田神社に下りるのが筋、一つのテーマという気がするのだが、今回はこのまま引き返すとする。多田神社については、能勢電鉄の乗り鉄も兼ねてまたの機会に訪れることにする。
ちょうどバスの時間が近いということで、門前のバス停に向かう。ここで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロをしていなかったのに気づくが、まあいいか、駅に戻ってからとしてそのまま乗車する。バス通りは住宅地の外側を走るが、勾配が急である。それこそ45度あるかもしれない。
駅に戻り、次の列車を待つ間に次回の行き先決定である。
1.高槻(神峯山寺、安岡寺)
2.高野山(宝亀院)
3.大津(立木山寺)
4.滝野(光明寺)
5.貝塚(水間寺)
6.赤穂(花岳寺)
大津、滝野、赤穂はくじ引きでよく出てくるイメージである。スマホのアプリでランダムのはずだが、ある程度パターンというのがあるのだろうか。
そして出たのが・・・・「2」。高野山である。あらら。四国八十八所では高野山といえば奥の院へのお礼参りで訪れるところだが、新西国ではその支院の一つが札所。ただ、高野山に行って宝亀院だけけ参詣して次のサイコロ・・・とは行かないだろう。やはり金剛峯寺、そして奥の院にも行かなければと思う。まあ、「最近四国も始めましたんで、まあ今後もよろしゅう頼んますわ」という挨拶に行く感じだろうか・・・。