まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16番「大報恩寺」~新西国三十三所めぐり・29(おかめが見守る京都最古の木造本堂)

2017年04月16日 | 新西国三十三所
新西国三十三所めぐり、今回は京都市街コースである。33プラス5ヶ所ある札所のうち、京都市街にあるのは第15番の誓願寺と第16番の大報恩寺だけである。昭和の初めに京阪神の新聞の合同企画で、読者からの投票も募って札所が決まったというが、およそ半数が兵庫県内にあるというのが新西国の特徴で、京都には多くの寺院があるということを考えると2ヶ所だけというのは意外である。まあ、この「投票結果」というのは現在は残っていないようで、今となってはどういう経緯で札所が選ばれたのかは謎の部分があるそうだ(別に、兵庫の札所をディスっているわけではない。これまで訪ねたところはそれぞれに由緒があり、私にとっても新たな発見が多く楽しんでいる)。

さて同じ京都市街ではあるが、誓願寺は四条河原町近くにあるのに対して、大報恩寺は市街の西の端、北野天満宮の近くにある。また京都市街といえば、2巡目に入っている西国三十三所の2ヶ所(行願寺革堂、頂法寺六角堂)も回ってみよう。特に誓願寺と六角堂は、その名も六角堂通りで歩いて数分の距離でつながっている。

元祖西国と新西国で合計4ヶ所を回るという慌ただしいスケジュール。また、朝は自宅を9時出発というゆったりしたプランである。京都市街に入るのは11時を回る。まずは離れたところにある大報恩寺を回り、そこから革堂、六角堂、そして誓願寺の順番で訪ねることにする。大報恩寺は北野天満宮近くということで、京都市街の主要駅からバスで行くことができる。また遠回りになるが、嵐電で北野白梅町に行くのも面白そうだ。

どうしようかと考えながら御堂筋線に乗ったのだが、ふと京阪で行ってみようかという気になった。市街地の西にある大報恩寺へは遠回りに感じるが、地図を見ると出町柳駅から今出川通を西に進めばよい。その道を走るバスもある。

そしてやってきた淀屋橋。ホームには赤と黄色の特急車両が停まっており、目の前にあった2階建て車両の階下席に座る。これ、特急と思っていたが10時ちょうど発の快速特急「洛楽」である。京橋を出ると七条までノンストップという、昔の京阪特急のイメージを復活させた臨時列車である。通常停車する枚方市、樟葉、中書島、丹波橋を通過するわけだが、その車内放送を聞いて慌てて外に出る人も目立つ。

天満橋を過ぎると地上に出る。造幣局の桜の通り抜けもまだやっている。京橋で車内は満席、立ち客も出る賑わいとなる。階下席なので窓の外の景色も早く過ぎる感じがして、目が疲れそうだ。

途中ウトウトとしながらいつしか京都市街に入り、10時50分、出町柳に到着する。50分で洛北の玄関口に着くのだから、やはり途中ノンストップというのは大きいと思う。

ここから少し東に歩いたところのバス停から乗り込み、今出川通を走る。鴨川を渡り、途中に京都御苑や同志社大学を見ながら、20分ほどで北野天満宮の手前の上七軒バス停に到着する。ここから北に歩いた突き当りが大報恩寺である。周りを町家で囲まれ、落ち着いた感じである。小ぶりな門をくぐると枝垂れ桜があり、その奥に本堂がある。

さてここまで大報恩寺と書いているが、それは寺の正式な名前としても一般には「千本釈迦堂」という名前で知られているかもしれない。千本というのは近くに南北に走る千本通があるが、その千本というのは、卒塔婆が千本あるとか、桜が千本植えられていたからとか、諸説あるようだ。釈迦堂というのは、本尊が釈迦如来であることから呼ばれている。新西国三十三所というのは観音霊場ではないのか?と思う向きもあるが、ここが新西国に選ばれた理由はこの後で納得する。

その千本釈迦堂は本堂を指しているのだが、鎌倉初期、1227年に開創した当時の姿をそのままに残す国宝である。京都の町中が兵火に巻き込まれた応仁の乱もくぐり抜けており、京都市街で現存する最古の木造建造物と言われている(もちろん、その途中で何度かの修復工事は行われているが)。

まずは本堂の外で般若心経のお勤めを行い、境内を見て回る。本堂の右手にあるのが「おかめ塚」である。おかめというのは、あのおかめ、お多福である。今では当たり前に目にするおかめ、お多福。広島ではお好み焼きのソースにもなっている・・・というのはさておき、大報恩寺におかめとはどういうことか。

この本堂の建築工事の棟梁に高次という者がいたが、大切な柱となる木材を短く切り過ぎてしまった。そして憔悴している高次に対して、妻のおかめが、ある技法で柱を継ぎ足すよう助言し、その通りにすると工事が無事に成功したということがあった。そして上棟式を迎えたのだが、おかめは、「建築のプロでもない女性の提言で棟梁が工事を成し遂げたと知られては、夫の名誉や信用を傷つけることになるのでは」と思い、前日に自害してしまう。高次は上棟式の際、妻を弔うとともに永久にこの本堂が守られるようにとの願いを込めて、おかめの顔をモデルにした面を扇の御幣につけて奉納した。そして本堂は今もその姿をとどめ、おかめの面はお多福として今も受け継がれている(だからと言って、今、世の女性に面と向かってお多福と言おうものなら、何をされるかわからないが・・・)。

現代の感覚なら、別に女性がアドバイスすることも当たり前に行われるだろうし、何もおかめが自害することはないだろうと思う。本当に夫の名誉や信用を守りたかったのなら、自害せずに何も言わずに墓場まで持って行けばよかったのではないかとも思う。ただそれはあくまで現代の感覚であり、当時としては女性の鑑と受け取られたことだろうか。

さて本堂、そして宝物殿の中の拝観が600円とある。ここは入ってみようと受付に向かう。ここは納経所も兼ねているので新西国の納経帳を預けて本堂の中に入る。中は畳敷きで、涼しい風が通り抜ける。せっかくなのでここでもう一度お勤めを行う。内陣前の柱に、応仁の乱の時のものとされる刀傷がある。柱に刀傷とは、やはりこの境内でも何がしかの戦は行われたということか。

その本堂の横では、数々のおかめのお面や人形が並ぶ。中には年季が入ったものもあり、おかめ信仰というのが長く受け継がれていることをうかがえる。お面だけでなく全体像の人形があるというのは初めて見た。

本堂の次は、奥にある宝物殿を見る。こちらには数々の重要文化財が安置されており、撮影禁止なので画像はないが、ここで思わずうなってしまう。鎌倉時代、定慶の作とされる六観音(聖、千手、十一面、馬頭、准胝、如意輪)の像が一列に並ぶ。その時代の六観音がきれいにセットで残されているのは実に貴重なものだという。なるほど、この六観音揃い踏みというのが、新西国に選ばれた大きな要因なのかなと思う。果たして、外に出て受け取った納経帳にも「六観音」と書かれている。また観音像といえば、菅原道真が梅の古木に刻んだとされる千手観音像もある。学問の神様も、生前は観音信仰が篤かったという現れである。

京都の有名寺社の間にあって、知る人ぞ知るという感じの大報恩寺、千本釈迦堂である。今も、おかめと共に京都の移り変わりを見守っているかのようである。

さて、ここから次の革堂に向かうところだが、せっかくここまで来たのだから、北野天満宮にもお参りすることにする。こちらはこちらで、またこの時季ならではというのに出会うことに・・・・。
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