まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回中国観音霊場めぐり~岩国錦帯橋と周防の海辺

2020年03月25日 | 中国観音霊場

岩国駅を出発して、中国観音霊場めぐりの前にいったん錦帯橋に寄り道する。少し内陸部に入る格好になるが、レンタカーでは駅から10分ほどで到着する(途中からカーナビが極端に細い道を案内したのには驚いたが)。公共交通機関利用でも岩国駅・新岩国駅からそれぞれバスで15~20分ほどで行けるからアクセスは悪くない。

河原を利用した駐車場に乗り入れる。観光バスも何台でも駐車することができるが、私が着いた午前9時半にはその姿は見えない。後で土産物を買った店の人によれば、今年はやはり例年より団体客が少ないとのことである。

そういえばこのところ大阪近辺でも団体バスツアーの姿を見ることもめっきり減ったように思う。クラブツーリズムや阪急交通社などのツアーは通常通り募集されているが、旅行を控える動きは当然あるわけで、ツアーそのものが募集中止になったり客が集まらず催行中止になる例も多いようだ。夜行・昼行の高速バスは路線便なので運行しているが、団体ツアーの移動を担当するバス会社などは特に苦しいそうだ。日本国内で新型コロナウイルス感染が発生した当初、従業員の雇用を守るために車両を売却して資金を捻出したバス会社があったが、その後、状況がより厳しくなる中で経営が大丈夫か気になる。

河原から上流を見やると5つのアーチ橋が見える。錦帯橋を訪ねるのも久しぶりだが、独特な姿は一種の美しさを出している。

錦帯橋が架けられたのは江戸時代、17世紀の後半である。毛利家の分家筋だった吉川家が関ヶ原の戦いの後に岩国を領有したが、城を山の頂に構え、城下町を形成したがその間には幅200メートルの錦川が流れている。幅が広く急流になりやすい地形のため、橋を何度架けても大水の時には流されるという事態が起こった。そこで考えられたのがアーチ状の橋。その後、改良や架け替えを行いながら現在も観光客を魅了している。ちょうどこの3月に、定期的な保全工事が終了したばかりという。とりあえず渡ってみよう。

橋のたもとに料金所があり、往復で310円を支払う。照明はないが夜間含めて24時間渡ることはでき、料金所が閉まっている時は料金箱にお金を入れて渡る仕組み。

橋を渡る人もほどよい多さという感じで、途中でカップルやグループが記念撮影していてもそれほど往来の邪魔にならない程度である。

特にアーチの角度が大きい真ん中の3つの橋では、木の段を上がったり下がったりして歩く。見下ろす錦川は底も見えるほど透き通っている。対岸の吉香公園側の遊歩道は桜並木だが、開花まではもう一息といったところだ。空を見ても雲がほとんどない。

対岸に渡る。さすがに山の頂にある岩国城まで行くとちょっと時間がかかるので、城下の吉香公園だけ一回りする。

まずは吉川家の祖霊を祀る吉香神社に参拝。複雑な造りの木造建築で、岩国の大工職人たちのレベルの高さがうかがえると評される建物である。

吉川家は鎌倉時代後期に安芸に拠点を構えた地頭~国人領主で、芸北を中心に勢力を持っていたが、後に毛利元就の次男・元春が継承し(これは毛利元就による乗っ取りともされているが)、元長、広家と続いた。この吉川広家は関ヶ原の戦いの時に徳川家康に内通する代わりに、石田三成により西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元の本領を安堵してもらう約束を取り付けた。

しかし戦後、家康はその約束など一方的に反故にして、毛利本家の領地は周防・長門の2ヶ国に大幅に削られ、本拠地も萩に移された。広家には毛利家の東の守りである岩国領が与えられたが、毛利本家は吉川家の岩国領を支藩とは認めず、家臣として扱った。一方で家康は吉川家を一つの藩と同等に扱い、城の建設を認め、江戸にも藩邸を持つことを許した。この扱い、徳川と毛利の間での駆け引きに使われたとか、現代の国際関係でもそんな例がありそうである。岩国領が正式に岩国藩と認められたのは徳川家からの大政奉還が行われた後のことである。もっとも、数年後には廃藩置県が行われて藩そのものがなくなってしまうのだが・・。

徳川と毛利の間で翻弄された吉川家だが、岩国の人たちにとっては今の町をつくった殿様であることには違いなく、市内には吉川家を顕彰するスポットがいろいろある。吉香神社もその一つであり、かつての屋敷跡を利用した吉川史料館もそうだ。せっかくなので入ってみる。

現在の展示は「吉川元春展 ~尼子氏の忠臣・山中鹿介との攻防」。昔のチャンバラ映画をイメージさせるタイトルやポスターだが、翌々日(3月22日)までの展示ということで、これも巡り合わせである。

尼子家は毛利家最大のライバルで、特に吉川元春はその前線で何度も激しく戦った。山中鹿介は主家である尼子義久が毛利家に屈服した後も尼子家再興に奔走し、挙兵~捕縛~逃亡を繰り返しつつも、ついには織田信長の支援を受けて播磨の上月城を手に入れる。しかし最後は上月城も兵糧攻めで落とされて捕えられ、毛利家に護送される途中で斬られた。

吉川元春は山中鹿介を忠臣と讃え、鹿介がかぶっていた兜を忠臣の遺品として大切に扱った。それがこの史料館に受け継がれている。

展示室は撮影禁止なので画像はないが、毛利対尼子の激戦が繰り広げられた月山富田城の戦いに関する史料や、戦の様子を報告した書状、吉川元春が愛読したという太平記の複本などが展示されている。なぜか洛中洛外図の屏風があるが、山中鹿介が一時都に潜伏していたから展示しているとか。展示室の一番奥に吉川元春の肖像画が掛けられ、それを挟むように元春の兜、鹿介の兜が並ぶ。

山中鹿介といえば三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったというエピソードもあり、よく歴史もののイラストでは兜の三日月も大きく描かれているもの(さらには鹿の角をあしらったもの)があるが、展示されている現物を見ると月の形もやや控えめに見える。歴史物のイラストがイメージ先行で誇張したもので実際はこのくらいの大きさだったのか、あるいは晩年のものだからタイプが違うのか。それはどちらでもよい。それにしても元春と鹿介、こうした中国地方の覇権をかけて前線でぶつかり、お互いを認め合っていたのかなと想像させる。

月山富田城がある島根の安来市は、中国観音霊場の札所が2ヶ所ある。少し足を延ばさなければならないが、その時にはこの山城を訪ねてみてもいいかなと思う。また違った見方も出るだろう。

錦帯橋に戻る途中、この像に出会う。佐々木巌流小次郎。なぜ岩国で佐々木小次郎なのかということだが、吉川英治の『宮本武蔵』では小次郎は岩国の出身という設定だそうだ。ご丁寧に、小次郎が「燕返し」を編み出したとされる柳の木も錦帯橋横の土手にある。まあ『宮本武蔵』じたいが、史実にどのくらい忠実かという物差しからぶっ飛んだ作品という評価なので、小次郎が岩国出身か否かについても、「諸説あります」で収まるのだろう。

さすがに、佐々木小次郎が錦帯橋をバックに燕返しを編み出したという演出はNGのようだ。錦帯橋が架けられた年がはっきりしていて、巌流島の戦いはそれより前とされているからという。

再び錦帯橋を渡りクルマに戻る。カーナビは国道2号線から玖珂方面を経由するルートを示すが、それに逆らう形で、岩国南バイパスを経て国道188号線に出る。山陽線の線路と、その向こうには穏やかな瀬戸内の海が広がる景色である。

広島カープの2軍練習場がある由宇に入る。以前は由宇町という名だったが、岩国市に合併されていたのね。沿道にもカープにちなんだ看板が目立つ。

由宇といえば、広島在住当時に2軍戦に来たことがある。カープ対近鉄バファローズ。当時は交流戦もなく(交流戦じたい、近鉄バファローズがオリックスブルーウェーブと合併したから始まったもの)、広島でバファローズを見るなら由宇の2軍戦しかなかった。

画像も残っておらず試合結果も覚えていない中で、今でも記憶の片隅にあることが二つある。一つは、近鉄で先発した岩隈久志。2000年あたりだと思う。投球練習から間近で見たが、右手を一度ダラリと下げるフォームが印象的だった。その後、近鉄~楽天でエースになり、メジャーリーグに行くとまでは思っていなかった。

もう一つはカープの応援団。観戦当時は、カープの一軍でさえ今のように熱狂的にまとまった応援ではなく、昔ながらの市民球場スタイルだった。この2軍戦ではカープ応援団がトランペットを鳴らすものの、詰まったり音階を外すこともしばしば。その状況に、近くに座っていたおっさんが「選手も2軍なら応援団も2軍やのう!!」と野次った。観客数百人から笑いすら起きていた。カープ人気が全国的になった現在ではこうした光景はないのだろう。

由宇駅を過ぎてしばらく走ると、南国ビーチ風の景色が見えてきた。

「潮風公園みなとオアシス」という施設である。国道沿いなので、休憩がてらちょっと立ち寄ってみる。

2005年にオープンした人工海浜公園で、海沿いに街が広がる岩国市にあって唯一の公設海水浴場という。確かに、岩国の海と言えば工場が並ぶイメージで、むしろ由宇町が合併したことで初めて海水浴場ができたとも言える。私が広島にいたのが2004年までだったから、こうした施設があるというのは初めて知った。

ビーチの湾曲した形がアルファベットの「C」の字に見えることから「カープビーチ」の呼び名もあるという。

夏は間違いなく混雑するだろうが、ちょうどこの彼岸の時季も、海べりでまったり過ごすのに適している。敷地内には物産館やレストランもあり、山口県の海産物や野菜、土産物のお菓子などを手に入れることができる。こういうところに来るとあれこれ買いたくなるので、私の日帰りのリュックも重くなる。

再び国道188号線を走ると、周防大島と、そこにかかる大橋が見えてきた。この区間は四国八十八所めぐりで訪ねている。柳井まで山陽線で行き、白壁の町並みなど見た後で柳井港からフェリーで松山の三津浜に向かった。周防大島をはじめとした防予の島々の景色を楽しんだ。

この時は松山・愛媛までさまざまなルートで行ってみようという一環で、初乗船の防予フェリーを選んだのだが、中国観音霊場めぐりでもさまざまな交通手段を試してみたいと思う。一度四国や九州を経由してから中国に乗り込むのも面白そうだ。

柳井の市街に入るとそろそろ般若寺も近い。道沿いに「日想観」の文字のある般若寺の看板を見て、最後の山道に向かう・・・。

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