諫早から干拓堤防道路にて諫早湾を渡り、雲仙市に入る。ここで直接次の観音寺には向かわず、国道251号線にて島原を目指すことにした。とりあえず行くのは島原城である。
ちょうど島原鉄道と並走し、その向こうには有明海を望む。すぐの古部駅の近くにはビジネスホテルがあり、一時は3日夜の宿泊地の候補でもあった。結局は諫早に泊まるのだが、翌日、島原鉄道にも乗る予定である。
やがて道端に、球状のポールに「くにみ」と書かれた広告塔並ぶようになった。雲仙市の国見町。かつて、全国高校サッカーで何度も優勝を飾った長崎県立国見高校がある町である。別に高校サッカーに注目しているわけではないが、そういえば最近この学校の名前を聞くこともなくなったなあ。
そのまま島原半島の北側から東側を回り、島原の市街地に入る。カーナビの案内に沿って走ると、本丸へ続く橋に差し掛かる。以前島原城に来たのもずいぶん前のことで、その時は島原鉄道利用だったが、今回は橋のところで駐車料金を払い、そのまま天守閣の下まで入る。結構多くのクルマで賑わっており、鎧姿の係員が案内誘導を行っている。
島原城が築かれたのは1624年のこと。現在の天守閣は戦後の復元天守であるが、昔も実際にこのような堂々とした造りだったそうだ。建造当時の島原藩主松倉氏の知行はわずか4万石しかなかった、その割には立派な城である。この築城で人々を酷使したことも、後の島原の乱につながる一因だと言われている。
天守閣の中は歴史資料館となっている。その展示の中心はキリシタンと島原の乱に関するものである。島原の乱は、松倉氏の島原藩がある島原半島と、寺沢氏の唐津藩の飛び地がある天草諸島で起こったもので、過酷な年貢の取り立てや労役(島原城の築城も含む)に苦しめられたことと、両藩によるキリシタン弾圧に対する反乱である。反乱軍の大将に祀られたのは天草四郎。なお戦いにはこの機に一旗揚げようという諸国の浪人も多数参加したという。
一時は反乱軍が島原城を攻め立て、後に島原・天草の軍が合流して原城に籠城。幕府からの討伐軍とも激しい戦いを繰り広げたが最後は鎮圧された。この戦いの後、キリスト教の取り締まりも厳しくなる中、隠れキリシタンとしての信仰を続けた人もいた。展示の中には、聖母マリアや十字架を擬したマリア観音像も多い。観音菩薩の側から見れば、観音菩薩は33の形に変化するとされるから、マリア像にもなるくらい造作ないことではないかと思う。
最上階に上がると快晴の下、島原の町並み、雲仙、有明海の眺めがよい。案内図では有明海方面には天草をはじめ、はるか遠くには阿蘇を望むとある。そう言われれば、その方向にかすかに山らしきものが見えなくもない。
雲仙といえば1991年に普賢岳の「平成の大噴火」で発生した火砕流が思い出される。今から30年あまり前のことで、島原市、深江町を中心に多くの被害が発生した。噴火後数年経って、島原鉄道でこの地を訪ねたことがあるが、途中区間は噴火の影響で不通で、まだ復興途中だったと思う。
現在、島原半島は世界ジオパークにも認定されており、雲仙の噴火の姿と復興の様子を伝える資料館や、火砕流で埋まった家屋を保存する「がまだすドーム」という施設もある。ここまで来たのなら行ってみようかと思ったが、そこを見学して、さらに島原半島を取って返すとさすがに次の観音寺の参詣に間に合わない。そもそも、島原城に来ることも現地で急に思いついたオプションなのだからと、島原のその先はまた何かの機会に取っておくことにする。最初から島原城ではなく「がまだすドーム」を目指していれば展開は違っていたかもしれないが・・。
諫早の市街地の西にある観音寺にカーナビをセットすると、国道251号線を少し走ったところで脇道に誘導される。その先には「雲仙グリーンロード」という看板がある。国道251号線から少し山側に入った一帯をぐるりと回る道で、そもそもは広域農道だという。ただ、諫早、長崎と島原を結ぶ近道ということで交通量もそれなりにあり、一部では国道251号線のバイパスとして新たに高架橋の工事も行われていた。それでも一応は農道で、近くの畑に向かうトラクターを追い越す場面もあった。
有明海は遠くにちらりと見える程度で、半島の付け根にある雲仙市愛野町に入る。両側に広がるのはじゃがいも畑。長崎県は意外にも北海道に次いでじゃがいもの収穫量が多く、この時季は春じゃがの収穫だという。そもそも日本にじゃがいもが伝わったのはオランダ船がジャカルタから長崎に持ち込んだもので、じゃがいもの名前の由来も「ジャカルタからのいも」だが、それが日本に広まるようになったのはとりあえず長崎の気候や土壌が栽培に適していたからというのが大きい。
このまま半島の付け根を横断して、左手に天草灘に続く橘湾が見えてきた。先ほどとは反対側から雲仙を望む。観音寺まではもう一息だ・・・。