ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

親の失業

2010年10月05日 | 家族とわたし
ここ数年の間に、失業している親の数が増えた。
それは新聞などに出ている数字ではなく、周りの人達、さらにはわたしが知っている人達の中に、ゾクゾクと現れ出した。

旦那の失業は、今から9年前、同時多発テロが起こる直前だった。
わたしのピアノの生徒の数も今ほどではなく、失業保険を受け取れる6ヶ月が過ぎたらどうなるのだろうと心配した。
その6ヶ月間、必死で仕事を探していたが、もともと会社人間にはなれないことがわかっていた彼は、突然、鍼灸の勉強をしてみたい、と言い出した。
学ぶ期間は3年。それを無事に、延長することなく学び終えたとしても、はじめっから仕事としての波に乗れるわけがなく、だから少なくとも4年、がまんがまんの暮らしだな、と腹をくくった。
貧乏には慣れっこだ。大津に移り住んだ最初の3年間などは、ホームレス寸前のような毎日だったのだから。

生活保護こそ受けなかったけれど、健康保険など買える余裕は無く、せめて子供達だけでもと、ニュージャージー州からの無料保険を申し込んだ。
それには収入がどれほど無いかという証明が必要だったが、その通りの状態だったので別に問題は無かった。
息子達のフードチケットももらった。高校生という微妙な年頃に、貧乏人の証明のようなチケットでもって、カフェテリアの、他の大勢の生徒達の目の前で、ランチを受け取らせるようなことを強いてしまった。
その州からの健康保険が使える病院は、どこも入った途端に気が滅入るような有様で、治療の技術も怪しいことが多かった。それでも全く無いよりはまし。
日用品はすべて、日本の時と同じように、ゴミやガレージセールで揃えた。
旦那も、やりたくない種類でもなんでも、複数のバイトをこなしながら、鍼灸学校の勉強に励んだ。

親が失職するということは、家族全体に大変な思いを強いること。
わたしの実家はわたしが中学校に入った頃から様子がおかしくなり、それからは転げる落ちるように谷底へ。
食べることもおぼつかなくなり、最後の頃にはお茶碗半膳のご飯に、塩やマヨネーズをかけて食べていた。
でも、それでもどっこい生きていけるのが子供。子供って見た目なんかよりよっぽど強いししっかりしてる。自分でそう思った。
なのに大人の方がびびってしまっていて、こんなことは言えない、あんなことは言えないと、ウソをついたり隠したり。
子供はちゃんとわかってるのに。だからお腹が空いても、けったいな後遺症に襲われてても、それを言わずに平気なふりができたのに。

だからわたしは、親になった時、自分の子供には正直になんでも言おう。ウソをつかないで生きよう。そう心に誓った。

わたしの家族にも、親戚にも、友人にも、生徒の親にも、今失業しているおとうさん、おかあさんがいる。
みんなそれぞれに、懸命に生きている。
わたしみたいに、市場の終業時間を狙って回り、売れ残りのクズをもらって回るようなことをしている人がいるのかどうかは知らない。
でも、みんな、なんとかして家族を守ろうと思っている。守りたいと思っている。
形は変わってもいいと思う。おとうさんがおかあさんに、おかあさんがおとうさんに、子供達の年長の者が大人の代わりに、それぞれがそれぞれの、できることをしたらいいと思う。

ただ、身の丈に合った、その時その時の収入に見合った暮らし方に変えていかなければならないし、変えたくないのならば、それだけのものを、どんな種類の仕事であれ身を置いて、必死で揃えるしかない。

その必死さが大事。そしてその大変さを、家族みんなで共有することが大事。うそもエエカッコもない、親の正直な苦労はきっと、家族みんなを成長させる。
そうやって、とりあえず前向いて、半歩ずつでも、たとえ一時は少し後戻りしたとしても、前に前に歩いていくこと。
しんどいけど、先がなかなか見えないけど、どんなにヘトヘトになるまで働いても、なにも変わらない気がして落ち込むこともあるけれど、
そうやって歩き続けていればいつかきっと、みんなきっと、ああ、あの時はほんまに大変やったなあと思い出せる時が来る。絶対に来る。



実は今日、2年近く失業していた生徒のおとうさんが、ようやく仕事に戻ることになった。
その報告を受けて、わたしは本当に嬉しかったし、今までひとり、大黒柱になって働いてきたおかあさんの気持ちを思うと泣きそうになった。
その家の3人兄弟妹をわたしは出張レッスンで教えていたのだけど、彼が再就職するまでの期間限定で、レッスン代を安くしていた。
今日、わたしを見送りながら、「まうみ、長いことありがとう。来週からはレッスン代、ちゃんと払うからね」と彼が言った時、いったいなんのことを言っているのかわからなくてキョトンとしてしまった。

もう一度、いや、何度でも言いたい。
いつかきっと、みんなにもきっと、彼のように、わたしのように、少し戸惑いながら、少しまだ心配しながら、けれども嬉しい気持ちでにっこりできる日が来る。

絶対に来るからね。
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家族ってほんとに

2010年10月05日 | 家族とわたし
ロンドン在住の友KYOちゃんのブログで紹介されていて、朝からじ~んとしながら見たコマーシャル。
日本の皆さんはもう、何回も見て知っているのでしょうね。

でも、こういう、かあちゃんと息子、とうちゃんと娘というパターンにからっきし弱いわたし。
今もまた見て、目にいっぱい汗かいてます。

お弁当メール篇



息子達にお弁当をちゃんと作ってあげたのは、彼らが幼稚園に通っていた時と、拓人が1年だけ中学校に通った時だけ。
あとはこちらに来て、はじめのうちは日本式のお弁当を作って持たせたのだけど、やっぱりジロジロ見られたりするからイヤ、と言われてそれっきり。
こちらの子供達は、パンにジャムとピーナッツバターを塗りたくったサンドに、バナナやリンゴなどの果物、それと学校用にサイズを小さくしてあるフルーツジュースの紙パックを持って学校に通っています。
飽きてくると、学校内にあるカフェテリアで、好きなのを注文(といっても揚げ物が多い)して食べたり。
なので、日本の子供達のように、栄養や彩りなどがいろいろと工夫されたお弁当は夢のまた夢なのです。

こういうのを観ると、あ~あ、わたしってやっぱ中途半端な母親の見本みたいだったな~と、ちょっと胸の中がシクシクします。
お弁当だけじゃないけれど、なんかこう、もっと年をとってから母親のことを思い出す息子達の心の中に、わたしはいったいどんな母親として残っているのか……なんて考えると、かなり自信がないっていうか、どちらかというとトホホな像が予想されてしまいます。

お父さんのチャーハン編.



わたしの父の十八番は親子丼でした。
このコマーシャルのように、父だけしかいない夜などは、よく作ってくれたのを覚えています。
なんとなく心もとなくて、なんとなく寂しくて、なんとなく家の中全体が暗かった。
そんな家の台所から、卵とお醤油と、鶏肉の油炒めの匂いが漂ってくると、こんな時でもちゃんとお腹が空くんだな~などと思ったのでした。

嫁ぐ前の夜、ありがとうと言おうとすると、「そんなんもうええわ!」と、怒ったような顔をしてプイッと向こうを向いてしまった父のことを思い出しました。

家族ってのはほんとに、ねえ。



P.S.

KYOちゃんが、もうひとつ、こんなのがあると教えてくれました。おばあちゃんと孫娘の切ないお話です。
わたしだっていつか、こうやっていろんな物事を忘れながら暮らす日が来るかもしれません。
だからこそそれまでに、いろいろな人とつながって、いろいろな時を過ごし、いろいろな思い出を作っていくことが大切なんでしょうね。
その思い出が、誰かの胸の中に生きている限り、わたしは生き続けることができるのだから。

おばあちゃんの山菜編

コメント (7)
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