被爆ピアノコンサートでお出会いした、浄土真宗のお坊さん、ニューヨーク本願寺の中垣住職が書かれた本を読んでいる。
仏教というものを改めて、いや、本当のところはなにも学んでいなかったような気がして、我ながらに驚いている。
本の中から抜粋したい文章がいっぱいあるのだけれど、同時多発テロを経験された住職の、仏教徒としての思いの中に、ナモアミダブのいう言葉がいかに大きな存在であるかという話があり、それがとてもすばらしいと思ったので、ぜひここで紹介したいと思う。
あのテロが起こってから二日後に、すでに町のあちこちで、反戦運動が起こり始めていた。
マンハッタンに在住するあらゆる宗教家が集まり、怒り、恨みを超えて、慈悲の心を実践すべく、それにはどのように行動していけばいいかの話し合いがもたれていた。
けれども目の前で起こったことは誰の心をも揺るがし、皆それぞれに混乱し、動揺していた。
中垣住職もその中のひとりだった。
その混乱の中、彼が見いだしたことがこのように書かれている。
『浄土真宗の教えは『南無阿弥陀仏』に尽きるのですが、この南無阿弥陀仏という『言葉がある』ということを本当にありがたく思いました。
混乱している場合は、静かに座っていても、心がなかなか落ち着かないものです。
言葉があるということは、そこに還るようにすればいい、ということになります。
ナモアミダブという言葉は仏さまが選び取られた言葉です。
私が自分で考えるまでもなく、そこに言葉が選ばれているのです。
ナモあるいはナム(南無)とは帰依する、たのみにするということで、安住の場所に身をよせるという感じでしょうか。何にナモするかというと、アミダ(阿弥陀)たる仏さまにナモするのです。
アミダとは無量寿・無量光と訳され、量り知れない命(アミターユス)と量り知れない光(アミターバ)という二つの言葉がひとつになっているのです。
このアミターユスが慈悲の心を表し、アミターバが智慧の心を表しているのです。
仏はブッダのことで、目覚めた者、真理を悟った者ということです。
南無阿弥陀仏は感じて書いてあるので、何となく日本語のような気がしますが、実はサンスクリット語であり、その音を取って、漢字を当てはめた言葉ですので、今であればカタカナを使うことになる言葉です。ナモアミアブです。
詳しいことはさておき、その当時に私に聞こえてきた念仏とは、「周りのものに踊らされるのではなく、智慧の目で見ていきなさい(アミターバ)、憎しみ・恨みの心ではなく、慈悲の心を忘れてはいけません(アミターユス)、このことに目覚めつつ(ブッダ)、あなたの中心としていけばいいのです(ナモ)」というものでした。
この言葉によって、私の腹は据わった感じになりました。
それまでは、これから何が起こるのだろうかと不安な気持ちが先に立っていたのですが、「この先、何が起ころうと、智慧と慈悲をもって対処していこう」と思えた途端に、不安な気持ちがふっとんだ感じがしたのを覚えています。
ある意味で、人生に必要な言葉はナモアミダブに尽きるのだ、というのが浄土宗や浄土真宗の心意気ではないかと思うのです』
日本は仏教の国として、世界でただひとつ、原爆を投下された国として、この智慧と慈悲をもって、そして平和憲法を携えて、もっと積極的に、もっとリーダーシップをとって、世界に平和を訴えていかなければならない。
そのためには、自分をはじめとする仏教徒が一丸となって、葬式専門の寺ではなく、地域に根ざし、人々を支え、頼られるような存在になれるよう、具体的に行動しなければならない。
何度も何度も、本の中に、この思いがくり返し書かれている。
非暴力の平和運動こそが仏教の本領なのだと。
仏教というものを改めて、いや、本当のところはなにも学んでいなかったような気がして、我ながらに驚いている。
本の中から抜粋したい文章がいっぱいあるのだけれど、同時多発テロを経験された住職の、仏教徒としての思いの中に、ナモアミダブのいう言葉がいかに大きな存在であるかという話があり、それがとてもすばらしいと思ったので、ぜひここで紹介したいと思う。
あのテロが起こってから二日後に、すでに町のあちこちで、反戦運動が起こり始めていた。
マンハッタンに在住するあらゆる宗教家が集まり、怒り、恨みを超えて、慈悲の心を実践すべく、それにはどのように行動していけばいいかの話し合いがもたれていた。
けれども目の前で起こったことは誰の心をも揺るがし、皆それぞれに混乱し、動揺していた。
中垣住職もその中のひとりだった。
その混乱の中、彼が見いだしたことがこのように書かれている。
『浄土真宗の教えは『南無阿弥陀仏』に尽きるのですが、この南無阿弥陀仏という『言葉がある』ということを本当にありがたく思いました。
混乱している場合は、静かに座っていても、心がなかなか落ち着かないものです。
言葉があるということは、そこに還るようにすればいい、ということになります。
ナモアミダブという言葉は仏さまが選び取られた言葉です。
私が自分で考えるまでもなく、そこに言葉が選ばれているのです。
ナモあるいはナム(南無)とは帰依する、たのみにするということで、安住の場所に身をよせるという感じでしょうか。何にナモするかというと、アミダ(阿弥陀)たる仏さまにナモするのです。
アミダとは無量寿・無量光と訳され、量り知れない命(アミターユス)と量り知れない光(アミターバ)という二つの言葉がひとつになっているのです。
このアミターユスが慈悲の心を表し、アミターバが智慧の心を表しているのです。
仏はブッダのことで、目覚めた者、真理を悟った者ということです。
南無阿弥陀仏は感じて書いてあるので、何となく日本語のような気がしますが、実はサンスクリット語であり、その音を取って、漢字を当てはめた言葉ですので、今であればカタカナを使うことになる言葉です。ナモアミアブです。
詳しいことはさておき、その当時に私に聞こえてきた念仏とは、「周りのものに踊らされるのではなく、智慧の目で見ていきなさい(アミターバ)、憎しみ・恨みの心ではなく、慈悲の心を忘れてはいけません(アミターユス)、このことに目覚めつつ(ブッダ)、あなたの中心としていけばいいのです(ナモ)」というものでした。
この言葉によって、私の腹は据わった感じになりました。
それまでは、これから何が起こるのだろうかと不安な気持ちが先に立っていたのですが、「この先、何が起ころうと、智慧と慈悲をもって対処していこう」と思えた途端に、不安な気持ちがふっとんだ感じがしたのを覚えています。
ある意味で、人生に必要な言葉はナモアミダブに尽きるのだ、というのが浄土宗や浄土真宗の心意気ではないかと思うのです』
日本は仏教の国として、世界でただひとつ、原爆を投下された国として、この智慧と慈悲をもって、そして平和憲法を携えて、もっと積極的に、もっとリーダーシップをとって、世界に平和を訴えていかなければならない。
そのためには、自分をはじめとする仏教徒が一丸となって、葬式専門の寺ではなく、地域に根ざし、人々を支え、頼られるような存在になれるよう、具体的に行動しなければならない。
何度も何度も、本の中に、この思いがくり返し書かれている。
非暴力の平和運動こそが仏教の本領なのだと。