ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

息子とかたづけとさびしさと

2010年10月23日 | 家族とわたし
今朝起きたら拓人が家に帰っていた。
昨日寝る間際に、なんとなぁ~くそんな気がしていた。
彼の部屋のベッドの一切合切を洗濯してしまっていたので、ベッドの上にはなぁ~んにも置いていなかった。
そして、それがちょっと気になってもいた。

夜中の2時ぐらいまでベッドの中で眠れずにいると、なんとなく足音がして、トイレの水を流す音がして、ああ誰かが帰ってきたのだな、と思ったけれど、拓人のいつもの足音では無かったので、ああ恭平だと思い、それなら布団の心配はないな、と安心して眠った。

朝起きて一階に下りていくと、玄関ドアの前に拓人の靴があり、あ~あやっぱり拓人だった!三階のあの部屋にはヒーターも無いのに、いったいどうやって眠ったやら……。
起きてきた彼は思いっきり風邪をひいていて、けれどもそれは一週間前からだということで、ホッとするやら?腹が立つやら。
「帰ってくるならくるで連絡しなさい!」
「昨日、飲みに行ってて、たまたまニュージャージーの子がそこにいて、送ったろかって言われて、ふ~ん、IKEAに行こうと思てたし、帰ってもええなあって思て、出かけたまんまで急きょ帰ってん」
ふむ……そういう事情ならまあ仕方があるまい。


「お金が貯まってから買おうと思てた家具やけど、やっぱりカードで買うことにした。きちんと返済できる分の額だけな」
ということで、彼と一緒にまたまたIKEAに出かけた。

ソファとコーヒーテーブルと本棚とラグ。
あの長方形の部屋にうまく配置できるよう、本人が時間をかけて考えた見取り図に合う物を探して、ショールームをぐるぐるぐるぐる。
どうやって車で運べるかが一番の課題だったけれど、ソファひとつでもなかなか無理っぽかったので、店員さんに尋ねることにした。
「ああ、どんだけでも好きなだけ買って、それを配送部まで持ってったらいいよ。70マイルまでだったら70ドルで届けるから」
「へ?」

ということで、配送料と税金込みで千ドルちょっとのお買い物。これがクレジットカードの返済額になるということが、かなりドキドキの様子の拓人。
小さい頃から、ビルからカードのことをうるさく言われてきたので、買い物を借金してすることにすごい抵抗感があるようだ。
わたしは横でニマニマしながら、「しっかりお気張りやっしゃ~」と励ますのみのお気楽オカン。


家に戻り、野菜てんこ盛りの豚汁を大鍋で作った。
風邪をひいて少々しんどそうな拓人には言いにくかったが、その間に、三階の部屋を徹底的に掃除するように言った。
彼が家を出て行くたびに、散らかり放題の部屋をわたしが掃除してきたのを黙って見ていた弟の恭平が、「今回もおかあさんが拓人の部屋を片付けるん?」と、声の中に「また甘やかすつもりか」という抗議の気持ちをたっぷり込めて聞いてきた。
「いや、今回ばかりは拓人にさせる」
「ならええけど……」

三階のゴミを大袋に入れては降りてきて、野菜の切り方、炒める手順などを確かめたり、鍋の中を覗きにきたり。
これから自炊を本格的に始めようと決めたので、料理そのものに興味がある。
彼が通っていた大学は、全米でも三本の指に入るほど、学生の食事環境が充実していたので、自炊をする必要があまりなかった。
なので、今度こそはの自炊生活なのだ。がんばれよぉ~!

今夜も泊まるとばかり思っていたら、「明日友達と約束してるから、今晩はアパートメントに帰る」と言って、掛け布団を抱えて行ってしまった。
昨晩、彼が適当に使った布団やシーツを片付け、今度いつ、突然戻ってきても、暖かく眠れるように整えた。
拓人と恭平の部屋の間にある、今は筋トレをする機材が置いてある部屋も、ついでにガガッと片付けた。
太陽の光が無いのでわからなかったけれど、よほど埃が舞っていたのだろう、鼻の奥が熱くなって目が痒い。思いっきりの埃アレルギー。

拓人が遠く離れた大学に入り、初めて家から出て行った後、こんなふうに鼻の奥を熱くして、目をごしごし擦りながら、それでも手を休めずに、わたしは一心不乱に、彼が居なくなった部屋を片付けていた。
そうやって片付けることで、自分の心の中も整理していたのかもしれない。

旦那もそれがわかっているので、こういう場合はいつものように、「今頃までなにやってるん?」とか、「こんな時間にそんなことしたらまた眠れなくなるのに」とか言って、途中でやめさせようとはしない。
まあ、「あんたはほんとに思いついたまんま、やりたいだけやってしまう人やなあ」と呆れてはいるけれど……。
コメント (8)
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うまれる

2010年10月23日 | 世界とわたし
映画『うまれる』より


わたしがもし、助産院での出産を選んでいたら、親子ともども24年も前に、この世とおさらばしていた。
強い陣痛促進剤を、妊婦のためではなく、自分のスケジュールの都合で投与した医者も医者だが、実際には子宮口が4センチあまりしか開かないという運命を持ち合わせていたこの体のせいもあって、帝王切開という手段でしか出産ができなかったからだ。
けれども、極期という産む寸前の痛みも充分に味わった。帝王切開が必要だとは、本人はもちろん、医者でさえも思いも寄らなかったことだった。
だから皆が、なんの疑いも無しに、極期の陣痛に襲われっ放しのわたしを二日半の間も、ビデオの中の助産婦さんのように、「痛いなあ、痛いなあ」と同情しながらも、ただただ眺めていたのだった。
安産体型と、娘の頃から周りから言われ、自分でもてっきりそうだと決めつけていたことの恐ろしさ。
人は出産のこととなると、どうしてだか非科学的になり、思い込みが激しくなる。

おまけに、なかなか妊娠できない体質、もしくは心の持ち主でもあった。
不妊治療の苦しさは物質面にも精神面にも重く覆い被さり、心身ともに痛み続けた。
避妊などする必要のない不妊症の辛さは、なってみないとわからないものだと、なってみて初めて思い知った。
やっと授かったと喜んだのも束の間、その命は育たないまま血みどろの塊となってパンツの中に堕ち、それをかき抱いて泣き叫んだ。
その塊をそぉっとそぉっと手のひらに乗せ、なんとか自分の子宮に戻せないものかと思いながら、便器の前に呆然と、何十分もの間突っ立ったままでいた。

ついさっき、コメントをくれた美代子さんに返事をしながら、『不妊と流産を乗り越えて』というビデオのタイトルを眺めていたらふと、不妊と流産を乗り越えられなかった人にとっては辛いなあと思った。
乗り越えるとかこぎ着けるとか、いろいろな困難を経てゴールに到着したようなイメージ、出産をゴールに例えている言い方はどうなんだろう。
不妊、あるいは子供を生まないことを選択することもまたその人の個性と捉えて、それぞれの個性を認め、尊重することができる社会になればきっと、自分を責めたり誰かを恨んだりしながら鬱々と暮らしている女性が少しでも減るのではないだろうか。

などと、いろいろと考え込んでしまったけれど、なによりこの映画が伝えようとしていることは、人という生き物がこの世にうまれるという神秘、奇跡、感動を、今一度思い出して欲しいということだと思う。
人には生まれながらにして、本当に不思議な能力や制度が備わっている。
いったい誰が、こんな精密でわけがわからないほどに複雑な生物を造ったのか、それはわたしの知るところではないけれど、お互い素晴らしい存在同士、地球の上で穏やかに、平で和やかな毎日を過ごしていけたらいいのに。



『うまれる』というこの映画(http://www.umareru.jp/)、もうそろそろ子育ても終わろうとしているわたしにもう一度、うまれてきてくれてありがとう、という息子達への気持ちを、噴水のように吹き上げさせてくれた。
コメント (2)
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