ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

鍵盤狂想曲

2010年11月15日 | 音楽とわたし
マサチューセッツで丸三ヶ月もの間、拉致されていた鍵盤が、近所に住む調律師アルバートの家に送り返されたのが今月のはじめ。
運送会社のトラッキングを調べると、予定通り、4日の午後に到着していることが判明した。
けれどもアルバートからは連絡無し。ふむ……。
次の日の金曜日の夜に、やっと電話がかかってきた。
「鍵盤、うちに着いてるよ」
「知ってるよ」
「明日、持って行こうと思うのだけど、いい?」
「もちろん」
「じゃ、明日の午後、多分2時とか3時とか」
「いいよ」

旦那に話すと、「え?まうみは明日、ベビーシャワーに行くのに朝から出て行くんちゃうん?」
ぎょっえぇ~!そうだったそうだった!あかんあかん!

予定を急きょ変更。とにかく夕方の6時ぐらいには戻るから、申し訳ないけれど、その時間に遅らせてもらえないだろうか。
それでもいいよ、とのことだったので、まずはペンシルバニアに行き、パーティの途中で抜け出して、せっせと帰途についた。
途中で少し渋滞があり、わたしのかわりに家で待機してくれている旦那に、30分ほど遅れることを伝えた。
その夜、連絡も無いまま、彼は来なかった……。
そして次の日曜日、急なお客さんがあってバタバタしている最中に、「今から持っていこうと思ってるけど」と突然の電話。
「今はだめ、お客さんがいるし、これから出かけるし」
「じゃ、また違う日に」
それっきり次の週になり、そしてまた、まるで何事も無かったかのように、彼は連絡をしてこなかった。

これまでにもう、こういう感じで待たされ過ぎてきて、こういうことでイライラするのがすっかりバカらしくなっていたので、とりあえず忘れることにした。
まだマサチューセッツに居る、と思っても全然平気だった。
そしてまた1週間が過ぎた。

突然旦那が、仕事先のオフィスから、「アルバートに電話して、鍵盤のこと聞くよ」とチャットで連絡があった。
へ?なんで?別にええよ。と一瞬思ったけれど、聞いてやろうと言ってくれてるのだから、それを断る理由もない。なのでお願いすることにした。
2分も経たないうちに、「連絡がついた。メッセージを残しておいた。あ、今彼から電話がかかってきた。今日の午後1時半に来るらしい」
なんでやねん……。
思わず、萩本欽一風に、「なんでこうなるのっ!」と叫びながら横歩きしてる自分を思い浮かべてしまった。

とにかく、そういうことで、なにやら突然に、鍵盤は戻ってきた。


おかえり鍵盤。長い旅やったな。

掃除機で埃を吸い込んでいるアルバート。


これからまた、今度はこのハンマーの調整をしなければならない。


アルバートいわく、まずはじめに受けた修理(鍵盤とつながっている棒の破損部分の修理とハンマーのフェルト部分の取り替え)の仕事が、まるで素人が不真面目に適当にやったような出来具合で、なので徹底的に直すにはまず、その部分の再修理から取りかからなければならない、とのこと。
今日はできるだけのことをするけれど、ハンマーの修理はまた別の日を設けてすることになると思う。
ということで、わたしが途中、仕事で出かけ、また夜に戻ってきてもまだ、アルバートの仕事は終わっていなかった。

まだ調整の途中なので、弾いてみたところで、響きがまだまだ整っていない鍵盤がところどころ残っていて、満足なんてできやしない。
今度は日曜の朝。
前日の土曜日は生徒の発表会なので、わたしは多分、ヘトヘトな状態だろうけど、別にわたしが疲れていようが元気でいようが、そんなことは全然関係無い。
その日曜を逃すと、今度は感謝祭の翌週になる、と言われたので、せめて今月中に区切りをつけてしまいたい、と思うわたしなのであった。

鍵盤狂想曲、終結を迎えるのはいったいいつのことになるのやら……。
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いったいわたしは誰なのか?

2010年11月15日 | ひとりごと
今日の気功の瞑想のテーマです。

『わたしは誰?』
『わたしはどうしてこんなふうに考えるの?』
『わたしはどうして、人が◯◯した時に、あるいは◯◯と言った時に、こんなふうな気持ちになるの?』
『わたしはどうして、人から◯◯と言われた時に、あるいは◯◯をされた時に、こういう反応をしてしまうの?』

決められた動作を順序通りにしている間に、いろんな負の感情を体と心の中から外に出します。
哀しみ、怒り、心配、恨み、過剰な喜び。
それを、鮮明な色をイメージしながら息を吸い、ひとまず特定の内臓の中に閉じ込め、それを特定の音と一緒に外に吐き出します。
その後、体の外側を手のひらで払い、埃を取り払うように、それらの負の感情を払い落とすのです。

そうやって、できるだけ空にした体と心で瞑想をします。

わたしは誰?と自分に聞いた時、胸がコトンと小さく波立ちました。
そして、そのすぐ後に、そうだ、ほんとにわたしは誰なんだろう……と、しみじみと思ったのです。

気功の時間のほとんどは、素足で床に立っています。
膝を軽く曲げ、全体的にリラックスしていますが、丹田の周りにしっかりとした玉を持ち、床についた足裏は地球にどっしりとおろされていて、地中に向かって太い生き生きとした根が伸びており、頭のてっぺんは見えない糸で天から軽く引っ張り上げられています。
まさに、天と地の間に存在している、どちらにもスウッと伸びてしっかりとつながっている生き物という感じです。
体の中にいろんな動きからのエネルギーが流れ込んできたのを、口から吐き出したり、強く飛び跳ねることで体の表面から出したりするのだけれど、
そういうくり返しをしている間に、どんどんと、くよくよ思っていたことや怒り、心配事や哀しみが、色が抜けて、どんどん薄まって、しまいには不透明な霧のようになって消えていくような気がするのです。

そのような状態の時に、「わたしは誰?」と自分に聞いたのでした。
感情が抜けている時に、この言葉を口にすると、こんなにもしーんとした気持ちになるんだなあ……とびっくりしました。

昨日書いた記事の文章が、パアッと甦ってきました。
それと同時に、自分のその時の気持ちや反応を思い出しました。
どうしてなんだろう……と、ひとつひとつを思い出しながら、自分に問いかけてみました。

すると……、

あの子があれでいいのなら、それでいい。
息子があれでいいのなら、それでいい。
いや、それがいい。
まず先に気分を害してしまったわたしは、彼らのいいところを見ようと思えなかったなあ。
きっとそういうわたしは、なんだか意地悪な、いやな雰囲気の空気をまとっていたのだろうなあ。
躾とか常識とかは多分、そういう気持ちでいる人からはなにも学べないのだろうなあ。
まずはそのままを受け入れてくれる人の、言葉ではなく、自然な動作を見ているうちに、時間をかけてだんだんと覚えていくのだろうなあ。

普段からこんなふうに、冷静に、自分のことをしっかりと見つめられている人は、常にしっかりとした軸が自分の中にあることを知っているので、人や周りの事に振り回されたり、感情が揺れ動いたり、どうしたらいいのか迷ったりしないのかもしれないですね。

今日もまた、とても有意義な、いい気功でした。

 
コメント (2)
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