Verse 1 【體道第一】
TRAMSCENDING(道の世界と名のある世界)
The Tao that can be told
is not the universal Tao.
The name that can be named
is not the universal name.
In the infancy of the universe,
there were no names.
Naming fragments the mysteries of life
into ten thousand things and their manifestations.
Yet mysteries and manifestations
spring from the same source:
which is the mystery within manifestation,
the manifestation within mystery,
the naming of the unnamed,
ant the un-naming of the named.
When these interpenetrations
are in full attendance,
we will pass the gates of naming notions
in our journey toward transcendence.
道可道 非常道/名可名 非常名/無名天地之始 有名萬物之母/故常無欲以觀其妙 常有欲以觀其徼/此兩者同出而異名/同謂之玄/玄之又玄 衆妙之門
道(みち)の道(みち)とすべきは、常(つね)の道(みち)にあらず。
名(な)の名(な)とすべきは、常の名(な)にあらず。
無は天地(てんち)の始に名づけ、有は万物(ばんぶつ)の母に名づく。
故(ゆえ)に常(つね)に無はもってその妙を観しめさんと欲(ほっ)し、常(つね)に有はもってその徼(きょう)を観しめさんと欲(ほっ)す。
この両者は同出にして名を異(こと)にす。
同(おな)じくこれを玄(げん)と謂(い)う。
玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
道というのは、これまで言われてきた道ではない。
名も従来の名ではない。
天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。
此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。
どちらも玄妙で、
玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。
↑老子道徳経 ( 道家思想 《老子・荘子》)より、お借りしました。
昨日の朝、4週間ぶりの、気功瞑想のクラスを受けた。
ミリアムに、今、とんでもなく追い込まれてるので、道教の学びをキャンセルして、1時間の瞑想だけを受けさせてほしいと頼んだ。
ちょうど、わたしひとりだけのクラスやったから、わたしの我がままを聞いてくれた。
ミリアムはまず、6日間ボートに乗り、ノルウェーから北に向かった旅行の話をしてくれた。
そのボートは、600人あまりの乗客がいて、寄港するたびに、現地の住民が乗り込んでは降りて行くというようなもので、
だから彼女は、観光客だけではなく、その土地で暮らして生きている人たちとも出会い、話ができたらしい。
北極に一番近い町には、2000人ほどの住民がいて、
その2000人の住民は、自分以外の、どの人のことも知っている、という町で、
夏は始終太陽が上がってて、冬は一日のほんの数時間だけ、うっすらとした明かりが得られるという。
わたしが「ようそんなとこで暮らせるもんやね」と言うとミリアムは、
「わたしも同じことを考えたから、その町の子どもたちに聞いてみたの」
子どもたちは、全然気にならない、と答えた。
なんでそんなことを聞くのか?というふうに、少し首を傾げながら。
「水がね、もうほんとに美しくてね。
まるでハチミツみたいなのや、絹のようなのや。
町の至る所に、いろんな水が姿を見せてくれていて、わたしはその前に立ち尽くして、ただただ眺めてた。
滝の途中に、大きな岩が露出していて、水の一部がそこに当たって弾けて、そしたらどうなると思う?
空気みたいに泡になって見えなくなってしまうのよね。
まうみやわたしの思いも、水のように、自由自在に、すがたかたちを変わるのだなあと、わたしはその水を見ながら考えたの」
ミリアムからの宿題は、最初に載せた、道教の教え81章の第一番目を、一日に何回となく読み、そして3分間瞑想する。
読む時に、言葉の意味を考えたり、辞書で調べたりしない。
ただ読むだけ。
そして静かにゆっくり息をしながら3分という時間を過ごす。
楽譜が届いたのが今週の火曜日。
今から4日前のことやった。
5曲のうち、どないしても多分、自分のものにできる可能性が無いと思われた1曲だけを断って、他の4曲の練習にとりかかった。
若かった頃なら、2日もあったら完成しそうな曲やのに、どないしてもうまく弾けへんまま3日が経ち、今日は歌手のうちのひとりと合わせの練習をする。
他の3人の歌手たちとは、本番前のほんの30分の間に、軽く合わせるだけ。
歌手たちはプロのオペラ歌手で、自分の持ち歌なんやから、伴奏者がその歌手のクセやら表現に合わせたらええやん、という感じ。
う~ん……。
4曲中の3曲が初めて弾く曲、というのがちょっと痛い。
けども、なんとかするっきゃない。
このOpera Theater の専属伴奏者に、ずっとなりたかったのやから。
みたいな、自分で招いたプレッシャーにちょっとつぶされかけてたけど、ミリアムに会えてよかった。
ありがとう、ミリアム。
TRAMSCENDING(道の世界と名のある世界)
The Tao that can be told
is not the universal Tao.
The name that can be named
is not the universal name.
In the infancy of the universe,
there were no names.
Naming fragments the mysteries of life
into ten thousand things and their manifestations.
Yet mysteries and manifestations
spring from the same source:
which is the mystery within manifestation,
the manifestation within mystery,
the naming of the unnamed,
ant the un-naming of the named.
When these interpenetrations
are in full attendance,
we will pass the gates of naming notions
in our journey toward transcendence.
道可道 非常道/名可名 非常名/無名天地之始 有名萬物之母/故常無欲以觀其妙 常有欲以觀其徼/此兩者同出而異名/同謂之玄/玄之又玄 衆妙之門
道(みち)の道(みち)とすべきは、常(つね)の道(みち)にあらず。
名(な)の名(な)とすべきは、常の名(な)にあらず。
無は天地(てんち)の始に名づけ、有は万物(ばんぶつ)の母に名づく。
故(ゆえ)に常(つね)に無はもってその妙を観しめさんと欲(ほっ)し、常(つね)に有はもってその徼(きょう)を観しめさんと欲(ほっ)す。
この両者は同出にして名を異(こと)にす。
同(おな)じくこれを玄(げん)と謂(い)う。
玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
道というのは、これまで言われてきた道ではない。
名も従来の名ではない。
天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。
此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。
どちらも玄妙で、
玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。
↑老子道徳経 ( 道家思想 《老子・荘子》)より、お借りしました。
昨日の朝、4週間ぶりの、気功瞑想のクラスを受けた。
ミリアムに、今、とんでもなく追い込まれてるので、道教の学びをキャンセルして、1時間の瞑想だけを受けさせてほしいと頼んだ。
ちょうど、わたしひとりだけのクラスやったから、わたしの我がままを聞いてくれた。
ミリアムはまず、6日間ボートに乗り、ノルウェーから北に向かった旅行の話をしてくれた。
そのボートは、600人あまりの乗客がいて、寄港するたびに、現地の住民が乗り込んでは降りて行くというようなもので、
だから彼女は、観光客だけではなく、その土地で暮らして生きている人たちとも出会い、話ができたらしい。
北極に一番近い町には、2000人ほどの住民がいて、
その2000人の住民は、自分以外の、どの人のことも知っている、という町で、
夏は始終太陽が上がってて、冬は一日のほんの数時間だけ、うっすらとした明かりが得られるという。
わたしが「ようそんなとこで暮らせるもんやね」と言うとミリアムは、
「わたしも同じことを考えたから、その町の子どもたちに聞いてみたの」
子どもたちは、全然気にならない、と答えた。
なんでそんなことを聞くのか?というふうに、少し首を傾げながら。
「水がね、もうほんとに美しくてね。
まるでハチミツみたいなのや、絹のようなのや。
町の至る所に、いろんな水が姿を見せてくれていて、わたしはその前に立ち尽くして、ただただ眺めてた。
滝の途中に、大きな岩が露出していて、水の一部がそこに当たって弾けて、そしたらどうなると思う?
空気みたいに泡になって見えなくなってしまうのよね。
まうみやわたしの思いも、水のように、自由自在に、すがたかたちを変わるのだなあと、わたしはその水を見ながら考えたの」
ミリアムからの宿題は、最初に載せた、道教の教え81章の第一番目を、一日に何回となく読み、そして3分間瞑想する。
読む時に、言葉の意味を考えたり、辞書で調べたりしない。
ただ読むだけ。
そして静かにゆっくり息をしながら3分という時間を過ごす。
楽譜が届いたのが今週の火曜日。
今から4日前のことやった。
5曲のうち、どないしても多分、自分のものにできる可能性が無いと思われた1曲だけを断って、他の4曲の練習にとりかかった。
若かった頃なら、2日もあったら完成しそうな曲やのに、どないしてもうまく弾けへんまま3日が経ち、今日は歌手のうちのひとりと合わせの練習をする。
他の3人の歌手たちとは、本番前のほんの30分の間に、軽く合わせるだけ。
歌手たちはプロのオペラ歌手で、自分の持ち歌なんやから、伴奏者がその歌手のクセやら表現に合わせたらええやん、という感じ。
う~ん……。
4曲中の3曲が初めて弾く曲、というのがちょっと痛い。
けども、なんとかするっきゃない。
このOpera Theater の専属伴奏者に、ずっとなりたかったのやから。
みたいな、自分で招いたプレッシャーにちょっとつぶされかけてたけど、ミリアムに会えてよかった。
ありがとう、ミリアム。