ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

憲法をいじる⇒民族と国家防衛のためと称して『緊急令』を発布しまくる⇒反自民党的な行動を禁止する!

2013年07月31日 | 日本とわたし
ブログ『塩はうまくてまずいです』に、ワイマール憲法のことについて、とても詳しく、分かり易くまとめてくださった記事が掲載されていました。

ワイマール憲法というのは、世界史のクラスで習った覚えがあるぐらいで、それもテストのために覚えたぐらいで、その中身も、意義も、まるで記憶にありませんでした。
なんとも情けないけれども、今回の、麻生副総理の発言のおかげ?で、しっかり学ぶことができました。

このhosokawaさんがまとめてくださった『ワイマール憲法』の黄昏を、二度三度と読み返しながら、麻生副総裁の発言と、それを伝える新聞などの記事を読み比べているうちに、
なんともいえない、いやな胸騒ぎがしてきました。

「ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。
ヒトラーはいかにも、軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。
ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。
常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ」

ヒトラーが、民主主義によって、きちんとした議会で、多数を握って台頭した。
選挙で選ばれたんだから。
国民がヒトラーを選んだんです。
それも、ワイマール憲法という、当時ヨーロッパで最も進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。
常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ」

彼の発言の、ドイツを日本、ヒトラーを安倍、ワイマール憲法を日本憲法に置き換えて読んでみました。
そうすると、彼の言わんとしていることがよくわかります。
全くもって、彼の言う通りです。
常に、憲法はよくても、最も進んだ憲法下にあっても、ヒトラーのような者が頂点に立つというような事が起こり得る。
今の日本のように。

ただ、彼は歴史を全く学んでいないし、理解もしていません。
選挙=民主主義というトリックを使い、きちんとした議会でもないのにそういうイメージを植えつけ、
策略や陰謀にまみれた選挙前の逮捕劇や冤罪の押しつけを無かったことにし、ただただ、国民が選んだんだとくり返しています。

報道体制が当時どうだったのか、そういうことも、もちろん知らないままの発言だと思います。

総理も副総理も、まあ多分他の大臣たちも、軒並みこの程度の知識しか持ち合わせていないのでしょうけれども、
それであちこち回って、言いたい放題というのは、かなり問題があるのではないかと思います。

 
↓以下、転載はじめ

ワイマールの黄昏 その1~6

なんか今回も、かなりマニアックなネタになりそうです。
相変わらず 「うそとかほんととかを適当に」。

もともと 「ドイツ帝国」 にも議会はありましたし、政党もありました。
第1次世界大戦の末期。
戦局がヤバくなって、敗戦確実になったドイツは、
「社会民主党(SPD)」 が中心となって、皇帝を追放。
皇帝の代わりに、選挙で選ぶ 「大統領」 を設置して、「新憲法」 を制定。
この新憲法は 、「ワイマール」 という都市で作られたので、以後ドイツ帝国は 、「ワイマール共和国」 と呼ばれるようになります。

当時、「ワイマール共和国」 は、世界で最も民主的な憲法を持った国……と言われましたが、弱点も多く存在していました。

その1つが、選挙制度が、 「比例代表」 だったコト。
この制度だと、小政党が乱立する状態となり、1つの党が単独で、過半数を取るのは不可能。
複数の政党で連立を組むしか手はないので、どうしても、政権の基盤が弱くなります。

さて、これらの豆知識を踏まえた上で、1924年12月に行われた 、「第3回」 の選挙結果を見てみますと、


↑上のグラフは議席占有率

↓下の数字は獲得議席数。
社会民主党     131
カトリック中央党  69
ドイツ民主党    32
国家人民党     103
ドイツ人民党    51
バイエルン人民党  19
共産党       45
ナチス       14
その他       29


「ワイマール共和国」では、全部で、8回の選挙が行われています。

第3回の選挙が行われた1924年は、敗戦後の混乱期が、ようやく治まった頃。
それまでのドイツは、天文学的な賠償金を約束させられるわ、
賠償金の支払いが遅れたコトを理由に、フランスにルール工業地帯を占領されるわ、
そのせいで、ハイパーインフレに見舞われるわ、
極右勢力が反乱を企てるわ、
と、なかなかタイヘンな時期でした。

常に 「第1党」 の地位を占めていたのが、 「社会民主党(SPD)」。
そもそも 、「ワイマール共和国」 を作ったのが、この政党。
当然、この政党の目的は、 「共和国」 と 「民主主義」 を守るコト。
ま、日本の社民党と違って(?)、マトモな中道政党です。

この 「社会民主党(SPD)」 の弱点は、ヘタレだったことでしょう。
とうぜん 「第1党」 なので、その責任は大きいハズなのですが、ちょっとした困難にぶつかると、すぐに政権を投げ出してしまいます。
まるで 「福田内閣」 みたいな感じ。

「カトリック中央党」 も、民主主義を大事にする、中道政党。
ここには人材が揃っておりまして、すぐに政権を投げ出すヘタレの 「社会民主党」 に代わって、政権を担当するコトが多い政党でした。
こういう政党には、ガンバって欲しいものです。

「ドイツ民主党」 も、共和国を支持する中道政党です。

「社会民主党(SPD)」 「カトリック中央党」 「ドイツ民主党」。
この、マトモな3党が連立して、与党となり、政権を担当するのが黄金パターン。
この連立政権は、 「ワイマール連合」 と呼ばれました。

「○○人民党」 というネーミングの党は、右翼政党と考えて良いです。
このうち 、「ドイツ人民党」 と 「バイエルン人民党」 は、大資本家を代表する保守政党。
それでも 、「民主主義」 と 「共和国」 を守ろうとする気持ちはありましたので、彼らもマトモな政党といえるでしょう。

------ ↑ここまでがマトモな政党 ---------------------------------------

「国家人民党」 は極右政党で、その目的は、 「ワイマール共和国」 の破壊です。
彼らは、右翼による独裁政治を目指しており、ナチスが台頭するまでは、彼らがそのポジションにいました。
意外にも、この政党は人気があり、第3回の選挙でも、堂々の 「第2党」 になっています。

「共産党」 は極左政党。
その目的は同じく、 「ワイマール共和国」 の破壊。
ここが政権を取ってしまうと、ソビエトと同じ悲劇が待っています。

そして 「ナチス」 。
これについては、言うコトもないでしょう。
「国家人民党」 より過激な、極右政党です。


第3回の選挙の結果。
「ワイマール連合」 が、過半数に近い議席を獲得したものの、第1党である 「社会民主党」 が、連立政権への参加を拒否して野党へ下ったため、
「カトリック中央党」 「ドイツ民主党」 「ドイツ人民党」 「バイエルン人民党」の4党を中心とした、連立政権が誕生します。

やっぱり 、「社会民主党」 はズルいですね。
「社会民主党」 を中心とした連立政権を作るのが、最も安定するのに……。

「自分たちがワイマール共和国を作ったのだ」 と自負するならば、政権に参加するべきでした。
それでもこれ以後、ドイツは好景気になるので、国民生活は安定し、「共和国の守護者」 である立場の 「社会民主党」 の支持率は、上昇します。

そして、好景気が続く中、4年後の1928年に、 「第4回」 の選挙が行われました。



社会民主党     153
カトリック中央党  62
ドイツ民主党    25
国家人民党     73
ドイツ人民党    45
バイエルン人民党  16
共産党       54
ナチス       12
その他       51



当時のドイツは好景気で、外交状況も良好でした。
こういうときは、穏健な、「現状維持派」の政党が有利。

この選挙では、最も無難な 「穏健左派」 のグループ、「社会民主党」 が躍進。
議席占有率は32%にまで伸び、堂々の 「第1党」 となります。
同じく穏健派の 「カトリック中央党」 と 「ドイツ民主党」 は、少し議席数を減らしたものの、この穏健3党(ワイマール連合) で、過半数の議席を獲得。
これに、保守政党である 「ドイツ人民党」 と 「バイエルン人民党」 も、政権に参加したため、5党による連立与党の議席数は、約60%となり、
初めて安定した 「本格内閣」 を、スタートさせるコトができたのでした。

一方、極右政党は惨敗。
「国家人民党」 は3分の1の議席を失って、73議席に転落。(それでも第2党)
「ナチス」 も議席を減らして、12議席。
経済が好調で、国民生活が安定している時期は、彼らはお呼びじゃないようです。

ところが、不気味なのが 「共産党」。
共産党は、 「第1回」 の選挙以来、着実に議席を伸ばしておりまして、今回も54議席を獲得。
ドイツ人民党を抜いて「第4党」 に浮上していました。

共和国の打倒を目指す 「極右」 と 「極左」 の勢力は、全議席の30%。
穏健派がしっかりと連立を組めば、十分に押さえ込める勢力です。

さて、「第4回」 の選挙の結果、
第1党である 「社会民主党」 のミュラーを首相とする、 「ミュラー内閣」 が誕生。
5党による大連立のおかげで、安定した議会運営を続けていました。

しかし、1929年、世界恐慌が発生して、ドイツを直撃。
ドイツは、失業者で溢れかえる状態になってしまいます。

この事態で、「失業保険」 に関する政策が急務となり、
与党の一員である 「カトリック中央党」 が、問題解決のための 「政府案」 を提示。
この案に、ドイツ民主党・ドイツ人民党・バイエルン人民党は賛成したのですが、
肝心の 「社会民主党」 が、細かい数字にこだわって、拒否してしまいます。
これが原因となって、連立与党は分裂。
ついに 、「ミュラー内閣」 は総辞職し、「社会民主党」 は野党へ下ってしまったのでした。

また 、「社会民主党」 の悪いクセが出たワケですが、この無責任な態度は、もはや犯罪的と言っていいでしょう。
選挙によって 「第1党」 となった政党が、するコトじゃありません。
このとき 「社会民主党」 が、ツラくても与党に留まってガンバっていれば、もしかしたら、ナチスの台頭はなかったかもしれません。
「イヤになったから、辞ーめた~♪」
こんな態度は許されるハズがないんですよ。
福田首相っ。(まうみ注・この記事は、2008年の9月に書かれたものです)

第1党の 「社会民主党」 が、自ら政権を放棄してしまったので、
「カトリック中央党」 「ドイツ民主党」 「ドイツ人民党」 「バイエルン人民党」の4党で、連立を組むしかないのですが、
これだと議席率はわずか26%、とても議会運営はできません。
極右勢力の 「国家人民党」 と 「ナチス」 が連立したとしても、19%。
極左の 「共産党」 は12%。
これでは誰も、政権に就くコトができません。
非常事態です。

それでも安心。
こんなときのために、 「ワイマール憲法」 には、「大統領緊急権」 というのがありました。
「もしドイツに非常事態が起こったら、大統領が、好きな人を首相にしてよい」
もはやこの、 「緊急権」 を発動しなければ、どうしようもない状態。

当時の大統領は 「ヒンデンブルグ」。
彼は、第1次大戦のときの将軍で、英雄です。
で、ヒンデンブルグ大統領には、 「シュライヒャー」 という側近がおりまして、事実上、大統領は、彼の言いなりでした。

ヒンデンブルグは、 「カトリック中央党」 の 「ブリューニング」 に、組閣を命じます。
しかし 、「ブリューニング内閣」 は少数与党。
多数政党の 「社会民主党」 「国家人民党」 「共産党」 の3党を敵に回すのは、キツすぎ。
政府が提出する法案は、ことごとく否決されてしまいます。
ま、現在の 、「ねじれ参議院」 みたいな感じでしょうか。
ついにキレたブリューニングは、議会を解散。
「少しでも与党の人数を増やさなければ、どうしようもない……」

こうして1930年、「第5回」 の選挙が行われるのですが、それはブリューニングの思惑を外れて、驚愕の結果となったのでした。

個人的に 、「第3帝国」 よりも 、「ワイマール共和国」 の方が好きな話だったりします。
ちょうど、銀英伝で 「帝国」 より 「同盟」 の方がオモロイ……って感じでしょうか。(?)

後世の歴史家は言います。
「1930年9月。本当にブリューニングは、議会を解散するしか手段はなかったのか?
社会民主党と妥協して、議会解散を避けるコトはできなかったのか?」

でもこれは、結果論でしょう。
後世の人は、この選挙結果がどれだけ重大なものだったのか知っています。

「ここで議会を解散しなければ、世界は救われたかもしれない……」

思わず、こう思ってしまう気持ちも解かります。
しかし……、
当時のブリューニング首相が、「解散して与党の議席を増やす!」
こう考えるのも当たり前の話。
私は、ブリューニングを責めるのは間違ってる、と思います。
選挙結果なんて、フタを開けてみないと解かりません。

それより悪いのは、やっぱり 「社会民主党」 でしょう。
この党が、せめて閣外協力でもいいから、ブリューニングに協力していれば、ブリューニングは 「解散」 を考えなかったハズですので、
間違いなく、歴史は変わっていたと思います。

1930年9月、「第5回」 の選挙の結果。



社会民主党     143
カトリック中央党  68
ドイツ民主党    20
国家人民党     41
ドイツ人民党    30
バイエルン人民党  19
共産党       77
ナチス       107
その他       72


何と言っても、この選挙の最大のポイントは、 「ナチス」 の大躍進。
12議席 → 107議席 へと、大量に議席を増やし、いきなり 「第2党」 へと成長。
そりゃあ、不況で国民が苦しんでいるときに、
「賠償金なんて踏み倒してやるぜーっ」なんて主張をされたら、私だって支持しますよ。

一方、これまで 「極右政党」 の代表格だった 「国家人民党」 は、41議席に激減。
かつては100議席を持っていたコトから考えると、これはもう、壊滅的な敗北でした。
より過激な 「ナチス」 に、票が流れてしまったのでしょう。

またもや、 「共産党」 は議席増。
選挙の度に議席を増やして、ついに 「第3党」 にまで浮上。
相変わらず、不気味な政党です。

ブリューニングが率いる 「カトリック中央党」 は、やや議席を伸ばしたものの、
期待しただけの結果を得るコトができず、「共産党」 にも抜かれてしまいます。
選挙結果を見たブリューニングは、後悔したでしょうけど、時すでに遅し。

「社会民主党」 は、10議席減らして143議席。
第1党の地位を守りました。
これは、なかなかの健闘でしょう。

「ドイツ民主党」 は、内部混乱も起こって、さらに議席を減らしています。

そして、保守政党の 「ドイツ人民党」 と 「バイエルン人民党」 は、どんどん影が薄くなっていました。

この結果は 、「共和国」 の危機。
ここまで 「極右」 と 「極左」 が台頭してくると、「穏健派」 は仲間割れしている場合じゃありません。
なんせ、ヤツらの目的は 「共和国の打倒」 なのです。

「社会民主党」 はブ、リューニングに協力して、ナチスに対抗しようとします。
ブリューニングも、 「大統領緊急令」 を使いまくって、とにかく、法案をムリヤリ通していきます。
ブリューニングは、大統領に指名された首相ですので、大統領の名前を使って、 「緊急令」 を発令できました。
「緊急令」 を使えば、議会で否決されても、無視するコトが可能。

この強引な手法を、非難する人は多いです。
ブリューニングのせいで、 「共和国」 は死んだ、と評価する人もいます。
でも、この評価は正しくないでしょう。
とにかく、相手は 「無法集団」(ナチス)。
どんな手を使ってでも、悪は討たなければならんのです。
ブリューニングは、 「ナチス」 との戦いに、全力を尽くしていました。
これは評価すべきです。

しかし 、「ヒンデンブルグ大統領」 と側近の 「シュライヒャー」 は、ブリューニングに見切りをつけ始めていました。

「社会民主党」 が大キライなヒンデンブルグは、ブリューニングと 「社会民主党」 が接近するのを好まなかったし、
策謀家の 「シュライヒャー」 は、ナチスと接近しようとしていました。

こうして1932年5月。
ブリューニング首相は、大統領によって、罷免されてしまったのでした。

うーん……マニアックな話ですけど、イミ解かりますかね。(解からん)

どんなに民主的な制度を持っていても、それを使う人が理解してないと、あまりイミがない。
……っていうお話。

ブリューニング首相が、大統領によって罷免されると、いよいよ 、「ワイマール共和国」 は最終局面に入ります。

シュライヒャーが、ブリューニングの次に首相に選んだのは、「パーペン」 という男爵でした。
彼は、全く無名の人物。
国会議員ですらありません。
シュライヒャーは、この無能な男を、自分の 「操り人形」 にしようとします。

新聞を読んだ人々は、みんな思いました。
「え? パーペンって誰?」
ちょうど、 「海部内閣」 が誕生したときみたいな感じでしょうか。
そして、シュライヒャー自身は、 「国防相」 として入閣。
パーペン内閣の、真の実力者として、君臨したのでした。

パーペンは国会議員じゃありませんので、議会に対する影響力を、全く持っていません。
でも、「大統領緊急令」 を使えば、ムリヤリ法案を通せます。
「別に、議会なんてどうでもいいや」

はっきり言って「パーペン」は、無能な男でした。
いくら 「大統領緊急令」 を連発しても、議会の支持を得なければ、いつかは破綻します。
その事に、全く気づいていませんでした。
シュライヒャーは、その点は理解していたようで、彼は密かに、第2党の 「ナチス」 に、協力を求めます。

ナチスは 、「パーペン内閣」 を支持するコトを約束する代わりに、ただちに議会を解散するように要求。
シュライヒャーはこの要求を飲み、パーペンに議会を解散させます。
(うーん……誰が首相なんだか。)
こうして1932年7月、「第6回」 の選挙が行われました。



社会民主党     133
カトリック中央党  75
ドイツ民主党    4
国家人民党     37
ドイツ人民党    7
バイエルン人民党  22
共産党       89
ナチス       230
その他       11

ナチスの勢いは止まらず、この選挙で議席を倍以上に伸ばして、230議席。
圧倒的な 「第1党」 へと浮上。
ゲーリングが議長に選出されます。
も……もうだめぽ。 (´Д⊂

「国家人民党」は、さらに議席を減らして37議席。
極右政党としての立場は、完全に、「ナチス」に奪われました。

「共産党」は、またもや議席を増加して89議席。
もはや、この存在は脅威。

けっきょく 「第6回」 の選挙でも、 「極右」 と 「極左」 が躍進。
一方の 「穏健派」 は、壊滅的ダメージでした。

「社会民主党」 は、今回も、10議席減らして133議席。
とうとう、屈辱の 「第2党」 へと転落し、
「カトリック中央党」 は、少し議席を増やしたものの、
「ドイツ民主党」 は、大敗北を受けて、わずか4議席。

「社会民主党」 「カトリック中央党」 「ドイツ民主党」 の、穏健3党。
かつて、共和国を支えた 「ワイマール連合」 の議席占有率は、わずか35%。
3党を合計しても、 「ナチス」 に負ける……。
まさに絶望的な状況です。

ちなみに、保守政党の 「ドイツ人民党」 「バイエルン人民党」 の存在感は、もうほとんどありませんでした。

パーペン首相は、選挙結果にあまり興味がなかったみたい。
議会が始まると、普通に、 「所信表明演説」 を行おうとするのですが、
その直前に、共産党が 、「内閣不信任案」 を提出。
議長のゲーリングは、パーペン首相の所信表明演説を許さず、ただちに、 「内閣不信任案」 の採択を行います。

その結果、「512 対 42」 の圧倒的多数で可決。
激怒したパーペン首相は、議会を解散。
こうして 、「所信表明演説」 すら行われないまま、同年の11月、「第7回」 の選挙が行われたのでした。

所信表明演説をしようと思ったら、その前に「内閣不信任」を決議された……。
カッコ悪い……カッコ悪すぎ。
パーペン首相は、すぐに議会を解散。
選挙が終わったばかりなのに、またすぐ選挙になったのでした。

1932年11月。「第7回」 の選挙の結果↓



社会民主党     121
カトリック中央党  70
ドイツ民主党    2
国家人民党     52
ドイツ人民党    11
バイエルン人民党  20
共産党       100
ナチス       196
その他       12


ナチスは、 「第1党」 の地位は確保したものの、34議席減らして196議席。
これは、ナチスにとって、衝撃的な結果だったようです。
もともと 、「ナチス人気なんて、ブームに過ぎない」 と言われてましたので、この結果を見て、人々は思いました。
「ナチスの人気は頂点を過ぎて、ようやく下降線に入ったのだろう」

一方、「共産党」 は、今回も議席を伸ばして100議席。
いよいよ100の大台に乗せます。
このままいけば共産党が、 「第1党」 になるのは確実でした。

相変わらず、パーペンは、議会を全く制御できません。
パーペン首相は 、「極右」 からも 「極左」 からも 「穏健派」 からも嫌われ、彼に味方しようとする政党はありませんでした。
本来なら 、「ナチス」 が味方してくれる約束だったのですが、あっさりと裏切られてました。

そこで、パーペンは、とんでもない計画を、実行に移そうとします。

「国防軍を使って、議会を停止してしまおう」

これは完全にクーデター。
自分が独裁者になろうとする計画です。
しかし……シュライヒャーは、この計画が無謀だと解かっていました。

「だめだコイツ……早くなんとかしないと」

国防相のシュライヒャーは、パーペンの 「クーデター計画」 に反対。
パーペンの計画を潰した上で、大統領に 、「パーペン首相の罷免」 を進言します。

この頃すでに、ヒンデンブルグは、シュライヒャーよりパーペンの方が気に入っていたので、
パーペンの罷免には反対だったのですが、シュライヒャーはしつこく食い下がります。

「パーペンは、議会を無視しすぎます。私ならば、ナチスの半分を、味方にするコトができます」
「そうか……ならばお前がやれ」
「え?」
「お前を首相に任命する。シュライヒャー」

自分は正面に出ずに、傀儡を操る方法が好きだったシュライヒャー。
しかし、いよいよ、黒幕自身が、国政の責任を負うコトになったのでした。

こうして、 「シュライヒャー内閣」 が誕生。
シュライヒャーが狙っていたのは、ただ1つ。
「シュトラッサー派」 の引き抜きでした。

シュトラッサーという人は、ナチスの 「ナンバー2」。
党内左派の理論的な指導者で、ナチスの中に、自分の派閥を率いており、その数は、 「ナチス党議員」 の約半分と言われていました。
シュライヒャーはこの 「シュトラッサー派」 を、ごっそり引き抜こうとしたのでした。
小沢や野中が得意とした手です。

シュトラッサーはナチスの半分を率いて、「シュライヒャー内閣」 に協力する手はずでした。
しかし……彼らは、大きな誤解をしていました。
もはやナチスは、 「ヒトラー」 に完全に掌握されており、「シュトラッサーについて行こう」なんて議員はダレもいません。
シュトラッサーは、党内で完全に孤立し、やがて除名されます。
かつて小沢が、 「渡辺ミッチー派」 を引き抜こうとして失敗した逸話を思い出しますね。(笑)

この 「シュライヒャー首相」 の行動に、ヒトラーは激怒。
一方、シュライヒャーによって首相の座を追われた 「パーペン」 も、怒っていました。

「ヒトラー」 は、議会に影響力を持っているし、大衆の人気も高いけど、大統領に嫌われている。
「パーペン」 は、議会に影響力がないし、人気もないけれど、大統領には気に入られている。
ここに、両者の利害が一致します。

パーペンは、ヒンデンブルグ大統領に進言します。
「シュライヒャーはダメです。罷免しましょう」
「じゃあ。またお前がやるか?」
「いえ。ヒトラーにやらせましょう」
「ヒトラー……あいつはダメだろう」

大統領は、とにかくヒトラーが嫌いでした。
こいつだけは首相にしたくない。って感じ。
でも、パーペンは、大統領を説得します。

「大丈夫です。私がちゃんと、ヒトラーを制御しますから」

パーペンの度重なる説得によって、ついに大統領は、ヒトラーを首相に指名します。
大統領は、シュライヒャーに言いました。

「君の尽力には感謝する。とにかく、彼らのお手並みを拝見しようじゃないか」

1933年1月30日mヒンデンブルグ大統領は、ヒトラーを首相に指名。
運命の 、「ヒトラー内閣」 が誕生するワケですが、ここからの展開は早いです。
とにかく、民主国家より独裁国家の方が、スピーディーなのですよ。

ヒトラー内閣の閣僚を見ても、そのほとんどは 、「パーペン内閣」 のときのメンバーで、ナチスの閣僚は、首相と内相と無任所の、わずか3名。
ヒトラー内閣誕生の最大の功労者 「パーペン」 は、副首相になっていましたし、「国家人民党」 との連立内閣でした。
この時点では、ナチスの脅威はハッキリしていません。
しかし、ナチスは 、「内相」 のポストをちゃっかりと握っていました。
内相は、警察権を持っています。
これは痛恨でした……。

組閣したヒトラーは、ただちに議会を解散して、「第8回」 の選挙を公示します。
選挙日は3月5日。
この直前の2月27日、「国会議事堂放火事件」 が発生。
事件現場にいた共産党員が、犯人として逮捕されます。
そして翌28日。
「民族と国家防衛のための緊急令」 
「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための緊急特別令」

この2つの 「大統領緊急令」 が発布されます。

これによって国民は、 「反ナチス的」 な行動を禁止されました。

さらに3月3日、共産党幹部が一斉検挙。
こうした雰囲気の中で、3月5日、「第8回」 選挙が行われます。



社会民主党     120
カトリック中央党  74
ドイツ民主党    5
国家人民党     52
ドイツ人民党    2
バイエルン人民党  18
共産党       81
ナチス       288
その他       7

これだけ有利な状況でありながら、ナチスは単独過半数を取れませんでした。
これは 、「比例代表」 というシステムのせい。
比例代表制では、どんなにガンバっても、小政党が乱立するのです。
もしこれが 、「小選挙区制」 だったら、100%に近い議席を取ってたハズ。

逆に、あれだけの弾圧を受けながらも、「共産党」 は81議席を確保。
これも、 「比例代表」 のおかげ。
「社会民主党」 「カトリック中央党」 も、依然として、無視できない勢力でした。

単独過半数を取れなかったヒトラーは、それなりにショックを受けたようですが、
あまり選挙結果を気にしていなかったと思われます。
「よろしい。ならば実力行使だ」

まず狙われたのが 「共産党」。
3月8日、共産党議員は議席を剥奪されて、共産党は非合法化されます。
そして 、「社会民主党」 の議員26人も逮捕。
さらに、諸派議員5人も検挙され、議会への登院を禁止されました。

そして3月23日。
「民族および国家の危難を除去するための法律」
いわゆる、 「全権委任法」 の法案が、議会に提出
されます。

「全権委任法」 の内容はムチャクチャ。
ワイマール共和国で 、「法律」 を公布・施行するには、「議会」 で可決するか、「大統領」 が緊急令を出すか、
どちらかのチェックを受ける必要があります。
でも 、「全権委任法」 があると、首相が 、「法律」 を官報に載せただけで公布となり、公布翌日から施行されます。
しかもその法律は 、「ワイマール憲法」 に違反しててもOK
これでは 、「議会」 も 「大統領」 も、存在意義がありません。

全権委任法の採決では、
「ナチス」 と 「国家人民党」 は、もちろん賛成。
「ドイツ民主党」 「ドイツ人民党」 「バイエルン人民党」 「その他諸派」 も賛成。
「社会民主党」 は反対。
カギになったのは 「カトリック中央党」 でしたが、ヒトラーに 「悪いようにはしない」 と説得され、賛成票を投じます。
これによって、賛成441・反対94 の大差で可決。

別に 、「ワイマール憲法」 が廃止されたワケではありませんでしたが、こんな法律が可決した時点で、憲法は廃止されたも同然。
こうして、 「ワイマール共和国」 は崩壊しました。

この後すぐに 、「国家人民党」 はナチスに吸収され、6月22日には 、「社会民主党」 も禁止。
非合法化されます。
これを見た 「小数政党」 たちも、相次いで自主解党。
そして、最後まで残った 「カトリック中央党」 も、7月5日に自主解散し、ドイツから、 「ナチス」 以外の政党は、全て消えたのでした。

なぜ、ワイマール共和国が崩壊したのか?

・ 「社会民主党」 がフヌケすぎた。
・ 「シュライヒャー」 と 「パーペン」 が、マヌケな喧嘩をした。
・ 便利な 「大統領緊急令」 を使いすぎた。

とか、いろいろあるとは思いますけど、

・ 選挙制度が 「比例代表」 だったので、政党が乱立して収拾がつかなくなった。

何気に、これが大きかったと思います。
やっぱり、 「与党」 には、ある程度の力を持ってもらわないと……。
野党の反対で、法案が何一つ通らない状況では、議会に対する信頼を失ってしまいます。

ちょうど今の 「ねじれ国会」 も似たような感じ。
でも小沢の選挙公約の耳障りが良すぎて、逆に心配なのですよ。

↑以上、転載おわり
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「誰も気づかんうちにワイマール憲法がナチス憲法に変わってた。あの手口学んだらどうかね」麻生副総理

2013年07月31日 | 日本とわたし
この件について調べてるうちに、ワイマール憲法というものを、今一度、学び直すことができた。
大変参考になった記事を、この記事の後に、ここに転載させていただくことにする。

いずれにしても、この、麻生氏の発言の内容は、とんでもないものであり、
もっと正直に言わせてもらうと、小学生でも、もうちょっとわかりやすい文章の組み立てができるでと思えるような、文脈の貧しさであることは確か。
歪曲してんのか、もともと知らんと言うてるのか、こんな歴史上重要な物事を、デタラメに話すような人間が寄り集まって、
べちゃべちゃべちゃべちゃ、喧々諤々やり合うて、それがなんで極めて静かに対応したっちゅうことになるのか意味不明やけど、
そんな程度の低い認識と知恵の持ち主が、30人、40人と寄り集まって、あの、史上最低の憲法改悪案が生まれたわけやね。
これを、時間の無駄と言うんちゃうやろか。
まあ、あの連中は、そうやって無駄に過ごそうがどうしようが、たんまりと報酬をもらえるわけやから、どっちゃでもええのやろけど、
ええ迷惑を被るのは国民の方であって、せやのにそんな連中を養うてやらなあかんこの矛盾……。

もう、税金の無駄払いになるような人間は、とっとと辞めさせような。
憲法に、主権者であるわたしらは、そういうことができるって、書いてあったんちゃうかったっけ。
あ、国会議員は無理やったね。
辞職に追い込むしかないのかな。


「ナチスの手口に学べ」麻生発言の恐ろしさ
【ゲンダイネット】2013年7月31日

「ナチスの手法に学べ」――。

麻生副総理の発言が、波紋を広げている。
29日、都内の講演会で、憲法改正について語り、
ワイマール憲法も、いつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。
(国民が)騒がないで、納得して変わっている。喧騒の中で決めないで欲しい
」と言った。

ナチスを参考にしろとは、“舌禍男”の麻生らしい言葉だが、単なる失言で片付けるわけにはいかない。

ワイマール憲法は1919年、第1次大戦に敗れたドイツで成立。
主権在民や男女平等の自由選挙などをうたった、進歩的な内容だった。

この憲法を骨抜きにしたのが、ヒトラー率いるナチスだ。
33年、ヒトラー政権が樹立し、「全権委任法」を可決させた。
この法律は、内閣が自由に立法権を行使できるというもので、
以後、ナチスは、他国への侵攻やユダヤ人虐殺などに暴走し、ワイマール憲法は、事実上消滅した


麻生の発言は、同じ手法で日本国憲法を改定すればいい、という意味に解釈できる。

「当時のドイツといまの日本は、酷似しています」と言うのは、政治評論家の本澤二郎氏だ。

「ドイツ人は敗戦で、多額の賠償金を取られ、経済が停滞して、意気消沈していました。
そこに、強い国家を標榜するヒトラーが登場。
国民の圧倒的な人気を得て、政権を掌握し、ナチスの前に立ち向かったのは、共産党だけという状況でした。
現在の日本も同じ。
長いデフレ不況で気分がふさいでいた国民は、詐欺的なアベノミクスに引き付けられ、参院選で自民党を大勝させた。
安倍政権を真っ向から批判するのが、共産党くらいという点も似ています」

行き着く先は、「96条改定→平和憲法破棄」なのだが、いまの日本人は、その危うさを理解しているのだろうか

社会学者で作家の、岳真也氏が言う。

「長引く不景気の中で、日本人はアベノミクスに一筋の光を見いだし、何も考えずに心酔している。
批判精神も希薄になっています。
これは、為政者にとって、すごく好都合な状況。
大衆は、安倍政権の操り人形みたいなものです」

これぞ、安倍―麻生の正体なのだ。



そしてこれが、えちごやさんが教えてくれはった、麻生副総理の、憲法改正めぐる発言の詳細。

麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細

麻生太郎副総理が29日、東京都内でのシンポジウムで、ナチス政権を引き合いにした発言は次の通り。

僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、
ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。
ヒトラーは、いかにも軍事力で、(政権を)とったように思われる。
全然違いますよ。

ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。
ドイツ国民は、ヒトラーを選んだんですよ。
間違わないでください。

そして彼は、ワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。

常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。

ここは、よくよく頭に入れておかないといけないところであって、
私どもは、憲法はきちんと改正すべきだと、ずっと言い続けていますが、
その上で、どう運営していくかは、かかって、皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、
そうしたものが、最終的に決めていく。

私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、
それなりに、予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。

一番足りないのは50代、60代。
ここに一番多いけど。
ここが一番問題なんです。
私らから言ったら、なんとなくいい思いをした世代、バブルの時代でいい思いをした世代が。

ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて、一つもしていないですから。
記憶あるときから就職難。
記憶のあるときから不況ですよ。

この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。
50代、60代、一番頼りないと思う。

しゃべっていて、おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。
しかし、そうじゃない。

しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度、考えてください

どこが問題なのか。
きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。
べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。
そういった思いが、我々にある。
そのときに、喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。
30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。
自民党の部会で、怒鳴りあいもなく。

『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。

偉い人が『ちょっと待て』と。
『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の、若い、当選2回ぐらいの若い国会議員に、
『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。
何回か参加して、そう思いました。

ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、
私どもは、狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。
騒ぎにするのがおかしいんだって。
静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。
静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。
いろんな日がある。
大祭の日だってある。
8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。
日露戦争に勝った日でも行けって。
と言ったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は、日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。
それが、初めて、靖国神社に参拝した記憶です。
それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。

昔は、静かに行っておられました。
各総理も行っておられた。
いつから騒ぎにした。
マスコミですよ。
いつのときからか、騒ぎになった。
騒がれたら、中国も騒がざるをえない。
韓国も騒ぎますよ。

だから、静かにやろうやと。
憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。
だれも気づかないで変わった
あの手口、学んだらどうかね

わーわー騒がないで。
本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。

ぜひ、そういった意味で、僕は、民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、
しかし、私どもは、重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。
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