泥憲和さんをご存知でしょうか。
このブログでも、集団的自衛権の問題などで、何度か紹介させていただいたことがある方です。
この泥さんの、『従軍慰安婦』問題についての一連の論考を、大変わかりやすくまとめてくださった『白樺教育館』のサイトを知り、
みなさんにもぜひ読んでいただきたいと思い、泥さんにお尋ねしたところ、快諾してくださいましたので、ここに何回かに分けて転載させていただきます。
まず、泥さんのご紹介を兼ねて、ここにひとつの記事を載せておきます。
↓以下、転載はじめ
【従軍慰安婦の真実】
目次
① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)
② 慰安婦は性奴隷だった (2)
③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
⑤ 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について
⑥ 敗戦後の日本人慰安婦たち
⑦ 慰安婦の働き方と報酬額 (1) 慰安婦業者の契約書を確かめる
⑧ 慰安婦の働き方と報酬額 (2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる
⑨ 慰安婦の働き方と報酬額 (3) 秦郁彦説を批判する。
⑩ 慰安婦の働き方と報酬額 (4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳
⑪ 慰安婦の働き方と報酬額 (5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など
⑫ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (1)
⑬ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (2)
⑭「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について
⑮ 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか
⑯ 最終回
① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)
まるでネトウヨみたいなタイトルです(笑)
今も、ネットに飛び交うデマに、だまされている人がたくさんいます。
カウンター仲間の中にすら、いるそうです。
そのことを、FB友の渡辺先生から、教えてもらいました。
幸い、たくさんのカウンター仲間が、私のページを読んでくれています。
そこで、おさらいといった感じで、なるべくわかりやすく、日本軍慰安婦のことを書いていきたいと思いました。
ご自身の勉強を確かめるため、またネトウヨと闘うため、活用して頂ければ幸いです。
何回にわたるのか、まだ未定です。
質問があれば、なるべく丁寧にお答えしようと思っています。
第一回は、ネトウヨが発狂するようなテーマです。
「慰安婦は性奴隷だった」という話です。
■ 慰安婦は性奴隷だったのか
「性奴隷」とはなんでしょうか。
奴隷状態で、性労働を強制された女性が、性奴隷です。
では、奴隷とは何でしょうか。
人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。
人身を拘束されるというのは、居住の自由を奪われて、雇い主の指定する住居に住まわされ、移動の自由のない状態をいいます。
自由を奪われるとは、転職や退職・廃業の自由を奪われて、いやでもそこで働かされることです。
さて、慰安婦は奴隷ではない、という意見があります。
なぜならば、とその人たちは言います。
慰安婦は、自ら志願している。
慰安婦は、高い給料を得ていた。
慰安婦は、借金さえ返せば帰国できた。
慰安婦は、接客を拒む権利さえあった。
この言い分を、仮に事実だとしましょうか。
それなら、慰安婦の労働条件は奴隷でなかった、と言えるのか、
このことについて、江戸時代の花魁(おいらん)と対比して、考えましょう。
江戸時代、吉原などで、売春営業が公認されていました。
吉原の女郎には、それなりの給与が出ており、接客を拒む権利が認められおり、借金を返せば廃業を認められていました。
この待遇は、慰安婦と同じです。
彼女たちは奴隷だったのでしょうか。
そうではなかったのでしょうか。
明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、「牛馬に異ならず」と評しました。
明治5年、『芸娼妓解放令』に合わせて出された、「司法省達」です。
原文を、末尾に、資料として転載しておきます。
現代語になおせば、つぎのように書かれていました。
「娼妓・芸妓は、人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである」
当時は、奴隷という用語がまだない時代ですが、
「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態である、という認識を示しています。
どうして、「牛馬に異ならず」なのか。
どんなに貧しくても、身体だけは本人のものです。
借金で、その身体の自由さえ失った状態は、人としての最後の自由を失った状態であり、牛馬と変わらない存在だということです。
人としての最後の自由を失った状態、すなわち、奴隷です。
吉原の花魁が、借金で縛られた身分で、「牛馬と異ならず」なら、
同じように借金でしばられ、待遇も花魁と似ていた慰安婦だって、「牛馬と異ならず」だったといえます。
普通の年季奉公は、前借金でしばったりしないので、ただの有期雇用契約です。
この点を混同してはなりません。
このことからも、慰安婦を性奴隷とみなすのは、不当ではありません。
明治5年でさえ、この程度の人権感覚はあったのです。
21世紀に生きる安倍さんたち政治家が、慰安婦が奴隷状態であったことを否認するなんて、なんともはや、ため息をつくばかりです。
ところで、明治のはじめには、こんなにまっとうな認識だった日本政府ですが、その後に後退してしまいます。
「娼妓契約は人身売買ではない、だから娼婦は奴隷ではない」、こう言い始めたのです。
それがなぜであるかということと、その後退した考えからみても、慰安婦は性奴隷だったということを、次回に書きます。
【資 料】
明治5年10月9日 司法省達第22号 第2項
娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス
人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ
故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事
http://ja.wikisource.org/wiki/娼妓藝妓ニ係ル貸借其他人身賣買ニ類スル所業ノ處分
写真は近代デジタルライブラリーより
残念ながら、ここに、司法省達22号は収録されていません。
2014年7月29日
② 慰安婦は性奴隷だった その2
■ 合法的な売春契約と、違法な売春契約の違いを知ろう
今回は、大日本帝国の国内法の観点から見ても、慰安婦は性奴隷であったという話です。
明治政府は、娼妓契約を、「牛馬と異ならず」として、奴隷契約だったと認定したというのが、前回のお話でした。
その理由は、娼妓契約が、「人身売買」であり、人身の自由を奪う契約だったからです。
明治5年 太政官布告第295号
「人身を売買することは、古来から禁じられているのに、年季奉公など色々の名目を使って、実際には人身売買同様のことをしているので、
娼妓を雇い入れる資本金(親に貸し付ける契約金のこと)は、盗難金とみなす。
貸した金を返せ、という訴えは認めない」
中には、
「娘は買ったのではなく、養女にしたのだ、我が子に何をさせようと親の勝手だ」という理屈で、売春をさせていた者もいたようです。
太政官布告は続けます。
「子女を金銭で取引して、名目的に養女にし、娼妓・芸妓の仕事をさせるのは、実際上は、すなわち人身売買である」
こうした措置で、明治政府は、売春業は禁じなかったけれど、人身売買契約にもとづく売春業を禁じたのでした。
この太政官布告が廃止されたのは、明治33年です。
この年、『娼妓取締規則(しょうぎ とりしまりきそく)』(内務省令第44号)が出されたので、布告は役割を終えたのです。
『娼妓取締規則』は、売春を一般的に禁じました。
ただし、法令に従うことを条件に、例外的に、売春を認めたのです。
この規則を理由に、帝国政府は、「娼妓契約は奴隷契約ではない」と言い続けました。
それというのは、規則に、「何人たりとも廃業を妨害してはならない」と決めていたからです。
娼妓取締規則は、娼婦に、「契約破棄の権利」と「廃業の自由」を認めました。
警察に届けさえ出せば、いつでも辞めることができたのです。
奴隷契約は、人身を買われた奴隷側から、契約を破棄することができません。
これと異なる娼婦契約は、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、したがって奴隷ではないという理屈です。
娼婦が辞めるのは「届出制」。
ここ、大事なので、おぼえていてください。
しかし、前借金がある場合、娼婦を辞めても借金契約は残る、という仕組みだったので、借金を返すために娼婦を辞められない現実もありました。
人身売買の形は回避したけれど、こんどは、いわゆる「債務奴隷」の立場に置かれたのです。
それにしても、辞める自由が、法的に保障されてはいたのです。
借金を、連帯保証人(たいていは親)に押し付ける気になれば、辞めることは出来ました。
自己破産してしまえば、自分だけは助かります。
親方が、「借金を返さない限り辞めさせない」と引き止めるのは、違法です。
そういう、大審院(いまの最高裁)の判決が、たくさんあります。
■ 慰安婦制度は、合法的な売春制度だったのか
親が娘を担保に、前借金をして娼婦に出すことを、「身売り」と言いました。
貧しい農村では、身売りが多くありました。
身売りという言葉が示すとおり、実質上は人身売買ですが、法律的には、娘には廃業の自由があるため、「担保」の意味がないと見なされ、人身売買に当たらない、ということになっていたのです。
こうしたことから、慰安婦否定側は言います。
「特別に慰安婦だけが悲惨だったのでもなく、奴隷だったのでもない」と。
日本軍慰安婦は、「身売り」契約による売春だ。
悲惨であったにせよ、当時としてはありふれた話だ。
また当時、それは合法だった。
本当でしょうか。
ここでは、「身売り契約は奴隷ではない」という言い分を、いったん認めましょう。
そのうえで、慰安婦契約がどんなものだったのかを、確かめます。
日本軍の慰安婦関係契約資料は、散逸してほとんど残っていないのですが、運良く、「馬来軍監区」の契約原本が残っていました。(以下の写真)
馬来とは、マレーのことです。
マレーを占領していた南方軍は、慰安婦の管轄権限を、師団ではなく、南方軍司令部に一括していたので、
東南アジア方面では、馬来軍監区と同じ契約だった、と推測できます。
その資料に、こう書かれています。
「営業者および従業員は、軍政監の許可を受けるにあらざれば、転業転籍をなすことを得ず」
「営業者および稼業婦にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」
慰安婦が辞めるのは、「許可制」だったのです。
官の許可がなければ、辞められませんでした。
自由に辞められなかったのです。
先に、娼婦の退職・廃業は、「届出制」であるといいました。
届けさえすれば自由に廃業できるから、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、奴隷契約ではないというのが、帝国政府の建前でしたね。
慰安婦は、これと異なります。
廃業が許可制で、自由に辞められませんでした。
それなら、人身を身分的に拘束する契約ということになり、これは人身売買であると言えます。
つまり、慰安婦契約は、帝国政府が禁じていた奴隷契約なのです。
しかも、許可を与えるのは官庁です。
人身拘束制度=奴隷制度に、官権が直接関わっているのです。
日本政府が、「慰安婦は性奴隷ではない」と抗弁できる余地は、まったくないと思います。
2014年7月30日
③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
前回の「2」で、南方軍が、帝国政府が禁じていた奴隷契約を、慰安婦に強制していたことを示しました。
軍をはじめとする国家機関と、慰安婦業者は、ほかにも様々な法律に違反しているので、今回はそこを確かめましょう。
売春が合法でも、慰安婦が合法だったとは言えないことが、如実にわかるでしょう。
■「娼妓取締規則」違反
占領地でこそ、軍が軍政を敷くので、警察権を持ちますが、慰安婦を募集したのは占領地ではなく、朝鮮半島と内地がほとんどです。
そこでは、「娼妓取締規則」を守らなくてはなりません。
慰安婦は、国外で働くことを前提にしていますが、「娼妓取締規則」は、そのような事態を想定していませんでした。
第七条に、「娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず」とあります。
しかし、慰安婦をどこに送るのか、それは軍事機密なので、官庁は、慰安所の所在地を、指定することができません。
慰安婦という制度が、その性格上、そもそもが違法なのです。
「娼妓取締規則」は、つぎのように定めていますが、慰安婦についてはなおざりにされているし、業者を使役していた軍も、守らせていた形跡が見えません。
⑴ 娼婦になろうとする者は、そのやむを得ない事情を書いて、両親と保証人2名の連署を添えて、警察区長に届け出なければならない。
⑵ その手続は、本人が、警察に出頭して行わなければならない。
⑶ 警察は、娼婦になろうとする者を尋問し、本人の意思を確認しなければならない。
⑷ 娼婦になろうとする者は、警察区長の確認書を添えて、警視庁に願い出なければならない。
⑸ 満18歳未満の者は、娼婦になってはならない。
これらはほとんど、守られていませんでした。
このように、「娼妓取締規則」に違反しているのですから、慰安婦の契約は法律違反であって、業者は本来ならば営業停止です。
■民法第90条(公序良俗)違反
〈公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする〉
違法契約であることを隠し、相手の法的無知に乗じて契約させても、明治民法第90条により、公序良俗に反する契約として無効になります。
無効というのは、はじめからなかったことになる、ということです。
■刑法第226条(所在国外移送目的略取及び誘拐)違反
〈所在国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する〉
無効な契約なのに、あたかも有効であるかのようにだまして連れて行くのは、誘拐に当たります。
誘拐の定義は、判例等によって、
「欺罔(ぎもう あざむき、だますこと)・誘惑を手段として、人を生活環境から不法に離脱させ、自己又は第三者の実力支配下に置くこと」とされて います。
慰安婦は、誘拐して海外に連れ出すことを禁じた、刑法第226条の条文に、ピッタリと当てはまります。
そういうことをした業者も、渡航を公認した内務省と、身分証を発給した外務省、輸送に便宜を計らった軍も、共犯として同罪です。
ところで、話が少し横道にそれますが、北朝鮮による拉致被害者である有本恵子さんら4人は、北朝鮮でいい仕事があるとだまされ、自分の意志で、北朝鮮に入国しました。
自分の意思であっても、だまして連れて行けば、誘拐に当たります。
政府は、誘拐された有本さんたちを、拉致被害者として認定しているのだから、誘拐は拉致にあたるということになります。
拉致と強制連行は、同じ意味です。
すると、慰安婦も、合法的なよい仕事があるとだまされて連れて行かれたのだから、誘拐に当たるのだし、
日本政府の定義に沿っていえば、拉致されたのであり、強制連行されたことになります。
■刑法第227条違反
〈3 営利、わいせつ、又は生命、若しくは身体に対する加害の目的で、略取され、誘拐され、又は売買された者を引き渡し、収受し、輸送し、 又は蔵匿した者は、六月以上七年以下の懲役に処する〉
慰安婦は、営利・わいせつ目的で誘拐されました。
慰安婦を、軍に引き渡したのは慰安所業者、収受し、輸送したのは軍です。
両者は、刑法第227条違反の共同正犯です。
これほど違法に違法を重ねては、もう誰にも弁護のしようがありません。
軍をはじめとする、国家機関が直接的に関わった、国家犯罪と言えます。
■法令がちゃんと適用された例がある
昭和12年、大審院(最高裁)で、売春目的で、女性を海外に連れ出そうとした業者らが、有罪になっています。
長崎から、15人の日本人女性を、娼婦として上海へ送った業者らに対し、
大審院第4刑事部は、 「婦女を誘拐して国外に移送した」「共同正犯」として、上告を棄却、有罪が確定しています。
法令がちゃんと適用されれば、このように有罪になるのです。
この業者が有罪になったのは、軍と結託していなかったからです。
軍が求めれば、その威光で、誰も逆らえなかった時代でした。
大日本帝国の時代、日本がそんな国であったことを認めるのは、気分の良いものではありません。
しかし、その歴史を反省することで、別な道を歩むことが私たちにはできます。
その歴史を肯定してしまえば、同じような未来が待ち受けていることでしょう。
刑法の論証集(山口刑法にほぼ準拠)略取・誘拐の罪 224条以下
2014年7月31日
④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
(今回は、めんどくさい上に長いです)
元慰安婦の証言には、腑に落ちない点が多々あります。
移動中の船内でテレビを見たとか、それはちょっと有り得ません。
人の記憶は不確かなんですよね。
でも、韓国側は、そういった不自然な証言を、改変することなく発表しています。
おばあさんに、「戦時中にテレビはまだなかったんだよ」といったアドバイスを、していないようです。
間違っていても、そのままに記録するという、オーラルヒストリー採取の基本を、わかっている証拠です。
金福童さんという、元慰安婦がいます。
彼女の証言が怪しいと言って、右派が総攻撃しています。
金さんは、第15師団に付いてシンガポールに行ったと言うが、嘘だ。
なぜなら第15師団は、ビルマの部隊だから。
金さんは、14歳のときに慰安婦にさせられて、8年間働き、19歳の時に解放されたというが、計算があわない。
足し算もできないのか。
金福童はニセ慰安婦だ・・・等々。
いまも金さんは、どこへ行っても、一見つじつまの合わない証言を、繰り返しています。
矛盾してたって、自分の記憶がそうなんだから気にしない、という姿勢です。
体験に裏打ちされた記憶に、自信があるのでしょうか。
今回は、金さんの証言が、どこまで当てにならないか、それをこれから検証します。
■同時代の公文書に反する記憶
金さん証言
「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと、連れ回されました」
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html
「最初、中国・広東の慰安所に入れられた」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/
金福童さんは、第15師団について各地を回った、と証言している。
しかし公文書は、この証言を否定している。
南方軍第10陸軍病院の、1945年8月31日付の記録に、軍の傭人として、金福童さんの名前が載っており、本籍も一致しているので、本人に間違いないという。
元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見(朝鮮日報記事)
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html
資料の名を、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」という。
資料名でわかる通り、金福童さんは、第16軍の下にいた。
場所は、インドネシアのジャワ島である。
慰安婦をしていたという以外に、こんな所にいる理由がない。
たしかに彼女は、慰安婦だったのだ。
このことは、間違いない事実である。
しかし、金福童さんが証言する第15師団は、ビルマで戦った。
第16軍は、ジャワ島にいた部隊である。
二つの接点は、まったくない。
金福童さんは、シンガポールやインドネシアに行ったと証言しているが、第15師団はそういった場所に行っていない。
金さんが第15師団と行動を共にしたとすると、解けない矛盾だらけになる。
本人の記憶は大切にしなければならないが、記憶と同時代の公文書との間に矛盾があれば、公文書が正しいと考えるほかないだろう。
第15師団について行ったという本人の記憶は、間違っていると考えた方がよい。
しかし、以下に示すとおり、「第15師団」という条件さえはずせば、金福童さんの証言は、極めてリアルなのだ。
そのことを、これから確かめたい。
まずは、広東からである。
■広東時代
証言1「最初、中国・広東の慰安所に入れられた」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/
広東省は、香港やマカオの北隣、深セン経済特区で有名な地域である。
連れて行かれたのは、「14歳のとき」だという。
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
先に見たとおり、1945年8月に19歳だったのだから、金さんは1926年生まれである。
金さんは戦前の人だから、満年齢ではなく、数え年を使う。
連れて行かれた数え年14歳は、1939(昭和14)年である。
この年に、広東で何があったのだろう。
前年の1938(昭和13)年9月、広東作戦が発令された。
10月に、作戦が開始された。
11月には、広東の要衝が、すべて占 領された。
この時から、広東に、日本軍が駐留した。
第5師団、第18師団、第104師団の三個師団。
大部隊である。
翌1939年には、少なくとも、都市部の治安は安定した。
それに伴って、大量の、慰安婦の需要が発生した。
金福童さんが連れて行かれたのは、まさにその時期に当たっているのだ。
日本軍の作戦行動と証言に、矛盾がない。
なぜ金さんは、こんなに幼いのに、連れて行かれたのか。
その理由を示す資料がある。
当時の日本軍は、性病に悩まされており、朝鮮の「年若き女」を求めていたようなのだ。
別の地域の資料だが、同じ年、昭和13年4月10日付「第14師団衛生隊」文書に、こんな記述がある。
「支那妓女の検黴(けんばい)の成績を見るに、ほとんど有毒なるにより、支那妓婁に出入りせざること」
現地のプロの娼婦は性病にかかっていて、慰安婦として使えないというのである。
また、同時期の「第11軍第14兵站病院」文書は、
内地から来た慰安婦を「あばずれ女」と評価し、花柳病(性病)が多いと書き、
病気を持たない朝鮮の、「年若き女」を奨励している。
こういった軍の要請にもとづいて、金さんのような朝鮮の少女に、白羽の矢が立ったのだと思われる。
■広東からマレーシア、シンガポールへ
証言2 「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました」
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html
証言2 では、最初に行った広東が、台湾のつぎに上げられている。
このことから、証言2 にあげられた地名は、思い出すままに並べただけで、移動の順序に並んでいるのではないことがわかる。
広東を占領した部隊が、どのように移動したのかを確かめるにあたり、便宜的に、金さんが上げた地名に、丸数字を振る。
①台湾、②広東、③香港、④マレーシア、⑤スマトラ、⑥インドネシア、⑦ジャワ、⑧シンガポール、⑨バンコク
注意すべきなのは、⑤スマトラと⑦ジャワは、どちらも⑥インドネシアの国内地名だという点である。
⑥と⑤⑦は、重複しているのである。
その点を念頭に置いて、順次、見ていこう。
1941年11月
大本営が、マレーシア攻略を含む南方作戦の、作戦準備を下令した。
しかし、広東作戦とマレー作戦は、全然別の作戦で、参加した部隊もまるで異なっている。
通常なら、広東にいた慰安婦が、マレー方面に移動することはないはずだ。
この点、一見すれば、金福童さんの証言は不可解に見える。
ところが、広東からマレーに引き抜かれた部隊が、一つだけあるのだ。
広東にいた第18師団は、 新編成の第25軍に加えられ、マレー方面に転ぜられた。
広東からマレー方面に転進した部隊は、第18師団だけである。
(証言にある第15師団は、参加していない)
そして、第18師団の部隊記録に、金さんのあげた地名が、次々に登場するのである。
金福童さんは、第18師団について行ったと見るのが、合理的である。
第18師団は、渡航準備のため、②広東から③香港を経由して、海南島に移動した。
1941年12月
マレー作戦が開始され、まず、タイ国攻撃が始められた。
渡洋してきた第18師団 は、第25軍の部隊として、タイの首都⑨バンコクに進駐した。
1942年2月
第18師団は、第25軍の部隊として、④マレーシアに進撃した。
日本軍はたちまち、マレー半島全域を占領する。
第25軍が、シンガポール作戦開始。
同、占領。
第18師団は、 ⑧シンガポールに駐留した。
ここで確認しておきたいのが、慰安所の管轄である。
中国戦線では、管轄があまりはっきりせず、各級部隊が、てんでに管理していたような記録がある。
しかし、下級部隊が、内地や朝鮮総督府と勝手に連絡を取り、慰安婦を要請したのでは、統制が取れない。
その経験の蓄積もあってのことだろうが、南方軍は、軍政部に、管轄を一元化している。
軍政部は、各師団の指揮下にない。
上級の、第25軍の機関である。
中国から、第18師団についてきた金福童さんだが、ここで規則通り、第25軍の軍政部の管轄下に置かれたはずである。
■インドネシアへ
1942年4月
広東から一緒だった第18師団が、第25軍から離れて、ビルマに移動した。
しかし、金福童さんの慰安所は、第25軍の直轄になっていたから、第18師団と切り離されており、シンガポールに留まったとみられる。
1943年5月
第25軍司令部が、シンガポールを離れ、⑤スマトラ島のブキッティンギに移駐した。
(スマトラは、⑥インドネシアの地名)
金福童さんたちも、この移駐に従った。
■帰国へ
証言3 「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」
(2013.5.20『沖縄タイムス』)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450
1945年8月
敗 戦。
1945年9月
第10陸軍病院 ⑦ジャワ)の名簿に「金福童 19歳」との記録。
(「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」)
これは軍の公文書だから、数え年ではなく、満年齢である。
金福童さんは、どんな理由で、第25軍の管轄を離れて、第16軍の管轄下に入ったのだろう。
それは、引き揚げ準備のためだったと思われる。
別の部隊の話だが、セレベス島第2軍民生部作成の資料(昭和21年6月20日付)によると、
連合軍の命令で、第2軍が、ジャワ島の将兵(第16軍)を管理し、パレパレ港に集合させている。
第16軍が管轄していた慰安所の調査も、第2軍がまとめている。
日本軍の戦闘序列からすれば、おかしなことが起きているのだ。
そしてそのことは、連合軍の命令だったというのだ。
連合軍が用意した引揚船(ジョージポインレックスター号)の運航や、寄港地に合わせて、連合軍の管理しやすいようにしているのである。
(以上の資料は、アジア女性基金の『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第3巻所収)
こういった時期だから、金福童さんの管轄権が、第25軍から第16軍に移っていることに、不審はない。
1946年~1947
インドネシアから引き揚げ。
金福童帰国。
連合軍が、まず最初に日本軍に命じたのは、慰安婦を帰国させることであった。
「連合国指令書第一号」が「遊女屋並びに慰安婦を日本軍と共に撤退させよ」という命令なのだ。
(昭和20年9月7日付「日本派遣南方軍最高司令 官宛連合国指令書第一号」『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第4巻)
慰安婦の帰還に消極的な軍を、連合軍が叱咤していると思われる。
最高司令官命令だから、慰安婦の帰還は、わりと早かった。
各種資料を総合してみると、生き残りの慰安婦は、1946年6月までには、全員帰国しているはずだ。
金福童さんの帰国が1946年ならば、1939年から足かけ8年だ。
「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」という本人の証言と、ピッタリ符合している。
このとき、満年齢で20歳、 数え年で22歳であったはずだ。
右派は、満年齢と数え年を混同して、計算が合わないと騒いでいるのだ。
それは合うはずがないだろう。
ご苦労なことである。
これで考察を終わる。
日本軍について多少の知識があれば、金福童さんの行動軌跡は、有り得ないものと見える。
作戦区域をまたいで移動したり、軍をまたいで管轄が移動したり、そんな無茶なと、わたしも初めはそういう印象だった。
しかし、調べてみて驚いた。
ちゃんと、合理的な裏付けがあったのだ。
金福童さんの証言「第15師団」は、「第18師団」の記憶違いではあるまいか。
そう仮定すると、年齢にも経歴にも矛盾が見あたらず、ほとんどの地名が、漏れなくピッタリと符合する。
ただし、「台湾」だけが不可解だ。
そこだけは、裏付けが取れない。
つまり金福童さんの証言は、年代はぴったり合うのだが、9ヶ所の地名のうち、1ヶ所だけ、資料的な裏付けが見当たらない。
その程度には、「当てにならない」のである。
彼女がニセの慰安婦で、デタラメを語っているのだとしたら、まぐれ当たりで、これほど見事に、地名が符合することはあり得ないと私は思う。
残り1ヶ所にこだわって、まだウソだデタラメだニセ慰安婦だと言いたい向きには、もう勝手にしろと言うしかない。
2014年7月31日
つづく
このブログでも、集団的自衛権の問題などで、何度か紹介させていただいたことがある方です。
この泥さんの、『従軍慰安婦』問題についての一連の論考を、大変わかりやすくまとめてくださった『白樺教育館』のサイトを知り、
みなさんにもぜひ読んでいただきたいと思い、泥さんにお尋ねしたところ、快諾してくださいましたので、ここに何回かに分けて転載させていただきます。
まず、泥さんのご紹介を兼ねて、ここにひとつの記事を載せておきます。
↓以下、転載はじめ
【従軍慰安婦の真実】
目次
① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)
② 慰安婦は性奴隷だった (2)
③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
⑤ 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について
⑥ 敗戦後の日本人慰安婦たち
⑦ 慰安婦の働き方と報酬額 (1) 慰安婦業者の契約書を確かめる
⑧ 慰安婦の働き方と報酬額 (2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる
⑨ 慰安婦の働き方と報酬額 (3) 秦郁彦説を批判する。
⑩ 慰安婦の働き方と報酬額 (4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳
⑪ 慰安婦の働き方と報酬額 (5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など
⑫ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (1)
⑬ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (2)
⑭「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について
⑮ 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか
⑯ 最終回
① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)
まるでネトウヨみたいなタイトルです(笑)
今も、ネットに飛び交うデマに、だまされている人がたくさんいます。
カウンター仲間の中にすら、いるそうです。
そのことを、FB友の渡辺先生から、教えてもらいました。
幸い、たくさんのカウンター仲間が、私のページを読んでくれています。
そこで、おさらいといった感じで、なるべくわかりやすく、日本軍慰安婦のことを書いていきたいと思いました。
ご自身の勉強を確かめるため、またネトウヨと闘うため、活用して頂ければ幸いです。
何回にわたるのか、まだ未定です。
質問があれば、なるべく丁寧にお答えしようと思っています。
第一回は、ネトウヨが発狂するようなテーマです。
「慰安婦は性奴隷だった」という話です。
■ 慰安婦は性奴隷だったのか
「性奴隷」とはなんでしょうか。
奴隷状態で、性労働を強制された女性が、性奴隷です。
では、奴隷とは何でしょうか。
人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。
人身を拘束されるというのは、居住の自由を奪われて、雇い主の指定する住居に住まわされ、移動の自由のない状態をいいます。
自由を奪われるとは、転職や退職・廃業の自由を奪われて、いやでもそこで働かされることです。
さて、慰安婦は奴隷ではない、という意見があります。
なぜならば、とその人たちは言います。
慰安婦は、自ら志願している。
慰安婦は、高い給料を得ていた。
慰安婦は、借金さえ返せば帰国できた。
慰安婦は、接客を拒む権利さえあった。
この言い分を、仮に事実だとしましょうか。
それなら、慰安婦の労働条件は奴隷でなかった、と言えるのか、
このことについて、江戸時代の花魁(おいらん)と対比して、考えましょう。
江戸時代、吉原などで、売春営業が公認されていました。
吉原の女郎には、それなりの給与が出ており、接客を拒む権利が認められおり、借金を返せば廃業を認められていました。
この待遇は、慰安婦と同じです。
彼女たちは奴隷だったのでしょうか。
そうではなかったのでしょうか。
明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、「牛馬に異ならず」と評しました。
明治5年、『芸娼妓解放令』に合わせて出された、「司法省達」です。
原文を、末尾に、資料として転載しておきます。
現代語になおせば、つぎのように書かれていました。
「娼妓・芸妓は、人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである」
当時は、奴隷という用語がまだない時代ですが、
「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態である、という認識を示しています。
どうして、「牛馬に異ならず」なのか。
どんなに貧しくても、身体だけは本人のものです。
借金で、その身体の自由さえ失った状態は、人としての最後の自由を失った状態であり、牛馬と変わらない存在だということです。
人としての最後の自由を失った状態、すなわち、奴隷です。
吉原の花魁が、借金で縛られた身分で、「牛馬と異ならず」なら、
同じように借金でしばられ、待遇も花魁と似ていた慰安婦だって、「牛馬と異ならず」だったといえます。
普通の年季奉公は、前借金でしばったりしないので、ただの有期雇用契約です。
この点を混同してはなりません。
このことからも、慰安婦を性奴隷とみなすのは、不当ではありません。
明治5年でさえ、この程度の人権感覚はあったのです。
21世紀に生きる安倍さんたち政治家が、慰安婦が奴隷状態であったことを否認するなんて、なんともはや、ため息をつくばかりです。
ところで、明治のはじめには、こんなにまっとうな認識だった日本政府ですが、その後に後退してしまいます。
「娼妓契約は人身売買ではない、だから娼婦は奴隷ではない」、こう言い始めたのです。
それがなぜであるかということと、その後退した考えからみても、慰安婦は性奴隷だったということを、次回に書きます。
【資 料】
明治5年10月9日 司法省達第22号 第2項
娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス
人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ
故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事
http://ja.wikisource.org/wiki/娼妓藝妓ニ係ル貸借其他人身賣買ニ類スル所業ノ處分
写真は近代デジタルライブラリーより
残念ながら、ここに、司法省達22号は収録されていません。
2014年7月29日
② 慰安婦は性奴隷だった その2
■ 合法的な売春契約と、違法な売春契約の違いを知ろう
今回は、大日本帝国の国内法の観点から見ても、慰安婦は性奴隷であったという話です。
明治政府は、娼妓契約を、「牛馬と異ならず」として、奴隷契約だったと認定したというのが、前回のお話でした。
その理由は、娼妓契約が、「人身売買」であり、人身の自由を奪う契約だったからです。
明治5年 太政官布告第295号
「人身を売買することは、古来から禁じられているのに、年季奉公など色々の名目を使って、実際には人身売買同様のことをしているので、
娼妓を雇い入れる資本金(親に貸し付ける契約金のこと)は、盗難金とみなす。
貸した金を返せ、という訴えは認めない」
中には、
「娘は買ったのではなく、養女にしたのだ、我が子に何をさせようと親の勝手だ」という理屈で、売春をさせていた者もいたようです。
太政官布告は続けます。
「子女を金銭で取引して、名目的に養女にし、娼妓・芸妓の仕事をさせるのは、実際上は、すなわち人身売買である」
こうした措置で、明治政府は、売春業は禁じなかったけれど、人身売買契約にもとづく売春業を禁じたのでした。
この太政官布告が廃止されたのは、明治33年です。
この年、『娼妓取締規則(しょうぎ とりしまりきそく)』(内務省令第44号)が出されたので、布告は役割を終えたのです。
『娼妓取締規則』は、売春を一般的に禁じました。
ただし、法令に従うことを条件に、例外的に、売春を認めたのです。
この規則を理由に、帝国政府は、「娼妓契約は奴隷契約ではない」と言い続けました。
それというのは、規則に、「何人たりとも廃業を妨害してはならない」と決めていたからです。
娼妓取締規則は、娼婦に、「契約破棄の権利」と「廃業の自由」を認めました。
警察に届けさえ出せば、いつでも辞めることができたのです。
奴隷契約は、人身を買われた奴隷側から、契約を破棄することができません。
これと異なる娼婦契約は、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、したがって奴隷ではないという理屈です。
娼婦が辞めるのは「届出制」。
ここ、大事なので、おぼえていてください。
しかし、前借金がある場合、娼婦を辞めても借金契約は残る、という仕組みだったので、借金を返すために娼婦を辞められない現実もありました。
人身売買の形は回避したけれど、こんどは、いわゆる「債務奴隷」の立場に置かれたのです。
それにしても、辞める自由が、法的に保障されてはいたのです。
借金を、連帯保証人(たいていは親)に押し付ける気になれば、辞めることは出来ました。
自己破産してしまえば、自分だけは助かります。
親方が、「借金を返さない限り辞めさせない」と引き止めるのは、違法です。
そういう、大審院(いまの最高裁)の判決が、たくさんあります。
■ 慰安婦制度は、合法的な売春制度だったのか
親が娘を担保に、前借金をして娼婦に出すことを、「身売り」と言いました。
貧しい農村では、身売りが多くありました。
身売りという言葉が示すとおり、実質上は人身売買ですが、法律的には、娘には廃業の自由があるため、「担保」の意味がないと見なされ、人身売買に当たらない、ということになっていたのです。
こうしたことから、慰安婦否定側は言います。
「特別に慰安婦だけが悲惨だったのでもなく、奴隷だったのでもない」と。
日本軍慰安婦は、「身売り」契約による売春だ。
悲惨であったにせよ、当時としてはありふれた話だ。
また当時、それは合法だった。
本当でしょうか。
ここでは、「身売り契約は奴隷ではない」という言い分を、いったん認めましょう。
そのうえで、慰安婦契約がどんなものだったのかを、確かめます。
日本軍の慰安婦関係契約資料は、散逸してほとんど残っていないのですが、運良く、「馬来軍監区」の契約原本が残っていました。(以下の写真)
馬来とは、マレーのことです。
マレーを占領していた南方軍は、慰安婦の管轄権限を、師団ではなく、南方軍司令部に一括していたので、
東南アジア方面では、馬来軍監区と同じ契約だった、と推測できます。
その資料に、こう書かれています。
「営業者および従業員は、軍政監の許可を受けるにあらざれば、転業転籍をなすことを得ず」
「営業者および稼業婦にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」
慰安婦が辞めるのは、「許可制」だったのです。
官の許可がなければ、辞められませんでした。
自由に辞められなかったのです。
先に、娼婦の退職・廃業は、「届出制」であるといいました。
届けさえすれば自由に廃業できるから、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、奴隷契約ではないというのが、帝国政府の建前でしたね。
慰安婦は、これと異なります。
廃業が許可制で、自由に辞められませんでした。
それなら、人身を身分的に拘束する契約ということになり、これは人身売買であると言えます。
つまり、慰安婦契約は、帝国政府が禁じていた奴隷契約なのです。
しかも、許可を与えるのは官庁です。
人身拘束制度=奴隷制度に、官権が直接関わっているのです。
日本政府が、「慰安婦は性奴隷ではない」と抗弁できる余地は、まったくないと思います。
2014年7月30日
③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
前回の「2」で、南方軍が、帝国政府が禁じていた奴隷契約を、慰安婦に強制していたことを示しました。
軍をはじめとする国家機関と、慰安婦業者は、ほかにも様々な法律に違反しているので、今回はそこを確かめましょう。
売春が合法でも、慰安婦が合法だったとは言えないことが、如実にわかるでしょう。
■「娼妓取締規則」違反
占領地でこそ、軍が軍政を敷くので、警察権を持ちますが、慰安婦を募集したのは占領地ではなく、朝鮮半島と内地がほとんどです。
そこでは、「娼妓取締規則」を守らなくてはなりません。
慰安婦は、国外で働くことを前提にしていますが、「娼妓取締規則」は、そのような事態を想定していませんでした。
第七条に、「娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず」とあります。
しかし、慰安婦をどこに送るのか、それは軍事機密なので、官庁は、慰安所の所在地を、指定することができません。
慰安婦という制度が、その性格上、そもそもが違法なのです。
「娼妓取締規則」は、つぎのように定めていますが、慰安婦についてはなおざりにされているし、業者を使役していた軍も、守らせていた形跡が見えません。
⑴ 娼婦になろうとする者は、そのやむを得ない事情を書いて、両親と保証人2名の連署を添えて、警察区長に届け出なければならない。
⑵ その手続は、本人が、警察に出頭して行わなければならない。
⑶ 警察は、娼婦になろうとする者を尋問し、本人の意思を確認しなければならない。
⑷ 娼婦になろうとする者は、警察区長の確認書を添えて、警視庁に願い出なければならない。
⑸ 満18歳未満の者は、娼婦になってはならない。
これらはほとんど、守られていませんでした。
このように、「娼妓取締規則」に違反しているのですから、慰安婦の契約は法律違反であって、業者は本来ならば営業停止です。
■民法第90条(公序良俗)違反
〈公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする〉
違法契約であることを隠し、相手の法的無知に乗じて契約させても、明治民法第90条により、公序良俗に反する契約として無効になります。
無効というのは、はじめからなかったことになる、ということです。
■刑法第226条(所在国外移送目的略取及び誘拐)違反
〈所在国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する〉
無効な契約なのに、あたかも有効であるかのようにだまして連れて行くのは、誘拐に当たります。
誘拐の定義は、判例等によって、
「欺罔(ぎもう あざむき、だますこと)・誘惑を手段として、人を生活環境から不法に離脱させ、自己又は第三者の実力支配下に置くこと」とされて います。
慰安婦は、誘拐して海外に連れ出すことを禁じた、刑法第226条の条文に、ピッタリと当てはまります。
そういうことをした業者も、渡航を公認した内務省と、身分証を発給した外務省、輸送に便宜を計らった軍も、共犯として同罪です。
ところで、話が少し横道にそれますが、北朝鮮による拉致被害者である有本恵子さんら4人は、北朝鮮でいい仕事があるとだまされ、自分の意志で、北朝鮮に入国しました。
自分の意思であっても、だまして連れて行けば、誘拐に当たります。
政府は、誘拐された有本さんたちを、拉致被害者として認定しているのだから、誘拐は拉致にあたるということになります。
拉致と強制連行は、同じ意味です。
すると、慰安婦も、合法的なよい仕事があるとだまされて連れて行かれたのだから、誘拐に当たるのだし、
日本政府の定義に沿っていえば、拉致されたのであり、強制連行されたことになります。
■刑法第227条違反
〈3 営利、わいせつ、又は生命、若しくは身体に対する加害の目的で、略取され、誘拐され、又は売買された者を引き渡し、収受し、輸送し、 又は蔵匿した者は、六月以上七年以下の懲役に処する〉
慰安婦は、営利・わいせつ目的で誘拐されました。
慰安婦を、軍に引き渡したのは慰安所業者、収受し、輸送したのは軍です。
両者は、刑法第227条違反の共同正犯です。
これほど違法に違法を重ねては、もう誰にも弁護のしようがありません。
軍をはじめとする、国家機関が直接的に関わった、国家犯罪と言えます。
■法令がちゃんと適用された例がある
昭和12年、大審院(最高裁)で、売春目的で、女性を海外に連れ出そうとした業者らが、有罪になっています。
長崎から、15人の日本人女性を、娼婦として上海へ送った業者らに対し、
大審院第4刑事部は、 「婦女を誘拐して国外に移送した」「共同正犯」として、上告を棄却、有罪が確定しています。
法令がちゃんと適用されれば、このように有罪になるのです。
この業者が有罪になったのは、軍と結託していなかったからです。
軍が求めれば、その威光で、誰も逆らえなかった時代でした。
大日本帝国の時代、日本がそんな国であったことを認めるのは、気分の良いものではありません。
しかし、その歴史を反省することで、別な道を歩むことが私たちにはできます。
その歴史を肯定してしまえば、同じような未来が待ち受けていることでしょう。
刑法の論証集(山口刑法にほぼ準拠)略取・誘拐の罪 224条以下
2014年7月31日
④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
(今回は、めんどくさい上に長いです)
元慰安婦の証言には、腑に落ちない点が多々あります。
移動中の船内でテレビを見たとか、それはちょっと有り得ません。
人の記憶は不確かなんですよね。
でも、韓国側は、そういった不自然な証言を、改変することなく発表しています。
おばあさんに、「戦時中にテレビはまだなかったんだよ」といったアドバイスを、していないようです。
間違っていても、そのままに記録するという、オーラルヒストリー採取の基本を、わかっている証拠です。
金福童さんという、元慰安婦がいます。
彼女の証言が怪しいと言って、右派が総攻撃しています。
金さんは、第15師団に付いてシンガポールに行ったと言うが、嘘だ。
なぜなら第15師団は、ビルマの部隊だから。
金さんは、14歳のときに慰安婦にさせられて、8年間働き、19歳の時に解放されたというが、計算があわない。
足し算もできないのか。
金福童はニセ慰安婦だ・・・等々。
いまも金さんは、どこへ行っても、一見つじつまの合わない証言を、繰り返しています。
矛盾してたって、自分の記憶がそうなんだから気にしない、という姿勢です。
体験に裏打ちされた記憶に、自信があるのでしょうか。
今回は、金さんの証言が、どこまで当てにならないか、それをこれから検証します。
■同時代の公文書に反する記憶
金さん証言
「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと、連れ回されました」
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html
「最初、中国・広東の慰安所に入れられた」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/
金福童さんは、第15師団について各地を回った、と証言している。
しかし公文書は、この証言を否定している。
南方軍第10陸軍病院の、1945年8月31日付の記録に、軍の傭人として、金福童さんの名前が載っており、本籍も一致しているので、本人に間違いないという。
元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見(朝鮮日報記事)
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html
資料の名を、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」という。
資料名でわかる通り、金福童さんは、第16軍の下にいた。
場所は、インドネシアのジャワ島である。
慰安婦をしていたという以外に、こんな所にいる理由がない。
たしかに彼女は、慰安婦だったのだ。
このことは、間違いない事実である。
しかし、金福童さんが証言する第15師団は、ビルマで戦った。
第16軍は、ジャワ島にいた部隊である。
二つの接点は、まったくない。
金福童さんは、シンガポールやインドネシアに行ったと証言しているが、第15師団はそういった場所に行っていない。
金さんが第15師団と行動を共にしたとすると、解けない矛盾だらけになる。
本人の記憶は大切にしなければならないが、記憶と同時代の公文書との間に矛盾があれば、公文書が正しいと考えるほかないだろう。
第15師団について行ったという本人の記憶は、間違っていると考えた方がよい。
しかし、以下に示すとおり、「第15師団」という条件さえはずせば、金福童さんの証言は、極めてリアルなのだ。
そのことを、これから確かめたい。
まずは、広東からである。
■広東時代
証言1「最初、中国・広東の慰安所に入れられた」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/
広東省は、香港やマカオの北隣、深セン経済特区で有名な地域である。
連れて行かれたのは、「14歳のとき」だという。
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
先に見たとおり、1945年8月に19歳だったのだから、金さんは1926年生まれである。
金さんは戦前の人だから、満年齢ではなく、数え年を使う。
連れて行かれた数え年14歳は、1939(昭和14)年である。
この年に、広東で何があったのだろう。
前年の1938(昭和13)年9月、広東作戦が発令された。
10月に、作戦が開始された。
11月には、広東の要衝が、すべて占 領された。
この時から、広東に、日本軍が駐留した。
第5師団、第18師団、第104師団の三個師団。
大部隊である。
翌1939年には、少なくとも、都市部の治安は安定した。
それに伴って、大量の、慰安婦の需要が発生した。
金福童さんが連れて行かれたのは、まさにその時期に当たっているのだ。
日本軍の作戦行動と証言に、矛盾がない。
なぜ金さんは、こんなに幼いのに、連れて行かれたのか。
その理由を示す資料がある。
当時の日本軍は、性病に悩まされており、朝鮮の「年若き女」を求めていたようなのだ。
別の地域の資料だが、同じ年、昭和13年4月10日付「第14師団衛生隊」文書に、こんな記述がある。
「支那妓女の検黴(けんばい)の成績を見るに、ほとんど有毒なるにより、支那妓婁に出入りせざること」
現地のプロの娼婦は性病にかかっていて、慰安婦として使えないというのである。
また、同時期の「第11軍第14兵站病院」文書は、
内地から来た慰安婦を「あばずれ女」と評価し、花柳病(性病)が多いと書き、
病気を持たない朝鮮の、「年若き女」を奨励している。
こういった軍の要請にもとづいて、金さんのような朝鮮の少女に、白羽の矢が立ったのだと思われる。
■広東からマレーシア、シンガポールへ
証言2 「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました」
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html
証言2 では、最初に行った広東が、台湾のつぎに上げられている。
このことから、証言2 にあげられた地名は、思い出すままに並べただけで、移動の順序に並んでいるのではないことがわかる。
広東を占領した部隊が、どのように移動したのかを確かめるにあたり、便宜的に、金さんが上げた地名に、丸数字を振る。
①台湾、②広東、③香港、④マレーシア、⑤スマトラ、⑥インドネシア、⑦ジャワ、⑧シンガポール、⑨バンコク
注意すべきなのは、⑤スマトラと⑦ジャワは、どちらも⑥インドネシアの国内地名だという点である。
⑥と⑤⑦は、重複しているのである。
その点を念頭に置いて、順次、見ていこう。
1941年11月
大本営が、マレーシア攻略を含む南方作戦の、作戦準備を下令した。
しかし、広東作戦とマレー作戦は、全然別の作戦で、参加した部隊もまるで異なっている。
通常なら、広東にいた慰安婦が、マレー方面に移動することはないはずだ。
この点、一見すれば、金福童さんの証言は不可解に見える。
ところが、広東からマレーに引き抜かれた部隊が、一つだけあるのだ。
広東にいた第18師団は、 新編成の第25軍に加えられ、マレー方面に転ぜられた。
広東からマレー方面に転進した部隊は、第18師団だけである。
(証言にある第15師団は、参加していない)
そして、第18師団の部隊記録に、金さんのあげた地名が、次々に登場するのである。
金福童さんは、第18師団について行ったと見るのが、合理的である。
第18師団は、渡航準備のため、②広東から③香港を経由して、海南島に移動した。
1941年12月
マレー作戦が開始され、まず、タイ国攻撃が始められた。
渡洋してきた第18師団 は、第25軍の部隊として、タイの首都⑨バンコクに進駐した。
1942年2月
第18師団は、第25軍の部隊として、④マレーシアに進撃した。
日本軍はたちまち、マレー半島全域を占領する。
第25軍が、シンガポール作戦開始。
同、占領。
第18師団は、 ⑧シンガポールに駐留した。
ここで確認しておきたいのが、慰安所の管轄である。
中国戦線では、管轄があまりはっきりせず、各級部隊が、てんでに管理していたような記録がある。
しかし、下級部隊が、内地や朝鮮総督府と勝手に連絡を取り、慰安婦を要請したのでは、統制が取れない。
その経験の蓄積もあってのことだろうが、南方軍は、軍政部に、管轄を一元化している。
軍政部は、各師団の指揮下にない。
上級の、第25軍の機関である。
中国から、第18師団についてきた金福童さんだが、ここで規則通り、第25軍の軍政部の管轄下に置かれたはずである。
■インドネシアへ
1942年4月
広東から一緒だった第18師団が、第25軍から離れて、ビルマに移動した。
しかし、金福童さんの慰安所は、第25軍の直轄になっていたから、第18師団と切り離されており、シンガポールに留まったとみられる。
1943年5月
第25軍司令部が、シンガポールを離れ、⑤スマトラ島のブキッティンギに移駐した。
(スマトラは、⑥インドネシアの地名)
金福童さんたちも、この移駐に従った。
■帰国へ
証言3 「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」
(2013.5.20『沖縄タイムス』)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450
1945年8月
敗 戦。
1945年9月
第10陸軍病院 ⑦ジャワ)の名簿に「金福童 19歳」との記録。
(「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」)
これは軍の公文書だから、数え年ではなく、満年齢である。
金福童さんは、どんな理由で、第25軍の管轄を離れて、第16軍の管轄下に入ったのだろう。
それは、引き揚げ準備のためだったと思われる。
別の部隊の話だが、セレベス島第2軍民生部作成の資料(昭和21年6月20日付)によると、
連合軍の命令で、第2軍が、ジャワ島の将兵(第16軍)を管理し、パレパレ港に集合させている。
第16軍が管轄していた慰安所の調査も、第2軍がまとめている。
日本軍の戦闘序列からすれば、おかしなことが起きているのだ。
そしてそのことは、連合軍の命令だったというのだ。
連合軍が用意した引揚船(ジョージポインレックスター号)の運航や、寄港地に合わせて、連合軍の管理しやすいようにしているのである。
(以上の資料は、アジア女性基金の『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第3巻所収)
こういった時期だから、金福童さんの管轄権が、第25軍から第16軍に移っていることに、不審はない。
1946年~1947
インドネシアから引き揚げ。
金福童帰国。
連合軍が、まず最初に日本軍に命じたのは、慰安婦を帰国させることであった。
「連合国指令書第一号」が「遊女屋並びに慰安婦を日本軍と共に撤退させよ」という命令なのだ。
(昭和20年9月7日付「日本派遣南方軍最高司令 官宛連合国指令書第一号」『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第4巻)
慰安婦の帰還に消極的な軍を、連合軍が叱咤していると思われる。
最高司令官命令だから、慰安婦の帰還は、わりと早かった。
各種資料を総合してみると、生き残りの慰安婦は、1946年6月までには、全員帰国しているはずだ。
金福童さんの帰国が1946年ならば、1939年から足かけ8年だ。
「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」という本人の証言と、ピッタリ符合している。
このとき、満年齢で20歳、 数え年で22歳であったはずだ。
右派は、満年齢と数え年を混同して、計算が合わないと騒いでいるのだ。
それは合うはずがないだろう。
ご苦労なことである。
これで考察を終わる。
日本軍について多少の知識があれば、金福童さんの行動軌跡は、有り得ないものと見える。
作戦区域をまたいで移動したり、軍をまたいで管轄が移動したり、そんな無茶なと、わたしも初めはそういう印象だった。
しかし、調べてみて驚いた。
ちゃんと、合理的な裏付けがあったのだ。
金福童さんの証言「第15師団」は、「第18師団」の記憶違いではあるまいか。
そう仮定すると、年齢にも経歴にも矛盾が見あたらず、ほとんどの地名が、漏れなくピッタリと符合する。
ただし、「台湾」だけが不可解だ。
そこだけは、裏付けが取れない。
つまり金福童さんの証言は、年代はぴったり合うのだが、9ヶ所の地名のうち、1ヶ所だけ、資料的な裏付けが見当たらない。
その程度には、「当てにならない」のである。
彼女がニセの慰安婦で、デタラメを語っているのだとしたら、まぐれ当たりで、これほど見事に、地名が符合することはあり得ないと私は思う。
残り1ヶ所にこだわって、まだウソだデタラメだニセ慰安婦だと言いたい向きには、もう勝手にしろと言うしかない。
2014年7月31日
つづく