『HUFF POST SOCIETY』より、転載させていただきます。
↓以下、転載はじめ
始まった「福島一揆」――東日本大震災から3年半
2014年09月12日
漆黒の闇。
車のライトに浮かび上がる、曲がりくねった道路の先に、時折、野生の狐の目が黄色く光る。
福島県郡山市から南相馬市に向かう途中、予定の遅れを取り戻そうと、幹線道路から山中の枝道に入ったのが間違いの元だった。
以前、日中に何回かは通ったことのあるルートだったが、夜は全く別の世界。
レンタカーのナビゲーション・システムに、最新情報が入っていなかったこともあり、行く先々で交通止めに出くわす。
東京電力福島第1原発の事故後に、原発に近い地域一帯にかけられた、避難指示や居住制限等の指定に伴う交通規制である。
やむなくUターンをして出直そうとしても、別の道で、再び規制に行く手を阻まれる。
わけが分からなくなって、闇雲に走りまわったあげく、出発点に戻ったりする。
まるで狐に化かされているような旅の末、目的地に着いたのは、何と5時間後。
その間、道を尋ねようにも人影はなく、たまに人家を見かけても、屋内に人が住んでいる気配はない。
3年半前、大震災直後の現場を取材しようと、原発のある福島浜通りを、車で北上した時のことを思い出した。
誰にも出会わない夜道の恐ろしさは、あのときとそっくりだ。
当時、足を延ばした宮城から、岩手にかけての道は、津波で運ばれてきた瓦礫で埋め尽くされ、これもすさまじい光景だったが、
これら三陸地方では、今は、高台移転や漁業の復興など、次第に明るい話題も伝えられている。
だが福島では、被災の傷跡は、むしろ拡大しているように見えた。
瓦礫の代わりに除染作業で出た泥や草木が、ビニール袋のような巨大な特殊容器に詰め込まれて、無人の街の道路脇に延々と並んでいる。「福島の復興なくして日本の復興なし」と叫んだ安倍晋三首相の言葉がいかに空しいか、現地を見れば説明の必要はない。
被災者の不満が噴出
東電の再回答はどんな内容になるか(馬場有・浪江町長。筆者撮影)
静まりかえった町や村。
表向きは何も変わらないように見える、福島の風景の裏で、しかし、徐々に、そして大規模な、かつてなかった変化が起きようとしている。
原発に隣接した浪江町が、代理人となり、住民が、全町避難に伴う精神的苦痛への慰謝料増額を東電に求めて、
国の原発ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)に、集団で、和解申し立てを行ったのである。
続いて、浪江と同様に、全住民が避難生活を強いられている飯舘村の住民も、同様の集団申し立ての準備を進めている。
驚くべきは、申立人である住民の数だ。
浪江の場合は、
全町民の73%にのぼる1万5313人(申し立て後 、避難生活の中で死亡した住民も170人以上いる)。
飯舘村は、
9月6日に申し立ての受付を始めたばかりだが、週末6、7の両日だけで、既に約6000人の住民の半数を超える3100人に達するという。
浪江の申し立ては、
国の原子力損害賠償紛争審査会(原倍審)が決めた指針で、事故半年後に、いったん1人月額10万円とされた慰謝料を、
これに加え25万円を支払うこと(2012年3月-14年2月)、などを求めたものである。
避難生活の長期化と、今後の生活再建の見通しが困難なことが、その理由だ。
ADRセンターは今年3月、その趣旨を認めて、増額分を1人5万円とする和解案を示した。
浪江側は今年5月、これを受諾したが、東電は増額を1人2万円とする「事実上の拒否回答」(馬場有浪江町長)を行い、
今度は、ADRが東電に、今月25日を期限に、再回答を求めている。
一方、飯舘関係の申し立ては、
「初期被曝の慰謝料・避難の長期化への慰謝料延長と、増額・不動産賠償の増額」等を求めるもの。
どちらの町村も、
被災者が長期間、避難生活を強いられ、その生活環境は、改善どころか悪化しているという過酷な現実の中で、
現在の不安だけでなく、将来の生活設計ができない、それなのに原倍審の指針は、こうした現実に対処するのにきわめて不十分だ、という、被災者の不満が噴出したものである。
「一揆」主導者の深い悩み
寡黙で忍耐強い、福島の農村地帯の住民たち。
元来、お上(かみ)にたてつくことは好まず、原発事故という理不尽このうえない仕打ちにあったというのに、下を向いたまま耐えてきた人々が、とうとう声を上げたのである。
それは、日頃穏やかな彼らの性格を考えると、心の中の抑えきれない激しい怒りの表現であり、
静かで緩慢ではあっても、浜通りの「一揆」と言っても過言ではないように思える。
飯舘村で、ADR申し立てを主導した長谷川健一さん(60)は、申し立てを言い出した時の心境を、こう語る。
「今まで黙って暮らしてきたのだから、このまま黙っていたかった。
もう我慢できねえと踏ん切りをつけるのに、どれだけ悩んだか」
「一揆」の首謀者にしても、悩みは深かったのだ。
年老いた親や親戚、の人々に気兼ねをして暮らしてきた住民はすべて、「蜂起」にあたってもだえ苦しんだようだ。
福島は、3年半前も、やはり過疎地だった。
今、政府は、景気回復政策の柱に、「地方創生」を掲げる。
そして一見、福島の復興にとって、追い風のように聞こえるこの政策が、
実態は全く逆に、これまで福島の復興を阻み、これからも福島住民の希望を奪っていくことが見えている。
福島の住民は、それを見てしまったのだろう。
絵空事になった「美しい村」
「政府が打ち出す公共事業のラッシュで、人手が集まらないんです」。
今も全村避難を強いられている、飯舘村の門馬伸市副村長は、うめくように言う。
飯舘村は菅野典雄村長の下、独特の地域作りによって、原発事故前までは、過疎地の村おこしのモデルとさえ言われてきた。
「心のこもった」といった意味の「までい」を合い言葉に、進めてきた「美しい村」は、全国に知られるようになった。
原発事故は、そのすべてをたたきつぶした。
村の過半を山林で覆われた飯舘村では、中途半端な除染は効果がない。
雨や雪とともに、山林の放射性物質が、里に流れ込む。
実際、除染作業によっていったん下がったはずの線量が、しばらくすると再び元に戻る事態が、村の各所で何回も繰り返された。
住民が住めない、仕事もできないのでは、「美しい村」は絵空事だ。
福島被災地の住民が、心の中で切実に望んできたのは、ふるさとの町や村への帰還である。
明日のふるさとを約束するには、子どもたちが安心して住める環境がなければならない。
それにはなおのこと、徹底した除染が必須である。
放射能汚染をそのままにしていては、田や畑はもとより、学校も保育所も使えない。
山深い飯舘村の環境は、それを分かりやすく教えたのである。
本音は「財政支出の抑制」
しかし、徹底した除染とは、果たして実行可能なのか。
家々や学校の屋根を葺き替える。
場合によっては、土台から建て替える。
山林の伐採も必要になるだろう。
田や畑の土は掘り起こして、はぎ取らねばならない。
養分を含んだ土がなくなって、作物はできるのか、といった問題もある。
仮に、そのすべてが実行可能だとしても、それらには、天文学的な費用がかかるだろう。
それは誰が負担するのか。
ここまできて、福島の復興を阻んでいるのは、単なる人手不足ではなく、復興費用の財政負担であることが、誰の目にも明らかになる。
政府にとっては、適当な除染で、「帰還」が可能であるかのように住民が思ってくれている状態が、最もありがたい。
住めないと分かって、集落を丸ごと移転させることになれば、さらに金がかかる。
要は、政府にとっての復興政策の原則は、財政支出の抑制なのである。
菅野村長は事故当時、「2年で除染を終え、全員の帰村を実現する」と宣言した。
「そんなにうまくいくのかな、という気もしたけれど、そうなってほしいという期待もあって、村民は村長についていったのです。
でも、既に3年半が過ぎたのに、事態は全く変わらない。
もう、村長の言葉にまじめに耳を貸す村民は、いなくなり始めている」と、村の長老たちは口をそろえる。
浪江町と違って、飯舘村当局は、ADRに消極的だ。
代わりに、村長の口からは、「公民館の建て替え」「村営住宅の建設」など、今も次々と、村の「復興計画」が語られる。
しかし、こうした話も、今では多くの村民が、単なる箱物行政ではないか、今はそんなことをしている場合か、と醒めた目で見るようになった。
はるかに重い政府の罪
村の復興を阻む元凶は、夢物語を語り続ける菅野村長ではない。
村長の苦闘は、創業時代とは激変した経営環境についていけずに凋落する、ベンチャー企業経営者の姿に重なる。
時折目を潤ませながら語る今野さん(筆者撮影)
被災地を襲った不幸の本質は、共同体の崩壊だ。
崩壊させたのは国である。
飯舘村だけの話ではない。
かつて、浪江町の津島地区で、下津島区長を務めた今野秀則さん(67)は、今は、郡山に近い本宮市で、夫人とともに避難生活を送っている。
「東京に去った子どもは、この本宮にさえ寄りつかない。孫がいるから仕方ないね」。
語るほどに、今野さんの目は潤んでくる。
無責任な夢物語を語って、目の前に進行する問題を放置してきたのは、菅野村長だけではない。
その点で、政府自身の罪は、はるかに重い。
今や、国の財政は、破綻寸前。
福島への財政支出をためらってまで、必死になった景気対策も、ほとんど効果はない。
その間、原発関連の支出に歯止めがかからず、東電自体が、経営破綻寸前に追い込まれた。
すべてが無策のまま、原発再稼働の日程だけが、粛々と語られる。
右も左も無責任。
それが日本の現実である。
愚かな汗水
1年前の9月、筆者は、「福島原発はアンダー・コントロールの状態にある」と、世界中に向けて叫んだ安倍首相の噓を、このコラムで指摘した。
オリンピックの招致を焦るあまり、福島の現実など、首相の頭からはすっかり消えていたのだろう。
しかし当時、汚染水対策の切り札とはやされた、原発建屋周囲の凍土壁建設は、大金を使ったあげく、大失敗に終わろうとしている。
今、凍らない壁を冷やすために、四苦八苦して試みているのが、壁の中に氷を詰め込む作業だという。
無意味に詰め込まれた氷は、新たな汚染水の源となる。
オリンピック開催が決まってほどなく、疑惑の金銭収受で辞職した都知事が、
最後に、満場監視の議会で、札束の模型をバッグに詰め込もうと、汗水を垂らしていた哀れな姿を思い出す。
氷を詰め込もうと、必死の凍土壁作業員と、汚れたカネを詰め込む元都知事の姿が、痛々しく重なって見えるのは、偏見にすぎるのだろうか。
誰も彼もが、福島の人々の本当の苦しみや、それが日本にとってきわめて重い課題であることを忘れ、愚かな汗水を流しているのではないか。
「知事なんて誰でもいい」
住民全員が避難を強いられた、福島県内自治体の中で、最も早く一昨年「帰村宣言」をして、村の再建に懸命の努力を続けてきた川内村。
だが、今年8月1日現在、全人口2751人のうち、完全に帰村できたのは、まだ499人にすぎない。
それでも政府は、10月1日に、原発に近い場所に残っている、居住制限区域の規制を、避難指示解除準備区域に緩和することにした。
住宅地や農地などの除染にめどがついた、という理由である。
原発事故前は、村民は、医療施設や商店などの生活インフラを、隣町の富岡町に頼ってきた。
原発立地地域に近い富岡は、依然、無人の町。
川内村の生活や産業は、前途多難である。
川内村の規制再編区域住民は、合計330人弱。
8月に行われた住民説明会では、当然、激しい反発が出たが、「帰りたい住民もいる」として、村は、区域再編受け入れに踏み切った。
「帰りたい」。
「帰るのが怖い」。
どちらも住民の本音である。
晴れ晴れと、故郷の生活を満喫するにはほど遠い環境で、村と村民は、複雑な思いを抱えながらも、前に進むことになった。
あと10年、あるいは30年後に、村民たちは、どんな生活をしているのだろうか。
9月11日で、震災と原発事故から3年半。
来月末には、福島県知事選挙が予定され、早くも、自公民相乗りの、「争点隠し」が噂されている。
親しい官僚から、恐ろしい話を聞いた。
「30年後には、福島・浜通りからは、誰もいなくなるよ。
住民は老人ばかりだから。
今をだまし通せばいいのだ。
知事なんて、誰でもいいってことよ」
こうして、日本は亡びていくのかもしれない。
吉野源太郎
ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。
1943年生れ。
東京大学文学部卒。
67年日本経済新聞社入社。
日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て、95年より論説委員。
2006年3月より現職。
デフレ経済の到来や、道路公団改革の不充分さなどを、的確に予言・指摘してきた。
『西武事件』(日本経済新聞社)など、著書多数。
↓以下、転載はじめ
始まった「福島一揆」――東日本大震災から3年半
2014年09月12日
漆黒の闇。
車のライトに浮かび上がる、曲がりくねった道路の先に、時折、野生の狐の目が黄色く光る。
福島県郡山市から南相馬市に向かう途中、予定の遅れを取り戻そうと、幹線道路から山中の枝道に入ったのが間違いの元だった。
以前、日中に何回かは通ったことのあるルートだったが、夜は全く別の世界。
レンタカーのナビゲーション・システムに、最新情報が入っていなかったこともあり、行く先々で交通止めに出くわす。
東京電力福島第1原発の事故後に、原発に近い地域一帯にかけられた、避難指示や居住制限等の指定に伴う交通規制である。
やむなくUターンをして出直そうとしても、別の道で、再び規制に行く手を阻まれる。
わけが分からなくなって、闇雲に走りまわったあげく、出発点に戻ったりする。
まるで狐に化かされているような旅の末、目的地に着いたのは、何と5時間後。
その間、道を尋ねようにも人影はなく、たまに人家を見かけても、屋内に人が住んでいる気配はない。
3年半前、大震災直後の現場を取材しようと、原発のある福島浜通りを、車で北上した時のことを思い出した。
誰にも出会わない夜道の恐ろしさは、あのときとそっくりだ。
当時、足を延ばした宮城から、岩手にかけての道は、津波で運ばれてきた瓦礫で埋め尽くされ、これもすさまじい光景だったが、
これら三陸地方では、今は、高台移転や漁業の復興など、次第に明るい話題も伝えられている。
だが福島では、被災の傷跡は、むしろ拡大しているように見えた。
瓦礫の代わりに除染作業で出た泥や草木が、ビニール袋のような巨大な特殊容器に詰め込まれて、無人の街の道路脇に延々と並んでいる。「福島の復興なくして日本の復興なし」と叫んだ安倍晋三首相の言葉がいかに空しいか、現地を見れば説明の必要はない。
被災者の不満が噴出
東電の再回答はどんな内容になるか(馬場有・浪江町長。筆者撮影)
静まりかえった町や村。
表向きは何も変わらないように見える、福島の風景の裏で、しかし、徐々に、そして大規模な、かつてなかった変化が起きようとしている。
原発に隣接した浪江町が、代理人となり、住民が、全町避難に伴う精神的苦痛への慰謝料増額を東電に求めて、
国の原発ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)に、集団で、和解申し立てを行ったのである。
続いて、浪江と同様に、全住民が避難生活を強いられている飯舘村の住民も、同様の集団申し立ての準備を進めている。
驚くべきは、申立人である住民の数だ。
浪江の場合は、
全町民の73%にのぼる1万5313人(申し立て後 、避難生活の中で死亡した住民も170人以上いる)。
飯舘村は、
9月6日に申し立ての受付を始めたばかりだが、週末6、7の両日だけで、既に約6000人の住民の半数を超える3100人に達するという。
浪江の申し立ては、
国の原子力損害賠償紛争審査会(原倍審)が決めた指針で、事故半年後に、いったん1人月額10万円とされた慰謝料を、
これに加え25万円を支払うこと(2012年3月-14年2月)、などを求めたものである。
避難生活の長期化と、今後の生活再建の見通しが困難なことが、その理由だ。
ADRセンターは今年3月、その趣旨を認めて、増額分を1人5万円とする和解案を示した。
浪江側は今年5月、これを受諾したが、東電は増額を1人2万円とする「事実上の拒否回答」(馬場有浪江町長)を行い、
今度は、ADRが東電に、今月25日を期限に、再回答を求めている。
一方、飯舘関係の申し立ては、
「初期被曝の慰謝料・避難の長期化への慰謝料延長と、増額・不動産賠償の増額」等を求めるもの。
どちらの町村も、
被災者が長期間、避難生活を強いられ、その生活環境は、改善どころか悪化しているという過酷な現実の中で、
現在の不安だけでなく、将来の生活設計ができない、それなのに原倍審の指針は、こうした現実に対処するのにきわめて不十分だ、という、被災者の不満が噴出したものである。
「一揆」主導者の深い悩み
寡黙で忍耐強い、福島の農村地帯の住民たち。
元来、お上(かみ)にたてつくことは好まず、原発事故という理不尽このうえない仕打ちにあったというのに、下を向いたまま耐えてきた人々が、とうとう声を上げたのである。
それは、日頃穏やかな彼らの性格を考えると、心の中の抑えきれない激しい怒りの表現であり、
静かで緩慢ではあっても、浜通りの「一揆」と言っても過言ではないように思える。
飯舘村で、ADR申し立てを主導した長谷川健一さん(60)は、申し立てを言い出した時の心境を、こう語る。
「今まで黙って暮らしてきたのだから、このまま黙っていたかった。
もう我慢できねえと踏ん切りをつけるのに、どれだけ悩んだか」
「一揆」の首謀者にしても、悩みは深かったのだ。
年老いた親や親戚、の人々に気兼ねをして暮らしてきた住民はすべて、「蜂起」にあたってもだえ苦しんだようだ。
福島は、3年半前も、やはり過疎地だった。
今、政府は、景気回復政策の柱に、「地方創生」を掲げる。
そして一見、福島の復興にとって、追い風のように聞こえるこの政策が、
実態は全く逆に、これまで福島の復興を阻み、これからも福島住民の希望を奪っていくことが見えている。
福島の住民は、それを見てしまったのだろう。
絵空事になった「美しい村」
「政府が打ち出す公共事業のラッシュで、人手が集まらないんです」。
今も全村避難を強いられている、飯舘村の門馬伸市副村長は、うめくように言う。
飯舘村は菅野典雄村長の下、独特の地域作りによって、原発事故前までは、過疎地の村おこしのモデルとさえ言われてきた。
「心のこもった」といった意味の「までい」を合い言葉に、進めてきた「美しい村」は、全国に知られるようになった。
原発事故は、そのすべてをたたきつぶした。
村の過半を山林で覆われた飯舘村では、中途半端な除染は効果がない。
雨や雪とともに、山林の放射性物質が、里に流れ込む。
実際、除染作業によっていったん下がったはずの線量が、しばらくすると再び元に戻る事態が、村の各所で何回も繰り返された。
住民が住めない、仕事もできないのでは、「美しい村」は絵空事だ。
福島被災地の住民が、心の中で切実に望んできたのは、ふるさとの町や村への帰還である。
明日のふるさとを約束するには、子どもたちが安心して住める環境がなければならない。
それにはなおのこと、徹底した除染が必須である。
放射能汚染をそのままにしていては、田や畑はもとより、学校も保育所も使えない。
山深い飯舘村の環境は、それを分かりやすく教えたのである。
本音は「財政支出の抑制」
しかし、徹底した除染とは、果たして実行可能なのか。
家々や学校の屋根を葺き替える。
場合によっては、土台から建て替える。
山林の伐採も必要になるだろう。
田や畑の土は掘り起こして、はぎ取らねばならない。
養分を含んだ土がなくなって、作物はできるのか、といった問題もある。
仮に、そのすべてが実行可能だとしても、それらには、天文学的な費用がかかるだろう。
それは誰が負担するのか。
ここまできて、福島の復興を阻んでいるのは、単なる人手不足ではなく、復興費用の財政負担であることが、誰の目にも明らかになる。
政府にとっては、適当な除染で、「帰還」が可能であるかのように住民が思ってくれている状態が、最もありがたい。
住めないと分かって、集落を丸ごと移転させることになれば、さらに金がかかる。
要は、政府にとっての復興政策の原則は、財政支出の抑制なのである。
菅野村長は事故当時、「2年で除染を終え、全員の帰村を実現する」と宣言した。
「そんなにうまくいくのかな、という気もしたけれど、そうなってほしいという期待もあって、村民は村長についていったのです。
でも、既に3年半が過ぎたのに、事態は全く変わらない。
もう、村長の言葉にまじめに耳を貸す村民は、いなくなり始めている」と、村の長老たちは口をそろえる。
浪江町と違って、飯舘村当局は、ADRに消極的だ。
代わりに、村長の口からは、「公民館の建て替え」「村営住宅の建設」など、今も次々と、村の「復興計画」が語られる。
しかし、こうした話も、今では多くの村民が、単なる箱物行政ではないか、今はそんなことをしている場合か、と醒めた目で見るようになった。
はるかに重い政府の罪
村の復興を阻む元凶は、夢物語を語り続ける菅野村長ではない。
村長の苦闘は、創業時代とは激変した経営環境についていけずに凋落する、ベンチャー企業経営者の姿に重なる。
時折目を潤ませながら語る今野さん(筆者撮影)
被災地を襲った不幸の本質は、共同体の崩壊だ。
崩壊させたのは国である。
飯舘村だけの話ではない。
かつて、浪江町の津島地区で、下津島区長を務めた今野秀則さん(67)は、今は、郡山に近い本宮市で、夫人とともに避難生活を送っている。
「東京に去った子どもは、この本宮にさえ寄りつかない。孫がいるから仕方ないね」。
語るほどに、今野さんの目は潤んでくる。
無責任な夢物語を語って、目の前に進行する問題を放置してきたのは、菅野村長だけではない。
その点で、政府自身の罪は、はるかに重い。
今や、国の財政は、破綻寸前。
福島への財政支出をためらってまで、必死になった景気対策も、ほとんど効果はない。
その間、原発関連の支出に歯止めがかからず、東電自体が、経営破綻寸前に追い込まれた。
すべてが無策のまま、原発再稼働の日程だけが、粛々と語られる。
右も左も無責任。
それが日本の現実である。
愚かな汗水
1年前の9月、筆者は、「福島原発はアンダー・コントロールの状態にある」と、世界中に向けて叫んだ安倍首相の噓を、このコラムで指摘した。
オリンピックの招致を焦るあまり、福島の現実など、首相の頭からはすっかり消えていたのだろう。
しかし当時、汚染水対策の切り札とはやされた、原発建屋周囲の凍土壁建設は、大金を使ったあげく、大失敗に終わろうとしている。
今、凍らない壁を冷やすために、四苦八苦して試みているのが、壁の中に氷を詰め込む作業だという。
無意味に詰め込まれた氷は、新たな汚染水の源となる。
オリンピック開催が決まってほどなく、疑惑の金銭収受で辞職した都知事が、
最後に、満場監視の議会で、札束の模型をバッグに詰め込もうと、汗水を垂らしていた哀れな姿を思い出す。
氷を詰め込もうと、必死の凍土壁作業員と、汚れたカネを詰め込む元都知事の姿が、痛々しく重なって見えるのは、偏見にすぎるのだろうか。
誰も彼もが、福島の人々の本当の苦しみや、それが日本にとってきわめて重い課題であることを忘れ、愚かな汗水を流しているのではないか。
「知事なんて誰でもいい」
住民全員が避難を強いられた、福島県内自治体の中で、最も早く一昨年「帰村宣言」をして、村の再建に懸命の努力を続けてきた川内村。
だが、今年8月1日現在、全人口2751人のうち、完全に帰村できたのは、まだ499人にすぎない。
それでも政府は、10月1日に、原発に近い場所に残っている、居住制限区域の規制を、避難指示解除準備区域に緩和することにした。
住宅地や農地などの除染にめどがついた、という理由である。
原発事故前は、村民は、医療施設や商店などの生活インフラを、隣町の富岡町に頼ってきた。
原発立地地域に近い富岡は、依然、無人の町。
川内村の生活や産業は、前途多難である。
川内村の規制再編区域住民は、合計330人弱。
8月に行われた住民説明会では、当然、激しい反発が出たが、「帰りたい住民もいる」として、村は、区域再編受け入れに踏み切った。
「帰りたい」。
「帰るのが怖い」。
どちらも住民の本音である。
晴れ晴れと、故郷の生活を満喫するにはほど遠い環境で、村と村民は、複雑な思いを抱えながらも、前に進むことになった。
あと10年、あるいは30年後に、村民たちは、どんな生活をしているのだろうか。
9月11日で、震災と原発事故から3年半。
来月末には、福島県知事選挙が予定され、早くも、自公民相乗りの、「争点隠し」が噂されている。
親しい官僚から、恐ろしい話を聞いた。
「30年後には、福島・浜通りからは、誰もいなくなるよ。
住民は老人ばかりだから。
今をだまし通せばいいのだ。
知事なんて、誰でもいいってことよ」
こうして、日本は亡びていくのかもしれない。
吉野源太郎
ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。
1943年生れ。
東京大学文学部卒。
67年日本経済新聞社入社。
日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て、95年より論説委員。
2006年3月より現職。
デフレ経済の到来や、道路公団改革の不充分さなどを、的確に予言・指摘してきた。
『西武事件』(日本経済新聞社)など、著書多数。