ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「『従軍慰安婦』の真実・その4」泥憲和氏

2014年09月10日 | 日本とわたし
⑮ 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか

慰安婦の真実シリーズは、あと一回、まとめを書いて、一応の終了とします。

慰安婦制度を擁護する中に、慰安所を作ったのは、強姦被害を減らすためだった、という意見があります。
その動機はたしかにありました。
しかし、強姦を減らすために慰安婦制度を作るって、犯罪を防ぐために別の犯罪を犯すってことですよね。 
そんな理屈が成り立つものでしょうか。
 
「俺はムシャクシャしていて、このままでは街頭で、無差別にぶん殴りそうだから、代わりにお前を殴って鬱憤を晴らす。
痛いけど人様のためだ、黙って殴らせろ」

こう言われて、誰がおいそれと殴られるでしょう。

強姦防止に効果があろうがなかろうが、してはいけないことはしてはいけない
そのうえ、効果さえもなかったというのが、本日の記事です。

戦地強姦に限らず、強姦(および性的犯罪)の多くは、性欲からではなく、支配欲から行われるということは、今や通説です。
 
戦時において強姦が多発しやすいのも、相手を屈服させる、支配するという要請が、強く働くなかで、
性を通じて、相手を支配しようとするからです。
 
イラクのアブグレイブ刑務所では、女性兵士が男性捕虜に対して、性的虐待を行っていましたが、
彼女たちが、性欲から性的虐待に及んだ、とは考え難い
サディスティックな支配欲の発露による、と考える方が、すんなりと納得できるのではないでしょうか?

こういうことなら、いくら慰安所をつくっても、強姦は減らないと見た方がよい。
事実、日本軍の資料を見れば、強姦は減っていません


1.『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』
最初の慰安所が作られてから3年を経た、昭和15年11月、
『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』(写真)が作られました。
(金福童さんが、14歳で慰安婦にされた翌年です)
原文に適宜句読点を加え、カタカナを平仮名に直し、読み仮名を添えて転記します。

「事変勃発以来の実情に徴(ちょう)するに、赫々(かくかく)たる武勲の反面に、
掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、
為に、聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは、遺憾とする所なり」

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110762000

このように、慰安所をつくっても、強姦が多発しています。
同じ年月に作られた、『事変の経験に基づく無形戦力軍紀風紀関係資料(案)』にも、同じ悩みが漏らされています。

「抗命、辱職、逃亡、殺人、傷害、強姦等依然減少せず」
(アジア歴史資料センター Ref.C11110759600)

『軍紀振作対策』には、開戦後約1年半で、略奪+強姦致死傷で罰せられた兵が420人
強姦致死傷だけで罰せられた兵が312人
合計で732人、と載っています。
 
見つかったのは、犯行のほんの一部、目に余るものだけだろうし、脅して口止めした例もたくさんあると聞きますので、
実数がどの程度なのか、皆目見当が付きません。
 
しかも、対象となっているのは、「強姦」ではなくて「強姦致死傷」ですから、
強姦は、まだ軽い罪とみなされてか、取締対象にすらなっていません
対策として、『軍紀振作対策』は、もっと慰安所をつくるべきだという提言をしており、慰安所作りに拍車がかかることになりました


2.『陸支密大日記 第9号』

大量の慰安所をつくった結果、強姦事件は減ったのでしょうか。
統計資料があったはずなのですが、焼却されたのか、現存していません。
しかし、様子を知る手がかりが、ないではありません。

昭和17年 「陸支密大日記 第9号」です。

開戦以来5年目です。
対策が功を奏しないことに、業を煮やした軍隊司法当局は、陸軍刑法に「強姦罪」を新設し、非親告罪にしました
軍隊司法は、それなりに、強姦多発に頭を痛めていたのです。
その理由は、強姦が、許しがたい犯罪だからではありません
討伐に出れば、索敵もそっちのけに、強姦に夢中になって戦闘がおろそかになること、
日本軍への民衆の恨みばかりが増して、占領がうまくいかないからでした。

「戦地における強姦は軍紀を破壊し、軍の爾他の宣撫工作を、一切無効ならしむ。
又、被害者において、御難を恐れ告訴を躊躇する場合、極めて多きをもって、非親告罪として処分するの要あり」
(写真)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04123725700




3.『陸軍軍事警察月報』
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06030009400

つぎは、昭和20年の資料です。
慰安所を作り、刑法を厳しくして、それでどうなったでしょうか。
 
『陸軍軍事警察月報』は冒頭で、「多発犯罪左の如く」と上げる中に、逃亡、掠奪、窃盗と並んで、やはり戦地強姦が並んでいます
巻末にグラフがついていて、昭和20年の犯罪が、群を抜いて多いことが分かります。
昭和20年は、慰安婦の数が最も多かった年のはずですが、そういう状態でした。

日本軍は、戦争中の強姦多発に悩まされ、沢山の慰安所を作りました。しかし、作っても作っても強姦が減らないので、ずっと「慰安所が足りない」「慰安所をつくれ」「慰安婦を呼べ」と言い続けていました
しかし、どれほど無理をして女性を連れてきても、強姦防止に関して、結局のところ効果的がなかったのです。

効果があっても許せないのに、効果がないことに血道を上げていたのですから、
もはやこれは、どうしようもない愚策であり、あまたの女性に、筆舌に尽くせない苦しみを与えた人道的犯罪でした。
国内法に違反する、奴隷契約でした。

こんなものを擁護し、公文書で明らかな事実さえも否認する、自民党と安倍内閣は、恥ずべき存在です。
一日も早く打倒し、新しい政府に、元慰安婦に対して、これまでの過ちをきちんと謝罪させ、確固たる名誉回復をさせること、
それなしに、地に墜ちた日本の名誉を、回復する手立てはないと思います。

2014年8月12日 


⑯ 最終回

できるだけ分かりやすく書くつもりだったのに、だんだん込み入った話になってしまいました。
反省です。
長くて論証ばかりの文章におつきあい下さって、有難うございました。
これで、ネトウヨやクソ評論家の定番ネタに、あらかた反証できたかなと思います。
もしも、慰安婦問題で、ウヨがチャチャを入れてきても、この程度の資料を並べれば、大抵の奴は引き下がるはずです。

まあそれにしても、ウヨたちは、丸っきりのデマを信じ込んで、ヘイトをカマしてくるわけです。
で、ですね、読んで貰ったような、わりと細々した裏付けを背景にして、私は奴らに、街頭でこう怒鳴り上げるのです。

アホ!ボケ!クソ!カス!死ね!

こういった罵倒を良しとしない向きがあることは、重々承知しておりますが、
この程度の罵倒を浴びても仕方がないことを、連中はしてきました。(と私は判断します)
ただ単に、バカ同士が、言葉のうんこを投げ合っているように見えるかも知れません。
けれども、私が「ボケ!カス!」と罵るのには、それなりの下地というか、裏付けというか、根拠があるのであって、
他に言うことを知らないアホが、ただ罵っているわけではないことだけは、ご理解願いたいなと。
まあ、あんまり言い訳にもなりませんが。

なぜそうするか、ですけれどね。
奴らの中の確信犯的イデオローグたちは、奴らの政治目的のために、意図的に歴史をねじ曲げますよね。
そいつらはプロウヨです。
職業的デマゴーグです。
わかっててやっているのだから、いくら批判され論破されても、改めません。
街頭で、日の丸おっ立ててわめいている奴らの中にも、確信犯的差別者がいます。
そいつら行動派も、いくら批判されても、行動を改めません。
この連中は、死ぬまでデマゴーグだろうし、差別者です。
焼かないと治りません。
まともに相手にしたって、不毛でしかない。
こいつらは、何を言われてもされても、屁の河童なんです。
屁の河童に勝つには、陸に上がった河童にするしかありません。
奴らから、支持者を引き剥がして、干上がらせるのです。

理論闘争は、奴らの周りの、付和雷同分子の確信を、揺るがせるためです。
街頭で、中指立てて、コラ!ボケ!とわめくのは、ビビリの付和雷同分子を、物理的に蹴散らすためです。
 
やり方は全然違いますが、二つの方法は、ちゃんと共通しているのです。
単に騒いでいるだけではない。
ここが、馬鹿ウヨとカウンターの、質の違いというもんです。



この国の頭目たちは、まともに理性的なやり方では、集団的自衛権や改憲を推進できない、と見切っています。
それは、日本に根付いた民主思想、ピースマインドが、強固だからです。
 
ここを切り崩すために、差別心をあおり、劣情を刺激して、情緒的なところから突破しようとしている
 
つまりこれは、日本の進路を左右するたたかいです。
 
負けるわけにはいきません。

 
そういうことで、平和運動、民主運動と、反ヘイト運動を結合して、戦う必要があろうと、私は考えております。

これで、慰安婦のことはいったん閉じますが、たたかいは続きます。
シリーズで書いたことは、どのように使っていただいても構いません。
使えるなら、学習会の資料や、ウヨども相手の論争に、役立てていただければ幸いです。
有難うございました。

2014年8月13日 
泥 憲和
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『従軍慰安婦』の真実・その3」泥憲和氏

2014年09月10日 | 日本とわたし
⑪ 慰安婦の働き方と報酬額 (5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など

前回は、文玉珠さんの稼ぎがけっしてよくなかったことを見ました。
彼女の証言を裏付ける、傍証があります。
元日本兵の人が、当時のビルマの様子を、書き残しているのです。
2万円や3万円は、紙くずだったのがよく分かります。

【資料1 ビルマ敗走記 敗走モールメンへ】末尾に抜粋を記載
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/61475733.html

本日は、その余の話です。

1. 文玉珠さんが貯めたのは、慰安婦の稼ぎではない

文さんのいた慰安所は、ビルマのマンダレーが陥落した時に、経営者が逃げてしまって閉鎖されました。
文さんたちは、敗走する軍と一緒に、タイのアユタヤまで逃げて、帰国船に乗るまで、野戦病院の手伝いをしています。
2万円を貯めたのは、その時期です。
だから、慰安婦をして貰ったのではなく、怪我をした兵隊たちから、チップとして貰ったのです。
兵隊たちだって、持っていても役に立たないからくれたのでしょう。
この面からも、慰安婦が、内閣総理大臣以上の高級取りだったという俗説は、まったくのデマです。

2.文玉珠さんは、5千円を送金したのか

文さんは、朝鮮に、5千円も送金したと証言しています。

-----------------------------------------------------------
『強制連行と従軍慰安婦』(平林久枝編)
>ビルマに行ってからの名前「文原吉子」名義の通帳は、お金に替えることもできずになくしてしまった。
>貯めたお金の1万5千円の中から、手紙と一緒に、タイから大邸の実家に5千円を送った時、下士官に「故郷に全部送れ。おまえはバカだ」と言われた。
>朝鮮に送金したのに、家も買わずに、兄が下らないことに使ってしまった。

-----------------------------------------------------------

証言で文さんがいう、「なくした貯金通帳」のことが、原簿に表れています(前回の写真参照)。

昭和19年5月18日と、6月21日に預金した900円分について、「19.8.18亡失届出」と記載されているのが、それにあたるようです。
原簿は「文原玉珠」名義ですが、他に「文原吉子」名義の通帳があり、そこに900円を預金していたのだと思われます。
このように、文さんの記憶と証言は、とても正確なのですが、理解しがたい点もあります。
文さんは、なくした通帳の1万5千円から、5千円を引き出したように語っていますが、実際の通帳記録は900円です。
おそらく記憶違いでしょう。

送金方法は、「手紙と一緒に送った」というのだから、戦時郵便を使ったのだと思われます。
預金から5千円引き下ろして送金したのなら、引き下ろし記録があるはずですが、それはありません
通帳に入れたもの以外に、もらった軍票があったのでしょう。
戦時郵便で送ったものが、無事に朝鮮に着いたかどうか、途中で沈められていないのか、いまとなっては確かめるすべがありません。

仮に、無事に郵送されていたとしても、文さんが送ったのはルピー軍票ですから、実家で円に換金できたはずがありません
無学な文さんは、そういう仕組みを知りません
そこで、「朝鮮に送金したのに、家も買わずに、兄が下らないことに使ってしまった」と誤解して怒っているのです。
軍票はお金ソックリだし、お金として貰ったものなので、文さんは、お金だとずっと勘違いしているのですが、
そのまま勘違いしている方が幸せだ、と思います。

3. 敗戦さえなければ大金持ちだったのか

理屈のうえでは、1ルピーには1円の値打ちがあるはずでした
敗戦さえなければ、そのお金を、文さんは手にできたでしょうか
それは無理でした

まず、ルピー軍票を、日本円に替えることができません
ルピー軍票を、軍事郵便貯金に入れれば、円になりました
しかしこの円は、日本政府の規則で、内地に送金できないことになっていました

【資料2 1942年2月18日 読売新聞「大東亜経済建設の指標」】末尾に、抜粋を記載しています。
【資料3 「南方占領地域における為替管理関係」】末尾に、抜粋を記載しています。


資料2には、
内地への送金は禁じられている、と書かれています。
資料3には、
為替送金できたのは、「軍人・軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与」に限る、と書いてあります。
 
慰安婦の収入は、「軍より支給を受けたる」ものではないので、「軍関係のもの」に当たりません
民間人でも、内地の家族を養わなければならない人は、許可を得て送金できましたが、「1か月200円相当額以下」に制限されていました
 
大金を送金するのは、システム的に不可能でした。
しかも、扶養家族がいるのでもない文さんには、送金許可はおりなかったでしょう。
さらに、戦争に負けていなくても、インフレで軍票の価値は、戦時中から下がり続けていました
100ルピー軍票というのが発行されていますが、いまの価値で言えば50万円札です。
それほど、軍票の値打ちが落ちていたのです。 (写真)


こうして、文さんの2万円には、価値がないことが論証されたことになります。
ついでに、戦後のことも書いておきます。
 
敗戦により、戦時中の政令の効力がなくなると、政府は「金融緊急措置令」を出して、預金口座を封鎖してしまい、引き下ろせないようにしました
預金封鎖を解いたのは、新円に切り替えた後です。
その時は、額面どおり払い戻されても、古いお金はもう、二束三文の値打ちになっていました

次回は、「韓国に賠償したのだからもうすんだ話」という議論について。


【資料1 ビルマ敗走記?敗走モールメンへ】
「私たちは経理部の者ですが、これから車両と荷物を焼き捨てます。入用の物があったら、何でも持って行ってください」と言う。
私は兵にしては年配で、態度がでかいから、将校と間違えたのだろうか、
「将校服もだいぶありますから、2,3着持って行かれたら…」と言う。

何食わぬ顔で、
「いや、折角ですが、服は持っていますから」と答えたら、
「じゃ、金はどうです?今から焼却するところだから、必要なだけ持って行って下さい。2,3十万どうですかー」と言うので、
「荷物も多いし、じゃー当座の用に、3万円ほど頂きましょうか」と、新札の軍票3万円を貰い、礼を言って別れた。
戦前の感覚では、普通の会社員が一生稼いでも、3万円残せば上等の方である。
それにしても、始め、30万円と聞いた時には驚いた。
今の金なら、恐らく億単位であろう。
あとで、こんな事ならも少し欲張っていたらよかった、と思った
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/61475733.html

【資料2 1942年2月18日 読売新聞「大東亜経済建設の指標」】
本邦業者にせよ在来企業家にせよ、差当り資金を必要とする時には、すべて南方開発金庫より、軍票を借受けるのであって、
たとえ三井財閥であっても、内地より、円資金を現地に持込むことは許されない
この反面、現地で或程度の資金が集積しても、これを内地に送金出来ないのであって、
現地で得た利潤は、現地開発に当てねばならない
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841425&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

【資料3「南方占領地域における為替管理関係」】
アジ歴Ref.B02032868600

アジア歴史資料センターにアクセスして、レファレンスナンバーを入力して下さい。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&XSLT_NAME=MetaTop.xsl&RIGHT_XSLT_NAME=MetaSearchRefCode.xsl

第二条
本邦通貨、軍票、又は外国通貨を、本令施行地外の地に送付、又は携帯せんとする者は、所轄民生部長の許可を受くべし。
但し、左に掲ぐる場合は、この限りにあらず。

1.軍人、軍属が、軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与を携帯するとき
2.軍人、軍属以外の者が、旅費に充つるため、二百円相当額以下の外貨軍票を携帯するとき


第五条
全各条の規定に違反したる者は、三年以下の監禁、又は一万円以下の罰金に処す。

2014年8月10日 


⑫ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (1)

【ネットの中だけの真実】
日韓経済協定を結んで、韓国に支払った金は、個人賠償の分も含んでいる。
それで、最終的に解決したのだ。
その金8億ドルを、経済建設に使ってしまったのは、韓国政府だ。
いわば、韓国民の金を、政府が使い込んだのだ。
韓国民に、そのことを長期間隠蔽していたのは、韓国政府だ。
それなのに、どうしていまさら、日本が個人賠償に応じる必要があるのか。

【本当の真実】

日本は韓国に賠償していませんし、現金を渡してもいません
そのことは、日韓協定の本文を読めばわかります

日本は、賠償支払いを拒否しました
韓国にしたのは、経済援助であって、賠償ではありません

8億ドルを援助したといいますが、政府分は5億ドルです。
3億ドルは、銀行が、韓国政府に貸し付けたものだから、援助といえるのか微妙です。
ともかくこの分は、ちゃんと返済されています

政府分の5億ドルの内2億ドルは、有利子の貸付で、20年返済です。
一度に貸し付けたのではなく、10年分割で貸し付けました
これも、利子を付けて、韓国がキッチリ返し終わっています
無償援助は3億ドル(1080億円)にとどまり、これも、10年分割で実施されました

貸付も援助も、韓国に現金が渡されたのではありません
だから、韓国政府が使い込めるはずがないのです。

では、お金はどうなったかといえば、全額、日本の会社に支払われたのです。
なぜなら、貸付も援助も、協定で、その使い道が限定されており、
1) 「韓国政府が日本から買う物資の代金」と、
2) 「韓国で工事をした日本の会社への支払」
この二通りにしか使えなかったから
です。

具体的な支払い方をみましょう。
 
まず、韓国が、これこれの機械が必要だとか、これこれの工事が必要だとかいうリストを、日本に提出します。
日本が審査してオーケーを出せば、韓国政府は、日本企業に発注します。
その代金は、日本政府から、日本企業に支払われます。
韓国政府は、現金に触ることもできません
援助金はすべて、日本政府から、日本の会社に支払われたのです。

援助がそういうものであることがわかるように、条約本文を末尾に掲載します。

さて、その援助の大きさです。
無償援助は1080億円なので、10年分割なら、1年当たり108億円
1966年の政府予算は、4兆5千億円です。
このうちの108億円は、予算のたった0.24%です。
大した金額じゃありません。 
当時、日本は、旧軍人・軍属に対し、毎年1兆円以上の軍人恩給を支給していました。
その1%にすぎません

援助がおわるころ、つまり10年後の1976年の予算は、24兆6千億円
このうちの108億円だから、予算の0.044%

全然大したことありません
 
だけど、この援助をうまく使って、韓国は奇跡的な成長を見せた、と【ネットの真実】は語ります。
もしもそうなら、日本はよいことをしたのです。
せっかくよいことをしたのに、デマで汚してしまっては、値打ちが半減してしまいます。


■日韓請求権並びに経済協力協定
(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html

第一条

1. 日本国は、大韓民国に対し、

(a)現在において、1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する、日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から、10年の期間にわたつて、無償で供与するものとする。

(b)現在において、720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの、長期低利の貸付けで、
・・・事業の実施に必要な日本国の生産物、及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものを、この協定の効力発生の日から、10年の期間にわたつて行なうものとする。


2014年8月10日


⑬ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (2)

1.「請求権問題は解決済み」は禁反言
韓国との賠償、補償問題については,「日韓条約で完全かつ最終的に解決した」という意見が根強くあります。



たしかに日韓両国間では、賠償問題は、「完全かつ最終的に解決」しました。
しかしそれは、国と国の間の話。
国と個人の間では、いまだに解決していません。
政府閣僚が、「日韓条約ですべて解決した」、などと言っては困ります
それは、禁反言の原則にもとります
日本政府はとっくの昔に、そういう解釈を否定しているからです。
 
1991年と1992年に、韓国民に賠償請求権があることを認める、政府答弁をしているので、引用します。

■1991年8月27日 参議院予算委員会「個人の請求権そのものを、国内法的な意味で消滅させたというものではございません」
(資料1)末尾に抜粋を記載

■1992年2月26日衆議院外務委員会 
「韓国の方々が、我が国に対して、個人としてそのような請求を提起するということまでは、妨げていない。
しかし、日韓両国間で、外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますから、それはできない、こういうことでございます」
(資料2)末尾に抜粋を記載

2回も、同じことを繰り返し答弁しているのだから、間違いありません。
韓国民の請求権問題は、政治的に解決していないのです。


2. それはシベリア問題が起点

なぜこのような答弁がなされたかというと、シベリアに抑留された、元日本兵の補償請求権がからんでいます。
シベリア抑留者たちは、ソ連に対して、賠償請求権を持っているのか否か、という問題です。
日本とソ連は、日ソ平和条約で、個人に対する賠償も含めて、互いに請求権を放棄しています。
それで、抑留者たちは、人道的犯罪行為であるシベリア抑留について、ソ連に賠償請求できなくなってしまいました。
こういう風に、政府が、国民の権利を勝手に放棄してしまった場合、権利放棄した政府が、加害者である相手国政府に代わって、補償に応じなければなりません

そこで元日本兵たちは、日本政府に対し、シベリア抑留の補償を求めました
すると、政府はこれを断りました
政府は言いました。

「国は、国民個人の賠償請求権を放棄したから、お手伝いできないが、
国民個人が、ソ連に直接請求する権利まで、放棄したのではない。
そもそも個人の権利は、政府が放棄できる筋合いのものではない。
だからあなた方、勝手にソ連に請求してくれていいですよ」
と。
↓↓↓
■1991年3月26日 参議院内閣委員会
「日ソ共同宣言第六項におきます、請求権の放棄という点は、国家自身の請求権、及び国家が自動的に持っておると考えられております、外交保護権の放棄ということでございます。
したがいまして、御指摘のように、我が国国民個人から、ソ連またはその国民に対する請求権までも、放棄したものではないというふうに考えております」


こういう責任逃れの答弁をしてしまったし、原爆裁判でもそういう主張を繰り返し、それを裁判所が認めたので、
立場を変えて韓国民はどうかと問われると、これまでの答弁との均衡上、
「日韓協定も外交保護権の放棄に過ぎない、国民の請求権は消えていない」と、答えざるを得なくなったのです。
(資料3)判決文の抜粋を末尾に記載


3.政府の答弁のまとめ

1)日韓協定は、外交保護権を放棄しただけである。
2)韓国民の請求権を、日本の法律で消滅させたものではない。
3)「請求権」について、韓国人が日本の裁判所に、訴訟を提起することができる。
4)右の場合に、請求が認められるか否かは、裁判所が判断することである。


私としては、裁判所の判断を待たずに、政府が自分で決断すれはよかろうと思うんですが。
問題は、時効の壁です。
しかし、それを突破する道がないではない。
外国人に対する戦時債務についての、政令第25号第7条に、「消滅時効の特例」を定めており、時効は「政令をもつて定める日まで完成しない」としています。
 
これは、供託財産についての特例ですが、国賠請求にも援用する必要があるのではないかと思います。
(資料 昭和二十五年二月二十八日政令第二十二号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25SE022.html

要するに、政府にやる気があるかないか、というところに帰着します。


■資料1
1991年8月27日 参議院予算委員会  
政府委員(柳井俊二君) 
「先生御承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして、両国間の請求権の問題は、最終かつ完全に、解決したわけでございます。
その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりました、それぞれの国民の請求権を含めて、解決したということでございますけれども、
これは、日韓両国が、国家として持っております外交保護権を、相互に放棄したということでございます。
したがいまして、いわゆる、個人の請求権そのものを、国内法的な意味で消滅させた、というものではございません。
日韓両国間で、政府として、これを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます」


■資料2
1992年2月26日 衆議院外務委員会 
柳井政府委員 
「それで、しからば、その個人の、いわゆる請求権というものを、どう処理したかということになりますが、
この協定におきましては、いわゆる外交保護権を放棄した、ということでございまして、
韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して、個人として、そのような請求を提起するということまでは妨げていない。
しかし、日韓両国間で、外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますから、それはできない、こういうことでございます。
…その国内法によって消滅させていない請求権は、しからば何かということになりますが、
これは、その個人が、請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、
日本の国内裁判所に、韓国の関係者の方々が訴えて出る、というようなことまでは、妨げていないということでございます。
…ただ、これを、裁判の結果どういうふうに判断するかということは、これは、司法府の方の御判断による、ということでございます」


■資料3
昭和41年12月7日東京地裁原爆訴訟判決(判例時報355号)
「対日平和条約第19条にいう『日本国民の権利』は、国民自身の請求権を基礎とする、日本国の賠償請求権、
すなわち、いわゆる外交的保護権のみを指すもの、と解すべきである。
…請求権の消滅条項、およびこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、
このような個人の請求権まで、放棄したものとはいえない。
仮に、これを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、
国民の請求権は、これによって消滅しない」


2014年8月12日 


⑭「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について

安倍さんは、2007年の第一次安倍内閣のとき、
米下院に、「慰安婦に日本政府が謝罪するように求める決議案」が提出されたのを受けて、つぎのように反応しました。  



◆2007年3月1日 記者会見で
「強制性を裏付けるものはなかった」

◆2007年3月5日 記者会見で
「(米下院)決議案は、客観的事実に基づいていない」
「謝罪することはない」


◆2007年3月14日 安倍内閣閣議決定
「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も、見当たらなかった」
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b166110.htm

ところが、米国内の批判に追い込まれ、ブッシュ大統領との首脳会談では、まるで借りてきた猫みたいになってこう語りました

◆2007年4月21日
「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情し、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」

ブッシュ大統領は、記者会見で、こう述べました。
「首相の謝罪(apology)を受け入れる(accept)。大変思いやりのある率直な声明だ」

元慰安婦には鼻息荒く、謝罪しないのに、ブッシュ大統領に向けて謝罪するとはなんということかと思いますが、話はまだ続きます。
帰国後、アメリカ大統領に対する謝罪はなかったと、全面否定に転じたのです。

◆2011年11月 産経新聞インタビュー (ブッシュ大統領への謝罪を否認)
「慰安婦問題は全く出なかった。そもそも日本が、(当事国でない)米国に謝罪する筋合いの話ではない」

◆2013年3月8日 衆院予算委員会答弁(ブッシュ大統領へ謝罪を否認)
「この問題はまったく出ていない。 事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」
(この答弁を検索する方法を末尾に示します) ↓

そしてこの間、主張はまたも、元にぶり返しています。

◆2012年12月30日 産経新聞インタビュー (日本軍の関与を認めた河野談話について)
「そのまま継承することはしない」
「専門家の意見などを聞き、 官房長官レベルで検討したい」


ところがところが、舌の根も乾かないうちに、この後、またも態度を豹変させます。
国の内と外を使い分ける二枚舌が、当然にも国際問題化しかけるや、一転して、ブッシュ大統領に対する謝罪があったことを認めたのです。 

◆2013年5月17日 閣議決定(ブッシュ大統領に対する謝罪を認める)
平成19年4月27日(現地時間)に、ブッシュ大統領と行った記者会見において、
安倍晋三内閣総理大臣(当時)が、慰安婦についての考え方として、
「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、
そうした極めて苦しい状況におかれたことについて、申し訳ないという気持ちでいっぱいである。
20世紀は、人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が、人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、
日本としても貢献したいと考えている、と述べた。
また、このような話を本日、ブッシュ大統領にも話した」旨の発言を行ったこと、
また、このような安倍晋三内閣総理大臣(当時)の考え方について、ブッシュ大統領が評価を述べた事実関係を、説明したものである。


◆2013年5月24日 官房長官発表 (河野談話を継承しないという主張を取り下げました)
「河野談話を継承する」


国会答弁でさえ、いけしゃーしゃーと嘘を述べて恥じない、こういった卑怯極まりない振る舞いが、
一連の「謝罪」を引き起こしているのだということを、まず確認しておきましょう。
そのうえで、それぞれの謝罪なるものを、具体的に検証します。
 
1970年代からの、日本政府による、いわゆる謝罪発言の一覧が、ウィキペディアにまとめられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争謝罪発言一覧

これらがどういった内容なのか、確かめてみましょう。

2000年8月17日
山崎隆一郎外務報道官
(これは謝罪ではなく、「謝罪しているじゃないか」という反論です)

2000年8月30日
河野洋平外務大臣

2001年4月3日
福田康夫内閣官房長官

2002年9月17日
小泉純一郎首相

2005年4月22日
小泉純一郎首相
(これらは謝罪ではなく、「すでに謝罪している」という説明です)

2001年9月8日
田中眞紀子外務大臣
(これは、直接的には中韓に対するものではなく、連合国全体に対するメッセージです)

2001年
小泉純一郎首相
(これは、私が正しいことをしたと評価している「アジア女性基金」の謝罪文です。
首相が代わるたびに、首相名だけを入れ替えて使われていました
でも小泉さんの時に終結してしまいました

2003年8月15
小泉純一郎首相

2005年8月15日
小泉純一郎首相

2001年10月15日
小泉純一郎首相
(これは、謝罪の意を表明するという終戦記念日のメッセージと、直接的謝罪です。
この発言の裏には、日本国内で、閣僚から、小泉さんの言葉を踏みにじるような発言が続いたので、
小泉さんはその度に、何度も同じ事をくりかえすことで、自分の発言がウソではないと、念押ししなければならなかったのです)

結局のところ、自発的な謝罪といえるものは、ほとんどありません
失言の後始末とか、木で鼻をくくったような説明とか。
しかし、公的にこう言わざるを得ないのは、謝罪せざるを得ない事実があるからです。
それを認めないという閣僚の発言が、いつまでもなくならないから、何度でも蒸し返されるのです。

しつこくなりますが、ここで例え話を一つします。

消費期限の付け替えをして、食中毒を出し、社長が謝罪に追い込まれた会社があるとします。
重役があとから、
「期限の付け替えなんかは、どこの会社もやっとる」
「食中毒なんか、家で食べてもかかる」
「批判する奴は、補償金でも欲しいんだろう」
なんて言ったら、その会社の信用はがた落ちです。
 
社長はまたもや、謝罪するはめになるでしょう。
非難を浴びて、会社が倒産するかもしれません。
こんなことを何度も何度も繰り返しているのが、情けないことに我が日本なのです。

さきほどの会社で言えば、重役だって会社を愛しているから、そんなことを言うのか知れないけど、ひいきの引き倒しもいいとこです。
本当に会社のためを思う社員なら、重役を諌め、消費者のために、誠を尽くすように求めるのが筋、というものです。
その努めを、私はいま、果たしているつもりでおります。

【解説】
安倍答弁の検索の仕方。
「この問題はまったく出ていない。 事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」
(この答弁を検索する方法を示します)
■国会議事録検索システムをクリック
http://kokkai.ndl.go.jp/
⇒「簡単検索」をクリック
⇒ 検索語入力「事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」
(他の情報も入力すると検索が速い。『平成25年03月08日、衆議院』など) 
⇒「検索結果一覧」をクリック(1件しかない) 
⇒「予算委員会」をクリック。

すると、答弁番号34の上記答弁が、表示されるはずです。
画面左の「会議録情報」で、答弁の前後もわかります。

2014年8月12日 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『従軍慰安婦』の真実・その2」泥憲和氏

2014年09月10日 | 日本とわたし
③ 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について

否定派は、従軍慰安婦という名称にこだわります

従軍という言葉は、軍属という正式な身分を表す言葉だ。
だが、慰安婦たちは、民間の売春業者が連れ歩き、兵士を客とした民間人である。
従軍というのは間違いで、追軍売春婦だ。

このように言うわけです。
 
慰安婦制度に国家が関与していたことを、認めたくないからですね。
この意見は、もちろん間違っています。
46年も前の昭和43年に、国会で、慰安婦に関する質問がされています。
 
第058回国会 社会労働委員会 第21号
昭和四十三年四月二十六日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0200/05804260200021c.html

日本社会党の後藤俊男衆議院議員が、慰安婦に対する援護法適用について質問しており、厚生省(当時)の政府委員が、こう答弁しています、
「慰安婦に、無給の軍属のような身分を与えていた」と。

軍属だったら、従軍していたのです。
慰安婦は、雇い主から稼ぎを受け取るので、軍が給料を支給しないのは当然ですし。
 
答弁は「軍属のような身分」ということなので、正式の軍属ではなく、「軍傭員」に類するパート職員扱いだったと思われます。
 
前回のエントリーに書いた金福童さんは、「軍傭員」の身分でした。
 
それにしても、軍属なのだし、軍から宿舎を提供してもらっているのだから、追軍売春婦というのは、まったく人を馬鹿にした呼び名です。

厚生省(当時)の政府委員は、こうも答弁して います、
「輸送船が沈められて亡くなった慰安婦は、援護法の対象である」

援護法の対象になるのは、「公務に従事して死亡した場合」に限りますから、慰安婦は公務で輸送船に乗っていた、と認定されているのです。
 
こういうことだから、「ただの民間人だ」というのは間違いで、「従軍」という接頭語は正しいのです。

大事なことなので、政府委員の答弁を、要約しておきます。

1. 戦地の慰安婦に、軍が、宿舎の便宜を与えていた。
2. 慰安婦には、無給の軍属の身分を与えていた。
3. 戦地で、銃を取って戦ったり、従軍看護婦の役割を果たした慰安婦もいる。
4. 戦場で、軍に協力して死亡した慰安婦は、正式の軍属や準軍属とみなして、援護法の対象になる。
5. 海上輸送中に沈められた慰安婦も、軍属、あるいは準軍属として、援護法の対象である。


政府委員は、つぎのようにも答弁しています。
「立場として申し出にくい場合があるだろう。法律を知らずに泣いている人もあるだろう。一人残らず救うために努力したい」

一人残らずと言っても、それは、
「戦闘協力者として、または輸送船が沈没したことで亡くなり、正式の軍属や準軍属とみなされた慰安婦」、 あるいは死んでしまった慰安婦の遺族のことです。
生き残った慰安婦には、何の援助もありませんでした
 
彼女たちは、戦後をどのように生きたのでしょう。
次回は、そのことについて書きます。


2014年7月31日


⑥ 敗戦後の日本人慰安婦たち

前回は、慰安婦が、軍属に準ずる扱いを受けていたことを書きました。
 
中には、最前線で、戦闘協力者として戦死したり、または、輸送船が沈没したことで亡くなった方もいて、その場合は、遺族年金の対象とされています。
 
しかし、生き残った慰安婦には、何の援助もありませんでした。
彼女たちは、戦後を、どのように生きたのでしょう。

ネトウヨやバカ評論家は言います。
「日本人は奥ゆかしいから、賠償など要求しない」...
「売春婦が売春禁止反対を唱えるような、韓国人とは違う」
 
ふざけちゃいけません。

昭和23年11月27日、衆議院で、一通の陳情文が読み上げられました。
陳情者は、大阪府接待婦組合連合会の会長、松井リウ。
接待婦とは、要するに売春婦です。
陳情書で松井は、売春防止法の制定を延期して欲しい、と述べます。
(国会議事録 第003回国会 法務委員会 第10号 昭和二十三年十一月二十七日)

自分たちは、戦時中は、看護婦や慰安婦として、お国に尽くせと言われ、
帰ってみれば何の保障もなく、
あるいは夫が戦死したために、生活に窮し、
女中に行けば、雇い主から犯され、働きに出れば、上役から関係を迫られ、
そんな男の身勝手が、横行している世の中なのに、暮らしのために売春してはいけない、とはどういうことか。
せめて、暮らしていけるぐらいの経済力が身につくまで、また、男たちの性に対する意識が向上するまで、売春防止法はつくらないでほしい
と。

「私たち就業婦の中には、戰爭中、白衣の天使として第一線に從軍し、満洲、中支、南支、南方各地域において、また、軍の慰安婦として働きおり、引揚げたる者、その他、夫が戰死し子を持つ者、元ダンサー、女給、看護婦、女店員、女工等と、諸種の前職を持つておる者ばかり」

「現在の接待婦以上のことをいたさねば、生活ができず…、生活もろくにできず、衣類等を賣り盡くして、現在の職業に入つて來ている者が、少くないのであります」

「いかに男女同権とか、基本的人権の尊重が叫ばれましても、現在の社会は、そんな立派なものではありませず、
私たちのうち、女中奉公中、主人に無理を言われ、ビズネス・マンとして、上役の人より無理を言われ、
いずれの職域においても、職業婦人は、横暴なる男性のために犠牲になり、苦労しているのが事実であります」

「経済界が安定して、生活苦が少くなり、一般職業婦人が給料にて生活ができ、
その上、服の一着もくつの一足も買うことができ得るようになり、他面、青年男女が一定年令に達したなれば、
結婚して、主人の收入にて生活ができるよう、また、全國民が、衞生思想が発達し、性教育が今少し普及され、
すべての点につき、世界の水平線まで進み、自他ともに認められる時期まで、今度の法律が出ぬようにしていただきたいと思います」


彼女の言い分が、すべて正しいとは言わないけれど、売春を続けさせて欲しいと言わねばならない境遇に陥ったのは、彼女たちの責任ばかりではないでしょう。
 
こういった彼女たちに対し、しかし世間は冷たかった。
 
昭和27年04月25日、参議院法務委員会において、参議院議員宮城タマヨが、売春防止法を早く施行してほしい、と求めています。

「東京の吉原を調べてみましても、現在ざつと、千三百人以上従業員がおります。
そうしてこの様相は、実に驚いたものがあるのでありますが、そういうことが、一体今後、いつまで許されるものか」

「慰安婦として、政府が集めましたその人たちが、まだ随分残つておる。
それで、その人たちは、実に大手を振つて、威張つてこの仕事に従事しておりますのでございます。
政府からもお招ばれしているんですよ、ということを、まだ言つておるのです。
それで一つ、どうしても早い機会に、これは何とかしてほしいのでございますが、これにつきまして、政府の御意見は如何でございましようか」


戦後、日本政府は、連合軍が進駐してくるよりも前に、兵隊には慰安所が必要だろうと勝手に決めつけて、特殊慰安所RAAを設けました
 
そこに、戦時中に慰安婦だった女性も、多く応募しました
彼女たちは、GHQが、慰安所の閉鎖を命令したことで失職したあとも、売春婦として生きていました
宮城タマヨは、いつまでそんなことをさせているのか、と問うのです。
 
売春婦風情が大手を振って、大威張りで生きるとは何事かと。
「政府にいわれて売春していたのだ」と、いまだに言っているが、許しがたいと非難する
のです。

司法大臣を夫に持つ宮城タマヨは、戦前から、上流社会の名士でした。
 
戦時中には、こんなことを書いていた人です。

「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも‥‥決して不利ではありません。
一億一人残らず、忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となつて敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」
「大義に徹すれば、火の中、弾の中をものともせぬ献身の徳は、肇国以来の日本婦道でございます」

『主婦之友』1945年7月号「敵の本土上陸と婦人の覚悟」

てなことを書いていた御仁が、敗戦とともに、くるりと手のひらを返して参議院議員におさまり、「平和憲法」「民主憲法」に賛成しました。
 
戦時中、この人は、夫を兵隊に取られた庶民の苦労など、お構いなしでした。
生活苦を嘆く若妻に、彼女はこう、ご託宣を下していました。

「良人の収入の範囲で、生活を築いていくと言うことが、モットーにならなければ、その家庭は健全に育っていきません。
新家庭がお金に不自由するのは、むしろ当然だと私は思いますよ」
「これからの日本では殊に、厳しいとか辛いとかいうことを、知らないで過ごされるような人を作らなくちゃなりません」

『主婦之友』1941年12月号「戦時下花嫁の生活建設相談会」

厳しいとか辛いとかいうことを知らないで過ごすというのは、苦労を苦労と思わないようになるべきだという意味です。
 
何でも闇で買える優雅な暮らしを送りつつ、平気でこんなことを書く人でした。
だから、元慰安婦の苦労など顧みることがなかったのは、当然といえば当然です。
元慰安婦たちの、「自分たちだってお国に尽くしたのだ」という、せめてものプライドを切り捨てて、
たかが売春婦が、「大手を振つて威張つて」いるのが許せないと。
 
こういう人が参議院議員に当選した一方で、松井リウは、紹介議員さえ得ることができなかったために、陳情書を政府専門員に代読してもらった。

日本人元慰安婦は、声を上げなかったのではありません。
声を上げたのです。
兵隊と一緒に苦労したのに、恩給ももらえない身の上でした。
戦史に華々しく飾られることもない彼女たちです。
せめて売春を続けさせて欲しい、としか言えない哀れな立場でしたが、そのような境遇に追いやった政府に向かい、精一杯の抗議をしたのでした。

その声は聞き入れられることがなく、無視されました
上品でご立派なご婦人から、嘲笑され、見下げられ、切り捨てられました
彼女たちのその嘆きと怒りの声が、かろうじて、いまも国会議事録に残っているのです。

2014年8月3日


⑦ 慰安婦の働き方と報酬額 1) 慰安婦業者の契約書を確かめる

ネトウヨや右翼評論家によって、慰安婦はとんでもない高給取りだ、というデマが流されています。
その証拠として、元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が、引き合いにだされます。
 
文さんが慰安婦をしていたときに、軍事郵便貯金として、26,145円を貯めていた通帳の原簿が、日本に残っていたのです。
小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
 
そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
だけど、その意見は間違っているのです。
文さんのことは、別の回で確かめるとして、まずは慰安婦の稼ぎについて、一般的な状況を確かめましょう。

それには、雇用契約を見てみるのが一番確かです。
 
女性達は、どんな契約を結んで、戦地へ赴いたのでしょうか。
上海派遣軍慰安所酌婦契約条件(しゃんはい はけんぐん いあんしょ しゃくふ けいやくじょうけん)』という文書が残っています。
 
慰安婦の募集に歩いていた男を、警察が捕まえて、持っていた契約書を出させたものです。
誘拐の疑いでいったんは逮捕したものの、軍がバックについていることがわかったので、警察は男を釈放してしまいました。

では、中身を見てみましょう。
ひどいものです。 (写真) 


前借金で身分をしばって働かせる、いわゆる「身売り」という契約です。
こういうのは公序良俗違反なので、民法上は無効でした。
明治時代に、大審院でその判例が確定しています
無効な契約なのに、庶民の法的無知に乗じて、有効であるかのように見せかけて結ばせた、詐欺契約です。

契約書は、16才の女子にまで、売春させようとするものです。
こんな子どもに売春させるのは、いくら親の同意があっても、完全に違法です。
前借金の最高は、500円。 
都会で働く会社員の初任給が、40円だったというので、その1年分です。
農家には大金でした。
契約書には、前借金のうち、2割を経費として天引きすると書いてあります。
500円借りても、2割を天引されるので、手に乗るのは400円
2年間働いて返さなければならないのは、元の500円です。
 
2年で2割は、アドオン金利で年利10%。実質年利はもう少し高くなります
社内貸付としては、常識はずれの高利と言えます。

慰安婦は、2年間の契約ですが、病気などで中途でリタイアしたら、年利12%をつけて、前借金を返さねばならない
そのうえ、別に、前借金の1割という、高額な違約金を取ると定めてあります。
これでは、女性は、なにがあろうと辞めるに辞められません
しかし本当のところ、業者側は、女性に途中でリタイアされたって、痛くもかゆくもないのです。
それは後で計算します。

慰安婦が、月給として手に出来るのは、水揚げの1割でした。
兵が支払った料金は、1回1円ないし1円50銭だったといいます。
1人30分で1日に12時間働けば、24人を相手に出来る勘定です。
実際には洗浄時間も休憩も必要だから、仮に20人としましょう。 
1日に20円ないし30円の水揚げということになります。
30日働けば600円ないし900円の水揚げです。
手取りが1割なので、手に出来るのは60円から90円の計算となります。

小野田元少尉によれば、普通のサラリーマンの初任給が40円でした。
普通のサラリーマンの月給は100円とされていました。
100円が50万円にあたるとすれば、慰安婦の手取りは30万円から45万円。
1日12時間、1ヶ月30日も体を酷使して働いて、この金額です。
時間給にして800円から1200円です。
バカバカしいほど安いと思いませんか。

住む、食べる、置き薬代は、業者負担だと書いてあります。
それ以外の経費、たとえば着物や下着や化粧品、日用雑貨、性病以外の医者代、嗜好品、酒、タバコなどは、女性が自分で負担しなければなりません。
彼女たちは、原則として外出も出来ないので、ちょっと手慰みにバクチでもおぼえさせられたら、あっという間にカスられてしまう金額です。

ところで証言によれば、1日40人も、相手をさせられた女性もいたといいます。
これぐらい働けば、女性にも貯金ができるでしょう。
しかし、そういうタフな一部の女性をのぞき、普通の体力、普通の性的能力しかない女性には、経済的実入りは驚くほど少ないのが実情でした。

さて、女性ひとりが月に600円ほども稼いでくれれば、給料を支払ったあとで雇い主が手にできるのは540円
これなら、500円貸し付けても、1ヶ月で元が取れます
半年働いてくれれば、ボロ儲けです。
途中でリタイアされたって、なんてことない。
前借金を回収したあとは「維持管理費」を支出するだけで、稼げば稼ぐほど丸儲け
維持費と言ったって、建物は軍が建ててくれるのだし、食料まで支給された所もあるから、本当の丸儲け。
雇い主側としてはもうかってしかたがない笑いの止まらない商売でした。

女性さえ集めれば、こんなにおいしい商売だもの、金にあかせた女性の獲得競争が始まったことは、想像に固くありません
前借金が釣り上げられ、最高で2000円ほどにもなったといいます。
芸者稼業は、すればするほど借金の増える商売だったといい、2年間働けば、その借金がチャラにできるというのは、プロの女性にとってうまみのある仕事だったと言えます。
業者の立場で言えば、2000円ぐらいなら、4ヶ月で元が取れるのです。
これほどうまい商売だから、金にいやしい連中が、女性を集めるのにまともな方法ばかりとっていたかどうか。
現在の闇金業や、ウラ風俗業にたずさわる紳士たちが、どういうことをしているか考えれば、類推できるのではないでしょうか。

今回は、業者と女性の、契約条件を見てみました。
次回は、軍が作った契約書を確かめます。

2014年8月4日


⑧ 慰安婦の働き方と報酬額 (2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる

前回は、慰安所業者の契約書を見ました。
今回は、軍が作成した規則です。
こういう契約を結べ、という決まりです。
 
資料の名前は、「馬来軍政監」作成の、「規則集」に収録されている「慰安施設及旅館営業遵守規則
そこに、「芸妓、酌婦、雇傭契約規則」というのが、定められています。(写真)



軍がこういった規則を作った背景に、無茶な搾取をする業者と慰安婦との間に、トラブルがあったのではないかと、私は推測しています。

では、規則を確かめてみましょう。

慰安婦の給料は、「慰安婦配当金といいます。
前借金の額により、配当金が異なります。
前借金が大きいほど、業者のリスクが高いから、「慰安婦配当金」の割合が低くされているのです。
身体はいつ壊れるか分からないんだから、借金が多いほど搾取を強めるのは、雇用主としては当然だ、ということでしょう。

1500円以上
雇主が6割以内、本人が4割以上

1500円未満
雇主が5割以内、本人が5割以上
 
無借金の場合
雇主が4割以内、本人が6割以上


前借金の返済については、「慰安婦配当の3分の2以上」と規定されています。
水揚げの4割~6割の手取りから、さらに、前借金を3分の2もさっ引かれるのです。
米軍が、捕虜にした慰安所経営者に尋問した、いわゆる「ミッチナ捕虜尋問調書」には、
慰安婦の負債額に応じて、経営者が水揚げの50ないし60%を受け取っていた、と記録されています。
 
軍の規則に合致した内容ですね。

ここまでは、規則の面から、待遇を見てみました。
しかし、決まりごとと実際が異なるのは、いつの時代も同じこと。
そこで、実際はどうだったのかを、別の資料で確認しましょう。
慰安婦の水揚げがわかる資料があります。

「鉄寧派憲警445号 軍慰安所に関する件報告(通牒)」
アジア歴史資料センター レファレンスコード. C13031898700

南寧方面 慰安所戸数32 慰安婦295 1日1人当り平均売上19円47銭

こういった記録なのですが、平均売上は、18円から19円程度のようです。
前回、1日の水揚げを、20円から30円と推測しましたが、その低い方の数字なのですね。
1ヶ月なら、600円です。

前出の「ミッチナ捕虜尋問調書」には、水揚げが「300円から1500円」と記録されています。
病気がちなら、300円程度しか稼げない女性もいたでしょう。
日本人慰安婦なら、将校専用となって、1500円稼げたかもしれません。
条件はいろいろですが、朝鮮人慰安婦の水揚げが、平均600円程度というのは、そんなに大きく間違っていないと思います。 

かくして、死ぬほど働いて、1ヶ月600円の水揚げを確保したとします。
2000円も借金があったら、水揚げの6割360円が搾取され、手取りは残り240円です。
そこから3分の2の160円を、返済金として天引きされるから、慰安婦の手元に残るのは80円です。
現代の感覚なら、40万円程度になります。
時間給にしたら1100円ほど
慰安所業者のつくった契約より、ちょっとだけましですが、これが売春という仕事にふさわしい稼ぎかどうか、私はかなり疑問に思います。

文玉珠さんは、ビルマで宝石を買った、と証言しています。
(元慰安婦が語るのは、悲惨な作り話ばかり、という評価が間違っている一例です)
月給40万円なら、宝石も買えたでしょう。
ただ、それは、1日12時間以上、年間7000人もの兵隊との、セックスの代償です。
こういう無茶をすると、計算では、1年で借金が消えることになります。
しかし、身体はもうボロボロでしょう。
女性を監禁して、辞めることも許さず、時間給1100円で、1日に12時間、月の休みがたった1日か半日で売春させたら、これはどう言い繕っても、やはり奴隷待遇ではないでしょうか

次回はいよいよ、文玉珠さんの貯金について書きます。

2014年8月5日 


⑨ 慰安婦の働き方と報酬額 (3) 秦郁彦説を批判する

本日は、文玉珠さんの貯金通帳について書く予定でしたが、予定を変えて、短くて済むものに変更します。

慰安婦は、月に1000円も2000円も稼ぐ高給取りだったという説が、ネットではびこっています。
こんなに高給だったから、応募倍率が高く、強制連行などする必要はさらさらなかったそうです。
この説の大もとは、慰安婦研究の第一人者、秦郁彦教授です。
本を読まない人たちにそれを広げたのは、産経新聞です。

教授は、元防衛大学校教授にしてプリンストン大学大学院客員教授、そして日大教授という、素晴らしい肩書きをお持ちの方です。
このような方が唱えておられる説を、私ごときが批判するのはおこがましいのですが、やはり一言せねばなりません。
教授は、こんなことを書いておられます。

「経営者との収入配分比率は40~60%
女性たちの稼ぎは月に1000~2000円、
兵士の月給は15円~25円。」
「慰安婦と戦場の性」270ページより

これをもとに、慰安婦は、総理大臣の2倍の給料をもらっていた、なんて言われております。
さて、この数字ですけど、ちょっと検算してみましょうか。

仮に女性が、50%を受け取るとします。
2000円稼ぐには、水揚げが4000円なければなりません。
どれくらいの兵隊を相手にしたら、これだけ稼げるでしょうか。

兵が支払う料金が、1回1円から1.5円だったそうです。
4000円にするためには1ヶ月に2600人から4000人の兵を相手にしなければなりません。
30日働いたとすると、1日あたり86人から130人!
こんなこと、できるんでしょうか?

兵の持ち時間は、1人あたり30分だったそうです。
すると、86人を相手するには、1日に43時間必要なんですよね。
130人なら65時間です。
とんでもない仕事ですね。
1000円稼ぐには、21.5時間から32.5時間です。
どんなに慰安婦が頑張っても、1日は24時間しかありませんし、人間は寝なければ死にます。


プリンストン大学院の教授は、数字には強いかも知れないけれど、その数字を現実に適用する想像力がないみたいですね。
ところが、さらに驚いたことに、この程度の検算もしないまま、評論家などによって、「慰安婦高給説」が、テレビで堂々と流されているのです。
そのバカバカしさたるや、本当にお話になりません。

2014年8月6日 


⑩ 慰安婦の働き方と報酬額 (4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳【写真】




慰安婦は高給取りだった、とのデマが右派から流されていて、その証拠として、元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が、引き合いにだされます。
元慰安婦の文さんが、戦時中に、軍事郵便貯金として26.145円を貯めていた通帳の原簿が、日本に残っていたのです。
小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
だけど、その意見は間違っているのです。


■軍事郵便貯金の正体

まず、「軍事郵便貯金」というのが何か、の説明をしておきましょう。
これは、郵便貯金と名がついていても、郵便局の貯金ではありません
軍事郵便局というのは、軍の機関です。
預ける通貨は、軍票でした。
文さんのいたビルマでは、ルピーの軍票が発行されていました。(写真)



1ルピーは1円、と数えました。
しかし、本当の円ではなく、ルピーを円に替えることは禁じられていました


■軍事郵便貯金は、日本円に替えられなかった

軍事郵便貯金が交換できたのは、軍人・軍属だけで、それも、現地で交換できたのではなく、内地への電信送金に限られていました
金額も、月額100円まででした。
つまり、生活費相当です。
民間人の交換は、禁じられていました
なぜなら、軍人・軍属の給料は、戦時予算で手当されていたので、円の裏付けがあったけれど
日本軍が物資を調達するために、大量発行した軍票には、円の裏付けがなかったからです。
 
円の裏付けのない軍票を、大量発行したので、現地はインフレになりました。
このインフレが、日本国内に波及しないように、政府は、軍票と円の交換を禁じていたのです。

資料1 「南方経済処理ニ関スル件」
昭和17年1月20日 閣議決定
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00374.htm

資料2 大阪毎日新聞「南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰」1942.7.16(昭和17)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321

現地がどれほどインフレで苦しもうと、日本だけは安泰という、身勝手なシステムを作っていたわけです。
この操作には、横浜正金銀行が使われました。


■文さんがもらったのは紙くずだった

では、軍票の1円は、日本円でいくらになるのでしょうか。
そのことは後にして、先に、彼女が、軍票をたくさんもらった背景について述べます。

彼女はこれを、「兵隊からもらったチップ」だと証言しています。
印字された日付をみましょう(通帳の写真参照)。

1945年4月4日~5月23日の3ヶ月足らずの貯金が、20,360円です。
彼女は、ビルマのマンダレーにいたのですが、ここが陥落したのが45年3月です。
この時点からあと、軍票は使えなくなっています。
3月に価値のなくなった軍票を、4月にもらっているのです。
文さんは、使えないお金-敗戦で紙くずとなった軍票-を、日本軍将兵から、わしづかみで渡されていたのです。

こういう軍票をつかまされたのは、慰安婦に限りません。
在留邦人も同じでした。

その人たちは、日本に引き揚げてきてから、日本円に変えて欲しいと要求しました。
交換できるようになったのは、昭和29年のことでした。
持ち込まれた金額は、10万円が最高、大部分はそれ以下だったそうです。

(昭和29年第019回国会質疑)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html

文さんは2万6千円だから、かなり下の方の金額です。

1軍票円が、1円に交換されたわけではありません
換算率は、法律で定められていました。
以下のサイトで、換算表が確認できます。

軍事郵便貯金等特別処理法(昭和29年法律第108号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs29-108.htm

その換算表で計算すると、文さんの貯金額は、日本円で3,215円となります。
この年の大卒銀行員初任給は、5,600円だったそうです。
その1か月分にもなりません
ということで、文さんは全然金持ちではなかったことになります。

この項、つづく

2014年8月10日 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする