ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

心地良い疲れ

2008年09月14日 | ひとりごと
あのぉ~、今日は気温34.5℃です。なんでかなぁ~。
それにとっても蒸し蒸しします

久しぶりに扇風機に登場していただき、ピアノ部屋の細かい置物や写真類の荷造りをし始めました。
わたしってやっぱり、ええ加減に物を増やすタチなんやなあと、深いため息をつきながらやってます。
次回こそはシンプルに!
日本からこちらへの引っ越しがあまりにも悲惨だったので(それに巻き込まれた方々、今も申し訳ない気持ちでいっぱいです)、
それを教訓にして、次回こそは!と固く固く胸に誓ったはずなのに……ああそれなのにそれなのに
でも、なぜだかガラクタは見当たりません。なので、この際引っ越しだからと気軽にパッパッと捨てられる物も無く……。
部屋がスッカラカンになるまで、とりあえず凹まないで、包んで詰める、また包んで詰めるを繰り返していくしかありません。

そんな悲壮な決心をしているわたしの横で、ヘラヘラ口笛を吹いている旦那
なにやらラプソディ イン ブルーの一節っぽい。
え?ヤツは昨日、会場で興奮して褒めちぎってくれるお客さんに「もうこの曲は当分聞きたくないですよ~」なんて言うてたはず。
まったくヤツったら、いろんな質問してくる人達にわたしが答えようとすると、聞かれもしてないのに、
「いやあ、これは2回目の舞台でして」とか、
「アマチュアいうても、ピアノを教えてるのやからまあ当然っていうか」とか、
「暗譜も、こっちがもう聞きとうないっていうほど弾いてりゃできるでしょ」とか、まあほんと、好き放題!
おめ~日本のおっさんか!(いえ、わたしは別に、日本のすべてのおっさんがそうだとは言うてません)と、思わず頭の横っちょにゲンコツかましたくなりました

ま、彼なりに興奮して、彼なりに照れて、彼なりにはしゃいでたんでしょう。
姉さん女房らしく、フフッと微笑んで、軽く受け流してあげることにしましょう
なんちゃって、そんなん全然似合わへんがなと、独り突っ込みを入れて苦笑いするわたしでした。
コンサート本番の翌日、体のそこかしこに少し疲れが残り、それでいて心はふんわりと軽くていい感じ





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やれやれ

2008年09月13日 | 音楽とわたし
無事に(完璧ではないけれど)、楽しく弾いてきました
プログラム最後の出番だったので、2部が始まってからは、もう居ても立ってもいられなくなって、
ホールの2階にある小さな部屋でちょこちょこ弾いてたら、ありゃりゃ?なんの音やったっけここ……シ~ン
ええ~い、あるがままの自分、素の自分、エエ格好せんと出したろやんけ~と腹を決め、階段を降りて行ったのだけど、
あれ?わたしって息ちゃんと吸えてる?みたいな……トホホな状態になるんですね~本番直前って。
それでも楽しかった。満席のお客さんも楽しんでくれてたみたいで、それが客席の方からも伝わってきて、とても幸せでした

音や指番号や強弱や感情の記号を読み、鍵盤を叩いてみて、こんな響きでいいのかを聞きながら1小節ずつ進めていく作業は、なかなか根気と根性がいります。
作曲者の気持ちに添いながら、自分の気持ちもしっかりと入れて、譜面上の音符に息吹を与えます。
やっぱり好きだからこそできるのだろうなと、自分ながらに思います。
でも、今回のガーシュインは、ちょっとユニークな方法で曲の研究をしました。
それはユーチューブ。いろんなプロの演奏家やアマチュアの人達の演奏を、このサイトを使って聞き、
ううむ、ここのところは彼のが好きやけど、あそこは彼女の方がきれいやな~とか、こういう弾き方だけはしたくないな~とか、
好き勝手に批評しまくりながら、真似してみたり、反対の弾き方を試してみたりして、
だんだんに、わたしの、わたしらしい、わたしだけのガーシュインを作っていきました。
時代は変わりましたね。

初めの1音から始まった練習も、そうやって毎日少しずつ進めていくと、いつかは最後の音に到達します。
それからまた数えきれないほど弾きながら暗譜をして、暗譜ができてから、また音作りをやり直します。
本当にキリがありません。どこまでやってもどれだけやっても、まだまだできるんじゃないかって思ってしまう。

それでも舞台の日はいつかやって来るので、どこかでキリをつけて観客の前に立ち、お辞儀をして弾き始めます。
練習第一日目から舞台本番まで……それはそれは孤独な作業の連続です
問いかけるのも、頭を抱えるのも、答を見つけるのも、全部自分。
それが舞台の上のピアノを弾き始めた途端、もう独りじゃないんですね。
あの連帯感。目に見えない、けれどもはっきりと伝わってくる心の揺れの心地良さ
わざわざ遠くから、5才の双子ちゃんを連れてやってきてくれたK子ちゃん、ほんとにありがとう
そしてこのブログを通じて、どうやったかな、うまいこといってるかなって心配してくれていた皆さん、ほんとにありがとう

んで、もう、次の曲、決めちゃいました。ラフマニノフの2台ピアノ曲。
ほらね、やっぱりつける薬ないでしょ
さてと、明日からパッキングに励むぞぉ~
え?まだやってなかったんって?
いや、その、指を故障させるわけにはいかんかったから……苦しい言い訳ですね、はい







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ドキドキ

2008年09月12日 | ひとりごと
ほんま、アホですね
明日の舞台のことを考えて、昨日の朝ぐらいからドキドキドキドキ
毎回おんなじことの繰り返し、この手のアホにはつける薬もないのであります。

今日も、自分の家の、自分のピアノを弾いてるのに、か弱いわたしの心臓は痛いほどバクバクドキドキ、
ああ、わたしってなんて繊細なのかしら……
緊張からかお腹も緩んできて、いつものちょい便秘症が快調に……

けど、こうやって、なんの意味もない、かなり前の時間からドキドキしてると、
しまいにゃ心臓の方が飽きてきて、もうええわアホらしい、疲れた、勝手に緊張してなはれ、みたいになって、
自分を見失ってしまうほどドキドキするってことにはならないみたい。
これはおばちゃんになってからのわたしのドキドキ時を観察し、統計を取ってみた結果出てきた結論(そんなたいそうな……)です。

昨日は旦那に鍼やってもらいました。
どういうランクにする?って聞かれて、あんまりボォ~ッとし過ぎひん程度にドキドキを鎮めておくれ、と注文すると、
ハイハイ、と快い返事。
相手がわたしだけに、適当にやってるのか真剣にやってるのかよう分からんのですけど、
さすがプロですね、切ないドキドキが減って、首の付け根と背中の筋肉が和らいだような気がします。

日本の師匠からも励ましのメールをいただきました。
決してエエ格好しようと思わないこと、全部見せようとすること、
頑張ってる素(す)の自分を見てもらう覚悟をしっかり持つこと、
経験者であり先輩である師匠の言葉は、とってもとっても胸にしみます。

それにしても……、
あ~あ、もうこんな気分二度とイヤッ!と毎回思い、弾き終わって舞台から下りたら、さて、次は何弾こ!と思う……。
どなたか、こんなわたしにつける薬、発明してくれませんか

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911

2008年09月11日 | 世界とわたし
2000年の春、桜が満開だった丁度わたしの誕生日に、わたし達はアメリカに移住した。
旦那は生まれて初めての会社員になり、マンハッタンへの通勤が始まった。
前々から彼自身が認めていたことだけど、よほど会社員という職種が嫌いだったらしく、
彼は日に日に荒れていき、わたしはまるで腫れ物にでも触るように、ビクビクしながら毎日を過ごした。
わたしはわたしで、ちょっとそこまで行くのに車に乗ると迷ってしまい、またかーと呆れる息子達を後ろに乗せて泣きそうな気分で運転したり、
日本だと簡単に済む手続きの電話(例えば電気会社や病院や学校)が、どんなに頑張っても最後まで進まず、途中で切らなければならなかったり、
スーパーのレジ係に、とてもつまらない小さなことでバカにされたり、
そんなことが続いていくうちに、43年生きて自然に持てていた自信が、まるでそんなものは最初っから無かったかのように消えていった。

かなり落ち込んだまま、翌年2001年の夏に息子達と一緒に日本に行き、忙しくもそれなりに楽しい旅行を終えて帰ったら、
空港まで迎えに来てくれた旦那が、家までの車中で、9月初めに会社をクビになると思う、とボソリと言った。

日本での厳しい生活から一転して、高給取りの会社員になった旦那。
だから、それに見合った家賃の家に引っ越した。
ピアノを教えるのも、1にも2にも生活のため!ではなくて、少し気楽になった。
そして失業……。

くよくよしてもしゃあないやん。もうここで暮らすって決めたんやし、きっぱり決めて生きてたらなんとでもなるわ。

なんでもいいからお金が必要だった。どんな小さな用でも、頼まれて、しかもお金をいただけるならありがたい。

マンハッタンに住む友人夫婦の赤ちゃんが急に熱を出してしまい、けれどもその日はどうしても欠席できない会議があるので、
悪いけれど、家まで来て、ベビーシッターをしてもらえないだろうか、と頼まれた。
もちろんわたしは二つ返事で引き受けた。旦那の失業保険は週に400ドル。家賃さえも払えない。

その日の朝、家の近くのバス停で8時10分のバスを待っていた時、空があんまりきれいに晴れていたので、そこに居た人達と空に乾杯をした。
その青は、キリリと澄んで、体に流れ込む空気までうっすらと青い感じがした。
ハドソン河を横切るリンカーントンネルに向かうスロープが近づくにつれ、おなじみの渋滞が始まった。
マンハッタンの街が一望にできる、その見晴らしの良い位置は、天気の良さも手伝って、乗客は皆、渋滞なんか全く気にせず、その景色を楽しんでいた。

「Oh my God!」
その悲鳴が聞こえた時、わたしの視覚の中に、大きな鳥のような飛行機が入っていた。
スローモーションのようにゆっくりと、けれどもしっかりと決めたように、それは高いビルに向かって行って、
ものすごい煙と、キラキラ光る銀色の金属片と、オレンジ色の美しい炎になった。

あの瞬間、わたしはなぜ、きれいだなあ、などと思ったのか。

バスは完全にストップし、車内は悲鳴と、怒鳴り声と、携帯をかけようとして叶わず暴言を吐く人だらけになった。
そしてまた一機……。
急に車内はシーンとして、皆は呆然としたまま、数人の女性が泣き始めた。
聞こえてくるのは、バスの運転手とバス会社が交信する無線の声と雑音だけ。
「事故ではなく、テロの怖れがあるので、トンネルの手前で乗り換えてニュージャージーに戻って欲しい。どうしても行かなければならない人だけこのバスに残るように」
満席の乗客のうち、3人だけがバスに残った。そのうちの1人がわたしだった。

街はものすごく混乱していて、閑散と混雑と興奮と憤りが入り交じっていた。
トンネルと橋は閉鎖されてしまい、夕方になって唯一動き出したフェリーに乗って、ニュージャージーに戻ることにした。
何重にも折れ曲がった行列に並び、軍用車と救急車と消防車だけが南に向かって行くのを見ていた。
献血をする大勢の人達、
自分の庭からありったけのバラをバケツに入れて、これが少しでもあなたの慰めになりますように、と手渡してくれた男性、
いつもは商売しているワゴンの水を、配り歩く男性、

人間ってなんなんだろう。

フェリーは、いつものコースを変更して現場の近くを横切り、慰霊の汽笛を何度も鳴らした。
大人も子供も、男性も女性も、皆、声をあげずに涙を流していた。
すっかり日が暮れたニュージャージー側の港には、異様に大きなテントが三基張られていて、
乗客は全員、有無を言わさず、服も鞄もそのままに、頭のてっぺんからつま先まで、念入りな放水を受けた。
全身からポトポトと水滴を垂らしながら乗った電車にはクーラーがかかっていて、わたし達はガタガタと震えながら揺られた。

世界には、いろんな人が生きている。
生きていくうちに、どんなふうに折れ曲がって、どんなふうにおかしくなっていったら、こんなことになるのか、
大きくなり過ぎた国と、いつだって忘れられている国。
ただそれだけでは説明にならない。

あの日、呆然と通りに立ち、言葉も表情も失った人達が、何度も繰り返しつぶやいていた「なぜ?」。

それをわたしははっきりしないまま、できないまま、他人事にして暮らしている。
できれば、その手の人災に、自分も家族も巻き込まれないことを祈りながら。

911 あの日、いったい何人の人が、救いを求めてこの番号を押したのだろう。




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嗚呼オイルタンク!

2008年09月10日 | お家狂想曲
これは、アメリカ北東部の、しかも買おうとする家が築100年ぐらいで、
アップデートもなんもしてない、昔のまんまで維持されてきた家だった……という、
かなり限定された状況に陥った人でないと、さっぱりさっぱりな話と愚痴です。
だから、さらっと聞き流してもらえたらありがたいです

オイルタンクの件が、今買わんとしている家の、最初っから最後まで引っかかる問題になるのは分かっていました。
けれどもほんまに、ほんまのほんまに、千回ぐらいほんまに、なんともややこしくてうんざりです
昔はおおらかやったっちゅうか、なんも考えてなかったっちゅうか、
そんな、金属製のタンクにオイルを満杯入れて地中に埋めちゃったりしたら……、
劣化したタンクからオイルが漏れたらどないするって、当時はだ~れも考えへんかったんでしょうか???
地中のタンクと地上のタンク、これらをどちら側が責任取るかってんで、夏の間中もめてたんですが、
秋になった今も、なぜだかまだ、うちと向こうのテーブルの上でピンポン球が打たれては返され……、
時々、地球を一周でもしてきたんかって思うほど、返ってくるのが遅かったり……

チャッチャと済ませたいわたしと、いつもは気が短いのに、なぜだかこういうデカい物事に遭遇するとおっとりする旦那。
それにしてもダラダラダラダラ、事があまりにも進まないので、旦那にひと芝居打ってもらいました。
それでやっと、今朝のことですが、オイルタンクの件が片付いたようです。(片付きました、と言えないのが哀しい……
地中のオイルタンクを取り出して、土の汚染状況のテストをし、結果次第では浄化をし、
問題がすべて解消されたという証明書を州の機関の確認を得て作成する。
以上のことを、売り手側が全責任をもって行う。
地上のオイルタンクも劣化が顕著なので撤去し、新しいオイルタンクを地下室に設置する。
以上のことはわたし達がするのだけれど、撤去にかかる費用の半分を、売り手側にも負担してもらう。

まあ、タンクのことはすべて向こうの責任でやってもらいたかったけれど、
新しいオイルタンクの購入費と、撤去分の半分を負担するというところまで折れたんですね。

で、これまで待たされ続けてきたタンクの件、
なのに突然向こうから、我々が地中のタンクをどうこうしている間に、さっさと新しいタンクを入れてもらわないと困る、などと言ってきて、
さすがの旦那もムカっとしたのか、ステュアート(弁護士)に電話で抗議してました

あの家に住んで、少しずつきれいに整えていって、心地良い空間にしていきたいと思っているのだけれど、
それと共に、頑張ってお金を貯めて、ヒーティングシステムをオイルからなにか他の物に換えないと。
日本人の得意技、個別ヒーティングももちろん選択肢の中に入っているのだけど、
如何せん、ここの冬の寒さはちょっと、半端じゃないので、どういうふうにできるのか、今年の冬が初挑戦です

毎日のように、鼻水たらたら~な記事を書くことにだけはならないようにしたいものです。

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嗚呼タイミング!

2008年09月09日 | 家族とわたし
昨日は目映いばかりの青空、なのに今日はどんより曇っています

うちは旦那とわたしと、今期から家から大学に通うことにした息子Kの3人が、それぞれ車を必要とするのだけれど、
車は2台、どちらも旦那の両親からのお下がり。

夏休み中は、わたしの仕事がかなり暇だったのと、息子も大学に通って無かった(当たり前ですね)のとで、
なんとか2台で誤摩化せてきたのだけれど、始まった途端、あかんやろそれは、という状況が続出。

かといって、家の支払いローンを組む直前のわたし達は、新たな借金なんてびた一文できない。
クレジットカードの使用状況の評価を落とすわけにはいかないのです。
これが落ちちゃうと、どこの金融公庫も貸すのを渋り出すし、そうでなくとも今時のバンクはかなり慎重になっているし……。
わたし達夫婦、どちらも水商売な上に、旦那のキャリアはやっと3年、わたしのは長いっちゃあ長いけど、移民だし……。

なので、もうしばらく、2台でなんとか切り抜けてくしかありません。
2台もあったら充分ええじゃろうが、とお叱りを受けそうですが、
アメリカの郊外に住んでると、歩いてちょっと○○までとか、バスとか電車を使うとかがマジでできないので、
仕事や学校に、バラバラの時間帯に行かなければならない人がいる場合、その人数分だけ車が必要なんですね。

で、昨日も車のことでちょっと問題があったので、それを繰り返してはならぬとばかりに、
朝の出勤前の旦那に今日の彼の予定を聞いたら、
「今僕は、ほんとに楽しみにしてた朝のこの安らいだ時間を過ごしてるのに、なんでそんなことを聞いてくる?」と怒り出し
「そんなことを聞かんかったばっかりに、昨日はめっちゃ無駄な運転をせなあかんかったからやん。でももういいわ、お楽しみくださいませ!」とキレたわたし。

ああもう~、何事もタイミングタイミングタイミング!
けどさ、生きてりゃさ、そんなことも言うてられへん瞬間ってあんねん

って、まあまあ、そんなに怒らんでもって思われる方もいらっしゃるでしょうけど、
実はこの質問、昨日の晩にしたのです。けど、旦那はその時寝るモードに入っていて、そういうことは明日の朝聞いてって……。
そういうことって……なんちゅうか、あなたの人生にとって1番大切なものはなんですか、みたいな深刻な質問じゃなくて、
明日のあんたの仕事の予定はどないなってんの?って、ただそれだけのことやんけ、とわたしは思うのですよ。
なのに……まったく……融通きかんっちゅうか……なんだか大げさっちゅうか……。

まあ、16年も経った今じゃ、わたしも負けずに、そのタイミングとやらを逆手に取って、しっかりリベンジしてるのだけど……。

あ、雷が鳴り出した。
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父の誕生日

2008年09月08日 | 家族とわたし
生きていれば77才。数えでいうと去年が喜寿だけれど、こうして7が並ぶのはやっぱり楽しい。

父は好き勝手に生きているように見えて、実は気が弱くて優しい男だった。
人のことが気になって仕方がないのに、すぐに面倒くさくなって、結局は我がままのし放題。
人も自分も傷つけたくないばかりに、加えて頭の回転が早かったので、小さなことでも簡単にウソをつく癖が治らなかった。
けれどもそれなりにチャーミングだったのでしょう。
結婚を5回、亡くなる2週間前に発覚した、わたしの母の前の非公式の国際結婚を入れると実に6回、
そこにつなぎのガールフレンドを混ぜると……途切れなかったなあ、あっちの方は。

彼の娘であったが故に、いろんなことを体験させられたのだけど、それでもなぜだか憎めない不思議な人。
わたしの方もやっとこさ生活がまともになり、ちょっとランチデートでもしようかと誘ったら、そりゃもう嬉しそうな顔してやってきた。
大阪と大津の中を取って、新しくなった京都駅で待ち合わせたのだけど、
6人目の奥さんのお尻にしっかり敷かれていたので、デートは極秘、計画するのはなかなか難しかった。
3回目のデートの直前、奥さんから電話がかかってきた。
「あなたのおとうさん、昨日、救急車で病院に運ばれたよ」

スキルス性胃癌、ステージ4、余命2ヶ月。
旦那の生徒に、大阪の成人病センターの外科部長がいて、本人への告知を条件に転院が許された。
告知なんかしたら、それだけでもう死んでしまう。それが家族の心配だったけれど、時間が無かった。
たまたま、カメラ検査で大腸癌の可能性大ありと宣告されていたわたしが、その告知の役を引き受けた。
愛娘が癌?!それがいい?クッションになって、自分の癌をスルッと受け入れてくれた。
癌との闘いが始まった日から終わりの日まで、わたし達は泣いたり笑ったり、くやしがったり喜んだり、苦しんだり安心したり、
ありとあらゆる感情の渦にもまれながら、今日一日を生きて明日を迎えることだけを祈った。

モルヒネが入り、意識が混沌とし始めた頃、父はさかんに「上六に行こ。上六の天ぷら食いに行こ」と言い出した。
夜中にいきなりガバッと起きて、どうしても行くと言って聞かない父を車椅子に乗せ、
薄暗い病棟の廊下をグルグルグルグル、どうか上六に行った気分になっておくれ、と祈りながら回り続けた。
1回目はうまく誤摩化せた。2回目は少しぐずり出し、3回目にはとうとう怒り出した。
怒って暴れる父のすっかり痩せ細った肩を掴んで、車椅子の背に押さえつけながら、わたしはものすごく腹を立てていた。
なんでこんなことになったん、なんで?なんで?なんで?!

亡くなる直前の、下顎呼吸が始まった父を抱きしめて、わたしは約束した。
「お酒いっぱい飲ましたる!天ぷらも思いっきり食べさしたる!」

だから父の命日と誕生日には、遺影の前にお酒と天ぷらをお供えする。

食い道楽で口うるさかった父はきっと、
「この酒、ちょっと深みが足らん。こんなペシャッとした衣の天ぷら食えるかいな」と文句をたらたら言いながら、
まあしゃあないな、という顔をして食べているに違いない。

とうちゃん、誕生日おめでとう。

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わたし的心理学

2008年09月07日 | 音楽とわたし
昨日のドレスリハーサル、コケまくり
ハンナの影響で暴風雨がやってきたマンハッタン。気圧が低くなると眠くなるわたし。自分の番がやってくるまであくびの連続。
こんなボォ~ッとしててええんやろか?と思うのだけど、眠気は一向に去らず。
バレエダンサーを間近に見るのは初めてだったので、彼女のストレッチからダンスまでに至るすべての動作にポ~ッと見とれたりして、
なんとも緊張感の無いまま舞台に上がり、弾き始めたらいきなり心臓がバクバク。結果は上記の通り。

帰りの車の中で、やや落ち込みながら、わたしはわたしのことをぼんやりと考えていた。

5月のコンサートの1週間前、旦那が予約してくれた催眠療法士から電話がかかってきた。
「今度のセッションの前に1つだけ聞かせて欲しいことがあるの。あなたのピアノ人生の中で1番幸せな気持ちになった日のこと、思い出して教えてくれる?」
そんな日なんか無いもん、思い出せへんもんと黙りこくるわたし。それを彼女も黙って待っている。
あ、もしかしたらあの日、あの時やったら嬉しかったと言えるかも。
母が家を出てしまってからしばらくして、しょげていたわたしを元気づけようとしてくれたのか、
わたしの夢だったショパンの幻想即興曲を弾いてもいいよと許可してくれたピアノの師匠。
嬉しくて嬉しくて、その日から毎日毎日、それこそ実力と全く合わない曲に取り組んで、それなりに弾けるようになった。
そしてそれを市が主催するミニコンサートだかで弾かせてもらい、演奏中、生まれて初めて幸せな気持ちになったのだった。
「いいねいいね、その気持ちをよく思い出して。じゃあ今度は、その気持ちを一言で表すとどんな単語になるかしら」
再び長い沈黙……。
難しい曲を弾けるようになったこと?ううん、違うような気がする。もっと別の……。
突然、市立図書館のロビーで弾いている子供だったわたしが思い浮かんだ。
わたしの心が叫んでいた。おかあさん、おかあさんと、彼女に向かって。
「おかあさん、見て、ほら、わたしこんなに上手に弾けてるよ。わたしは大丈夫。そやからおかあさんも頑張って!」
母と別れた辛さや哀しみを、ピアノと一緒に乗り越えようとしている自分を、もう一人の自分が褒めてくれているような気がした。
「その時のあなたを一言で表現すると、Triumph という言葉がふさわしいと思う。この言葉をよく覚えておいて」
スペルを聞いて慌てて辞書で調べると『困難なことに打ち勝つ/成功を喜ぶ』と書いてあった。 

若かった頃、言葉通り、命からがら逃げ切ったこともある。
心が弱り切ってしまって、電話のベルが鳴ると失禁したり部屋の隅にうずくまったこともある。
そういうのって困難と呼ぶのにふさわしいよな、うん。
今の自分は?
生きるお金に困っているわけじゃなし、お金のせいで脅かしてくる連中がいるわけじゃなし、
練習しようにも、たったの10分だって集中させてくれないチビ息子達がいるわけじゃなし、
なのにいったい、なんだってこんなふうにヘロヘロしてるんだろう?

結局のところ、あとは気持ちの問題だという時点にまで至っている場合、気持ちをシャンとさせるのも凹ませるのも自分次第。
プラス思考、イメージコントロール、瞑想etc。
ああいうのはオリンピックとかに出る1部の特別な人達のもんだと思っていたけれど、
小さな町の名も無いピアノ弾きにだって、とっても大切なトレーニングなんだと、50才過ぎてやっと気がついた。

食欲と考察の秋
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夢と現実

2008年09月06日 | 音楽とわたし
今日はかなり空気が湿っています。ハンナさんがやって来ているからだと思います。
ニュージャージーをハリケーンが直撃するってことは滅多に無いので、こんな呑気なこと言ってられるけど、
ジメジメだけじゃ済まない地域の皆さんは、サイズがサイズだけに大変なんだろうなと、またまた呑気なこと言うてます。
こういう日はピアノの鍵盤がネチャネチャして、ガーシュインもなんだか演歌っぽいんだな~(演歌ファンの方、ごめん!)。

そんな中、今朝からレッスンした55才の女性。
レッスンの終了間際にいきなり涙ぐんで、ビックリしてたら、「脳腫瘍が見つかって」と言われて……。
なにやら、20年ほどかかっておっきくなった腫瘍(2センチ×2センチ)らしく、
けれども脳の外側にできたことと良性だということでちょっとホッとしました。
彼女は、ウッドベリーコモンというここら辺では名の知れたアウトレットモールから更に20分ほど奥に行ったニューヨーク州から来てくれていて、
片道だけでも1時間半かかるのだけど、もうかれこれ4年近く通ってくれています。

彼女との出会いは、バイト先のクロネコヤマトの倉庫。
ちょっとでも生活の足しにと、夏の間、車で30分ぐらいの所にあるクロネコの倉庫で、箱詰めのバイトをしていた時でした。
そこは薄暗くて、空気が淀んでいて、蒸し風呂みたいに暑くて
それだけでもかなり気分が落ち込むのに、箱に詰める商品の多さと重さとややっこしさったら……
そんな中、なんだか浮いちゃってるぐらい陽気な女性がいて……。
彼女ったら、仕事の間中ずうっと歌っていて、それもオペラのアリアとかで、なかなかの美声。
「歌、好きなんですね」って言うと、「大好き!でも、ピアノはもっと好き!」と言うので、
「わたし、ピアノ教えてるよ」ってついつい言ってしまいました。
「え?なんでピアノの先生がこんなとこで」って言われて、「ピアノの先生だっていろいろ抱えてるから」と言うと、
なんだかしんみり~な空気が濃厚になりかけたので、慌てて話題を変えました。
彼女はそれまでずうっと自己流でピアノを弾いてきて、死ぬまでにドビュッシーの『月の光』を弾きたいっていうのが夢でした。
わたしにそのお手伝いができたらって思ったけれど、家が遠過ぎるなあと躊躇していたら、
「行く行く、絶対に行く。住所教えて!」

それから始まった彼女とわたしのピアノ問答。自己流の矯正の大変さは、自己流の年月と比例するのだけれど、
彼女の場合はかなり年季が入っていて、本人はもちろんのこと、わたしにとってもなかなかキツかったなあ。
『月の光』の夢は叶い、それからもショパンやベートーヴェンにも挑戦。
今年の11月の発表会には、再びドビュッシーを弾く予定だったのだけれど……。
「手術がうまく間に合ったら、発表会に出たいな~」と言う彼女をギュッと抱きしめました。

東北からこちらに越して25年、父親を日本から引き取って、痴呆と寝たきりの数年間、介護と仕事だけでもてんてこ舞いなのに、
それでもコツコツ、こんな遠い所までレッスンに通い続けてきてくれた彼女。
絶対に大丈夫!
なんか気の利いた言葉がないかしらんと思いながら口を開いたら、
「頭をパカッと開けたら、リズムがスラスラ~ッと読めるようになったりして」……

ほんま、アホとしか言い様の無い自分に、ただ今かなり落ち込んでます……
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ピアノとわたし

2008年09月05日 | 音楽とわたし


明日は13日のコンサート本番に向けて、出演者が全員そろってドレスリハーサルをする日。
メンバーはニューヨーク近辺に住む、アマチュアクラシックミュージシャン達。略してACMA。
毎月第二土曜日に、マンハッタンの音楽学校の演奏室に集まって、演奏したい人は演奏し、
それを聞きに来たメンバーは、その演奏について好きなことを言う。
弦楽器あり、管楽器あり、ハーモニカあり、バレエあり、クラシックならなんでもありの会。
とは言っても、通常の会ではやっぱりピアノの演奏が多いのに、
今回の、会の発足1周年記念コンサートでは、だ~れもソロを弾こうとしない。おいおい

わたしは今年の5月にモントクレアコミュニティバンドと共演して、ガーシュインのラプソディ イン ブルーを演奏したのだけど、
なにしろアメリカンに大受けのこの曲、またどっかで弾いてよってリクエストされて、今回は2台ピアノでやることにした。

そして本番が近づいてきた今日この頃、わたしはなんだか混乱しているのです。

5月の本番前、わたしがいったいどんなだったか知ってる人は、これが同じ人物だとは想像もできないかも。
狂ったように毎日毎日練習しているのに、確かなものが得られないばかりか、
不安キノコがニョキニョキ、あっちからもこっちからも生えてきて、
あまりの惨状に見かねた旦那が、催眠療法士に治療の予約を取ってくれたりした。
なんぼ単純なわたしでも、英語で催眠かけられてもなあ……とかなり迷ったけれど、
あの時はとにかく、これであなたの心は安らかになりますと言われりゃ、少々えげつない物でも飲めそうな心境だったので、
ダメで元々、全然効かんかったら悪いから効いたふりしよう、などと思いながら受けた。
治療の細かい話はまた違う日にすることにして、結果だけを言うと、めちゃくちゃ効いた
治療の様子を録音したCDを聞きながら、すうっと眠りに入っていくわたしを見て、旦那は心底ホッとしたそうな。
そして本番。
もちろん恐かったし緊張しまくったけれど、演奏中にどんどん楽しくなってきて、
聞きに来てくれた人達も、スタンディングオベーションで応えてくれた。

そしてあれから4ヶ月が経ち、久しぶりにガーシュインの練習を再開したのだけど、
あんなに恐かった舞台がどうしたことか、なんだか楽しみだったりするのです。
そんなはずはない。絶対におかしい。
舞台が楽しみなんて、ピアノを始めて43年経つけれど、たったの1度だって無かったもん。

もしかして、こういう場合、舞台に立った途端にクラクラするほど緊張して、自分を見失ってしまうのかも。

なんて自分で自分を脅かしたりもするのだけれど、それもまた無駄というかアホというか。

まさか、5月にかけられた催眠がまだ効いてるのかな?
でも、そういうまさかは嬉しい。なので、そう思い込んでみるのもいいかもね

ということで、マンハッタン近辺にお住まいのみなさん、よかったら聞きに来てください。
場所と日時は以下のとおりです。
ピアノトリオあり、フルートあり、ハーモニカあり、バレエダンスありの楽しいコンサートになると思います

場所
Turtle Bay Music School
Em Lee Concert Hall
244 East 52nd Street (between 2nd and 3rd Avenues)
Manhattan, NY
日時
9/13/2008/3:30 p.m.






コメント (2)
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