29日の王朝巡りをしてた時に、ガイドのエルヴィスさんが何回となく話してた1910年の出来事。
わたしはそのことも知らんまんま、韓国を旅行した。
学校で習たかなあ……。
歴史は好きな科目やったんやけど、全く覚えがない。
そもそも、毛沢東かて英雄そのものやった時代に、わたしは小学生やったわけで、
それに加えてわたしときたら、人の言うことを疑うて聞くということを知らんと大人になったような、超~大ボケな性質で、
そやし、日本という国が、大日本帝国やった頃にやらかした事柄をほとんど学ばんままに、ほん最近まで生きてきた。
そらね、毛沢東も、独裁に入るまでには、ええこともいっぱいしはったやろう。
お札になった伊藤博文かて、日本が韓国を保護国化して(もちろん無理矢理)、韓国の外交権をもぎ取った後に設置された韓国統監府の初代統監になった(1906年)りするまでは、
いろんな業績を上げはったやろう。
けど、そんないろんなええことや業績を、いっぺんに覆してしまうような事をしてしもたら、それはもう、取り返しのつかへん汚点になる。
朝鮮半島に執拗にこだわったのは、ほんの一部の人間やった。
その人間に加担した人間や機関やらが、あの手この手で市民を煽り、妄想の塊ともいえる異常な心理状態が徐々に浸透していった。
市民同士は、どこの国の人とでも、できたら仲良う平和にやっていきたいと思うもんや。
そのバランスをぶっ壊すのは、他の誰でもない、国っちゅう観念のバケモノ。
即席で調べた中から、勝手に抜粋させてもろたもんをここに載っける。
こんなことぐらいちゃんと知ってから、韓国に旅行するべきやったと後悔してる。
豊臣秀吉による朝鮮侵略
1592年 文禄の役(壬申の倭乱)
1597年 慶長の役(丁酉の倭乱)
1894年7月25日 日清戦争始まる。(日本による宣戦布告は8月1日)
1895年4月17日 日清戦争
1904年2月8日 日露戦争始まる。(宣戦布告は2月10日)
1904年2月23日 日韓議定書締結。日本は韓国での軍事行動の自由を得る。
1904年8月22日 第1次日韓協約 日本人顧問による内政・外交・軍事を指導する。
1905年9月5日 ポーツマス条約が締結され、日露戦争終わる。日本が勝利。
ロシアは日本による韓国の保護国化を承認。
1905年11月17日 第2次日韓協約 日本は韓国を保護国化。韓国の外交権を得る。
1906年2月1日 韓国統監(とうかん)府設置。初代統監に伊藤博文
1907年6月 大韓帝国皇帝=高宗はオランダのハーグで開かれていた万国平和会議に密使を送る。(第2次日韓協約の無効を訴えようとしたが、相手にされず。)
1907年7月20日 大韓帝国皇帝=高宗、退位させられる。子の純宗(在位1907~1910)に譲位。
1907年7月24日 第3次日韓協約 日本は韓国の内政権を得る。韓国軍隊の解散。
このように、次第に朝鮮半島は日本の支配下に組み込まれていく。
当然、韓国では反日運動も起こってくる。
1908年~1909年 義兵闘争(日本による韓国植民地化に反対する闘い)、盛り上がる。
そして、極めつけは、
1909年10月26日 安重根(アン・ジュングン)、伊藤博文をハルピン駅で暗殺。
1910年3月26日 安重根、旅順の監獄で死刑執行される。
1910年8月22日 日本による韓国併合 景福宮内に朝鮮総督府を設置。初代総督に寺内正毅。
韓国という国はなくなる。現役武官を総督に任命。
石川啄木は、こんな歌を残した。
「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」
ほんで、司馬遼太郎は、こんな言葉を残した。
「日本が近代化する上で一番の失敗は、朝鮮を占領したことだと思います。
なんでそんなことになったかと言ったら、日本は幕末において外からの圧力で興奮して統一国家を作った。
外からの圧力に対して、攘夷エネルギーが収まりつかんほど沸騰した。
攘夷エネルギーというのは、いってみれば異常心理ですからね、自分がやられるという……。
中国がやられている、朝鮮も眠っているからやられるだろう、その次はこっちだ。
だからやられる前にこっちから出て行け。
なんの実質もなくて、観念だけが先走って朝鮮を占領してしまった。」
(参考文献)『対談 中国を考える』 p.148 司馬遼太郎、陳舜臣 文春文庫
わたしは正直言うて、戦争っちゅうことをぼんやりと思い浮かべた時、被害者意識というもんの方が勝ってた。
学校ではずっと、原爆が落とされ、沖縄で上陸され、東京を焼かれ、とにかくいっぱい悲惨な目に遭わされたから、戦争もうこりごりやね、という論理で教育を受けて来た。
日本がアジアにしたこと、軍部の暴走、民衆が熱狂したファシズムについては、ほとんど学んだ記憶がないし、実際あんまり触れることはなかったと思う。
自分らがやった、ええことも悪いことも、きちんと学んだり知ったりできる環境を作れん国は、やっぱり大人になりきれてないと思う。
そんな国の市民は、よっぽど気ぃつけてしっかりしてんと、司馬さんが言わはったように、なんの実質もないのに観念だけが先走って、またけったいな方向に暴走してしまう。
けどそれは、韓国かて同じこと。
いや、どこの国にも言えることなんかもしれん……。
と、いろんなことを思た日。
↓ここからは日記。
5月30日・やっとこさの曇り
行く前からわたしだけが勝手に心配してた、DMZ(北朝鮮と韓国の国境近辺の非武装地帯)に向かって出発する。
今日のガイドさんはチャールさん。
昨日のエルヴィスさんは40代、今日のチャールさんは50代。
背は低いけれどもがっちりしてる。
彼もロサンジェルスの大学に留学していたらしく、女子大生の背の高さと鼻の高さと食べ物の量の多さにたまげたらしい。
学生がローラースケートでカフェに出入りしてた時代のこと。
道中、車のガスを入れに寄る。
アメリカでガソリンスタンドのことをガスステーションと呼ぶのやけど、これは正真正銘の"ガス"ステーション。
プロパンガスで走る車を政府は推奨してるそうな。
空気を全く汚さず、燃費もすごくいいらしい。
ただし、補給所はソウル市内には一箇所も無い。
もし爆発した場合にはものすごい規模のものになってしまうということで、北朝鮮からの攻撃を受けた時のことを想定して、ソウル以外の田舎にしか設置したらあかんことになってるらしい。
危険なもんは田舎に押し付ける。ここにもそういう現実がある。
DMZまでの道はスカスカ。
そらまあ、行く人は限られてるので無理はない。
川に沿ってずっと走るのやけど、ものすごい距離にわたり、鉄条網と監視所が設置されてるのを見て、少し緊張する。
個人で行くことはできないので、途中の駐車場で他の観光客らと合流し、一台の観光バスに乗って行く。
その駐車場のトイレで珍事件勃発!
珍しくウォシュレットのトイレやったので、喜んで使たら……どんだけストップのボタンを押しても水が止まらんかった。
え……どないしょ……いろいろやってみたけど、止まれのボタンだけが言うこと聞いてくれへん。
みんなが待ってくれてるんやしと、えいっ!とばかりに立ってみた。
みなさん、ウォシュレットの女性用(いわゆるビデ)の水流の強さをナメたらあきません。
もし、わたしとおんなじような事態に巻き込まれたら、とにかく神さんでもなんでもええから祈って待つことをお勧めします、はい。
立った途端に、あっちゃこっちゃ、もうどうしようもなくベチョベチョになってしもて……水もしたたるええ年したおばちゃん……。
途中、検問の警察官や兵士に何度も止められる。
銃器を携えた兵士がドカドカとバスの中に乗り込んできて、人数を数え出したりした。
ここがDMZ(非武装への入り口)
北朝鮮と韓国の境界線から双方に2キロは、とりあえず平和地帯になっていて、そこでは特別の恩恵と許可を持つ農民が、通いで作業をしている。
母が気に入ったボンボリ。
まずはDMZ館に入り、7分の映画を観る。もちろん内容は韓国寄り。
なんか、どっかのドライブインみたいな感じの、非武装地帯記念館。
兵舎が連なって建てられてた。
ここからは、カメラ撮影が許されてないので、写真は無し。
我々が案内されたのは、北朝鮮が韓国侵攻のために秘密裏に掘り進めてた4本のトンネルのうちの、3番目のトンネル。

←資料より拝借。
第3トンネルは、4本のトンネル中、ソウルから一番近い位置にある。
トンネルの底までは長いトロッコで降りて行った。

←資料より拝借。
トンネルは、高さも幅もトロッコに乗ってる人にスレスレで、プラスティックのヘルメットが時々擦れたりする。
旦那の肩は幅広で、何回も擦れそうになってヒヤヒヤする。
到着した底は、なんとも狭苦しい、天井から水がポタポタ落ちてくる、閉所恐怖症の人にはまず無理な感じの世界やった。
底のトンネルは、ダイナマイトで爆発したまんまのゴツゴツ岩。
古いタイヤを紐状に切り刻んで並べた床は、歩くたんびにジュクジュクと音を立てる。
背の低いガイドのチャールさんは、さっさと早足で歩いていってしまう。
トンネルのところどころが黒い。
それは、北朝鮮軍が掘った壁面を、炭で黒う塗った痕やった。
なんでも、ガイドさんが言うことにゃ、石炭鉱脈を掘ってたら38度線を越えてしもてましてん、という言い訳をしたいがための作戦やったそうな。
床はベタベタ、天井は低くて、旦那や父、それから他のアメリカ人の男性たちは、一歩進むたんびにヘルメットをぶつけてコンコンと音をたてた。
その音が妙~に可笑しくて、たまらんようになって笑てると、旦那が心配そうに「大丈夫か?」と言う。
どうやら、前々から心配してた、暗うて狭いとこに閉じ込められて、ちょっと頭がおかしなったんか?と思たらしい。
トンネル見学が終わり、どうやって戻るかという時に、徒歩かトロッコかと聞かれ、運動好きの両親は「もちろん徒歩!」と返事する。
マジか……。
すごい傾斜の登り坂を300m。
平地やったらなんでもない距離やけど、一足一足がしんどい。
はじめの50mを過ぎた辺りですでにハアハア言うてるわたしらを置いて、ガイドのチャールさんはどんどん上って行く。
おぉ~い!!
無事に頂上まで上がり、また英語、日本語のガイドさん達の説明が飛び交う中、バスは次の場所に向かう。
一番厳しそうやった検問所。
DMZを見渡せる、韓国最北端にある展望台。
平和的に国交を持ちたい韓国と、それを聞き入れない北朝鮮。
ガイドさんはずっと、そういうニュアンスで説明をする。
天気がよかったら、肉眼でも北朝鮮の様子を見ることができる。
展望台には、これ以上前に出て撮影したらあかんで~という、黄色い線がが引かれてた、らしい……写真をパチパチ撮ってから気ぃついた。
軍人が監視してて、けっこう厳しく注意されてる観光客がいはった。
軍専用の望遠鏡。ここから見張り、妙な動きを発見したらすぐに対処できるようになってるらしい。
この鉄塔は、北朝鮮に電気を送るためのもの。
北はこの付近に、ハリボテのきれいな建物を建てたり、偽の人形を置いたりして、見た人たちに北はこんなにしっかりしてるという印象を与えるためにウソをついてるのやそうな。
こんなきれいな風景のとこに、ふたつの国がお互いに認め合えんまま、異様な緊張が続いてる。
都羅山駅。
他のガイドさんの説明が終った後で、どういうふうに線路が引かれてるかを説明してくれるチャールさん。
ソウルから約2時間。
民間人が行ける韓国最北端の駅。

駅には、使用禁止となったホームが、奥に寂しく並んでる。
都羅山駅の次の駅は北朝鮮の開城(ケソン)。
この駅から開城までは、わずか17キロしか離れてへん。
駅舎内には、ここが「南の終着駅ではなく北への始発駅」というメッセージが書かれてる。
この駅の建設にあたり、寄付をした人達の名前が刻まれてる。
40日前まで、けっこう頻繁に利用されてたらしい。
ほんで、北朝鮮に韓国から、いろいろな物質や人材が送り込まれていたらしい。
そやし、民間は民間でも、許可を受けた者だけで、一般の人がちょっと旅行に、みたいなんでは使われへん。
なんで40日前から使えんようになったのか尋ねると、
「北朝鮮が核実験をしたから」と言う。
韓国は、なんとか平和的な方法で、物質やエネルギーを送って助けたり、互いの文化を理解し合ったり、よく話し合ったりして、北朝鮮との国交を復活させたいと思てるのに、
どうしても向こうはそのことを理解しないばかりか、要求ばかりしてくるとチャールさんは苦々しい顔をして何回も言わはる。
ちょこっとお土産屋さん見学。
再び検問を受けて次の場所へ。
この川が、韓国と北朝鮮を分けている。
ここで農業を営む人たちは、どんな人たちなんやろう。
また延々と続く鉄条網。
ランチに行く。
辛いもんに疲れたので、みんなはビビンバを、わたしはニラとイカとエビのチゲを食べた。
ここからちょっと行ったところに、蒸気機関車の先頭部分だけがあります、とチャールさん。
実はこの蒸気機関車、日本製なんやそうな。
この機関車は、朝鮮戦争中に攻撃を受け、脱線したあと、半世紀に渡って非武装地帯に放置されてた。
2004年に、辛い歴史の象徴物として保存するために、文化財として登録され、臨津閣に展示されるようになった。
当時の機関士の証言によると、軍事物資の輸送中に攻撃を受けたということ。
この機関車には、1020発にも及ぶ銃弾の、生々しい痕が残ってる。
望拝壇。
ここは、離散家族が毎年旧正月と旧盆、北にいるであろう家族を思い祈りを捧げるところ。
その時期以外にも、北の家族が恋しくなるとここを訪れる人が後を絶たへんのやそうな。
北朝鮮に暮らす、会えない家族や友達の無事と健康を祈って書かれた短冊状の布。
自由の橋の先は行き止まりになってる。
ここから先は行けない。
穴を覗いてみたら、
この時初めて、チャールさんの両親そして家族が、北朝鮮に暮らしてはることがわかった。
お父さんは、生きてはったら100才を迎えはるらしい。
平和の鐘。
北から戻れないままの親兄弟、親族を思い、彼らにも聞こえるように願いながら叩きます、とチャールさん。
やりきれへん思いが胸にこみ上げてくる。
この鐘は、朝鮮戦争に使われた銃やヘルメットを溶かし、人類の平和と統一を願って造られたんやそうな。
21世紀が平和であることを願い、21坪の敷地内に21段の階段をつくり、21トンの鐘が製作されたんやそうな。
また、2000年1月1日午前0時には、21回、この鐘が鳴らされたんやそうな。
もうほんま、みんな、イヤでイヤでしゃあないんやろな、こんな状況が続くのんが。
ソウルに戻る。
ソウルのビルは総ガラス張りが多い。
ほんでもって、建設中のアパートもめちゃ多い。
これはロッテの建物。マンハッタンで言うたらトランプビルディングって感じ。
これはいったい……ヒュンダイ(現代自動車)の車専用のってことやろか?
ソウルの新幹線駅の近くでは、タクシーがズラ~ッと客待ちをしてた。
韓国のタクシーはめちゃ安い。1時間乗っても3千円ぐらい。
ソウル駅。
おにぎりも売ってる。ちょっとキムチ色が韓国風。
警備のおっちゃんは銃を携えて怖い顔してた。
釜山行きのプラットホームへ。釜山観光を一緒にするオリバーとここで待ち合わせした。
この韓国新幹線(KTX)、乗った席はエコノミーやったからか、座席がえらい狭い。
雰囲気としては、昔の近鉄特急、って感じ。
しかも、座席が真ん中で対面になってて、一両の中で半分が進行方向に対して前向き、半分が後ろ向きになるから、運が悪かったらずっと後ろ向きで乗らなあかん。
ソウルから釜山まで、行きは3時間、帰りは2時間半、っちゅう差も、なんでなんかよう分からんかった。
釜山に到着。
迎えに来てくれはったドライバーさんは、英語が全く話せへんけど、すご~く誠実そうなおじさん。
サンフランシスコとよう似てる街並み。
カメラと一緒に無くしたサンフランシスコの風景写真さんたちよぉ~今いずこ~!?
巨大なコンテナ用ローダー。
ほんでもってコンテナ。
ホテルに到着。
このエレベーターが恐怖!19階の部屋までの道中、透明の入れ物がぐんぐん上がってく。なんか自分が宙に浮かんでる感じ。

夕焼けがきれい!
オリバーとテディベア。
夕飯はホテルでとることにした。
日本のカレー、超~久しぶり!
なんと、窓の下にはモーテルだらけ!と驚いてたら、これは日本のラブホテルとは違て、料金の安いホテルっていう意味やそうな。ほんまかな……。
さて、明日は釜山の文化を学ぶらしい。
けど、英語で……とほほ。