ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

来年の4月に、日本へのわたしの想いを、音に託して演奏します!

2013年06月08日 | 音楽とわたし
カーネギーホールで行われる定期演奏会の、出場権をめぐってのオーディション。
今回は40のパフォーマンスから20、そやし50%の確率。

ソロ部門では、16人から8人が選ばれ、12月と4月の2回に分けて、4人ずつ演奏する。
アンサンブル部門では、22グループから12グループが選ばれ、それぞれ6グループずつ演奏する。

今回も、昨年同様、使用料がバカ高い中ホールのザンケルホールをやめて、室内楽ホール(客席300弱)を2回借りて、出演者をより多く出せるようにした。
演奏会は、12月と来年の4月に行われる。

今日はその、オーディションの採点を集計する日。
なんとまあ、わたしの作品が、アンサンブル部門で一番の点数で通過した。
これはもう、どんな曲なんだかようわからんけど、なんとなく良さそうであるという、前向きの票をいただいた結果としか言えない。
ありがたいやら、ラッキーやら……。

ということで、まだ作曲が完成してないということもあって、後半の、来年の4月のコンサートに出演することになった。

この曲は、もともと作り終えてたものやけど、初めての作品であり、たった3日で仕上げなあかんかった状況で慌てて作ったものやから、いつか、できたらもういっぺん、きちっと作曲し直したいと思てた。
けれども、それからずっと、気がついたら20年以上も経ってしもてて、ほとんど忘れてた。

それがなんでかしらんけど、あの震災と津波が起こってから、日本のことをこれまで以上に真剣に考えるようになったわたしの心の中に、あのメロディーが蘇ってきた。

これはもう、自分に与えられた使命やと思うしかないと思い、恐々、古ぼけた楽譜を探し出し、開いてみた。
これをもういっぺん練り直して、日本への想いの限りを音に託してみよか。

夏の間に、なんとしても仕上げなあかん。

題名は『いのり』

日本の再生を心から祈りながら、音符をひとつひとつ書いていこうと思う。
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ありがとうまなつちゃん!

2013年06月08日 | 家族とわたし
恭平のガールフレンドまなつちゃん。
この5月に、無事に、こちらの大学を卒業したがんばり屋さん。
就職が決まるまでの間、うちの3階に下宿中。

一昨日の木曜日のお昼過ぎ、居間に降りてきて、
「もし、今夜の予定がなにもなかったら、わたしが夕飯作ってもいいですか?」
なんて、涙がチョチョぎれるような嬉しいことを言う。

おぉ~、なんというしゃ~わせよ。
木曜日は、仕事が7時過ぎまである。
そやし、もちろんわたしは作りとうないし、旦那もできたら作らんで済ませたいから、めちゃありがたい申し出なんである。

「もちろんもう、大大歓迎やし!ありがとう!」

ということで、まなつちゃんは夕方から台所に入り、コンコンとまな板の音を立てて作り始めた。

仕事が終わり、台所に行くと、ふぇ~ええ匂いじゃ……。
旦那はというと、のんびりとギター弾きながら、フェイスブックなんぞを覗いてる。
ううう……もしうちに娘がいたら、もしかしてこんな感じやったんかも……。
胸が熱うなる。

まなつちゃん♪色白で、かわいくて、ちっこくて、優しくて、賢くて、しっかりしてて、ちょっと天然ボケしてて、見てるだけで気持ちの良い子。


手作りの豆腐と鶏肉ミンチのつくね、


カレー味の野菜スープと、豆とほうれん草のサラダ、


ほんでもって、グレープフルーツジェリーのデザートを、と思たのやけど、時間切れであきらめたそうな……。
一食一品の我が家では、奇跡のようなメニューなんである。

もちろん、恭平も早めに帰宅。
みんなで感謝しまくりながらいただいた。
美味しいな~美味しいな~と言いながらパクパク。
恭平は、まことに幸せそう。
そんな息子を見てるこの母も、もちろん超~幸せ!
大事にしなはれや~。

まなつちゃん……就職までと言わず、長いこと居てくれてええよ、などと、コソッと心の中で思う調子ノリなわたしなのであった。
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韓国旅行記・その5

2013年06月08日 | 家族とわたし
韓国のソウル空港を出たのが、6月2日の夕方で、こちらに着いたのが、同日2日の夜9時半。
まあ、時差が成せる技なんやけど、いっつもこれでまごついてしまう。

帰りもまたサンフランシスコ経由やったんやけど、今回はただ乗り継ぐだけで、しかもその乗り継ぎ時間が短いってんで、例のごとく、父が「さっさとするように」とうるそう言うてた。
で、なんやしらんけど、入国手続きにめちゃくちゃ時間がかかり、セキュリティ検査にもまたまた時間がかかり、旦那とわたしは両親にちょいとだけ遅れをとった。
彼らに追いつこうと、脱いだ靴、外した携帯用のカバンのベルト、リュックから出したiPadなんかをあたふたと身につけたり詰め込んだりして、ダダッと走ったのやけど……、

間違うて、行ったらあかんとこに降りてしもて……そこは下りのエスカレーターしか無く、階段を上がることは許可されず、
そこにいたセキュリティのおねえさんに何回頼んでも、どう事情を説明しても、「あかんっちゅうたらあかん、もっぺんここから出てセキュリティ検査のやり直し」と冷たい返事……。
仕方のう、また元のセキュリティ検査のとこに戻り、一からやり直しせなあかんかった……ドドドッと疲れが出る瞬間……。
旦那の携帯に父から連絡が入り、とりあえず飛行機は飛ばんと待っててくれるらしいっちゅうことで、安心してええのか悪いのか……。

幸運なことに?、またまた飛行機のどっかに故障が生じてたらしく、旦那とわたしが機内にやっとこさ入ってった時、満員の乗客から白~い目で見られんで済んだ。
やれやれ……。

という感じの、最後までドタバタな旅やったけど、戻ってから今日で丸1週間。
月曜日から土曜日まで、とりあえず無事に、いつものように仕事を済ませることができた。
ただ、時差ボケがちょっと、いつもよりひどい。
木曜日の夜なんか、まるで一睡もできず(ぜ~んぜん眠くならんかった)、朝の6時半まで目がらんらん♪
その反動か、昨日の金曜日の夜は、ようやくしっかり眠ることができた、初めての夜になった。

では、最後の旅日記をここに。

6月1日またまた曇り空

今日のガイドさんはキムさん。
あんまり慣れてないこと、英語があまり堪能ではないことを何回も謝らはる。
大丈夫。アメリカ人はそんなこと全然気にしまっしぇん。
最初は、旦那とわたしが昨日見っけた散歩コースから。

自然のまんまの海岸。緑の切れたとこらへんにあるのが遊歩道。そこをずっと歩いた。


めちゃ揺れる吊り橋。旦那がわざわざ戻ってきて、やったらあかんて書かれてあることをする。ガキか、あんたは!


右上の方で立ってるおっちゃんは、なんでか知らんけど、両手で木の幹をパンパン叩いてはった。


こんなふうに、ちょっと怖い顔して。そやし、内緒で激写!


ここは2004年やったかに開かれたAPECの会議場。


中を見学。


長寿のシンボルが描かれた壁画。真珠貝で作られてる。


会議場。母はカーペットにぞっこん。


ハングル語は、第4代国王の世宗さんが作らはったのやけど、あんまり当時は歓迎されんかったらしい。
けども、当時読み書きができん人があまりにも多いことに気づいた◯◯(←ここが聞き取れんかった)さんが、皆ができるようにと普及しはったもんらしい。
そのハングルも、さらに簡易化が進んでる。


今日はなんと、例年より1ヶ月も早い海開きの日。



さて、韓国のお寺のほとんどは、山に向こうて建てられてる。そやしその中にあってとても珍しい、海に向かって建てられてるお寺を訪問。
寺までの道沿いに、露天がずらりと並んでた。

露店のマネキンさんがワイルドな趣。


名前が思い出せへん根っこ。


真っ黒の海藻。


韓国のたい焼き!


蚕さん!なにやら、奥のワッフルみたいなんに挟んで食べるらしい……げげっ♪


お守り。牛の鼻輪。


韓国風お惣菜。


野菜各種。


これまたお惣菜。おばちゃん、ちょっと疲れ気味。


海草を千切ってはる。


108の煩悩からの開放を願う寺。


安全運転の塔。タクシーの運転手さんがぎょうさんお参りに来はるらしい。


男の子が欲しい人は、このお方のまぁるいお腹をなでなでしたらええのやそうな。


生首な仏さん。


ひたすら降りる。帰りの登りがちょいと恐ろしい……。


小銭を奥の像が抱えてる丸い入れ物に入れた人には幸運が……こういうのってどこにでもあるような……。


自然のまんまの海岸。


やっとこさ、お寺の本堂に到着。


ここで108回のお辞儀をする。
よほどシリアスな問題の時には、3千回もお辞儀をするのやそうな。
韓国式のお辞儀は、どことなくイスラム教のそれとよく似てる。そやし、わたしのようなヘタレには多分無理……。


シッダールタの生い立ちが描かれた壁。


扉がきれい!


屋根もやっぱりきれい!


猫ちゃんっ!


亀さんっ!


ツツジに埋れそうな仏像さん達。


この金色の仏さんは、ある日町に出てみたら、あまりにも貧しい人が多いことに胸を痛め、
目の前にいた裸の人に、自分の上着を着せてあげ、また次の貧しい人に服を分け与えているうちに、とうとう自分は裸になってしもたという、ひじょ~に優しい気持ちの仏さんやったんやそうな。




右側の石を積んだ塔の近くには寄れんかった。相当でかい。


海苔を作ってる。


上っては下り、また上っては下り。韓国のガイドさん(というか、韓国の人たち)は、足腰が強い!普段からよう歩いてますから、とガイドさん。


これぞまことのドラゴンボール!


そしてその下に、なんでかわからんけど、ちび仏さんがぎょうさん♪


お寺の全景。



母が、釜山に着いた時から絶賛してるこのフェンス。魚の形をしてる。



さて次は、釜山の町を一望できるタワーに。入り口にも仏さん。そしてやっぱり提灯も。


エスカレーターを乗り継いでぐんぐんぐんぐん上がる。


キムさん、がんばる!


あんさん、ちょっと胴長すぎちゃいまんのん?


釜山の山側。旦那がよう来てた20年前の釜山とは、まったく様変わりしたそうな。


途中の広場でやってはった伝統音楽と舞踊。


めちゃ真剣勝負!


緑が濃い!



さて、この旅行最後は、釜山のマーケット巡り。


昭和のかほりがするスプーン。


韓国風おでん♪


ぎょぎょぎょ!!


夫婦?!だれや!!わたしがブタやって言うてんのは!!


コリアンマーケットに行ったら絶対に買う、大のお気に入りおやつ。本場もん♪


わおっ!


にんにくのサイズが違た。デカかった。


やたらと美味そうなスープ。


げげっ!シナモン焼き~!苦手じゃ~!


揚げお好み焼き?


干物が半端ちゃう。


これまたおでん!


もちろんこれは必須!


なぜか「いらっしゃいませ」と書かれてた喫茶店。


いっぺんこんなん着てみたい♪


延々と続く市場。


韓国では干し柿もめっちゃポピュラー。


すいかとよう似た味らしい。


昔は手袋なんかつけてはらへんかったやろなあ……。


ネクタイかと思いきや……。


なるほど、魚の匂いがしてきた。
ここは、韓国で一番でっかい魚市場。


入った途端に圧倒されまくり!水槽には、隣の海からの水がじゃあじゃあ注がれる。そやし、水槽からもじゃあじゃああふれて、通路は水浸し。


あんさんはどなた?


お客さんも従業員も、ここで超~新鮮な魚料理をパクパク食べる。


なんと美しい身。ほんでもって渋い出刃。


うなぎぃ~!


さざえぇ~!


旦那とわたしはもう、食べとうて食べとうてたまらんかったのやけど、若干3名のアメリカンの気がすすまず、涙を飲んであきらめた……絶対にまた来るし……と心に誓う。

市場の外も魚、魚、魚!


作りたて、揚げたてのさつま揚げ!!


ワイルドな干し魚屋さん。


たこぉ~!


するめぇ~!


揚げ魚ぁ~!


すっぽんさんっ!


釜山に住みたい!と思た瞬間。


釜山版かに道楽♪動いてへんかったけど……。


市場近くの地下鉄。晩ご飯の魚を買うて、地下鉄に乗って帰る自分を妄想する……。


おぉ~貝っ!


おばちゃんはどこのおばちゃんでもたくましい。



というわけで、長々とおつきあい、ありがとうさんでした。
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「これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変える?私はこの国に言いたい。憲法を実行せよと」中村哲氏

2013年06月07日 | 日本とわたし
『憲法を実行せよ』

この言葉が心にどすんと落ちてきた。

『他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。
アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。
敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが、一番の安全保障だと肌身に感じる。

憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている』



13年前に日本を出た。
困るのは英語ぐらいで、まあなんとかやっていけるやろと思てたアメリカは、それほど甘いもんやなかった。
住み出した次の年に同時多発テロが起こり、IT業界のバブルがはじけ、全国一斉に戦争戦争のプロパガンダが始まり、周りにキナ臭い空気が漂い出した頃、
テレビでは毎日のように、画面の端っこに、危険度を示す帯が現れ出し、それがオレンジになったり黄色になったり、そのたんびにアナウンサーが、厳しい顔して恐怖を煽ってた。

人が集まってるとこには極力寄っていかんようにし、マンハッタンにつながる橋やトンネルを通る時は必ず、これで人生が終ることになっても良しとしようと覚悟する。
そんな世界になってしもてからも、ひとつだけ、わたしの精神を安めてくれるものがある。

わたしの祖国日本は、戦争を放棄した国。
わたしがどこに暮らしていようと、そこがどんな環境であろうと、わたしは日本人で、戦争を放棄した国民のひとりである。

その厳然たる事実。

この中村氏のように、命を左右するような出来事がごろごろしてる厳しい環境なんかではないけれども、
普通に、のんきに生きてるこのわたしでも、やっぱり海の外に出て生きるというのはそれなりに大変でもある。

そんな自分を考える時、これまでわたしは、日本という国を背負ってると思てた。
けどちがう。逆やった。
憲法9条を持つ日本という国が、守ってくれてるんやということに気がついた。

日本から出た人間だけやない、日本で暮らす人たちもまた、わたしらと同じ、リアルで大きな力で、自分らを守ってくれてると気がつかなあかんと思う。

↓以下、転載はじめ

憲法よ 医師・中村哲さん
【毎日新聞】特集ワイド 2013年06月06日 東京夕刊

<この国はどこへ行こうとしているのか>

◇守るより実行すべきだ--医師・中村哲さん(66)

◇9条はリアルで大きな力 日本人だから命拾い、何度もあった


薄暗い会場のスクリーンに1枚の写真が映し出された。
干ばつで広がる砂漠には草木一本生えていない。

「この地に私たちが用水路を建設した1年後の写真がこれです」

次の写真が映し出された瞬間、会場にいる約1200人から自然と拍手が湧き起こった。
まぶしいほどの緑、緑、緑。壇上で、ペシャワール会現地代表の中村哲さんが静かに言い添える。

「この地に15万人の難民が戻ってきました」

拍手が鳴りやまない。
生命力あふれる大地の写真は、どんな言葉より雄弁だ。

茨城・土浦市民会館の2階席の片隅で、壇上の中村さんに目を凝らした。
日本よりアフガニスタンにいる方がずっと長いこの人が、ことあるごとに憲法について語るのはなぜなのか。
その理由を知りたいと思った。


2時間に及ぶ講演後、別室で話を聞いた。
アフガニスタンでは丸い帽子がトレードマークなのに、この日はネクタイにスーツ姿。
「保護色です」とちゃめっ気たっぷりの中村さん。
「日本じゃスーツを着ておけば、街にいても目立ちませんからね」

でも、微妙に似合っていないかも。
両手の甲が驚くほど日焼けしている。
帰国直前まで重機を運転していたというこの両手、いったい何人の命を救ってきたのだろう。


1984年から最初はパキスタンのハンセン病の病棟で、後にアフガニスタンの山岳の無医村でも医療支援活動を始めた。
2000年、干ばつが顕在化したアフガニスタンで「清潔な飲料水と食べ物さえあれば8、9割の人が死なずに済んだ」と、白衣と聴診器を捨て、飲料水とかんがい用の井戸掘りに着手。
03年からは「100の診療所より1本の用水路」と、大干ばつで砂漠化した大地でのかんがい用水路建設に乗り出した。
パキスタン国境に近いアフガニスタン東部でこれまでに完成した用水路は全長25・5キロ。
75万本の木々を植え、3500ヘクタールの耕作地をよみがえらせ、約15万人が暮らせる農地を回復した。
総工費16億円は募金でまかなった。

「僕と憲法9条は同い年。生まれて66年」

冗談を交えつつ始めた憲法談議だったが核心に及ぶと語調を強めた。

「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。
この国は憲法を常にないがしろにしてきた。
インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。
国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。
これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。
私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」


「実行」という言葉を耳にした瞬間、あざやかな緑の大地の写真が脳裏によみがえった。
理想は実行された時、あんなにも力強く人の胸に迫るのだ。

01年米同時多発テロ後の米英軍の爆撃以降、アフガニスタンでは外国人への憎悪は募るばかりだ。
治安が急速に悪化した08年、仲間の日本人男性スタッフが殺害された。
政治的な誘拐ではなく金銭目的だった。
地域住民は必死に犯人グループから男性を救出しようとしたが、かなわなかった。
外国人をターゲットにした誘拐や襲撃は今も増える一方だが、その後、仲間が狙われたことは一度もない。
それでも念のため、一時は25人いた日本人スタッフを帰国させ、今は事務職員と2人だけ。
現場に出る日本人は中村さん一人だ。

日本のニュースはもっぱらインターネットで読む。
「日本はどうなっているのか」といら立つことが増えた。
「この干ばつは戦争どころじゃない。一人でも多く生きて冬を越せるように」と危険な作業に挑み、政府軍と反政府軍の衝突と聞けば工事中の用水路をざんごう代わりに隠れる、そんな厳しい日常から見る祖国の改憲論は、

「どこか作り物くさい。政治力をアピールしたいだけの芝居のように見える」

ならば、中村さんにとって憲法はリアルな存在なのか。
身を乗り出し、大きくうなずいた。

「欧米人が何人殺された、なんてニュースを聞くたびに思う。
なぜその銃口が我々に向けられないのか。
どんな山奥のアフガニスタン人でも、広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。
一方で、英国やソ連を撃退した経験から『羽振りの良い国は必ず戦争する』と身に染みている。
だから『日本は一度の戦争もせずに戦後復興を成し遂げた』と思ってくれている。
他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。
アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。
敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。
単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。
憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」


社会主義者でありながら愛国主義者で儒教的な道徳を重んじた父から幼い頃、論語を読まされた。
意味も分からず繰り返し唱えた倫理は、後にキリスト教徒となった今も心にある。
イスラム教徒たちに囲まれて暮らした29年間でたどりついたのは「宗教は異なっても人が生きる上での倫理はそう変わらない」という実感だ。

「道徳や倫理は完璧に守れるものではない。
何とか守り、実行しようと努力することが人間を大きな誤りから押しとどめてきた。
憲法も同じ。
倫理を多数決で変えようなんて筋違い」


救おうとしてもなお、干ばつ、病気、戦闘で人の命が失われていく国にいるからこそ、日本にいる人より、憲法をリアルに感じられるのかもしれない。

あなたにとって9条は、と尋ねたら、中村さんは考え込んだ後、

「天皇陛下と同様、これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。
しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。
私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。
平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」

窓の外は薄暗い。
最後に尋ねた。

もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 

「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。
日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」

長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。

「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。
僕はもう、日本国籍なんかいらないです」


悲しげだけど、揺るがない一言だった。【小国綾子】
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トホホなもんじゅにタカるトホホな日本人たち

2013年06月06日 | 日本とわたし
時差ボケ……この、どろんとしたいやらしい疲れは、年々厄介なもんになってきた。
旅の直前に、オーディションがあったことも原因やろうとは思う。
そもそも、旅中、腰痛や膀胱炎に悩まされることなく、無事に終えられただけでもありがたいと思う。

気になることは山積み。
あちこちから送られてくる記事やデータや報告文を読んでると、頭の中がいっぱいになってまうだけで、自分の考えが一向にまとまらん。
あかんあかん、これでは自分の記事として書けへん。

そんなこんなのトホホな状況やけれど、まあぼちぼち、焦らんとやっていこか、っちゅうところ。

↓以下は、もんじゅの件で、ちょっと古いもんから続けて載っけさせてもろた。
日本には、めちゃくちゃな数の核のバケモンが国土の上に乗っかってるのやけど、
その中でもこのバケモンは特別で、しかも役立たずで、膨大な金をムダ遣いしてて、しかもその金は、国民が知らんうちに払わされてたっちゅう代物。
それに小判ザメみたいにひっついてた者どもの、ふざけてんのか?と思えるほどの愚かっぷりが、この記事のあっちこっちから見えてくる。
もう、あかんやろ、こんなん。

もんじゅ再開中止命令で地元困惑 敦賀市長「調査と再開準備同時に」
【福井新聞】(2013年5月14日午前7時00分)
 
原子力規制委員会が、高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の運転再開準備を見合わせるよう命じる方向で検討していることについて、地元や事業者には、困惑や驚きが広がっている。
同市の河瀬一治市長は13日、都内で記者団の取材に応じ、1万点近い機器の点検不備は「大きなミス」としながらも、
日本原子力研究開発機構の調査と運転再開の準備は、同時並行で行うよう原子力規制庁に申し入れたことを明らかにした。   

河瀬市長はこの日、要請活動のため上京しており、規制庁を訪れ、森本英香次長と面談した際に、もんじゅについて、
「原子力機構の調査と同時に、運転再開に向けても(作業を)進めていけないか」と求めた。
森本次長からは、
「調査の報告を受け、それが認められれば、運転再開に向けて審議を行う」との説明があったという。

面談後、河瀬市長は記者団に、
「核燃料サイクルや放射性廃棄物の減量化技術の確立に向け、ある程度早い段階でもんじゅを動かして、研究成果を出す必要がある」と強調した。

一方、地元の原子力機構敦賀本部では、広報担当者が、
「規制委から何も言われていない状況で、コメントしようがない」と困惑した様子だった。
別の職員も、
「寝耳に水だ。こちらから規制委に確かめることもできず、もどかしい」。

敦賀市幹部は、
「事実かどうか知りたい」と原子力担当課に確認を指示。
県庁では、原子力安全対策課が、情報収集に追われた。

もんじゅがある同市白木に住み、かつて区長として誘致に関わった元市議の橋本昭三さん(84)は、
「安全は大事だが、規制委は、地元の意見を聞かずに一方的に決めつけるところがあり、ふに落ちない。今の時代に合わないやり方だ。地元に理由を説明すべきではないか」と指摘した。

一方、県内で、40年以上反原発活動を続ける明通寺住職の中嶌哲演さん(71)は、
「責任の所在がはっきりしない原子力機構の体質には、以前から不安を持っていた」と話し、「小手先の改善策でなく、速やかに廃炉にすべきだ」と訴えた。

同市選出の石川与三吉県議は、原子力機構の現状を、「緩んでいる」と批判。
「動かさないといけないと思い地元は頑張っているのに、何をしているんだ。何も前進していない」と憤り、規制委から厳しい措置を受けても仕方がない、と語った。

↑以上、転載おわり

記事を読んでの感想をちょいと。
原子力規制委員会がもんじゅの運転再開準備を見合わせるよう命じる方向で検討していることが、地元や事業者にとっては驚きであり、困惑でもある。
ほんまかいな……と思う。
困惑はまあアリとしても、驚きって……なんで?と思てまう。
それほど今の事態を分かってないのか、分かろうとせんのか、分かりとうないのか、地元や事業者っちゅうのは、それほどまでに疎うなってまうもんなんか……。

「核燃料サイクルや放射性廃棄物の減量化技術の確立に向け、ある程度早い段階でもんじゅを動かして、研究成果を出す必要がある」ちゅうのは市長。
「安全は大事だが、規制委は、地元の意見を聞かずに一方的に決めつけるところがあり、ふに落ちない。今の時代に合わないやり方」ちゅうのは元市議。
「動かさないといけないと思い地元は頑張っている」ちゅうのは現県議。

こんなんがうじゃうじゃいてるんでは、日本はまた領土を失うてまう。


では次。

原子力機構理事長「猛省している」 もんじゅ運転禁止命令経緯受け謝罪
【福井新聞】(2013年5月16日午後5時51分)

高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)の点検漏れで、原子力規制庁は16日、日本原子力研究開発機構の鈴木篤之理事長を呼び、池田克彦長官が、事実上の運転禁止となる命令の内容を説明した。
池田長官は、
「安全文化が劣化していると判断せざるを得ない」と指摘。
鈴木理事長は、
「深刻に受け止めている」と頭を下げた。

23日までに弁明の機会が与えられ、5月末にも正式に命令を出す。

規制委は、原子力機構の、安全に対する認識の甘さを問題視。
15日の会合で、再発防止体制が再構築されるまで、運転再開につながる準備作業をしないよう命じることを決めた。

池田長官は、
「もんじゅの安全確保を十分行う体制が整っていない。
これまで何度もトラブルを起こし、そのたびに根本原因分析を繰り返し行っていること自体、組織の体質が改善されていない」と、命令に至った経緯を説明。
鈴木理事長は、
「猛省している」と謝罪し、弁明に関して、「機構の考えを速やかに返答したい」と述べた。

終了後、鈴木理事長は、もんじゅの運転について、
「準備に1年近くかかり、今回の命令いかんにかかわらず物理的にかなり難しい」と、目指していた本年度中の運転再開は困難、との見通しを示した。
自身の進退や経営陣の処分については、「まずは弁明の検討が先」と言及を避けた。

鈴木理事長は16日、衆院の原子力問題調査特別委員会に参考人として出席し、
「福島第1原発の事故以降、国を挙げて信頼確保に努める中、このような事態を招き申し訳ない。いち早く信頼を確保したい」と謝罪した。



もんじゅ「土俵から放り出される」 運転禁止命令で所長が危機感
【福井新聞】(2013年5月31日午前7時08分)
 
原子力規制委員会から事実上の運転禁止命令を受けた、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」の廣井博所長は30日、敦賀市のアトムプラザで記者団の取材に応じ、
「深刻に受け止め、深く反省している。(組織的に)足りない部分を、自らが主体的に改善していく」と述べた。

未点検機器の点検は、来年1月までに終える方針だが、できるだけ早く実施した上で、安全管理体制を含む対応結果を、規制委に報告するとした。
時期のめどは示さなかった。
「しっかりやらなければ、われわれは土俵から放り出されてしまう」と危機感を示す一方、
「所長の職場懇談会を始めたが、あれはプラント保全部の問題、という意識の人もいる」とし、組織全体の問題として受け止め切れていない点を認めた。

原子力機構が目指していた本年度中の運転再開については、
「今はそれどころではない。まず目の前の問題を解決することだ」と神妙な表情で語った。



もんじゅ:電源不備、監視装置停止 4時間半、国に情報伝送されず
【毎日新聞】2013年06月03日 

3日午前0時5分ごろ、福井県敦賀市の高速増殖原型炉もんじゅの「原子炉安全状態監視装置」が停止し、中央制御室で警報が鳴った。
同装置は、原子炉の温度や敷地内放射線量など、約130種類の情報を、国の防災ネットワーク「緊急時対策支援システム」(ERSS)に伝送しており、
約4時間半にわたり、情報が送られなかった。

運営する日本原子力研究開発機構によると、情報伝送を担うサーバーの電源が切れたのが原因。
再起動したところデータ送信が再開し、復旧したという。
ERSSは、事故時に原発から伝送されたデータを基に、炉心が溶融する時間など、事故の進展を予測するシステム。

原子力規制庁は、復旧までにトラブルが発生した場合には、電話や電子メールなどでデータを確実に提供するよう、原子力機構に指示。
復旧までに異常はなかったという。
原子力機構が、電源が切れた原因を調べている。

もんじゅは、約1万個の機器の点検漏れ問題で、原子力機構が、原子力規制委員会から、運転再開準備禁止命令を5月30日に受けたばかり。
今回のシステムは、点検漏れ機器には入っていない。
ERSSを巡っては、今年2月にも、全国の原発のデータが表示されなくなるトラブルが起きた。
【柳楽未来、鳥井真平】



ほんでこれは、今ついさっき見つけた、河野太郎氏の公式ブログ『ごまめの歯ぎしり』に書かれてた記事。

厄介な無用の長物
2013年06月04日

衆議院の決算行政監視委員会で、平成21年度から23年度までの決算の審査が始まった。
決算が3年間もたまってしまうことは珍しく、立法府の怠慢と言われてもしかたがない。

今日の総括質疑のトップバッターとして、新人の秋本真利代議士が質問に立った。

テーマは、独立行政法人日本原子力研究開発機構 東海研究開発センター 核燃料サイクル工学研究所に建設された、リサイクル機器試験施設(RETF)だった。

RETFは、「これまでに得られた高速増殖炉燃料の再処理技術開発の成果を踏まえて、工学規模での試験を実施するため」と称して1995年に着工され、2000年に第1期工事を終えた。
このRETFは、高速増殖炉の使用済み核燃料を再処理するための技術を開発するためのものであり、もんじゅが動かず、高速増殖炉実用化に全くめどが立たない現状では、無用の長物である。
日本原子力研究開発機構のホームページをみると、RETFについて、「現在、本施設の利活用方策を検討しています」

建設したはいいが、使いみちがないので困っています、ということだ。

そして、東海研究開発センターにおいて、これまで支出した金額は、832億円(昭和63年度~平成23年度)にものぼる。

内訳
建設費817億円(昭和63年度~平成12年度)
維持管理費2億円(平成17年度~平成23年度)
固定資産税等13億円(平成12年度~平成23年度)


つまり、800億円以上かけて施設を建てたが必要なくなり、10年以上も放置してあるが、この無駄な建物のために、毎年1億円程度の固定資産税を払い続けている、ということを、秋本代議士が突っ込んだ。

核燃料サイクルの名前の下に、いったい無駄がいくら隠されているのだろうか。
これらはすべて、原発の隠されたコストだ。

↑以上、転載おわり

もうここまで読んでもろたら、誰にかてわかるやろと、自信満々で言わせてもらう。

もうやめなはれ。
いくら謝罪しようが猛省しようが頑張ろうが、今の今まで、長い長い間受け継がれてきたええ加減体質と脳ミソは、どないもこないもならへん。
おんなじ人間と、おんなじ組織がやってる限りは。

土俵から放り出されることに危機感やて?
阿呆っ!
あんたらなんか、もっともっと、とっくの昔に放り出されてなあかんかってん。

もんじゅなんか、土俵どころか、日本から、世界から放り出したりたいわ!
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韓国旅行記・その4

2013年06月05日 | 家族とわたし
5月31日。
またまた4時に目が覚めて、がんばったけど無理やったから起きた。
朝焼けがきれい。


日の出。


朝食は6時半からってんで、わたしとしてはかなり珍しく朝の散歩に出かけることにした。

朝日に輝くビル。


近くのちっちゃい島をぐるっと周る散歩コースを見つけた。わらわらと人が集まってくる。黙々と歩く人たち。時間はまだ6時にもなってない。


女性はこのマスク(顔を目の下から全部覆う)と手袋をしてる人たちが多かった。


ダイヤモンド橋。


休憩所まで色彩鮮やか!


おっちゃんがふたり、くるくる動く円盤の上に立って、ツイストしてた。その左横では腹筋に励むおっちゃんが……。


灯台もある。


半島だらけ。


おばちゃんが声をかけ合うて運動してた。


泳いでる?!


だいぶ明るうなってきた。


韓国の自動販売機。


ホテルの隣。またビルが立つんかなあ。



さあ、観光に出発!見渡す限りの田んぼ。田植えが終わったとこのんが多い。


釜山の文化を学ぶ、ということで、仏教に詳しい彼の、大張り切りの案内が始まった。


やっぱりカラフルな提灯がここにも。


説明を真剣に聞く。


今日のガイドさんはジョンさん。69才の元気なおじちゃん。manmaちゃんのお父さん『希望の星』さんを思い出す、豊富な知識と軽快な語り口。
彼は、40才を過ぎてから、仕事の都合でアメリカに単身赴任することになり、それで英語を話せるようになったそうな。


塔に使われてた岩。


今日も天気はイマイチやけど、葉っぱの緑とお寺の屋根がしっとりと溶け合うて美しい。




仏様自身に光が備わってるので、ここに一本の棒を立て、ひとつの灯りだけで十分に、世界を明るくできるという意味らしい。


お堂の中。写真撮影禁止の札の前で撮るわたし……さすがに焦ってピントを合わせる勇気がなかった。




願い事が書かれた屋根瓦。京都からの若い夫婦さんのんもあった。お互いに認め合い、支え合いして、仲良くやっていきたいと書かれてあった。


どんよりとした曇り空の下でも、提灯と緑が美しい。


ゴミ箱もなかなかよろし。


大の仲良しの母と息子。母は陶芸家&マッサージ師、息子は鍼灸師。話が合うったらない。


こちらは大学からの仲良し。同い年ならではのジョークを飛ばし合うてはる。


いきなり現れたチップモンク。ニュージャージーのんはこんなふうに、人の近くに寄ってけえへん。


しかも、横向いて、食べてるとこを見せてくれるというサービスっぷり!まさかの展開に慌てて撮ったらピント外れ!


釜山の街並みが一望に。曇り空が残念!


露天のおばちゃんが、焼き栗と炒りギンナンを作ってはる。




これはなんぞや?


次のお寺。


見事な松の木。


寺の門で厳つい顔して踏ん張ってはる四天王さん達。








足元にはそれぞれ悪魔が捕まってる。








草引き中。三人でどんだけしはるんやろか。田舎の嫁時代を思い出した。


まろやかな緑に寄り添う寺。






見上げるのが楽しくなる。




韓国式の重塔。


ライオンが守り神。


ただいま重塔の製作中。


ちょっと珍しいお猿の守り神。


なんとも美しい色のコントラスト。


いきなり現れた段がめちゃ高い石段。


これはいったい……。


観音堂。




この灯篭は、いっぺん、戦争中やったかに日本に盗まれたんやそうな。


それを何年もかかって探しつづけてたある日、日本人の金持ちの家に飾られてあることがわかったのやそうな。
それで、その人の家に行き、事情を説明したところ、その人は、そんな大切な物ならぜひ元の場所に戻してくださいと、
運搬のための費用から修復、設置の費用まですべて賄わはったのやそうな。
なんという素晴らしい話。
それを、なんとも嬉しそうに話してくれる韓国人のガイドさん。ありがたかった。

日本やと賽の河原っぽいけど、これは幸せと無事を祈るための石積み。




寺の正面に戻ってきた。


幼稚園の子達は、どこの国の子でもかわいい。



今日のお昼ご飯は、豚肉の照り焼きハンバーガーとおかず各種。旦那とわたしは、このおかず各種がだぁ~い好き。



お次は古墳公園。


わわっ!今度はリスくん!


これまたわざわざ下りてきて、ポーズをとってくれた!


樹齢600年。


見たことのない鳥たち。




こんもりとした古墳が、次から次へと現れる。




ひとつだけ、中に入っていける古墳がある。名前は天馬塚。




う~ん……こんな感じで見つかるんやろなあ……ちょっと生々しい。


古墳の中はこんなふうに、泥と石で覆われてる。


古墳の中から出てきた品物。
薬を煎じるための茶器。


これはアイロン。器の中にアッチアチの炭を入れて使たそうな。


蓮の花がいっぱい咲いてた。


手前のちっちゃいのは、赤ちゃんのための古墳。


古墳の前に植えられてるのは、ええとええと、めったに花を咲かせん種類の木やとかなんとか……聞き逃してしもた……。


黒い茎の竹林。


天文台。天井の長方形の枠を使て星の動きを観察してたそうな。
なんでも、農業の仕事はじめまで王さんからの指示に従うてた時代に、いっぺんえらい天候不良の年があって、それで王さんが非難の的になったのやそうな。
そこで困った王さんが、この塔を作らせて、臨機応変に指示を与えはったらしい。


ちょっとランクが下がる古墳。



釜山の文化館。行くか行かんかと聞かれ、そらここまで来たら行くっしょと返事した。
けど、正直言うて、すでにもういっぱい歩いたし、階段の上り下りもすごかったし、みんなそれぞれにヘトヘトになってた。
ガイドのジョンさんだけが、涼しい顔してまだまだ元気いっぱいな様子。
車に乗り込むのかと思たら、いや、歩いて行きましょう!と言う……ひぇ~……。



韓国のおばちゃん達は超~カラフル。


最古の鐘。傷もなく完璧に保存されてる。


鐘の上に筒状のんがつけられてる。これで音が格段に広がるらしい。


古墳から発掘された物品展の中に、旦那に大ウケの埴輪さんたちが……すんません、程度が低うて……。




古墳の中から見つかった宝飾品。






帰り道に見っけた韓国の不動産屋さん通り。


旦那が夜の散歩で見つけた市場で、わたしの一番のお気に入りおやつを買うてきてくれた♪さんきゅ!
見たくれは良うないけど、いろんな種類の豆の餅。こっちのコリアンマーケットに行っても必ず買う。


ああ、今日もいっぱい歩いたな~。(父が言うことにゃ、1万4000歩を超えたらしい……しかも階段付き!スーパー元気な73才トリオッ!)
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韓国では、不良部品が使われてただけで原発が止まり、社長が辞任し、検察が入る。よっぽどマシやん!

2013年06月05日 | 日本とわたし
韓国旅行の第一日目に、英字新聞の第一面に、デカデカとこの事件が報じられてた。
ったく……どいつもこいつも……と思たのを覚えてる。

釜山を案内してくれた、69才のガイドさんは、仏教に詳しく、話が上手な明るいおじさんやったけど、
原発が与えてくれる安くて充分な電力のおかげで、韓国はメキメキと発展し、これからもまだまだ強い国となっていくやろうと、誇らしそうに頷きながら話してた。
原発はクリーンで、とても安価で、特にうちのは安全性が高い。
まるで、25年前に、チェルノブイリの原発が重大事故を起こした時に、日本のおじさんやおばさんが、胸を張って自慢してたのと全く同じように……。

旅行中やし、わたし以外のメンバーはアメリカ人やし、案内をしてくれてる車中でするような話ではないんやからと、反論したい自分に言い聞かせた。


旦那父の友人オリバーさんは牧師で、世界のいろんな国の大学で教鞭をとるとても温厚で知的な紳士なのやけど、
その彼ですら、いろいろと難癖をつけてくる北朝鮮に対して、アメリカ政府が、あんまりゴネるなら、日本と中国に核武装を許可するぞと警告した、などというニュースを肯定的に話したりする。

わたしは心の中で、その愚かさに胸をムカムカさせていた。

やることがあべこべや!
アメリカこそが、この世界の中で一番先に、非核を実行するべき国なんや!
この地球上に、核なんていうおぞましいバケモノを出現させてしもた己の罪の意識を隠すために、よその国にも罪をなすりつけ続ける愚かな国。
アメリカ人ではない、アメリカという名前のついた国の着ぐるみを着た悪魔らの、その愚行を止めさせん限り、この地獄は存在し続ける。


けど、韓国では、これしきのことで原発運営会社の社長が辞任し、検察が家宅捜索をするんやな。
日本よりよっぽどしっかりしてるわ。

↓以下、転載はじめ

韓国、原発運営会社社長が辞意 不良部品使用
【東京新聞・国際】2013年6月5日 22時52分
 
【ソウル共同】
性能証明書が偽造された不良部品が、韓国の原発に使われていた事件で、原発運営会社、韓国水力原子力(韓水原)の金均燮社長は5日、
責任を取るため、政府に先週、辞意を伝えたことを明らかにした。
 
不正納入発覚で稼働中の原発2基が止まり、韓国の電力需給は逼迫。
5日には、供給余力が350万キロワットを下回り、電力供給の調節に当たる電力取引所が、3日連続で「電力警報」を出した。
 
検察は同日、韓水原の関連会社を家宅捜索した。
韓水原の担当者らが、性能証明書偽造に関わった関係者らから賄賂をもらい、不正な納入を故意に見逃していた疑いが浮上している。
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韓国旅行記・その3

2013年06月04日 | 家族とわたし
29日の王朝巡りをしてた時に、ガイドのエルヴィスさんが何回となく話してた1910年の出来事。
わたしはそのことも知らんまんま、韓国を旅行した。
学校で習たかなあ……。
歴史は好きな科目やったんやけど、全く覚えがない。
そもそも、毛沢東かて英雄そのものやった時代に、わたしは小学生やったわけで、
それに加えてわたしときたら、人の言うことを疑うて聞くということを知らんと大人になったような、超~大ボケな性質で、
そやし、日本という国が、大日本帝国やった頃にやらかした事柄をほとんど学ばんままに、ほん最近まで生きてきた。

そらね、毛沢東も、独裁に入るまでには、ええこともいっぱいしはったやろう。
お札になった伊藤博文かて、日本が韓国を保護国化して(もちろん無理矢理)、韓国の外交権をもぎ取った後に設置された韓国統監府の初代統監になった(1906年)りするまでは、
いろんな業績を上げはったやろう。
けど、そんないろんなええことや業績を、いっぺんに覆してしまうような事をしてしもたら、それはもう、取り返しのつかへん汚点になる。

朝鮮半島に執拗にこだわったのは、ほんの一部の人間やった。
その人間に加担した人間や機関やらが、あの手この手で市民を煽り、妄想の塊ともいえる異常な心理状態が徐々に浸透していった。

市民同士は、どこの国の人とでも、できたら仲良う平和にやっていきたいと思うもんや。
そのバランスをぶっ壊すのは、他の誰でもない、国っちゅう観念のバケモノ。

即席で調べた中から、勝手に抜粋させてもろたもんをここに載っける。
こんなことぐらいちゃんと知ってから、韓国に旅行するべきやったと後悔してる。

豊臣秀吉による朝鮮侵略
1592年 文禄の役(壬申の倭乱)
1597年 慶長の役(丁酉の倭乱)

1894年7月25日 日清戦争始まる。(日本による宣戦布告は8月1日)
1895年4月17日 日清戦争

1904年2月8日 日露戦争始まる。(宣戦布告は2月10日)
1904年2月23日 日韓議定書締結。日本は韓国での軍事行動の自由を得る。
1904年8月22日 第1次日韓協約 日本人顧問による内政・外交・軍事を指導する。
1905年9月5日 ポーツマス条約が締結され、日露戦争終わる。日本が勝利。

ロシアは日本による韓国の保護国化を承認。

1905年11月17日 第2次日韓協約 日本は韓国を保護国化。韓国の外交権を得る。
1906年2月1日 韓国統監(とうかん)府設置。初代統監に伊藤博文
1907年6月 大韓帝国皇帝=高宗はオランダのハーグで開かれていた万国平和会議に密使を送る。(第2次日韓協約の無効を訴えようとしたが、相手にされず。)
1907年7月20日 大韓帝国皇帝=高宗、退位させられる。子の純宗(在位1907~1910)に譲位。
1907年7月24日 第3次日韓協約 日本は韓国の内政権を得る。韓国軍隊の解散。
  
このように、次第に朝鮮半島は日本の支配下に組み込まれていく。
当然、韓国では反日運動も起こってくる。

1908年~1909年 義兵闘争(日本による韓国植民地化に反対する闘い)、盛り上がる。
   
そして、極めつけは、

1909年10月26日 安重根(アン・ジュングン)、伊藤博文をハルピン駅で暗殺。
1910年3月26日 安重根、旅順の監獄で死刑執行される。
1910年8月22日 日本による韓国併合 景福宮内に朝鮮総督府を設置。初代総督に寺内正毅。
            
韓国という国はなくなる。現役武官を総督に任命。

石川啄木は、こんな歌を残した。
「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」

ほんで、司馬遼太郎は、こんな言葉を残した。
「日本が近代化する上で一番の失敗は、朝鮮を占領したことだと思います。
なんでそんなことになったかと言ったら、日本は幕末において外からの圧力で興奮して統一国家を作った。
外からの圧力に対して、攘夷エネルギーが収まりつかんほど沸騰した。
攘夷エネルギーというのは、いってみれば異常心理ですからね、自分がやられるという……。
中国がやられている、朝鮮も眠っているからやられるだろう、その次はこっちだ。
だからやられる前にこっちから出て行け。
なんの実質もなくて、観念だけが先走って朝鮮を占領してしまった。」

(参考文献)『対談 中国を考える』 p.148 司馬遼太郎、陳舜臣 文春文庫


わたしは正直言うて、戦争っちゅうことをぼんやりと思い浮かべた時、被害者意識というもんの方が勝ってた。
学校ではずっと、原爆が落とされ、沖縄で上陸され、東京を焼かれ、とにかくいっぱい悲惨な目に遭わされたから、戦争もうこりごりやね、という論理で教育を受けて来た。
日本がアジアにしたこと、軍部の暴走、民衆が熱狂したファシズムについては、ほとんど学んだ記憶がないし、実際あんまり触れることはなかったと思う。

自分らがやった、ええことも悪いことも、きちんと学んだり知ったりできる環境を作れん国は、やっぱり大人になりきれてないと思う。
そんな国の市民は、よっぽど気ぃつけてしっかりしてんと、司馬さんが言わはったように、なんの実質もないのに観念だけが先走って、またけったいな方向に暴走してしまう。
けどそれは、韓国かて同じこと。
いや、どこの国にも言えることなんかもしれん……。
と、いろんなことを思た日。



↓ここからは日記。

5月30日・やっとこさの曇り

行く前からわたしだけが勝手に心配してた、DMZ(北朝鮮と韓国の国境近辺の非武装地帯)に向かって出発する。
今日のガイドさんはチャールさん。
昨日のエルヴィスさんは40代、今日のチャールさんは50代。
背は低いけれどもがっちりしてる。
彼もロサンジェルスの大学に留学していたらしく、女子大生の背の高さと鼻の高さと食べ物の量の多さにたまげたらしい。
学生がローラースケートでカフェに出入りしてた時代のこと。

道中、車のガスを入れに寄る。
アメリカでガソリンスタンドのことをガスステーションと呼ぶのやけど、これは正真正銘の"ガス"ステーション。
プロパンガスで走る車を政府は推奨してるそうな。
空気を全く汚さず、燃費もすごくいいらしい。
ただし、補給所はソウル市内には一箇所も無い。
もし爆発した場合にはものすごい規模のものになってしまうということで、北朝鮮からの攻撃を受けた時のことを想定して、ソウル以外の田舎にしか設置したらあかんことになってるらしい。
危険なもんは田舎に押し付ける。ここにもそういう現実がある。
 

DMZまでの道はスカスカ。
そらまあ、行く人は限られてるので無理はない。
川に沿ってずっと走るのやけど、ものすごい距離にわたり、鉄条網と監視所が設置されてるのを見て、少し緊張する。




個人で行くことはできないので、途中の駐車場で他の観光客らと合流し、一台の観光バスに乗って行く。


その駐車場のトイレで珍事件勃発!
珍しくウォシュレットのトイレやったので、喜んで使たら……どんだけストップのボタンを押しても水が止まらんかった。
え……どないしょ……いろいろやってみたけど、止まれのボタンだけが言うこと聞いてくれへん。
みんなが待ってくれてるんやしと、えいっ!とばかりに立ってみた。
みなさん、ウォシュレットの女性用(いわゆるビデ)の水流の強さをナメたらあきません。
もし、わたしとおんなじような事態に巻き込まれたら、とにかく神さんでもなんでもええから祈って待つことをお勧めします、はい。
立った途端に、あっちゃこっちゃ、もうどうしようもなくベチョベチョになってしもて……水もしたたるええ年したおばちゃん……。


途中、検問の警察官や兵士に何度も止められる。




銃器を携えた兵士がドカドカとバスの中に乗り込んできて、人数を数え出したりした。




ここがDMZ(非武装への入り口)


北朝鮮と韓国の境界線から双方に2キロは、とりあえず平和地帯になっていて、そこでは特別の恩恵と許可を持つ農民が、通いで作業をしている。




母が気に入ったボンボリ。


まずはDMZ館に入り、7分の映画を観る。もちろん内容は韓国寄り。


なんか、どっかのドライブインみたいな感じの、非武装地帯記念館。


兵舎が連なって建てられてた。


ここからは、カメラ撮影が許されてないので、写真は無し。

我々が案内されたのは、北朝鮮が韓国侵攻のために秘密裏に掘り進めてた4本のトンネルのうちの、3番目のトンネル。
←資料より拝借。

第3トンネルは、4本のトンネル中、ソウルから一番近い位置にある。

トンネルの底までは長いトロッコで降りて行った。
←資料より拝借。

トンネルは、高さも幅もトロッコに乗ってる人にスレスレで、プラスティックのヘルメットが時々擦れたりする。
旦那の肩は幅広で、何回も擦れそうになってヒヤヒヤする。
到着した底は、なんとも狭苦しい、天井から水がポタポタ落ちてくる、閉所恐怖症の人にはまず無理な感じの世界やった。
底のトンネルは、ダイナマイトで爆発したまんまのゴツゴツ岩。
古いタイヤを紐状に切り刻んで並べた床は、歩くたんびにジュクジュクと音を立てる。
背の低いガイドのチャールさんは、さっさと早足で歩いていってしまう。

トンネルのところどころが黒い。
それは、北朝鮮軍が掘った壁面を、炭で黒う塗った痕やった。
なんでも、ガイドさんが言うことにゃ、石炭鉱脈を掘ってたら38度線を越えてしもてましてん、という言い訳をしたいがための作戦やったそうな。
床はベタベタ、天井は低くて、旦那や父、それから他のアメリカ人の男性たちは、一歩進むたんびにヘルメットをぶつけてコンコンと音をたてた。
その音が妙~に可笑しくて、たまらんようになって笑てると、旦那が心配そうに「大丈夫か?」と言う。
どうやら、前々から心配してた、暗うて狭いとこに閉じ込められて、ちょっと頭がおかしなったんか?と思たらしい。

トンネル見学が終わり、どうやって戻るかという時に、徒歩かトロッコかと聞かれ、運動好きの両親は「もちろん徒歩!」と返事する。
マジか……。
すごい傾斜の登り坂を300m。
平地やったらなんでもない距離やけど、一足一足がしんどい。
はじめの50mを過ぎた辺りですでにハアハア言うてるわたしらを置いて、ガイドのチャールさんはどんどん上って行く。
おぉ~い!!
無事に頂上まで上がり、また英語、日本語のガイドさん達の説明が飛び交う中、バスは次の場所に向かう。


一番厳しそうやった検問所。


DMZを見渡せる、韓国最北端にある展望台。




平和的に国交を持ちたい韓国と、それを聞き入れない北朝鮮。
ガイドさんはずっと、そういうニュアンスで説明をする。
天気がよかったら、肉眼でも北朝鮮の様子を見ることができる。


展望台には、これ以上前に出て撮影したらあかんで~という、黄色い線がが引かれてた、らしい……写真をパチパチ撮ってから気ぃついた。
軍人が監視してて、けっこう厳しく注意されてる観光客がいはった。

軍専用の望遠鏡。ここから見張り、妙な動きを発見したらすぐに対処できるようになってるらしい。


この鉄塔は、北朝鮮に電気を送るためのもの。


北はこの付近に、ハリボテのきれいな建物を建てたり、偽の人形を置いたりして、見た人たちに北はこんなにしっかりしてるという印象を与えるためにウソをついてるのやそうな。


こんなきれいな風景のとこに、ふたつの国がお互いに認め合えんまま、異様な緊張が続いてる。


都羅山駅。


他のガイドさんの説明が終った後で、どういうふうに線路が引かれてるかを説明してくれるチャールさん。




ソウルから約2時間。
民間人が行ける韓国最北端の駅。

駅には、使用禁止となったホームが、奥に寂しく並んでる。
都羅山駅の次の駅は北朝鮮の開城(ケソン)。
この駅から開城までは、わずか17キロしか離れてへん。
駅舎内には、ここが「南の終着駅ではなく北への始発駅」というメッセージが書かれてる。

この駅の建設にあたり、寄付をした人達の名前が刻まれてる。


40日前まで、けっこう頻繁に利用されてたらしい。
ほんで、北朝鮮に韓国から、いろいろな物質や人材が送り込まれていたらしい。
そやし、民間は民間でも、許可を受けた者だけで、一般の人がちょっと旅行に、みたいなんでは使われへん。
なんで40日前から使えんようになったのか尋ねると、
「北朝鮮が核実験をしたから」と言う。
韓国は、なんとか平和的な方法で、物質やエネルギーを送って助けたり、互いの文化を理解し合ったり、よく話し合ったりして、北朝鮮との国交を復活させたいと思てるのに、
どうしても向こうはそのことを理解しないばかりか、要求ばかりしてくるとチャールさんは苦々しい顔をして何回も言わはる。

ちょこっとお土産屋さん見学。




再び検問を受けて次の場所へ。


この川が、韓国と北朝鮮を分けている。




ここで農業を営む人たちは、どんな人たちなんやろう。


また延々と続く鉄条網。


ランチに行く。
辛いもんに疲れたので、みんなはビビンバを、わたしはニラとイカとエビのチゲを食べた。


ここからちょっと行ったところに、蒸気機関車の先頭部分だけがあります、とチャールさん。
実はこの蒸気機関車、日本製なんやそうな。


この機関車は、朝鮮戦争中に攻撃を受け、脱線したあと、半世紀に渡って非武装地帯に放置されてた。
2004年に、辛い歴史の象徴物として保存するために、文化財として登録され、臨津閣に展示されるようになった。
当時の機関士の証言によると、軍事物資の輸送中に攻撃を受けたということ。
この機関車には、1020発にも及ぶ銃弾の、生々しい痕が残ってる。




望拝壇。


ここは、離散家族が毎年旧正月と旧盆、北にいるであろう家族を思い祈りを捧げるところ。
その時期以外にも、北の家族が恋しくなるとここを訪れる人が後を絶たへんのやそうな。

北朝鮮に暮らす、会えない家族や友達の無事と健康を祈って書かれた短冊状の布。


自由の橋の先は行き止まりになってる。


ここから先は行けない。


穴を覗いてみたら、


この時初めて、チャールさんの両親そして家族が、北朝鮮に暮らしてはることがわかった。
お父さんは、生きてはったら100才を迎えはるらしい。

平和の鐘。


北から戻れないままの親兄弟、親族を思い、彼らにも聞こえるように願いながら叩きます、とチャールさん。
やりきれへん思いが胸にこみ上げてくる。
この鐘は、朝鮮戦争に使われた銃やヘルメットを溶かし、人類の平和と統一を願って造られたんやそうな。
21世紀が平和であることを願い、21坪の敷地内に21段の階段をつくり、21トンの鐘が製作されたんやそうな。
また、2000年1月1日午前0時には、21回、この鐘が鳴らされたんやそうな。
もうほんま、みんな、イヤでイヤでしゃあないんやろな、こんな状況が続くのんが。


ソウルに戻る。
ソウルのビルは総ガラス張りが多い。


ほんでもって、建設中のアパートもめちゃ多い。


これはロッテの建物。マンハッタンで言うたらトランプビルディングって感じ。


これはいったい……ヒュンダイ(現代自動車)の車専用のってことやろか?


ソウルの新幹線駅の近くでは、タクシーがズラ~ッと客待ちをしてた。


韓国のタクシーはめちゃ安い。1時間乗っても3千円ぐらい。

ソウル駅。




おにぎりも売ってる。ちょっとキムチ色が韓国風。


警備のおっちゃんは銃を携えて怖い顔してた。


釜山行きのプラットホームへ。釜山観光を一緒にするオリバーとここで待ち合わせした。








この韓国新幹線(KTX)、乗った席はエコノミーやったからか、座席がえらい狭い。
雰囲気としては、昔の近鉄特急、って感じ。
しかも、座席が真ん中で対面になってて、一両の中で半分が進行方向に対して前向き、半分が後ろ向きになるから、運が悪かったらずっと後ろ向きで乗らなあかん。
ソウルから釜山まで、行きは3時間、帰りは2時間半、っちゅう差も、なんでなんかよう分からんかった。

釜山に到着。
迎えに来てくれはったドライバーさんは、英語が全く話せへんけど、すご~く誠実そうなおじさん。

サンフランシスコとよう似てる街並み。


カメラと一緒に無くしたサンフランシスコの風景写真さんたちよぉ~今いずこ~!?

巨大なコンテナ用ローダー。


ほんでもってコンテナ。


ホテルに到着。


このエレベーターが恐怖!19階の部屋までの道中、透明の入れ物がぐんぐん上がってく。なんか自分が宙に浮かんでる感じ。


夕焼けがきれい!

オリバーとテディベア。


夕飯はホテルでとることにした。
日本のカレー、超~久しぶり!


なんと、窓の下にはモーテルだらけ!と驚いてたら、これは日本のラブホテルとは違て、料金の安いホテルっていう意味やそうな。ほんまかな……。


さて、明日は釜山の文化を学ぶらしい。
けど、英語で……とほほ。
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韓国旅行記・その2

2013年06月04日 | 家族とわたし
5月29日雨

翌朝、5時に目が覚めて、そのままシャワーに入り、朝食に。
タイ旅行の際にいただいたような、多彩な料理に、韓国ならではの野菜料理、キムチ各種、ハーブが混ぜられたおかずが並ぶ。
あ~あ……旅行前にすでに増えてた体重がまたこれで……。

ソウル市内観光に出発。
なんかめちゃ寒い。あいもんの薄いコートを持ってないので、あれこれ工夫して重ね着する。

通りがかりに見えたビル。なんのための垂れ幕なんかは不明。


昨日空港まで迎えに来てくれたエルヴィスさん。
超細身で長髪、ヘビメタやエルヴィスの歌を演奏するバンドのボーカルさんなんやそうな。
彼の英語はなかなか流暢。若い頃、アメリカの大学に留学してはったらしい。
ただ、強い訛りがあって、旦那の両親には聞き取りにくい。
旦那は日本で英語教師をやってた経験と、わたしの訛り英語に慣れてるだけあって、エルヴィスさんの英語を、正しい米語に直して通訳する。

日本が侵攻してくるまで存在してた王様の家を見学。


突然街中に現れた山々と、巨大なお寺のような家。雨に霞む山はまるで墨絵のよう。


昔の兵隊さんの行進リハーサルと鉢合わせした。


このヒゲはつけヒゲやろか、ほんもんやろか……じろ~りじろり……結局わからんかった。




彼らをパチパチ写してると、父が横から、
「日本の軍と戦うた時もこんな格好やったんかなあ」とボソッと言う。
ガイドのエルヴィスさんの説明の中にも、何回も何回もその、1910年の話が出てくる。
そのたんびに、心の端っこで、ごめんなさいと謝る。

それにしてもカラフルな兵隊さん達。
靴を見て、はじめの結婚式の時に、神主さんが履いてた靴を思い出した。


角隠しして、神妙にしてなあかんかった花嫁のくせに、これとよく似た、先の尖った、しかもそれがビロロ~ンと長く伸びた靴を見て、可笑しくてどうしようもなくなり、肩を震わせて我慢してたら、感激して泣いてると誤解されたあの日の若かったわたし……。

ドド~ンと鳴り響く太鼓の音で始まる。


音楽隊が入場!




正真正銘のホラ吹きさん♪♪


こんなビル街のすぐ隣にある。


水はけをよくするために、わざとジグザグのデコボコにしてある石畳。


守り神の動物たち。


屋根にも。


どこもかしこもカラフル。




本堂のすぐ横の水瓶。


こんな少量ではどないもなりませんね、と言うと、
ここに水を張っておくと、火事の神さんが悪さをしに来た時、その水面に映った自分の顔の醜さを見て、ショックのあまりにそこから退散するように、という意味合いらしい。

韓国らしい色彩。


雑草が生えてるのかと思たら、雷除けらしい。


障子と抹茶色と朱色のコンビネーションが美しい。


屋根も渋い。


塀も渋い。


オングル用の煙突。オングルというのは、韓国ではよく使われてる床暖房のこと。
昔は、台所で使うかまどの熱なども利用したそうな。


王様の書斎。


障子フェチにはたまらん。


ここは王様のための貢物倉庫。


王様はここで政治を考えた。


王様の寝室がある建物。


この建物の屋根には、普通ある物が無い。さてなんでしょう?と聞かれてう~んと考える。
それは、屋根のてっぺんの、写真右横にはある白い筋状のもの。
これが屋根のてっぺんにつけられると、それは龍を意味する。
王様は龍なので、ひとつの家に龍がふたりも存在してはいけない、ということらしい。

障子を使わない時は、こんなふうに釣り上げられる。


王様の食事場所。金属の食器は毒の有無を確かめるため。


お妃様の寝床には優しい感じの障子……うっとり……。


石の神様と煙突。


煉瓦はやっぱりいいな。


もっと奥に行くと、太鼓の音が聞こえてきた。
若い子たちがめちゃ楽しそうに演奏してる。


ひとりの男の子が、お皿のようなものを回し出した。
アシスタントに母が選ばれ……見事に演技終了。


彼女はほんまに愛らしい。


韓国の歴史館。


韓国の国旗の真ん中の円が、陰陽やと知らんかった自分にショックを受ける……。
韓国は風水や陰陽を重要視し、健康のためにどんなものを食べるかに気を配る。

それぞれの地域の入り口に立てられていたトッテンポール。これもやっぱり陰と陽。


昔の道具って、どこの国のもんでもええ感じ。


塩の精製をする水車。


竹ベッドと竹の奥さん。夏は暑いので、奥さんはベッドから追い出され、その代わりに登場するのがこの竹の奥さんなんやって……マジか。


麻の織り機。


台所。


キムチや味噌など、保存食の入れ物。


うさぎ年の母。


お昼ご飯に食べた、鶏スープ。


鶏のモモに、ご飯と高麗人参を詰めたものをグツグツと煮てある。めちゃウマ!このお店です。


街中の、え?!という所に突如現れた寺。提灯は、願い事を書いた短冊がぶら下がってる。


撮影禁止やと聞いたのは撮ってしもてから。
中では大勢の人たちが、お坊さんのお経に合わせて、何度も立ったり座ったりお辞儀したりしてた。


提灯の上に突き出た老木。


お寺もカラフル。


ビルとの共存。


こんな感じの狭い通りにある。



続いて、昔の村を再現した広場に案内してもらう。雨脚が強うなってきた。


わら製品を作るおじさん。


わらを踏んでしごいてるおじさん。


空手のパフォーマンスをする少年たち。


こういう塀を見たら……どないかして自分もできんもんかと思う調子乗り。


シンプルなんもまたよろし。


路地には韓国の旗色の提灯が。


台所。




お神輿と、ここにも吊り上げられた障子。


オンドル用の床。美しい。


手を後ろで合わせ、足先を八の字に開き、視線をやや斜め上にして歩くのが韓国男子の良い歩き方、という講習中。




キムチなどの保存食用の蓑。穴の大きさが出入りに充分ちゃうやん……と思う。


これもオンドル用の煙突。


韓国風コマ回し。コマを手で回してから、縄でペシペシコマを叩いてさらに回す。なかなか難しい。




井戸。


矢のような棒を、ちょっと離れたとこからここに投げ入れるゲーム。一発で入れて、やっぱり韓国人やったんや、と言われる。


無料の簡易問診&治療所。こんな恰好した人が出てる韓国ドラマを観たような気が……。


先生はこんな可愛らしい鍼灸師さん。


韓国人鍼灸師 vs 米国人鍼灸師。


わたしも脈診を受け、右肩のための鍼を打ってもらう。

ハスの葉っぱの上の水玉。


日本からもたくさんの人たち(特に女性)が訪れる明洞という町には、整形のクリニックだらけ。


中には、整形クリニックだけのおっきなビルもあるらしい。
話には聞いてたけど、ほんまやったんや……。

米軍の塀にはずっと鉄条網が。


韓国の横断歩道マーク。


ホテルの正面。


夕飯は、父の友人で、韓国の大学で教えているオリバーと待ち合わせして、ブルゴギ(韓国風焼き肉)を食べに行く。

ガソリンスタンド。


二台のタクシーで行くことになり、オリバーのアシスタントをしてる韓国人のアンドリューが乗らん我々のタクシーが無事に行けるかどうか、かなり心配した。
タクシーの運転手さんは英語がまるであかんっぽい。
タクシーの料金は、物価が高いことで有名なソウル市内でも、1時間乗っても3000円ぐらいらしい……やっす!!

到着したのは、アンドリューのお勧めのブルゴギのお店。
アンドリューは、日本人の母と韓国人の父をもち、6才までは日本、6才から18才までは韓国、18才から33才まではアメリカ(偶然にも旦那と同じ大学)で過ごしたという、3カ国語が堪能な若者。
3つの国の中で、一番自分が自分らしくいられるのはどこですか?と聞くと、アメリカと言う。
辛いのは食べられへんし、日本と韓国は、文化的にどうも窮屈なとこがあってしんどい。
いつかアメリカに移住するつもりと聞いて、それやったらぜひぜひうちに来てと言うた。
めちゃ好青年なアンドリュー。

野菜たっぷりの焼肉。


ハサミでチョッキンが韓国流。


もちろんみんな食べ過ぎでボテボテ。


寝られるかと思たけど、なんのこっちゃない、簡単に寝た……また太る……。
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韓国旅行記・その1

2013年06月03日 | 家族とわたし
ただいま~です!
昨日の夜11時半に、無事に家に戻ってまいりました。
ごちゃごちゃ前置き無しで、さっそく旅日記を書き残しとこうと思います。

5月26日
不思議なことに、無くしたカメラと一緒に、iPadに書き込んであった日記も消えてしもてた。
まるで、カメラの中の思い出写真らが、連れてってしもたみたいに……。
そやから、ここに今書いてるのは、思い出せることだけ。
短い間やったけど、よき相棒となってくれたあのカメラが、新しいパートナー(見つけてそのまんま持ってった人)に、大切にしてもらえることを祈るばかりなり。

さて、旅行初日の26日は日曜の朝で、7時に予約したタクシーに乗って空港に行った。
日曜日のその時間の高速はめっちゃ空いてて、ものの15分もせんうちに空港に着いた。
タクシーの運ちゃんは、その会社では珍しく、運転も物腰も柔らか、ええ人やった。
料金は35ドル。
今日はサンフランシスコまで飛ぶだけ。
ほんでもって、サンフランシスコの市内観光をして一泊し、翌朝韓国に向かうという計画。
真横に一直線に飛行機で飛んでも、6時間もかかってまうアメリカ。
いっつも、これぐらい(6時間)の時間が経ったぐらいのとこで、飛行機に乗ってんのがイヤになってくるので、このアイディアはありがたかった。
今回の旅行も、前回のタイ旅行と同じく、親におんぶに抱っこ。
しかもどっちもアジアで、日本をちょっとだけ飛び越えたとこ……ちょいと複雑……。

空港で待ち合わせた父が、予約の都合で、あんたらもファーストクラスやと言う。
えぇ~!!
思いっきり妄想が始まる。
カプセルみたいなとこで、座席がベッドみたいになって、ワインとかが運ばれてきて……etc。
ところがところが、国内線のファーストクラスっちゅうのは、片方に2席ずつのでっかいサイズのフワフワ椅子で、寝ることはできんかった……残念。
けどまあ、メニューで選べる食事とか、あれこれ経験したことのないサービスを受けさしてもろたし、やっぱり6時間乗っても疲れが全然ちゃうかった。
ありがたや~……。

サンフランシスコに到着し、レンタカーを借り、そこからホテルへ直行。
それにしても父は、待つことがとにかく嫌いな人。
レンタカーも前々から予約してあったみたいで、空港内から乗れる電車でレンタカー駅(というのがある)まで行き、そこから借りた車に直行。
立ち止まる、ということが一切無い。
ホテルに着いてチェックインが終ると、ほな、◯◯分後に△△で待ち合わせ、という号令がかかる。
わたしら(というか、旦那の家族)は、その◯◯分というのをきちっと守らなあかんと、長年に渡りしっかり擦り込まれてる。
今回のんは、◯◯分後にホテルの入り口に集合し、土地に詳しい父が自分で運転して、市内をあちこち案内してくれはる、という計画。
わたしは西海岸が初めて。
そやし、めっちゃ興奮して、あっちゃこっちゃ写真を撮りまくった。
ところが母は、そんなわたしの横で、ちっちゃいため息をついては悩まし気な顔してる。
なんでかというと、この旅行のために厳選した4冊の本をキンドルに入れといたのに、それをマンハッタンのアパートに置き忘れてきたから。
旅行の読書は、絶対に欠かせん彼女の楽しみ。
そやからなんとかして、サンフランシスコにいる間に、同じタイプのキンドルを見っけたい。
けども、待ったり予定外の行動するのが大っ嫌いな夫に、なかなかそれを頼みにくい。
けどもけども、横には息子と嫁がいる。
いつもとはちょっと違う状況やし、旅行中やし、ちゅうことで、母はいつもよりも大胆に、携帯でお店を探してた。
運転する父は、これまたいつもよりも信じられへんくらいに親切に、母の言うことを聞いてたのやけど、ちょっとイライラし出した。
その時、実にタイミング良く、旦那が、車が走ってる近くに店を見っけた。
電話して聞いたら「ありまっせ」と言う。
車をUターンして店に到着。
全くおんなじもんとはちゃうかったけど、それでも手に入れられた母は、ニコニコして戻ってきた。
買い物中、旦那とわたしは車のそばで待ちながら、母も30年前やったら、キンドルみたいなたっかいもん、忘れてきたから言うて買い替えたりせんかったやろなあ、などと考える。
仮にもし、わたしが忘れたら、旦那は即、「Just forget it」と一言言うて終るやろ。
彼女は普段、同じアルミホイルを何回も使たり、洋服や日用品も贅沢なもん買うたりせん人やけど、お金持ちになって何十年も経つと、やっぱり少しは変わるんやろな。

ゴールデン・ゲート・ブリッジに近づくと、めちゃくちゃ混み始めた。
そっか、今日はメモリアルデーの連休中やった。
渋滞が続いたけど、父の機嫌はまずまず。
「あそこが橋やで」と指差してくれたとこを見たけど……真っ白でなんも見えへんし……。
「どこ?」
「いやあ、ここまで濃い霧は初めてやなあ」と、ひとり感心してる父。
せやから、見えへんねんて……。

めちゃんこ珍しい上半身だけの真っ赤っかな橋を撮ったのに、そのカメラを無くしてしもたのでここには載せられへん……しくしく。
とにかく、左からビュンビュン吹き荒れる風に流されるのに、すぐに沸き上がってくる?霧に隠れる橋。
人も車も、白いモヤモヤの中で見え隠れする。
橋の測道を歩いてる人らが、めっちゃ寒そうやった。

その後、モービルカーが走る坂道や公園を車中から見学したり、車から降りて散歩しながら町並みを観たりして、3時間の時差ボケを調整する。
ご飯を食べに行った時、せめて食事代だけでも払わせて欲しいと言うてみた。
「いや、今回はあくまでもゲストとしていてもらうから、そういうことは一切無し」と父。
おおきにです!

食事後、レンタルカーを戻し、電車で空港まで行き、翌日の飛行機のチェックインを済ます。
これまた、待ちとうない父の恒例の行動パターン。
けど、もともとファーストクラスって他のクラスよりも優先されてんのに、その中でもさっさと終ってたいっていうこの性格……軍人の厳しい父親と、軍人ちゃうけど厳しかった母親に育てられた父ならでは、なんなんかなあ……。
いや、待ちとうないっていうのはちょっと違うかも。
だって、搭乗開始時間の少なくとも15分以上前には、ゲートのカウンターんとこに居てなかなんみたいやし。
決められた時間を待つのは平気なんやけど、人の後ろで待つってのがイヤなんやろか……。
とにかく、わたしとはまったく違う性格の人であることは確かで、母はもうかれこれ60年以上も、こういうノリに付き合うてはるんやな。
などと、自分はエコノミー席やのに、異様に早い時間にゲート前に集合したいファーストクラスの人に付き合わされながら、あれこれと勝手に考えたのであった。

そして翌朝、こちら時間の27日の朝、10時5分出発の韓国行きの飛行機に乗るべく、サンフランシスコ空港に向かう。

両親の席を見学に行ったら、やっぱりあのカプセルやった。
くぅ~……。
我々の席は、通路を挟んで隣り合わせのエコノミー席。
ユナイテッドの国際便のエコノミー席の狭さはなかなかのもんやった。
けども、無銭旅行をさせてもらうんやから、文句は言いっこ無し!ありがたやありがたや。
と、シートベルトを閉め、12時間近くの時間を過ごすための道具を前の座席のポケットにセットして、いざ出発!と意気込んでたら……、
2階のファーストクラスのお客さんに運ぶ、食事用のコンテナを移動させるエレベーターが故障した、というアナウンスが。
とても優秀な技術者が、只今必死のパッチで修理してますので、多分30分もしたら飛び立てると思います、と言う。
ところがところが……その後何回もアナウンスがあって、結局2時間半遅れで飛行機は飛び立った。

その間に、飛行機から出てもいいですよ、と言われ、ゲート近くのトイレに行ったわたし。
トイレの隣にあった、スパ&マッサージのお店で、気持ち良さそうな旅行用枕を見っけて代金を払てたら、
「まうみ、早よ早よ!飛行機がもう出るらしいで」と、旦那が大慌てで手招きするので、慌てて走って飛行機に戻った。

そして多分、そこで、わたしは相棒のカメラを置き忘れてきてしもたらしい。

地獄の12時間後、もうそろそろ韓国に着くという頃、iPadやマスクや枕をナップザックの中に仕舞いながら中身を点検してる時に、カメラが無いことに気がついた。
おぉ~のぉ~!!
旦那が手書きした紛失届を添乗員に渡し、とにかくなにか情報が入ったら教えて欲しいとお願いした。

カメラ無しの旅行やなんて……アーモンドの入ってないチョコレートみたいやんか……いや、それよりはもうちょっと深刻……。

日にちは時差のかげんで5月28日になってる。
気温はめっちゃ低うて寒い。
マリオットホテルに着き、荷物を置いてまず散歩。
起きてるのか夢の中でいるのか、ぐらいのボケようで、空港からホテルまでのワゴンの中でもホワホワとしたまんま。
ホテル内で、飛行機のアテンダントの人達とまた一緒になり、カメラの紛失届のことを、旦那がもう一度頼んでくれたみたいやけど、やはり落ち込む……相棒を置き忘れてくるやなんて……。
街中の食堂みたいなとこで食べてみるか、それともホテルの中か。
誰も挑戦する気力がなくて、結局ホテルの中のレストランでビビンバを食べる。
部屋でインターネットが使えるようになり、ツィッターやフェイスブック、それからブログをちょっと確認するも、頭がボケ過ぎてあかん……これはもう寝なあかんと断念した。

あ、そや、もしも旦那が、前の相棒やったお古のカメラを持ってきてくれてたら……。
「持ってきてるで」
おっしゃ~!!
ちょっと元気が蘇った、旅行初日の夜。
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