ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「『従軍慰安婦』の真実・その2」泥憲和氏

2014年09月10日 | 日本とわたし
③ 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について

否定派は、従軍慰安婦という名称にこだわります

従軍という言葉は、軍属という正式な身分を表す言葉だ。
だが、慰安婦たちは、民間の売春業者が連れ歩き、兵士を客とした民間人である。
従軍というのは間違いで、追軍売春婦だ。

このように言うわけです。
 
慰安婦制度に国家が関与していたことを、認めたくないからですね。
この意見は、もちろん間違っています。
46年も前の昭和43年に、国会で、慰安婦に関する質問がされています。
 
第058回国会 社会労働委員会 第21号
昭和四十三年四月二十六日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0200/05804260200021c.html

日本社会党の後藤俊男衆議院議員が、慰安婦に対する援護法適用について質問しており、厚生省(当時)の政府委員が、こう答弁しています、
「慰安婦に、無給の軍属のような身分を与えていた」と。

軍属だったら、従軍していたのです。
慰安婦は、雇い主から稼ぎを受け取るので、軍が給料を支給しないのは当然ですし。
 
答弁は「軍属のような身分」ということなので、正式の軍属ではなく、「軍傭員」に類するパート職員扱いだったと思われます。
 
前回のエントリーに書いた金福童さんは、「軍傭員」の身分でした。
 
それにしても、軍属なのだし、軍から宿舎を提供してもらっているのだから、追軍売春婦というのは、まったく人を馬鹿にした呼び名です。

厚生省(当時)の政府委員は、こうも答弁して います、
「輸送船が沈められて亡くなった慰安婦は、援護法の対象である」

援護法の対象になるのは、「公務に従事して死亡した場合」に限りますから、慰安婦は公務で輸送船に乗っていた、と認定されているのです。
 
こういうことだから、「ただの民間人だ」というのは間違いで、「従軍」という接頭語は正しいのです。

大事なことなので、政府委員の答弁を、要約しておきます。

1. 戦地の慰安婦に、軍が、宿舎の便宜を与えていた。
2. 慰安婦には、無給の軍属の身分を与えていた。
3. 戦地で、銃を取って戦ったり、従軍看護婦の役割を果たした慰安婦もいる。
4. 戦場で、軍に協力して死亡した慰安婦は、正式の軍属や準軍属とみなして、援護法の対象になる。
5. 海上輸送中に沈められた慰安婦も、軍属、あるいは準軍属として、援護法の対象である。


政府委員は、つぎのようにも答弁しています。
「立場として申し出にくい場合があるだろう。法律を知らずに泣いている人もあるだろう。一人残らず救うために努力したい」

一人残らずと言っても、それは、
「戦闘協力者として、または輸送船が沈没したことで亡くなり、正式の軍属や準軍属とみなされた慰安婦」、 あるいは死んでしまった慰安婦の遺族のことです。
生き残った慰安婦には、何の援助もありませんでした
 
彼女たちは、戦後をどのように生きたのでしょう。
次回は、そのことについて書きます。


2014年7月31日


⑥ 敗戦後の日本人慰安婦たち

前回は、慰安婦が、軍属に準ずる扱いを受けていたことを書きました。
 
中には、最前線で、戦闘協力者として戦死したり、または、輸送船が沈没したことで亡くなった方もいて、その場合は、遺族年金の対象とされています。
 
しかし、生き残った慰安婦には、何の援助もありませんでした。
彼女たちは、戦後を、どのように生きたのでしょう。

ネトウヨやバカ評論家は言います。
「日本人は奥ゆかしいから、賠償など要求しない」...
「売春婦が売春禁止反対を唱えるような、韓国人とは違う」
 
ふざけちゃいけません。

昭和23年11月27日、衆議院で、一通の陳情文が読み上げられました。
陳情者は、大阪府接待婦組合連合会の会長、松井リウ。
接待婦とは、要するに売春婦です。
陳情書で松井は、売春防止法の制定を延期して欲しい、と述べます。
(国会議事録 第003回国会 法務委員会 第10号 昭和二十三年十一月二十七日)

自分たちは、戦時中は、看護婦や慰安婦として、お国に尽くせと言われ、
帰ってみれば何の保障もなく、
あるいは夫が戦死したために、生活に窮し、
女中に行けば、雇い主から犯され、働きに出れば、上役から関係を迫られ、
そんな男の身勝手が、横行している世の中なのに、暮らしのために売春してはいけない、とはどういうことか。
せめて、暮らしていけるぐらいの経済力が身につくまで、また、男たちの性に対する意識が向上するまで、売春防止法はつくらないでほしい
と。

「私たち就業婦の中には、戰爭中、白衣の天使として第一線に從軍し、満洲、中支、南支、南方各地域において、また、軍の慰安婦として働きおり、引揚げたる者、その他、夫が戰死し子を持つ者、元ダンサー、女給、看護婦、女店員、女工等と、諸種の前職を持つておる者ばかり」

「現在の接待婦以上のことをいたさねば、生活ができず…、生活もろくにできず、衣類等を賣り盡くして、現在の職業に入つて來ている者が、少くないのであります」

「いかに男女同権とか、基本的人権の尊重が叫ばれましても、現在の社会は、そんな立派なものではありませず、
私たちのうち、女中奉公中、主人に無理を言われ、ビズネス・マンとして、上役の人より無理を言われ、
いずれの職域においても、職業婦人は、横暴なる男性のために犠牲になり、苦労しているのが事実であります」

「経済界が安定して、生活苦が少くなり、一般職業婦人が給料にて生活ができ、
その上、服の一着もくつの一足も買うことができ得るようになり、他面、青年男女が一定年令に達したなれば、
結婚して、主人の收入にて生活ができるよう、また、全國民が、衞生思想が発達し、性教育が今少し普及され、
すべての点につき、世界の水平線まで進み、自他ともに認められる時期まで、今度の法律が出ぬようにしていただきたいと思います」


彼女の言い分が、すべて正しいとは言わないけれど、売春を続けさせて欲しいと言わねばならない境遇に陥ったのは、彼女たちの責任ばかりではないでしょう。
 
こういった彼女たちに対し、しかし世間は冷たかった。
 
昭和27年04月25日、参議院法務委員会において、参議院議員宮城タマヨが、売春防止法を早く施行してほしい、と求めています。

「東京の吉原を調べてみましても、現在ざつと、千三百人以上従業員がおります。
そうしてこの様相は、実に驚いたものがあるのでありますが、そういうことが、一体今後、いつまで許されるものか」

「慰安婦として、政府が集めましたその人たちが、まだ随分残つておる。
それで、その人たちは、実に大手を振つて、威張つてこの仕事に従事しておりますのでございます。
政府からもお招ばれしているんですよ、ということを、まだ言つておるのです。
それで一つ、どうしても早い機会に、これは何とかしてほしいのでございますが、これにつきまして、政府の御意見は如何でございましようか」


戦後、日本政府は、連合軍が進駐してくるよりも前に、兵隊には慰安所が必要だろうと勝手に決めつけて、特殊慰安所RAAを設けました
 
そこに、戦時中に慰安婦だった女性も、多く応募しました
彼女たちは、GHQが、慰安所の閉鎖を命令したことで失職したあとも、売春婦として生きていました
宮城タマヨは、いつまでそんなことをさせているのか、と問うのです。
 
売春婦風情が大手を振って、大威張りで生きるとは何事かと。
「政府にいわれて売春していたのだ」と、いまだに言っているが、許しがたいと非難する
のです。

司法大臣を夫に持つ宮城タマヨは、戦前から、上流社会の名士でした。
 
戦時中には、こんなことを書いていた人です。

「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも‥‥決して不利ではありません。
一億一人残らず、忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となつて敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」
「大義に徹すれば、火の中、弾の中をものともせぬ献身の徳は、肇国以来の日本婦道でございます」

『主婦之友』1945年7月号「敵の本土上陸と婦人の覚悟」

てなことを書いていた御仁が、敗戦とともに、くるりと手のひらを返して参議院議員におさまり、「平和憲法」「民主憲法」に賛成しました。
 
戦時中、この人は、夫を兵隊に取られた庶民の苦労など、お構いなしでした。
生活苦を嘆く若妻に、彼女はこう、ご託宣を下していました。

「良人の収入の範囲で、生活を築いていくと言うことが、モットーにならなければ、その家庭は健全に育っていきません。
新家庭がお金に不自由するのは、むしろ当然だと私は思いますよ」
「これからの日本では殊に、厳しいとか辛いとかいうことを、知らないで過ごされるような人を作らなくちゃなりません」

『主婦之友』1941年12月号「戦時下花嫁の生活建設相談会」

厳しいとか辛いとかいうことを知らないで過ごすというのは、苦労を苦労と思わないようになるべきだという意味です。
 
何でも闇で買える優雅な暮らしを送りつつ、平気でこんなことを書く人でした。
だから、元慰安婦の苦労など顧みることがなかったのは、当然といえば当然です。
元慰安婦たちの、「自分たちだってお国に尽くしたのだ」という、せめてものプライドを切り捨てて、
たかが売春婦が、「大手を振つて威張つて」いるのが許せないと。
 
こういう人が参議院議員に当選した一方で、松井リウは、紹介議員さえ得ることができなかったために、陳情書を政府専門員に代読してもらった。

日本人元慰安婦は、声を上げなかったのではありません。
声を上げたのです。
兵隊と一緒に苦労したのに、恩給ももらえない身の上でした。
戦史に華々しく飾られることもない彼女たちです。
せめて売春を続けさせて欲しい、としか言えない哀れな立場でしたが、そのような境遇に追いやった政府に向かい、精一杯の抗議をしたのでした。

その声は聞き入れられることがなく、無視されました
上品でご立派なご婦人から、嘲笑され、見下げられ、切り捨てられました
彼女たちのその嘆きと怒りの声が、かろうじて、いまも国会議事録に残っているのです。

2014年8月3日


⑦ 慰安婦の働き方と報酬額 1) 慰安婦業者の契約書を確かめる

ネトウヨや右翼評論家によって、慰安婦はとんでもない高給取りだ、というデマが流されています。
その証拠として、元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が、引き合いにだされます。
 
文さんが慰安婦をしていたときに、軍事郵便貯金として、26,145円を貯めていた通帳の原簿が、日本に残っていたのです。
小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
 
そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
だけど、その意見は間違っているのです。
文さんのことは、別の回で確かめるとして、まずは慰安婦の稼ぎについて、一般的な状況を確かめましょう。

それには、雇用契約を見てみるのが一番確かです。
 
女性達は、どんな契約を結んで、戦地へ赴いたのでしょうか。
上海派遣軍慰安所酌婦契約条件(しゃんはい はけんぐん いあんしょ しゃくふ けいやくじょうけん)』という文書が残っています。
 
慰安婦の募集に歩いていた男を、警察が捕まえて、持っていた契約書を出させたものです。
誘拐の疑いでいったんは逮捕したものの、軍がバックについていることがわかったので、警察は男を釈放してしまいました。

では、中身を見てみましょう。
ひどいものです。 (写真) 


前借金で身分をしばって働かせる、いわゆる「身売り」という契約です。
こういうのは公序良俗違反なので、民法上は無効でした。
明治時代に、大審院でその判例が確定しています
無効な契約なのに、庶民の法的無知に乗じて、有効であるかのように見せかけて結ばせた、詐欺契約です。

契約書は、16才の女子にまで、売春させようとするものです。
こんな子どもに売春させるのは、いくら親の同意があっても、完全に違法です。
前借金の最高は、500円。 
都会で働く会社員の初任給が、40円だったというので、その1年分です。
農家には大金でした。
契約書には、前借金のうち、2割を経費として天引きすると書いてあります。
500円借りても、2割を天引されるので、手に乗るのは400円
2年間働いて返さなければならないのは、元の500円です。
 
2年で2割は、アドオン金利で年利10%。実質年利はもう少し高くなります
社内貸付としては、常識はずれの高利と言えます。

慰安婦は、2年間の契約ですが、病気などで中途でリタイアしたら、年利12%をつけて、前借金を返さねばならない
そのうえ、別に、前借金の1割という、高額な違約金を取ると定めてあります。
これでは、女性は、なにがあろうと辞めるに辞められません
しかし本当のところ、業者側は、女性に途中でリタイアされたって、痛くもかゆくもないのです。
それは後で計算します。

慰安婦が、月給として手に出来るのは、水揚げの1割でした。
兵が支払った料金は、1回1円ないし1円50銭だったといいます。
1人30分で1日に12時間働けば、24人を相手に出来る勘定です。
実際には洗浄時間も休憩も必要だから、仮に20人としましょう。 
1日に20円ないし30円の水揚げということになります。
30日働けば600円ないし900円の水揚げです。
手取りが1割なので、手に出来るのは60円から90円の計算となります。

小野田元少尉によれば、普通のサラリーマンの初任給が40円でした。
普通のサラリーマンの月給は100円とされていました。
100円が50万円にあたるとすれば、慰安婦の手取りは30万円から45万円。
1日12時間、1ヶ月30日も体を酷使して働いて、この金額です。
時間給にして800円から1200円です。
バカバカしいほど安いと思いませんか。

住む、食べる、置き薬代は、業者負担だと書いてあります。
それ以外の経費、たとえば着物や下着や化粧品、日用雑貨、性病以外の医者代、嗜好品、酒、タバコなどは、女性が自分で負担しなければなりません。
彼女たちは、原則として外出も出来ないので、ちょっと手慰みにバクチでもおぼえさせられたら、あっという間にカスられてしまう金額です。

ところで証言によれば、1日40人も、相手をさせられた女性もいたといいます。
これぐらい働けば、女性にも貯金ができるでしょう。
しかし、そういうタフな一部の女性をのぞき、普通の体力、普通の性的能力しかない女性には、経済的実入りは驚くほど少ないのが実情でした。

さて、女性ひとりが月に600円ほども稼いでくれれば、給料を支払ったあとで雇い主が手にできるのは540円
これなら、500円貸し付けても、1ヶ月で元が取れます
半年働いてくれれば、ボロ儲けです。
途中でリタイアされたって、なんてことない。
前借金を回収したあとは「維持管理費」を支出するだけで、稼げば稼ぐほど丸儲け
維持費と言ったって、建物は軍が建ててくれるのだし、食料まで支給された所もあるから、本当の丸儲け。
雇い主側としてはもうかってしかたがない笑いの止まらない商売でした。

女性さえ集めれば、こんなにおいしい商売だもの、金にあかせた女性の獲得競争が始まったことは、想像に固くありません
前借金が釣り上げられ、最高で2000円ほどにもなったといいます。
芸者稼業は、すればするほど借金の増える商売だったといい、2年間働けば、その借金がチャラにできるというのは、プロの女性にとってうまみのある仕事だったと言えます。
業者の立場で言えば、2000円ぐらいなら、4ヶ月で元が取れるのです。
これほどうまい商売だから、金にいやしい連中が、女性を集めるのにまともな方法ばかりとっていたかどうか。
現在の闇金業や、ウラ風俗業にたずさわる紳士たちが、どういうことをしているか考えれば、類推できるのではないでしょうか。

今回は、業者と女性の、契約条件を見てみました。
次回は、軍が作った契約書を確かめます。

2014年8月4日


⑧ 慰安婦の働き方と報酬額 (2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる

前回は、慰安所業者の契約書を見ました。
今回は、軍が作成した規則です。
こういう契約を結べ、という決まりです。
 
資料の名前は、「馬来軍政監」作成の、「規則集」に収録されている「慰安施設及旅館営業遵守規則
そこに、「芸妓、酌婦、雇傭契約規則」というのが、定められています。(写真)



軍がこういった規則を作った背景に、無茶な搾取をする業者と慰安婦との間に、トラブルがあったのではないかと、私は推測しています。

では、規則を確かめてみましょう。

慰安婦の給料は、「慰安婦配当金といいます。
前借金の額により、配当金が異なります。
前借金が大きいほど、業者のリスクが高いから、「慰安婦配当金」の割合が低くされているのです。
身体はいつ壊れるか分からないんだから、借金が多いほど搾取を強めるのは、雇用主としては当然だ、ということでしょう。

1500円以上
雇主が6割以内、本人が4割以上

1500円未満
雇主が5割以内、本人が5割以上
 
無借金の場合
雇主が4割以内、本人が6割以上


前借金の返済については、「慰安婦配当の3分の2以上」と規定されています。
水揚げの4割~6割の手取りから、さらに、前借金を3分の2もさっ引かれるのです。
米軍が、捕虜にした慰安所経営者に尋問した、いわゆる「ミッチナ捕虜尋問調書」には、
慰安婦の負債額に応じて、経営者が水揚げの50ないし60%を受け取っていた、と記録されています。
 
軍の規則に合致した内容ですね。

ここまでは、規則の面から、待遇を見てみました。
しかし、決まりごとと実際が異なるのは、いつの時代も同じこと。
そこで、実際はどうだったのかを、別の資料で確認しましょう。
慰安婦の水揚げがわかる資料があります。

「鉄寧派憲警445号 軍慰安所に関する件報告(通牒)」
アジア歴史資料センター レファレンスコード. C13031898700

南寧方面 慰安所戸数32 慰安婦295 1日1人当り平均売上19円47銭

こういった記録なのですが、平均売上は、18円から19円程度のようです。
前回、1日の水揚げを、20円から30円と推測しましたが、その低い方の数字なのですね。
1ヶ月なら、600円です。

前出の「ミッチナ捕虜尋問調書」には、水揚げが「300円から1500円」と記録されています。
病気がちなら、300円程度しか稼げない女性もいたでしょう。
日本人慰安婦なら、将校専用となって、1500円稼げたかもしれません。
条件はいろいろですが、朝鮮人慰安婦の水揚げが、平均600円程度というのは、そんなに大きく間違っていないと思います。 

かくして、死ぬほど働いて、1ヶ月600円の水揚げを確保したとします。
2000円も借金があったら、水揚げの6割360円が搾取され、手取りは残り240円です。
そこから3分の2の160円を、返済金として天引きされるから、慰安婦の手元に残るのは80円です。
現代の感覚なら、40万円程度になります。
時間給にしたら1100円ほど
慰安所業者のつくった契約より、ちょっとだけましですが、これが売春という仕事にふさわしい稼ぎかどうか、私はかなり疑問に思います。

文玉珠さんは、ビルマで宝石を買った、と証言しています。
(元慰安婦が語るのは、悲惨な作り話ばかり、という評価が間違っている一例です)
月給40万円なら、宝石も買えたでしょう。
ただ、それは、1日12時間以上、年間7000人もの兵隊との、セックスの代償です。
こういう無茶をすると、計算では、1年で借金が消えることになります。
しかし、身体はもうボロボロでしょう。
女性を監禁して、辞めることも許さず、時間給1100円で、1日に12時間、月の休みがたった1日か半日で売春させたら、これはどう言い繕っても、やはり奴隷待遇ではないでしょうか

次回はいよいよ、文玉珠さんの貯金について書きます。

2014年8月5日 


⑨ 慰安婦の働き方と報酬額 (3) 秦郁彦説を批判する

本日は、文玉珠さんの貯金通帳について書く予定でしたが、予定を変えて、短くて済むものに変更します。

慰安婦は、月に1000円も2000円も稼ぐ高給取りだったという説が、ネットではびこっています。
こんなに高給だったから、応募倍率が高く、強制連行などする必要はさらさらなかったそうです。
この説の大もとは、慰安婦研究の第一人者、秦郁彦教授です。
本を読まない人たちにそれを広げたのは、産経新聞です。

教授は、元防衛大学校教授にしてプリンストン大学大学院客員教授、そして日大教授という、素晴らしい肩書きをお持ちの方です。
このような方が唱えておられる説を、私ごときが批判するのはおこがましいのですが、やはり一言せねばなりません。
教授は、こんなことを書いておられます。

「経営者との収入配分比率は40~60%
女性たちの稼ぎは月に1000~2000円、
兵士の月給は15円~25円。」
「慰安婦と戦場の性」270ページより

これをもとに、慰安婦は、総理大臣の2倍の給料をもらっていた、なんて言われております。
さて、この数字ですけど、ちょっと検算してみましょうか。

仮に女性が、50%を受け取るとします。
2000円稼ぐには、水揚げが4000円なければなりません。
どれくらいの兵隊を相手にしたら、これだけ稼げるでしょうか。

兵が支払う料金が、1回1円から1.5円だったそうです。
4000円にするためには1ヶ月に2600人から4000人の兵を相手にしなければなりません。
30日働いたとすると、1日あたり86人から130人!
こんなこと、できるんでしょうか?

兵の持ち時間は、1人あたり30分だったそうです。
すると、86人を相手するには、1日に43時間必要なんですよね。
130人なら65時間です。
とんでもない仕事ですね。
1000円稼ぐには、21.5時間から32.5時間です。
どんなに慰安婦が頑張っても、1日は24時間しかありませんし、人間は寝なければ死にます。


プリンストン大学院の教授は、数字には強いかも知れないけれど、その数字を現実に適用する想像力がないみたいですね。
ところが、さらに驚いたことに、この程度の検算もしないまま、評論家などによって、「慰安婦高給説」が、テレビで堂々と流されているのです。
そのバカバカしさたるや、本当にお話になりません。

2014年8月6日 


⑩ 慰安婦の働き方と報酬額 (4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳【写真】




慰安婦は高給取りだった、とのデマが右派から流されていて、その証拠として、元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が、引き合いにだされます。
元慰安婦の文さんが、戦時中に、軍事郵便貯金として26.145円を貯めていた通帳の原簿が、日本に残っていたのです。
小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
だけど、その意見は間違っているのです。


■軍事郵便貯金の正体

まず、「軍事郵便貯金」というのが何か、の説明をしておきましょう。
これは、郵便貯金と名がついていても、郵便局の貯金ではありません
軍事郵便局というのは、軍の機関です。
預ける通貨は、軍票でした。
文さんのいたビルマでは、ルピーの軍票が発行されていました。(写真)



1ルピーは1円、と数えました。
しかし、本当の円ではなく、ルピーを円に替えることは禁じられていました


■軍事郵便貯金は、日本円に替えられなかった

軍事郵便貯金が交換できたのは、軍人・軍属だけで、それも、現地で交換できたのではなく、内地への電信送金に限られていました
金額も、月額100円まででした。
つまり、生活費相当です。
民間人の交換は、禁じられていました
なぜなら、軍人・軍属の給料は、戦時予算で手当されていたので、円の裏付けがあったけれど
日本軍が物資を調達するために、大量発行した軍票には、円の裏付けがなかったからです。
 
円の裏付けのない軍票を、大量発行したので、現地はインフレになりました。
このインフレが、日本国内に波及しないように、政府は、軍票と円の交換を禁じていたのです。

資料1 「南方経済処理ニ関スル件」
昭和17年1月20日 閣議決定
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00374.htm

資料2 大阪毎日新聞「南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰」1942.7.16(昭和17)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321

現地がどれほどインフレで苦しもうと、日本だけは安泰という、身勝手なシステムを作っていたわけです。
この操作には、横浜正金銀行が使われました。


■文さんがもらったのは紙くずだった

では、軍票の1円は、日本円でいくらになるのでしょうか。
そのことは後にして、先に、彼女が、軍票をたくさんもらった背景について述べます。

彼女はこれを、「兵隊からもらったチップ」だと証言しています。
印字された日付をみましょう(通帳の写真参照)。

1945年4月4日~5月23日の3ヶ月足らずの貯金が、20,360円です。
彼女は、ビルマのマンダレーにいたのですが、ここが陥落したのが45年3月です。
この時点からあと、軍票は使えなくなっています。
3月に価値のなくなった軍票を、4月にもらっているのです。
文さんは、使えないお金-敗戦で紙くずとなった軍票-を、日本軍将兵から、わしづかみで渡されていたのです。

こういう軍票をつかまされたのは、慰安婦に限りません。
在留邦人も同じでした。

その人たちは、日本に引き揚げてきてから、日本円に変えて欲しいと要求しました。
交換できるようになったのは、昭和29年のことでした。
持ち込まれた金額は、10万円が最高、大部分はそれ以下だったそうです。

(昭和29年第019回国会質疑)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html

文さんは2万6千円だから、かなり下の方の金額です。

1軍票円が、1円に交換されたわけではありません
換算率は、法律で定められていました。
以下のサイトで、換算表が確認できます。

軍事郵便貯金等特別処理法(昭和29年法律第108号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs29-108.htm

その換算表で計算すると、文さんの貯金額は、日本円で3,215円となります。
この年の大卒銀行員初任給は、5,600円だったそうです。
その1か月分にもなりません
ということで、文さんは全然金持ちではなかったことになります。

この項、つづく

2014年8月10日 
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「『従軍慰安婦』の真実・その1」泥憲和氏

2014年09月09日 | 日本とわたし
泥憲和さんをご存知でしょうか。
このブログでも、集団的自衛権の問題などで、何度か紹介させていただいたことがある方です。
この泥さんの、『従軍慰安婦』問題についての一連の論考を、大変わかりやすくまとめてくださった『白樺教育館』のサイトを知り、
みなさんにもぜひ読んでいただきたいと思い、泥さんにお尋ねしたところ、快諾してくださいましたので、ここに何回かに分けて転載させていただきます。

まず、泥さんのご紹介を兼ねて、ここにひとつの記事を載せておきます。



↓以下、転載はじめ

【従軍慰安婦の真実】 
目次
① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)
② 慰安婦は性奴隷だった   (2)
③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
⑤ 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について
⑥ 敗戦後の日本人慰安婦たち
⑦ 慰安婦の働き方と報酬額 (1) 慰安婦業者の契約書を確かめる
⑧ 慰安婦の働き方と報酬額 (2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる
⑨ 慰安婦の働き方と報酬額 (3) 秦郁彦説を批判する。
⑩ 慰安婦の働き方と報酬額 (4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳
⑪ 慰安婦の働き方と報酬額 (5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など
⑫ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (1)
⑬ 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? (2)
⑭「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について
⑮ 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか
⑯ 最終回



① 慰安婦は性奴隷だったのか (1)

まるでネトウヨみたいなタイトルです(笑)
今も、ネットに飛び交うデマに、だまされている人がたくさんいます。
カウンター仲間の中にすら、いるそうです。
そのことを、FB友の渡辺先生から、教えてもらいました。
幸い、たくさんのカウンター仲間が、私のページを読んでくれています。
そこで、おさらいといった感じで、なるべくわかりやすく、日本軍慰安婦のことを書いていきたいと思いました。
ご自身の勉強を確かめるため、またネトウヨと闘うため、活用して頂ければ幸いです。
何回にわたるのか、まだ未定です。
質問があれば、なるべく丁寧にお答えしようと思っています。
第一回は、ネトウヨが発狂するようなテーマです。
「慰安婦は性奴隷だった」という話です。


■ 慰安婦は性奴隷だったのか

性奴隷」とはなんでしょうか。
奴隷状態で、性労働を強制された女性が、性奴隷です。

では、奴隷とは何でしょうか。
人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。
人身を拘束されるというのは、居住の自由を奪われて、雇い主の指定する住居に住まわされ、移動の自由のない状態をいいます。
自由を奪われるとは、転職や退職・廃業の自由を奪われて、いやでもそこで働かされることです。

さて、慰安婦は奴隷ではない、という意見があります。
なぜならば、とその人たちは言います。

慰安婦は、自ら志願している。
慰安婦は、高い給料を得ていた。
慰安婦は、借金さえ返せば帰国できた。
慰安婦は、接客を拒む権利さえあった。


この言い分を、仮に事実だとしましょうか。
それなら、慰安婦の労働条件は奴隷でなかった、と言えるのか、
このことについて、江戸時代の花魁(おいらん)と対比して、考えましょう。

江戸時代、吉原などで、売春営業が公認されていました。
吉原の女郎には、それなりの給与が出ており、接客を拒む権利が認められおり、借金を返せば廃業を認められていました。
この待遇は、慰安婦と同じです。
彼女たちは奴隷だったのでしょうか。
そうではなかったのでしょうか。
 
明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、「牛馬に異ならず」と評しました。
明治5年、『芸娼妓解放令』に合わせて出された、「司法省達」です。
原文を、末尾に、資料として転載しておきます。
現代語になおせば、つぎのように書かれていました。

娼妓・芸妓は、人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである

当時は、奴隷という用語がまだない時代ですが、
「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態である、という認識を示しています。
どうして、「牛馬に異ならず」なのか。

どんなに貧しくても、身体だけは本人のものです。
借金で、その身体の自由さえ失った状態は、人としての最後の自由を失った状態であり、牛馬と変わらない存在だということです。
人としての最後の自由を失った状態、すなわち、奴隷です。

吉原の花魁が、借金で縛られた身分で、「牛馬と異ならず」なら、
同じように借金でしばられ、待遇も花魁と似ていた慰安婦だって、「牛馬と異ならず」だったといえます。
普通の年季奉公は、前借金でしばったりしないので、ただの有期雇用契約です。
この点を混同してはなりません。

このことからも、慰安婦を性奴隷とみなすのは、不当ではありません。

明治5年でさえ、この程度の人権感覚はあったのです。
21世紀に生きる安倍さんたち政治家が、慰安婦が奴隷状態であったことを否認するなんて、なんともはや、ため息をつくばかりです。

ところで、明治のはじめには、こんなにまっとうな認識だった日本政府ですが、その後に後退してしまいます。
 
「娼妓契約は人身売買ではない、だから娼婦は奴隷ではない」、こう言い始めたのです。
それがなぜであるかということと、その後退した考えからみても、慰安婦は性奴隷だったということを、次回に書きます。

【資 料】

明治5年10月9日 司法省達第22号 第2項

娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス
人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ
故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事

http://ja.wikisource.org/wiki/娼妓藝妓ニ係ル貸借其他人身賣買ニ類スル所業ノ處分

写真は近代デジタルライブラリーより
残念ながら、ここに、司法省達22号は収録されていません。


2014年7月29日 


② 慰安婦は性奴隷だった その2

■ 合法的な売春契約と、違法な売春契約の違いを知ろう

今回は、大日本帝国の国内法の観点から見ても、慰安婦は性奴隷であったという話です。

明治政府は、娼妓契約を、「牛馬と異ならず」として、奴隷契約だったと認定したというのが、前回のお話でした。
その理由は、娼妓契約が、「人身売買」であり、人身の自由を奪う契約だったからです。

明治5年 太政官布告第295号
「人身を売買することは、古来から禁じられているのに、年季奉公など色々の名目を使って、実際には人身売買同様のことをしているので、
娼妓を雇い入れる資本金(親に貸し付ける契約金のこと)は、盗難金とみなす。
貸した金を返せ、という訴えは認めない」


中には、
「娘は買ったのではなく、養女にしたのだ、我が子に何をさせようと親の勝手だ」という理屈で、売春をさせていた者もいたようです。

太政官布告は続けます。

「子女を金銭で取引して、名目的に養女にし、娼妓・芸妓の仕事をさせるのは、実際上は、すなわち人身売買である」

こうした措置で、明治政府は、売春業は禁じなかったけれど、人身売買契約にもとづく売春業を禁じたのでした。
この太政官布告が廃止されたのは、明治33年です。
この年、『娼妓取締規則(しょうぎ とりしまりきそく)』(内務省令第44号)が出されたので、布告は役割を終えたのです。

『娼妓取締規則』は、売春を一般的に禁じました。
ただし、法令に従うことを条件に、例外的に、売春を認めたのです。
この規則を理由に、帝国政府は、「娼妓契約は奴隷契約ではない」と言い続けました
それというのは、規則に、「何人たりとも廃業を妨害してはならない」と決めていたからです。

娼妓取締規則は、娼婦に、「契約破棄の権利」と「廃業の自由」を認めました。
警察に届けさえ出せば、いつでも辞めることができたのです。
奴隷契約は、人身を買われた奴隷側から、契約を破棄することができません
これと異なる娼婦契約は、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、したがって奴隷ではないという理屈です。
娼婦が辞めるのは「届出制
ここ、大事なので、おぼえていてください。

しかし、前借金がある場合、娼婦を辞めても借金契約は残る、という仕組みだったので、借金を返すために娼婦を辞められない現実もありました
人身売買の形は回避したけれど、こんどは、いわゆる「債務奴隷」の立場に置かれたのです。
 
それにしても、辞める自由が、法的に保障されてはいたのです。
借金を、連帯保証人(たいていは親)に押し付ける気になれば、辞めることは出来ました
自己破産してしまえば、自分だけは助かります
親方が、「借金を返さない限り辞めさせない」と引き止めるのは、違法です。
そういう、大審院(いまの最高裁)の判決が、たくさんあります。


■ 慰安婦制度は、合法的な売春制度だったのか

親が娘を担保に、前借金をして娼婦に出すことを、「身売り」と言いました。
貧しい農村では、身売りが多くありました。
身売りという言葉が示すとおり、実質上は人身売買ですが、法律的には、娘には廃業の自由があるため、「担保」の意味がないと見なされ、人身売買に当たらない、ということになっていたのです。

こうしたことから、慰安婦否定側は言います。
特別に慰安婦だけが悲惨だったのでもなく、奴隷だったのでもない」と。

日本軍慰安婦は、「身売り」契約による売春だ。
悲惨であったにせよ、当時としてはありふれた話だ。
また当時、それは合法だった。


本当でしょうか。
 
ここでは、「身売り契約は奴隷ではない」という言い分を、いったん認めましょう。
そのうえで、慰安婦契約がどんなものだったのかを、確かめます。

日本軍の慰安婦関係契約資料は、散逸してほとんど残っていないのですが、運良く、「馬来軍監区」の契約原本が残っていました。(以下の写真)



馬来とは、マレーのことです。
マレーを占領していた南方軍は、慰安婦の管轄権限を、師団ではなく、南方軍司令部に一括していたので、
東南アジア方面では、馬来軍監区と同じ契約だった、と推測できます。

その資料に、こう書かれています。

「営業者および従業員は、軍政監の許可を受けるにあらざれば、転業転籍をなすことを得ず」

「営業者および稼業婦にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」


慰安婦が辞めるのは、「許可制」だったのです。
官の許可がなければ、辞められませんでした。
自由に辞められなかったのです。

先に、娼婦の退職・廃業は、「届出制」であるといいました。
届けさえすれば自由に廃業できるから、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、奴隷契約ではないというのが、帝国政府の建前でしたね。
慰安婦は、これと異なります。
廃業が許可制で、自由に辞められませんでした。
それなら、人身を身分的に拘束する契約ということになり、これは人身売買であると言えます。
つまり、慰安婦契約は、帝国政府が禁じていた奴隷契約なのです。
しかも、許可を与えるのは官庁です。
人身拘束制度=奴隷制度に、官権が直接関わっているのです。

日本政府が、「慰安婦は性奴隷ではない」と抗弁できる余地は、まったくないと思います。

2014年7月30日


③ 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか

前回の「2」で、南方軍が、帝国政府が禁じていた奴隷契約を、慰安婦に強制していたことを示しました。
軍をはじめとする国家機関と、慰安婦業者は、ほかにも様々な法律に違反しているので、今回はそこを確かめましょう。
売春が合法でも、慰安婦が合法だったとは言えないことが、如実にわかるでしょう。

■「娼妓取締規則」違反

占領地でこそ、軍が軍政を敷くので、警察権を持ちますが、慰安婦を募集したのは占領地ではなく、朝鮮半島と内地がほとんどです。
そこでは、「娼妓取締規則」を守らなくてはなりません。
慰安婦は、国外で働くことを前提にしていますが、「娼妓取締規則」は、そのような事態を想定していませんでした。
 
第七条に、「娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず」とあります。
しかし、慰安婦をどこに送るのか、それは軍事機密なので、官庁は、慰安所の所在地を、指定することができません
慰安婦という制度が、その性格上、そもそもが違法なのです。

「娼妓取締規則」は、つぎのように定めていますが、慰安婦についてはなおざりにされているし、業者を使役していた軍も、守らせていた形跡が見えません。

⑴ 娼婦になろうとする者は、そのやむを得ない事情を書いて、両親と保証人2名の連署を添えて、警察区長に届け出なければならない。
⑵ その手続は、本人が、警察に出頭して行わなければならない。
⑶ 警察は、娼婦になろうとする者を尋問し、本人の意思を確認しなければならない。
⑷ 娼婦になろうとする者は、警察区長の確認書を添えて、警視庁に願い出なければならない。
⑸ 満18歳未満の者は、娼婦になってはならない。

 
これらはほとんど、守られていませんでした。
 
このように、「娼妓取締規則」に違反しているのですから、慰安婦の契約は法律違反であって、業者は本来ならば営業停止です。


■民法第90条(公序良俗)違反
〈公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする〉

違法契約であることを隠し、相手の法的無知に乗じて契約させても、明治民法第90条により、公序良俗に反する契約として無効になります。
無効というのは、はじめからなかったことになる、ということです。

■刑法第226条(所在国外移送目的略取及び誘拐)違反
〈所在国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する〉

無効な契約なのに、あたかも有効であるかのようにだまして連れて行くのは、誘拐に当たります
誘拐の定義は、判例等によって、
「欺罔(ぎもう あざむき、だますこと)・誘惑を手段として、人を生活環境から不法に離脱させ、自己又は第三者の実力支配下に置くこと」とされて います。

慰安婦は、誘拐して海外に連れ出すことを禁じた、刑法第226条の条文に、ピッタリと当てはまります。
そういうことをした業者も、渡航を公認した内務省と、身分証を発給した外務省、輸送に便宜を計らった軍も、共犯として同罪です。

ところで、話が少し横道にそれますが、北朝鮮による拉致被害者である有本恵子さんら4人は、北朝鮮でいい仕事があるとだまされ、自分の意志で、北朝鮮に入国しました。
自分の意思であっても、だまして連れて行けば、誘拐に当たります。
政府は、誘拐された有本さんたちを、拉致被害者として認定しているのだから、誘拐は拉致にあたるということになります。
拉致と強制連行は、同じ意味です。
すると、慰安婦も、合法的なよい仕事があるとだまされて連れて行かれたのだから、誘拐に当たるのだし、
日本政府の定義に沿っていえば、拉致されたのであり、強制連行されたことになります

■刑法第227条違反
〈3 営利、わいせつ、又は生命、若しくは身体に対する加害の目的で、略取され、誘拐され、又は売買された者を引き渡し、収受し、輸送し、 又は蔵匿した者は、六月以上七年以下の懲役に処する〉

慰安婦は、営利・わいせつ目的で誘拐されました
慰安婦を、軍に引き渡したのは慰安所業者、収受し、輸送したのはです。 
両者は、刑法第227条違反の共同正犯です。

これほど違法に違法を重ねては、もう誰にも弁護のしようがありません。
軍をはじめとする、国家機関が直接的に関わった、国家犯罪と言えます。


■法令がちゃんと適用された例がある

昭和12年、大審院(最高裁)で、売春目的で、女性を海外に連れ出そうとした業者らが、有罪になっています。
長崎から、15人の日本人女性を、娼婦として上海へ送った業者らに対し、
大審院第4刑事部は、 「婦女を誘拐して国外に移送した」「共同正犯」として、上告を棄却、有罪が確定しています。


法令がちゃんと適用されれば、このように有罪になるのです。
この業者が有罪になったのは、軍と結託していなかったからです。
軍が求めれば、その威光で、誰も逆らえなかった時代でした。
大日本帝国の時代、日本がそんな国であったことを認めるのは、気分の良いものではありません。
しかし、その歴史を反省することで、別な道を歩むことが私たちにはできます。
その歴史を肯定してしまえば、同じような未来が待ち受けていることでしょう。

刑法の論証集(山口刑法にほぼ準拠)略取・誘拐の罪 224条以下

2014年7月31日


④ 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
(今回は、めんどくさい上に長いです)

元慰安婦の証言には、腑に落ちない点が多々あります。
移動中の船内でテレビを見たとか、それはちょっと有り得ません。
人の記憶は不確かなんですよね。

でも、韓国側は、そういった不自然な証言を、改変することなく発表しています。
おばあさんに、「戦時中にテレビはまだなかったんだよ」といったアドバイスを、していないようです。
間違っていても、そのままに記録するという、オーラルヒストリー採取の基本を、わかっている証拠です。



金福童さんという、元慰安婦がいます。
彼女の証言が怪しいと言って、右派が総攻撃しています。
金さんは、第15師団に付いてシンガポールに行ったと言うが、嘘だ。
なぜなら第15師団は、ビルマの部隊だから。
金さんは、14歳のときに慰安婦にさせられて、8年間働き、19歳の時に解放されたというが、計算があわない。
足し算もできないのか。
金福童はニセ慰安婦だ・・・等々。
 
いまも金さんは、どこへ行っても、一見つじつまの合わない証言を、繰り返しています。
矛盾してたって、自分の記憶がそうなんだから気にしない、という姿勢です。
体験に裏打ちされた記憶に、自信があるのでしょうか。
今回は、金さんの証言が、どこまで当てにならないか、それをこれから検証します。


■同時代の公文書に反する記憶

金さん証言
陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと、連れ回されました
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html

最初、中国・広東の慰安所に入れられた
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/ 

金福童さんは、第15師団について各地を回った、と証言している。
しかし公文書は、この証言を否定している。
南方軍第10陸軍病院の、1945年8月31日付の記録に、軍の傭人として、金福童さんの名前が載っており、本籍も一致しているので、本人に間違いないという。

元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見(朝鮮日報記事)
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html

資料の名を、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」という。
資料名でわかる通り、金福童さんは、第16軍の下にいた。
場所は、インドネシアのジャワ島である。
慰安婦をしていたという以外に、こんな所にいる理由がない。
たしかに彼女は、慰安婦だったのだ。
このことは、間違いない事実である。
 
しかし、金福童さんが証言する第15師団は、ビルマで戦った。
第16軍は、ジャワ島にいた部隊である。
二つの接点は、まったくない。
金福童さんは、シンガポールやインドネシアに行ったと証言しているが、第15師団はそういった場所に行っていない。
金さんが第15師団と行動を共にしたとすると、解けない矛盾だらけになる。

本人の記憶は大切にしなければならないが、記憶と同時代の公文書との間に矛盾があれば、公文書が正しいと考えるほかないだろう。
第15師団について行ったという本人の記憶は、間違っていると考えた方がよい。
しかし、以下に示すとおり、「第15師団」という条件さえはずせば、金福童さんの証言は、極めてリアルなのだ。
そのことを、これから確かめたい。
まずは、広東からである。

■広東時代
証言1「最初、中国・広東の慰安所に入れられた」
(『朝鮮新報』2013.6.3)
http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/ 

広東省は、香港やマカオの北隣、深セン経済特区で有名な地域である。
連れて行かれたのは、「14歳のとき」だという。
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)

先に見たとおり、1945年8月に19歳だったのだから、金さんは1926年生まれである。
金さんは戦前の人だから、満年齢ではなく、数え年を使う。
連れて行かれた数え年14歳は、1939(昭和14)年である。
この年に、広東で何があったのだろう。

前年の1938(昭和13)年9月、広東作戦が発令された。
10月に、作戦が開始された。
11月には、広東の要衝が、すべて占 領された。
この時から、広東に、日本軍が駐留した。
第5師団、第18師団、第104師団の三個師団。
大部隊である。

翌1939年には、少なくとも、都市部の治安は安定した。
それに伴って、大量の、慰安婦の需要が発生した。
金福童さんが連れて行かれたのは、まさにその時期に当たっているのだ。
日本軍の作戦行動と証言に、矛盾がない。

なぜ金さんは、こんなに幼いのに、連れて行かれたのか
その理由を示す資料がある。
当時の日本軍は、性病に悩まされており、朝鮮の「年若き女」を求めていたようなのだ。
別の地域の資料だが、同じ年、昭和13年4月10日付「第14師団衛生隊」文書に、こんな記述がある。

支那妓女の検黴(けんばい)の成績を見るに、ほとんど有毒なるにより、支那妓婁に出入りせざること

現地のプロの娼婦は性病にかかっていて、慰安婦として使えないというのである。
 
また、同時期の「第11軍第14兵站病院」文書は、
内地から来た慰安婦を「あばずれ女」と評価し、花柳病(性病)が多いと書き、
病気を持たない朝鮮の、「年若き女」を奨励している。

 
こういった軍の要請にもとづいて、金さんのような朝鮮の少女に、白羽の矢が立ったのだと思われる。


■広東からマレーシア、シンガポールへ

証言2 「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました」
(2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html

証言2 では、最初に行った広東が、台湾のつぎに上げられている。
このことから、証言2 にあげられた地名は、思い出すままに並べただけで、移動の順序に並んでいるのではないことがわかる。
広東を占領した部隊が、どのように移動したのかを確かめるにあたり、便宜的に、金さんが上げた地名に、丸数字を振る。

①台湾、②広東、③香港、④マレーシア、⑤スマトラ、⑥インドネシア、⑦ジャワ、⑧シンガポール、⑨バンコク

注意すべきなのは、⑤スマトラと⑦ジャワは、どちらも⑥インドネシアの国内地名だという点である。
⑥と⑤⑦は、重複しているのである。 
その点を念頭に置いて、順次、見ていこう。

1941年11月
大本営が、マレーシア攻略を含む南方作戦の、作戦準備を下令した。
しかし、広東作戦とマレー作戦は、全然別の作戦で、参加した部隊もまるで異なっている。
通常なら、広東にいた慰安婦が、マレー方面に移動することはないはずだ。
この点、一見すれば、金福童さんの証言は不可解に見える。
ところが、広東からマレーに引き抜かれた部隊が、一つだけあるのだ。
広東にいた第18師団は、 新編成の第25軍に加えられ、マレー方面に転ぜられた。
広東からマレー方面に転進した部隊は、第18師団だけである。
(証言にある第15師団は、参加していない)
 
そして、第18師団の部隊記録に、金さんのあげた地名が、次々に登場するのである。
金福童さんは、第18師団について行ったと見るのが、合理的である。
第18師団は、渡航準備のため、②広東から③香港を経由して、海南島に移動した。

1941年12月
マレー作戦が開始され、まず、タイ国攻撃が始められた。
渡洋してきた第18師団 は、第25軍の部隊として、タイの首都⑨バンコクに進駐した。

1942年2月
第18師団は、第25軍の部隊として、④マレーシアに進撃した。
日本軍はたちまち、マレー半島全域を占領する。
第25軍が、シンガポール作戦開始。
同、占領。
第18師団は、 ⑧シンガポールに駐留した。

ここで確認しておきたいのが、慰安所の管轄である。
中国戦線では、管轄があまりはっきりせず、各級部隊が、てんでに管理していたような記録がある。
しかし、下級部隊が、内地や朝鮮総督府と勝手に連絡を取り、慰安婦を要請したのでは、統制が取れない。
その経験の蓄積もあってのことだろうが、南方軍は、軍政部に、管轄を一元化している。

軍政部は、各師団の指揮下にない。
上級の、第25軍の機関である。
中国から、第18師団についてきた金福童さんだが、ここで規則通り、第25軍の軍政部の管轄下に置かれたはずである。


■インドネシアへ

1942年4月
広東から一緒だった第18師団が、第25軍から離れて、ビルマに移動した。
しかし、金福童さんの慰安所は、第25軍の直轄になっていたから、第18師団と切り離されており、シンガポールに留まったとみられる。

1943年5月
第25軍司令部が、シンガポールを離れ、⑤スマトラ島のブキッティンギに移駐した。
(スマトラは、⑥インドネシアの地名)
金福童さんたちも、この移駐に従った。


■帰国へ

証言3 「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」
(2013.5.20『沖縄タイムス』)
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450

1945年8月
敗 戦。

1945年9月
第10陸軍病院 ⑦ジャワ)の名簿に「金福童 19歳」との記録。
(「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」)

これは軍の公文書だから、数え年ではなく、満年齢である。
金福童さんは、どんな理由で、第25軍の管轄を離れて、第16軍の管轄下に入ったのだろう。
それは、引き揚げ準備のためだったと思われる。

別の部隊の話だが、セレベス島第2軍民生部作成の資料(昭和21年6月20日付)によると、
連合軍の命令で、第2軍が、ジャワ島の将兵(第16軍)を管理し、パレパレ港に集合させている。
第16軍が管轄していた慰安所の調査も、第2軍がまとめている。
日本軍の戦闘序列からすれば、おかしなことが起きているのだ。
そしてそのことは、連合軍の命令だったというのだ。
 
連合軍が用意した引揚船(ジョージポインレックスター号)の運航や、寄港地に合わせて、連合軍の管理しやすいようにしているのである。
(以上の資料は、アジア女性基金の『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第3巻所収)
こういった時期だから、金福童さんの管轄権が、第25軍から第16軍に移っていることに、不審はない

1946年~1947
インドネシアから引き揚げ。
金福童帰国。

連合軍が、まず最初に日本軍に命じたのは、慰安婦を帰国させることであった
「連合国指令書第一号」が「遊女屋並びに慰安婦を日本軍と共に撤退させよ」という命令なのだ。
(昭和20年9月7日付「日本派遣南方軍最高司令 官宛連合国指令書第一号」『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第4巻)
 
慰安婦の帰還に消極的な軍を、連合軍が叱咤していると思われる。
最高司令官命令だから、慰安婦の帰還は、わりと早かった。
各種資料を総合してみると、生き残りの慰安婦は、1946年6月までには、全員帰国しているはずだ。
金福童さんの帰国が1946年ならば、1939年から足かけ8年だ。
「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」という本人の証言と、ピッタリ符合している
このとき、満年齢で20歳、 数え年で22歳であったはずだ。
右派は、満年齢と数え年を混同して、計算が合わないと騒いでいるのだ。
それは合うはずがないだろう。
ご苦労なことである。


これで考察を終わる。
日本軍について多少の知識があれば、金福童さんの行動軌跡は、有り得ないものと見える。
作戦区域をまたいで移動したり、軍をまたいで管轄が移動したり、そんな無茶なと、わたしも初めはそういう印象だった。
しかし、調べてみて驚いた
ちゃんと、合理的な裏付けがあったのだ。

金福童さんの証言「第15師団」は、「第18師団」の記憶違いではあるまいか
そう仮定すると、年齢にも経歴にも矛盾が見あたらず、ほとんどの地名が、漏れなくピッタリと符合する
ただし、「台湾」だけが不可解だ。
そこだけは、裏付けが取れない。
つまり金福童さんの証言は、年代はぴったり合うのだが、9ヶ所の地名のうち、1ヶ所だけ、資料的な裏付けが見当たらない
その程度には、「当てにならない」のである。
彼女がニセの慰安婦で、デタラメを語っているのだとしたら、まぐれ当たりで、これほど見事に、地名が符合することはあり得ないと私は思う。
残り1ヶ所にこだわって、まだウソだデタラメだニセ慰安婦だと言いたい向きには、もう勝手にしろと言うしかない。

2014年7月31日 

つづく
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赤いヘルメットにピンクのカバー。これほど人をバカにした視察があるでしょうか?

2014年09月09日 | 日本とわたし
このタイトルについて、こんな意見をいただきました。

・赤いヘルメットは、安倍首相も被っていました。
・交換式で安価な3Mの防塵マスクの濾過材は、全てピンク色です。
・赤は視察要人用なのだと思います。

あの写真を見て、この記事を書くまでの間に、とりあえず『ピンク色の防塵マスク』で検索しました。
すると、指摘があったように、3Mの防塵マスクはショッキングピンクでした。
けれども、これまでの視察ではどうだったかを調べてみても、こんなふうに全員が、ピンク色の防塵マスクをつけている映像がなかったので、
ああこれは、大臣に就任した若い女性が、直々に視察をしているのだということを、強調したいのだなと感じました。

ただ、その時に、もっと強烈に感じていたことは、赤だのピンクだのという色のことではなく、
あのお揃いの防護服姿の彼らが歩いている場所が、どれほどに危機的な要素を抱えているのか、
そんな中、生活環境をろくに整えてもらえてないままに搾取され続けながら、汚染と先の見えない行き当たりばったりの作業をさせられている人が、数が分からないほどに大勢いて、
そうしたことへの配慮も対策も、何も用意できないまま現場に来て、ただ見て回り、説明を聞き、それで事を得たような顔をして、意味の無い言葉を吐いた小渕氏と、
そこに、この赤とピンクが、その無責任さと不誠実さに拍車をかけたように思えて、余計に腹立たしく見えたのかもしれません。

そういうことも含めて、訂正をせずに、この記事をこのまま残しておくことにします。


この人は、いったい何を見て、何を得たというのだろう。
この人が視察するからと、わざわざ赤いヘルメットを被らせ、お付きの者どもも、幼稚園児のお遊戯みたいに、お揃いのピンクのカバーをつけている。
このバカバカしさを、まずこの人は、叱責しなければならなかったのではないだろうか。

こんなアホらしい、まるでバカ殿の大名行列みたいなのが、視察などという名目で通るほど、日本の社会は劣化しているのだろうか。
いったい、どういう思考なら、この悲惨極まりない、何をしてもうまくいかない、どうしようもないとほぼお手上げ状態の現状を、全体はコントロールされている、などと言えるのか。
アンダーコントロールの天ぷら男の手下だから、この台詞は必至だったのか。

作業している人たちは、いったいどんな思いで、こんな無意味で役立たずな御一行を眺めていたのだろうか。

海は、まるで何の対策もうまくいかないまま、汚され続けている。
東電の試算以上に、我々の想像以上に。
ものすごい放射性物質が、地下水に、海に、毎日毎秒流れ込み続けている。
東電や政府の輩では、誰にも止められないことを、遠の昔からわかっているくせに、ただただ無駄なことにカネを費やし、時間稼ぎをしている。
その間、近くの海では漁が行われ、海水浴や貝拾いまでやっている。
これを狂気と呼ばずに、いったい何を狂気を呼ぶのか。




小渕優子経済産業相は7日、就任後初めて東京電力福島第一原発を視察し、
廃炉や汚染水対策の作業に当たる東電社員らを、「皆さんの献身的な作業で一歩ずつ前進している」と激励した。

小渕氏は、免震重要棟で、作業の課題などに関し、東電幹部や協力会社の関係者と意見交換。
その後、防護服を着て、使用済み核燃料の取り出し作業が続く4号機原子炉建屋の最上階のほか、
増設中の「多核種除去設備(ALPS)」や、建設中の「凍土遮水壁」など、難航する汚染水対策の作業現場も視察した。

小渕氏は視察後、汚染水対策に関し、
「個別のトラブルは発生しているが、全体はコントロールされている」と感想を述べた


福島第一原発から海への、放射性物質の流出、さらに2兆ベクレル=ストロンチウムとセシウム
【時事通信】9月8日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140908-00000005-jij-soci

東京電力福島第一原発から、放射性物質が海に流出している問題で、今年5月までの10ヵ月間に、
第一原発の港湾内に出たストロンチウム90とセシウム137が、計約2兆ベクレルに上る可能性が高いことが7日、東電の資料などで分かった。

二つの放射性物質だけで、第一原発の、事故前の放出管理目標値の10倍を超える。
事故に伴う深刻な海洋汚染が続いていることが、浮き彫りとなった。

第一原発では、汚染された地下水が海に流出しているほか、高濃度汚染水がたまった建屋のトレンチ(ケーブルなどの地下管路)から、直接湾港内に漏れている可能性も指摘されている。

東電の資料によると、昨年8月から5月にかけ、湾港内の1~4号機取水口北側で測定した、ストロンチウム90とセシウム137の平均濃度を基に、試算した1日当たりの流出量は、
約48億ベクレルと約20億ベクレル。
10ヵ月間の総流出量は、それぞれ約1兆4600億ベクレル約6100億ベクレルの計算になる。

合わせると2兆ベクレルを超えるが、汚染水には他の放射性物質も含まれており、湾港内の汚染はより深刻とみられる
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米国『全米オープンと中秋の名月』事情

2014年09月08日 | 米国○○事情
夕方、レッスンを受けに来たジョージアとおかあさんが、部屋に入って来るなり、
「まうみ、すごいことが起こってるね!」と、興奮している。

え?

「またまた~、トボケちゃって。ニシコリが決勝で頑張ってるでしょ、ちょっと負けてるけど」

ニシコリ…決勝…う~んう~ん…。

あ、もしかしてもしかしたら、ニシゴオリくんのことかしらん…。

「それって、全米オープンのこと?」
「もちろん!知らなかったの?」
「え、いや、知ってたけど、今やってるとは…」
「テレビつけてもいいよ」
「いや、そらあかんでしょ。教えてる場合じゃなくなってしまうし…」
「わたしは別にいいよ(と、横からジョージア)」
「はははー(皆でほっぺたを引きつらせながら同時笑い)」

いやもう、レッスンが終ってから急いでテレビをつけると、2セットが終わり、ともに6-3で負けている状態でした。

がっ!

わたくし、白状いたしますと、今の今まで、錦織くんのことを、ニシゴオリくんだと思っていたのでした。
いったいどうしたら、ニシキとオリを続けて、ニシゴオリと読んでしまってたのか、それも不明ですが、まさかニシコリだとは…。
アメリカンは名前をまともに言えないのだなあ…などと、ひそかに思っていた自分が、とっても恥ずかしい…。

彼のことは、時折、活躍している様子や怪我の報道を読む程度だったのですが、
今年のお正月、日本に帰省した際に、『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』のテニス編で、松岡さんと組んで出場していたのを観てからは、ずっと身近に感じるようになりました。
それでもまだ、ニシゴオリくんと思っていたのですが…。

その彼が、なんと、全米オープンで、決勝まで勝ち進んでいたのですね!
会場全体が、決勝に進むのは初めての、ふたりの若い選手を応援しています。
特に、負けている錦織くんには、熱い声援を送っています。
その熱気が、テレビ画面からビンビン伝わってきて、胸が熱くなりました。

負けたけれども、また次がある。
怪我をしないように気をつけて、これからも、夢に向かって頑張ってください。


今夜は中秋の名月。
空には、うろこ雲が広がっていて、なかなか姿を現してくれません。


でも、こういう満月もまた、趣があって好きかも。


もう少し大きく。


あ、出た!


このお月さまを、錦織くんも眺めてるかなあ…。
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「産経新聞社こそ、この初歩的な間違いを早急にただし、自ら訂正記事を出していただきたい」

2014年09月08日 | 日本とわたし
wamをご存知ですか?
わたしはつい先日まで、知らずにいました。
wamは、女たちの戦争と平和資料館の名称です。
戦時性暴力、『慰安婦』問題の被害と加害を伝える、日本初の資料館です。
そのサイトに、産経新聞社による事実と異なる報道に対し、第12回アジア連帯会議実行委員会より送られた、記事の訂正を求める要求書が掲載されていました。
転載させていただきますので、ぜひ、読み比べてみてください。
産経新聞の、この件に対する記事の文章が、いかにデタラメで、事実を歪曲したものであるか、そのことがよくわかります。

↓以下、転載はじめ

2014/08/08
第12回アジア連帯会議実行委員会が、産経新聞に、訂正要求書を送付

第12回アジア連帯会議実行委員会は、8月6日付で、以下のような訂正要求書(PDFはこちら)を、産経新聞社に送付しました。
他社のことを批判するだけでなく、産経新聞社こそ、この初歩的な間違いを早急にただし、自ら訂正記事を出していただきたいものです。



産経新聞社 御中

訂正要求書

2014.5.25付「産経新聞」の「歴史戦第2部 慰安婦問題の原点」~「日本だけが悪」周到な演出…平成4年「アジア連帯会議」の記事中の以下の記述につき、
事実と異なる部分がありますので、速やかに、貴紙紙面で訂正文を掲載された上で、当実行委員会への連絡をお願いします。

1.3面写真に、
平成4年8月、ソウル市内で開かれた「挺身隊問題アジア連帯会議」で、舞台に立つ元慰安婦女性ら(館雅子氏提供)」とのキャプションがつけられていますが、

この写真は、バックに、「問われる戦後補償 韓国遺族会 第一回口頭弁論」という文字が見えています
これは、「韓国太平洋戦争犠牲者遺族会」訴訟の、第一回口頭弁論後の報告集会の写真ではないでしょうか
確認の上、訂正を求めます。


2.1面記事は、
この会議に参加した舘は、会場で迷い、ドアの開いていたある小さな部屋に、足を踏み入れてしまった。
そこでは、韓国の伝統衣装、チマ・チョゴリを着た4~5人の元慰安婦女性が、1人ずつ立って、
活動家とみられる日本人女性や、韓国人女性の言葉を、「オウム返し」に繰り返していた。
「元慰安婦に、(シナリオ通りに)言わせるのは大変なのよね」
日本からの参加者が、こう話すのを耳にしていた舘は、あの部屋で見たのは、「元慰安婦女性たちの振り付けだ」と確信した。


としていますが、
第一回アジア連帯会議(当時の名称は「挺身隊問題アジア連帯会議」)当日、「慰安婦」被害者は全員、普段着で参加しており、
白いチマ・チョゴリを着て参加した人は、一人もいません。
必要であれば、写真を提示することもできます。

従って、上記についても、内容全体の訂正、または取消を求めます。


3.1面記事は、
日本からは「日本軍『慰安婦』問題行動ネットワーク」……が参加

としていますが、
92年当時、このような名称の団体は存在していませんでした
これについても訂正または取消を求めます。


4.1面記事は、
続いて、
インドに住むタイ人女性が、「日本軍さえたたけばいいのか。インドに来た英国兵はもっと悪いことをしたのに」と泣きながら訴えると、日本語の怒鳴り声が会場に響いた。
「黙りなさい。余計なことをいうな!」
舘はこのときの様子を、「日本だけが悪いという、ストーリーを作り上げていた」と述懐する。


としていますが、
当日、タイ在住のタイ人女性が、1名参加していますが、インドに住むタイ人女性が参加した事実はありません。
また、引用のような発言もなく、日本語の怒鳴り声が会場に響いた事実もありません。

これについても訂正または取消を求めます。


5.1面記事は、
「私たちは韓国の女性と違って、優しくて従順なので日本の兵隊さんにかわいがってもらい、遠足にも一緒にいきました。
だから韓国の強い姿勢とは違う」
台湾代表がこう主張し、韓国側が要求する個人補償を求めない考えを表明すると、激しいヤジが飛んだ。
声を荒らげて怒る人、議長席に詰め寄る人などで、会場は騒然となった。


としていますが、
台湾の報告者は、
「台湾『慰安婦』に関する初の報告書」とのタイトルで報告し

その内容は、
「これらの女性のほとんどが、物質的補償を望んでいる。
しかし、補償を望んでいるとはいえ、期待してはいない。
もしも、日本政府が韓国の「慰安婦」に補償するなら、台湾の女性たちも補償されなければならない。
彼女たちは、他の「慰安婦」たちと、同じ処遇を受けることを願っている。
これらの女性のうち何人かは、必ずしも、物質的補償を受けなければならないとは思っていないが、
彼女たちの健康状態が苦しくなれば、特別な支援を受けなければならなくなるだろう。
彼女たちが物質的な補償を望む理由は、まず健康上の理由、遺族のため、または現在の窮乏生活のためである。
彼女たちの老後のために、補償は必ず必要だ。
このうち2名は、特にたいへん怒っており、台湾政府が日本政府から補償を受け取るために支援することを望んでいる」というもので、記事とは全く逆の内容です。

従って、会場が騒然となった事実もありません。
この点についても、訂正または取消を求めます。

なお、この要求書、および貴紙の回答・対応につきましては、インターネット等を通して公開いたしますので、ご了承ください。

2014年8月6日
第12回アジア連帯会議実行委員会
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動

〒169-0051東京都新宿区西早稲田2-3-18 AVACOビル2F
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)気付
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動
tel: 070-1317-5677
fax: 03-3202-4634
e-mail: ianfu-kaiketsu@freeml.com
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いささかも自責の念を抱かず、笑い話のように『従軍慰安婦』を語っていた産経新聞総帥・鹿内信隆

2014年09月08日 | 日本とわたし
驚きました。
そして呆れ果てました。
どうしてこんなことが、今もまだ、きちんと知らされないままにいるのか、
どの国の軍にも、醜悪な実態が存在します。
その中のひとつとして考えても、受け入れ難い酷さであると、わたしには思えます。

↓以下、転載はじめ

LITERA・本と雑誌の知を再発見

「女の耐久度」チェックも!
産経新聞の総帥が語っていた、軍の慰安所作り
2014.09.07


『いま明かす戦後秘史 下』(サンケイ出版)


朝日新聞の慰安婦報道の失態で、勢いづいている右派・保守陣営だが、中でも、一番大はしゃぎしているのが産経新聞だろう。
産経は、慰安婦が政治問題化した1990年初頭から、慰安婦の強制連行はなかったと否定し、
河野談話や村山談話を批判慰安婦を記述した教科書を糾弾するキャンペーンを展開してきた。

 
さらに、同紙の社説にあたる「主張」や月刊オピニオン誌「正論」では、強制連行の否定だけでなく、
慰安婦は、「民間業者が行っていた商行為」で、「自ら志願した娼婦」
日本軍は従軍慰安婦に「性病予防対策などで関与していた」だけ
「公衆衛生面で関与していた」にすぎない、という主張を繰り広げてきた。
 
そして今回、朝日が「吉田証言」の間違いを認めた事で、こうした自分たちの主張がすべて正しかったと、勝ちどきをあげているのだ。
 
97年に結論が出ていた「吉田証言」の虚偽を、朝日が今になって認めたというだけで、どうしてそういう結論になるのかさっぱりわからないが、
とにかく産経は自信満々で、日本軍に慰安婦の責任はまったくないかのような、論調を繰り広げている
 
だが、彼らは、自分たちの会社で中興の祖とあおがれている人物が
その「軍は公衆衛生面で関与していただけ」という主張をくつがえすような、衝撃的発言をしていたことを知っているのだろうか。
 
その人物とは、元産経新聞社長で、フジサンケイグループ会議議長だった故・鹿内信隆

鹿内は、日経連専務理事からニッポン放送、フジテレビを開局して社長を歴任した後、産経新聞の経営権を握り、社長に就任。
現在、フジサンケイグループの原形を築き上げた人物だ。
その権力と政治力は絶大なものがあり、1990年に亡くなるまで、事実上のオーナーとして、同グループを独裁支配。
経営方針だけでなく、現在の同グループのタカ派的な姿勢も、すべて鹿内がつくりあげたものだ。

「鹿内さんは、産経新聞社長に就任時するや、同紙を反共タカ派の拠点にする方針を掲げ
自分に逆らうリベラルなスタンスの社員のクビを、片っ端から切っていった
800人に及ぶそのリストラの凄まじさは、当時、マスコミ界でも、“産経残酷物語”といわれたほどです。
こういうことがあって、産経は、今のゴリゴリの右派一色に染まった訳です。
この鹿内さんのDNAはもちろん、現在の経営陣、編集幹部にも引き継がれています」(産経新聞OB)

 
その鹿内は戦中、陸軍経理部に招集されていたのだが、産経新聞社長就任後に、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)を出版。
陸軍時代の思い出話を、こんなふうに語っている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鹿内: 
(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 
桜田:  
そう、慰安所の開設
 
鹿内:  
そうなんです。
そのときに、調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか
それから、ムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで、決めなければならな(笑)。
料金にも等級をつける
こんなことを規定しているのが、「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鹿内は召集後、1939年4月から9月にかけて、陸軍経理学校で、軍の後方支援のノウハウを学んでいたのだが、
そのときに、慰安所の作り方も叩き込まれたというのだ。
しかも、その内容は今、右派メディアがしきりに喧伝している、「公衆衛生の管理だけ」というようなレベルではない。
鹿内の発言に、「調弁する女」という表現が出てくるが、「調弁」というのは、軍隊用語で、兵馬の糧食などを現地で調達するという意味。
つまりこれは、陸軍が、慰安婦の調達に関与していたということではないのか
 
さらに衝撃的なのが、「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか(中略)といったことまで決めなければならない」という発言だ。
当時の日本軍が、現地の女性を完全にモノ扱いし、どんな女がいいのかを品定めする作業までをも、士官に命じていたことを証明するものだ。
 
断っておくが、この鹿内発言は、老人の妄想でも記憶違いでもない。
靖国神社の一角に、靖国偕行文庫という図書館があるのだが、そこに、この鹿内発言を裏付ける、一冊の本が所蔵されている
 
300ページ以上はあろうかという、分厚いその本のタイトルは、『初級作戦給養百題』。
昭和16年に、陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書だ。
 
表紙はハードカバーで、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」という文字
その9ページ目、第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に、経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説されているのだが、
その最後の項目「其他」の解説に、以下の任務が列挙されていたのだ。

1 酒保ノ開設
2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催
3 恤兵品ノ補給及分配
4 商人ノ監視

 
ようするに、陸軍の経理将校向け教科書に任務として、「慰安所ノ設置」が掲載されていたのである。
軍が関与したのは衛生面の管理だけ、という保守派の主張が、明らかな嘘だということがよくわかるだろう。
 
もちろん、こうした事実を、産経新聞をはじめとする右派、保守派が、知らなかったわけはない。
少し前に、中曽根康弘元首相が「土人女を集め慰安所開設」していたという戦時記録を紹介したが、
今回は、自分たちが中興の祖とあおいでいる人物が、自社の単行本で、軍の組織的な関与を認めていたのだ。
 
しかも、中曽根元首相の証言でも明らかになったように、軍は、現地で、娼婦でない女性たちも徴収している
これでほんとうに、従軍慰安婦のことを、「自ら志願した高級娼婦」などと信じているとしたら、どこかおかしいとしか思えない。

ようするに、保守系メディアは、こうした事実を知っていながら、それをネグり、
あらかじめ、強制連行の定義を、「軍が銃剣を慰安婦に直接突きつけて連行した」という、非常に狭いものに限定し、
それを否定することで、巧妙に、情報を誘導してきたのである。
朝日が歴史を捏造したというなら、産経をはじめとする保守メディアも、まったく同罪なのだ。

 
しかも、中曽根首相、今回の鹿内信隆フジサンケイグループ元議長の発言で、もうひとつはっきりしたことがある。
それは、彼らが、従軍慰安婦に対して、いささかも自責の念を抱いていない事だ。
それどころか、まるで笑い話のように
「慰安所をつくってやった」
「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとかまで決めなきゃならない」と語っている。

 
狂気のるつぼだった戦中ならともかく、戦後20年以上たっても、こんな発言を嬉々としてできるというのは、
そのベースに、「女性はセックスのための使い捨ての道具」という、差別意識が横たわっているという事に他ならない。
そして、このメンタリティは、従軍慰安婦像に紙袋をかぶせるような性差別ギャグを、
嬉々としてほめたたえる今の右派メディアや嫌韓本、百田尚樹などの右派言論人にも、しっかりと引き継がれている

 
彼らの姿が、今の日本人を代表するものだと思われているとしたら、それこそが「日本の恥」ではないか。
(エンジョウトオル)

↑以上、転載おわり

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ノミの市とベーグルと古着屋と本と

2014年09月07日 | 友達とわたし
我々のStaycationの最中に、リオンからやって来たナオちゃん。
わたしの初代グランドピアノが取り持つ縁でつながったナオちゃんとわたしでしたが、実は今回が初対面。
わたしにとっても、とても思い入れの深い、そしてわたしとともに波瀾万丈のピアノ生を生き続けてくれていたピアノだけに、
彼女の日本での練習に役立てたこと、そしてその後、海外でさらに研鑽を重ね、今では素晴らしいピアノ伴奏者としてヨーロッパの各地で演奏をしている彼女のパートナーとして、
ご実家の親御さんが、今もしっかりと大事に管理してくださっていていることを聞き、とてもありがたい気持ちでいっぱいになりました。

ナオちゃんは、まずドイツに、それからフランスに移り勉強を重ねているのですが、英語がフランス訛りになるほどにフランス語が身についています。
どうやってそこまで話せるようになったのかと聞くと、最初はほとんど話せないままのスタートだったと聞いてびっくり!
けれども、ほんの10日間でしたが、彼女がどういうふうに言葉と付き合っているのかを見聞きするうちに、なるほどなあと思わされることをたくさん発見しました。
まず、テレビはほとんど見ないけれども、ラジオをずっと聞いている。
フランス語の本を読む。
プライベートなところでも、ほとんどフランス語で済ませる。
何かを書こうとする時でも、それを声に出して読みながらする。
などなど、旦那から普段、そうした方が良いと言われている(そしてわたしはほとんど無視している…)接し方を、ナオちゃんはとても自然にやっているのでした。

だから、ほんの数年で、あそこまで話せるようになるんだなあ…と、自分の英語力の遅々とした進み具合を、かなり反省した次第です。

そして、本業のピアノですが、一日をどんなふうに過ごしてるの?という質問に、ナオちゃんはこう言ったのです。
「う~ん…ピアノの前に座ってるか、ちょっと食べてるか、そんな感じ」

ううぅ…耳が痛すぎる…。

わたしのピアノの前に座る時間の減り具合は、最近ハンパではなく、指が痛いからなどと言い訳をして、ほとんど弾かないままの毎日が続いています。
こりゃあかんのではないかと思いつつ、ナマケモノ一直線だったのですが、今回ナオちゃんと過ごして、ええ加減にしとかなあかん!と喝を入れることができました。

ナオちゃんは、伴奏ピアニストの仕事がどんなに厳しいものか、いろいろと話してくれました。
わたしも伴奏をすることが多いので、その時々の厳しさ、それになんとか対応しよう、克服しようという時の大変さを、自分のことのように想像できます。
まず、初見の力が無くては務まらない。
そして、練習したことが、一瞬にして無になってしまうことが多々発生する。
移調を即座にできなくてはならない。
オーケストラのスコアから音を抜粋して、ピアノ演奏にアレンジし、それをその場で弾けなくてはならない。

そんな仕事ばっかりしてたら、わたしなど、一気に白髪が増えまくりそうな気がします…。

美味しいフレンチらんちをいただいた翌日は、とうとう旅行最後の日となりました。
彼女が来てからずっと、真夏日が続いていたというのに、最終日当日にはコレこの通り、爽やかな風が吹く、とても気持ちの良い日になりました。
ナオちゃん、蒸し暑い夏を連れてきて、連れて帰ってくれるのね…。


旦那とわたしの、滞在中最初で最後の、ナオちゃんと一緒にマンハッタン!ということで、彼女の希望だったノミの市に出かけることにしました。






入場料1ドルを払い、ノミの市にはまっっっったく興味の無い旦那とゲート前で別れ、手にスタンプを押してもらっていざいざ!
ナオちゃんとわたしは別行動で、待ち合わせ時間の1時までを、あっちにうろうろこっちにうろうろしながら、見て回ったのでした。


ナオちゃんは、薄~く引き延ばした銅で作った猫ちゃんの置物をゲット。ひょうきんで可愛い、もしわたしが先に見つけたら買ってた予感しまくりの物です。


わたしは、クリップ式のイヤリング屋さんの店先で、ロ~ガンだから細かい所が見えにくいので、いちいち手に取ってはじぃ~っと観察していたのですが、
突如、「あなた、ディーラー?」などと聞かれ、「え、違いますけど」と言うと、「そうなの。選ぶ物が良いものばかりだったから」と変なお褒めの言葉をいただきました。
集合場所に戻り、旦那にもう少し待つ気がありそうだったので、あと10分の許可をもらい、ナオちゃんが買いたかったガラス器のあるお店へ。

いやあ、もうあきません、見ちゃったから。
ナオちゃんお気に入りの、ベネチアンガラスの年代物の花瓶と、


その横に積んであった、エナメル皿と、


このお皿を、言い値の半額以下で買えたというものの、三つとも買ってしまいました。


ああ恐ろしやノミの市…。


小腹が空いたので、これまたナオちゃんのご希望に添って、近所のベーグル屋さんに。


注文と支払いのシステムがちょっと混乱していて、自分が頼んだ物を手に入れるのに、けっこう時間がかかったのですが、味は超~ベリグ~!
これはわたしが頼んだ、スモークサーモンと生野菜、それからメープルシロップとウォールナッツとレーズン入りのクリームチーズを挟んだベーグルサンド。


ニューヨーク大学の新しい建物?


イーストヴィレッジというとコレ、フラット・アイアンビル。何回撮ってんねん!と怒らないでください。すんません…。


通りすがりの古着屋さんを見つけて、ナオちゃん、興味しんしん。
わたしだけだったらきっと、即ダメ!と言うはずの旦那も、今日は非常~に寛容でして、だからわたしもまたまた一緒に入店!
その後、旦那が待っている近くの本屋さん『STRAND』に行って、またまた本を買い、もうこれ以上は買わない!とナオちゃん。
確かに…その方が賢明かもしれない…。


ぎょぎょ!あんなとこにワンちゃんが?!と思ったら、作り物でした。当然です、はい。


ワンちゃん好きのナオちゃん、マンハッタンには犬の散歩をしている人が大勢いるので、写真を撮るのに大忙し。

ジジババと一緒の、たくさん歩いたマンハッタン最後の日。
ナオちゃんと、ペンシルバニア駅の前で別れました。
「リオンに来てくださいね!来年の夏の、わたしが日本に戻る前に」

おっしゃ、頑張って働くぞ~!
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フレンチらんち

2014年09月07日 | 友達とわたし
滞在中に一度、お料理をしたいと言っていたナオちゃん。
ナオちゃんが、お料理好きな女性だと知っていたので、いやもうぜひぜひ!と即答したいところを抑えて、そんな無理せんでもええよ、などと言ってたのですが…。

金曜日の朝は、わたしと一緒に気功瞑想のクラスに行き、立った姿勢から座った姿勢の瞑想に移った途端、熟睡したナオちゃん。
クラスから戻る途中にある、健康志向なスーパーに寄って、料理に必要な食材の買い物をしました。

フランス料理といえばクリームとバターと小麦粉。
ところが、うちの旦那は、牛乳やチーズ、それから小麦粉に入ってるグルテンを、極力食べないようにしている人なので、
困ってしまったナオちゃん、売り場の棚の前で「う~ん…」と思案しまくり。
旦那は、そんなふうに彼女が困るだろうからと、全く気にしなくていいと言ってたのですが、やっぱりね、わかるわ、その気持ち。
グルテンフリーの小麦粉にしようか、それとも米粉にしようかと迷ってたナオちゃん、「よし、米粉にしよう」とつぶやきながら、棚から取り出しました。

いったい、どんな料理を作ってくれるのだろう…わくわく♪

買い物からほぼ直行で、電車の駅まで送り、ひとまずマンハッタン観光に出かけてったナオちゃん。
夜遅くに戻ってきたと思ったら、早速料理に取りかかろうとするので、
「ちょっとちょっと、疲れてないの?こんな時間から大丈夫?」と言うと、
「あ、ちょっとだけ下準備するだけだから」とナオちゃん。
そいじゃーまあ、とわたしは自分のことをしていると、キッチンからはシャカシャカコンコンと、軽快な音が聞こえてきます。
ちょっとだけって…もう2時間近くも経ってるのに…。
全然ちょっととちゃうやん…。

しかも暑い!
ここ数日、どんどん気温と湿度が上昇し続けていて、夜だというのにめちゃくちゃ暑い!
そんな中、オーブンを使った料理を、結局、夜中の3時前ぐらいまでやってたそうな…。
んでもって、そういうパターンはよくあるのだそうな…。
さらに加えて、ショーティの体調がいよいよ悪化した際に、なんとか過ごし易いようにと、古いポータブルのエアコンをキッチンにも置いてあったというのに、
それをすっかり忘れてたという(それほど今年の夏は涼しかったのです←思いっきり言い訳ですが)、大ボケのホストの旦那とわたし…。
かんにんやで、ナオちゃん!


ということで今日は、うるさいけれど、とりあえず涼しくはなるクーラーをつけての、料理の続行です。

リオン在住のナオちゃんの手料理は、だからもちろんフレンチ!

前菜!ど~ん!




主菜!ど~んど~ん!




デザート!ど~んど~んど~ん!


なんと、米粉は初めての挑戦だったそうで、だから生地が固まらない、粘りが出ないなど、初めてのトラブルをアイディアで乗り越えながらのこのお料理。
もうほんまに美味しくて美味しくて美味しくて、家族4人、極楽なお昼を過ごさせてもらいました。

コーヒー係の旦那とナオちゃん。なにやらコソコソやってるみたいなので寄ってくと、


コーヒー豆を食べてる?!



さて、我々は引き続き休憩していましたが、ナオちゃんは明日の帰りの飛行機の予約確認や、リオンに戻ってからの仕事の準備に取りかかり、

すると旦那が、「この仔のこと?」と、窓の外を眺めながら聞くので行ってみると、


はいはい、この仔です。
わたしがピアノを弾いてると、必ず目の前の窓の向こうにやって来て、このフェンスを行ったり来たりします。


それで、わたしがカメラを取りに行くのを待っていて、体勢を変えてはピタリ、また変えてはピタリと、撮られる気満々なのです。


2階で着替えてる時にも、窓のすぐ向こうにある木の幹にやって来て、変な声で話しかけてきたりします。


今年おっきくなった、まだとても若いリスくんです。


ランチを食べ終わった時、
あ~苦しい。
いやもう、今夜は絶対食べられへんな。絶食やな。
うんうん、もう無理っぽい。

などと言ってたのに、やっぱり夜になると小腹が空いてきたので、
ちょっと見劣りしまくりですが、素麺を2把、茹でることにしました。
しいたけをたっぷり入れてつけ汁を作り、庭の初もの茗荷とネギ、それから錦糸卵とおろし生姜でいただきました。


そしてさらに、嬉しいオマケがありました。

ほんとはタルト用のカスタードクリームを作るはずだったのが、やはり米粉ではシャブシャブとして固まらず、
よっしゃ、ならばプリンにしちゃえと、蒸し器の中へ。


米粉がやはり溶け切れてなくて、けれどもそれが、とてもおもしろいことになっていました。
底に米粉が落ちていて、蒸している間にお餅みたいになってたのでした。
だから、上からプリンを食べていたら、底の方でお餅も楽しめる!という感じ。

そして余った白身は、メレンゲにしてオーブンの中へ。
いやもう、無駄が無い、これぞ『ザ・料理』!

あ、おっきなネズミが、


つまみ食いしたあと。



いやもう、ほんまに美味しかった、楽しかった、嬉しかった。
ありがとう、ナオちゃん!
また来てね!(いや、そんな、下心なんかありませんから、ほ、ほんまやで
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騒がれたくないことを騒がれないように大騒ぎする人たち

2014年09月06日 | 日本とわたし
事故から3年以上も経ってから、こんなことを報道されたって…と思われた方は少なくないと思います。



原発がある地域で、もし大きな地震や津波、噴火などが起こったら、被害はこんなふうに広がります。



何日の何時、という予測はできないけれども、日本では必ずどこかで、地震や津波、そして噴火が起こります。
そんな土地柄に、じゃあどうしてこんな危ないものを、バカバカ建てたのか。
日本は技術大国で、いろんな知恵と技術力と工夫の力があるのだから、原発なんかを推進せずに、日本の地形や土地柄に合ったエネルギーを開発するべきだったのではないでしょうか。


なのに、性懲りもなく、原発原発原発と、脇目も振らずに執拗に突き進む安倍政権。
高級な料理とゴルフなどに釣られて、政権広報部と化したマスコミのドン達のおかげで、こんな現実はすっかり隠されたまま、





海外のマスコミからは、批判続出!



海外から批判続出
「アベノミクスは失敗だ」

外資は売り越しに転じた


海外から、アベノミクス批判が相次いでいる。
米ウォールストリート・ジャーナル(13日アジア版)は、『アベノミクス、限界に近づく」という社説で、
賃金上昇は、そのほとんどが、一回限りのボーナスによるもので、基本給は小幅減少した」と書いた。

欧州の投資銀行サクソバンクのヤコブセン最高運用責任者のリポート〈参院選後の日本経済〉は、もっと具体的だ。
昨秋以降に上昇した日経平均について、
上場企業が日本経済に占める割合は、20%にも満たず、それらの企業の株主は、日本の人口の5%以下に過ぎない」とバッサリ。
中小企業抜きの成長戦略を批判している。

日銀の異次元緩和は、「人工マネー」「貨幣幻想」だから、効果は期待できない、
2%のインフレ目標も、「高齢者はインフレよりデフレを望む」と、苦言のオンパレード。
まとめると、
安倍首相の認識は、現実と大きく乖離」しているので、「アベノミクスは失敗するでしょうとなる。
選挙まで、バラ色の経済政策を煽っておいて、勝ったら知らんぶり。そこを見透かされた」と、
株式アナリストの黒岩泰氏はこう言う。
外国人が、アベノミクス批判を始めたのは、日本株を売るための号砲です


株価暴落(10月)1万円割れも

実際、海外勢は、7月第4週から、3週連続で「売り越し」に転じている。
今年に入り、1兆6000億円を「買い越し」ているだけに、一気に売ってきたら、大暴落も起こり得る。

「海外勢は、すでにアベノミクスの嘘を見破っています。
この先、ハゲタカが売り浴びせてくる危険がある。
9月に、日経平均は、1万1000円台まで、下落する恐れがあります。
そうなったら、10月の1万円割れもあり得ます」(黒岩泰氏)

これだけ海外からの批判が続いても、国内大手証券は、日経平均の年内1万8000円目標を変えていない。
個人投資家は、8月第1週に、約2000億円を「買い越し」た。

大損するのは誰か。
ババ抜きは始まっている。

↑以上、書き起こしおわり


そして奇妙なデング熱騒動…。
デング熱(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/デング熱
通常、人間同士の直接感染は起こらない。
ただし、輸血、血液製剤、臓器移植は例外である。
デングウイルスに感染しても、8割は無症状であり、それ以外も軽度の症状、
例えば、合併症を伴わない発熱症状が現れるだけがほとんどである。
しかし、5%の感染者では、重症にまで発展し、さらにごく一部では、生命を脅かすこともある。


ちょっとこの図を見つけたので、この図について書かれている記事を探してみました。

↓以下、転載はじめ

「70年ぶりのデング熱」といってるけど、実は毎年デング熱の感染者が出ている件
http://coresugo.com/dengunetu-2/

「70年ぶりのデング熱」と、メディアは大賑わいをしていますが、
日本国内で発症した輸入デング熱患者は、ここ数年200人を超えているのをご存知だろうか!?

えっ!?なにそれ!?

って思った人のために、輸入デング熱患者についてまとめてみた。
(筆者の個人的な考察が含まれておりますので、こういう考え方もあるのかと、参考程度に読み流していただければ幸いです)


輸入デング熱患者は毎年200人超

今回の、デング熱の国内感染については、東京都渋谷区にある、代々木公園に生息する蚊によって生じた、と結論付けている。

実は、デング熱は、国内感染が70年ぶりという事だけで、
輸入デング熱患者、つまり海外(渡航先)でデング熱に感染した人が、帰国後に発症したり、
流行地で感染した外国人旅行者が、来日後に発症した患者は、毎年かなりの数が出ているのだ。


1
出展:デングウイルス感染症情報

上の画像を見てもらうと、2012年以降の輸入症例は、毎年200人を超えている
この200人という数字は、あくまでもデング熱の症状を発症し、検査を受けて陽性反応が出た、実際の患者数なのだ。


ほんとは、もっと多くの人が、デング熱に感染している可能性

デング熱に感染しても、約8割もの人が無症状で済む、と言われている。

実際は感染していても、無症状の人も中にはいる、という事だ。

何の症状も発症していない人は、もちろん病院へ行くこともなく、検査を受けることない。

つまり、カウントされていないってこと。

マスコミの報道に、過剰反応しないように!

↑以上、転載おわり


で、フランスの大手製薬会社が、世界初の、デング熱に効果がありそうなワクチンの開発に成功したとかいうニュースが流れ…。
そして今日は、こんな図を見つけました。

代々木が代々木が!と連呼していたようですが、次々に、違う公園が封鎖され始めています。


どうしてなんでしょうか?

去年はこういう状況↓だったようですが、今年みたいな報道や封鎖が行われましたか?


政権とベッタリなマスコミが、やたらと大騒ぎする時は、きっとなにか大きなことが隠されている…。

これはわたしのパラノイアではなく、3年と半年の間に知り得た真実です。
気をつけてください。
コメント (4)
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てんぷら一番ゴルフは二番、惨事の責任は安倍晋三!

2014年09月05日 | 日本とわたし


てんぷら一番
ゴルフは二番
惨事の責任は安倍晋三


↓おまけ
人命は最後(ペロッ)

上記の台詞を、下記のコマーシャルソングの替え歌で歌ってみてください。
めちゃピッタリこんです!



今日はこれを、何回歌たことか…。
ぜひぜひ、みなさんも、街角や通りや電車の中や車の中や家の中で♪
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