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マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』その1

2019-05-30 04:30:00 | ノンジャンル
 マーク・トウェインの1884年作品であり、柴田元幸さんが2017年に訳された『ハックルベリー・フィンの冒けん』を読みました。柴田さんの解説から一部引用させていただくと、

1 マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』の英語について
 どんな小説でも、「何が語られているか」と「どう語られているか」は両方とも大事だが、この『ハックルベリー・フィンの冒けん』という小説の場合、「どう語られているか」はとりわけ大事である。
 とくに学校にも行っていない、半分浮浪者の少年が使いそうな言葉だけを使って、少年自らに語らせることを通して、本人はぜんぜん自覚していないユーモア、叙情、アイロニーが全篇にわたって広がり、時に静謐で時に荒々しいアメリカ中西部の自然と、時にあたたかく時に残酷なアメリカの社会がみずみずしく描かれる。口語体の語りの可能性を一気に広げたという歴史的意義にとどまらず、現代に至ってもなお、一人称語りののびやかさ、しなやかさがこれほど見事に持続している例はちょっとない。アメリカで1885年に(イギリスでは84年)この小説が刊行されて以来、これに霊感を受けて多くの小説が書かれてきたし、なかにはJ・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)のようにそれ独自の価値を備えた作品も生まれているが、元祖『ハックルベリー・フィンの冒けん』の値打ちはいささかも減じていない。
 というわけで、「何が語られているか」の前に、この小説が「どう語られているか」をまず問題にしたい。そもそもこの小説、1876年に刊行された『トム・ソーヤーの冒険』の成功を受けて、まずはその続篇として構想されたわけだが、76年7月に書き出され、二度の長い中断を経て83年9月に完成した結果、『トム・ソーヤー』とはまったく違う地点まで到達する作品となった。内容的に違うのはもちろんだが、そもそも書き方からしてぜんぜん違う。物はためし、両作の書き出しを較べてみよう。
まず、『トム・ソーヤー』から━━
(原文省略)
「トム!」
 答えなし。
「トム!」
 答えなし。
「あの子ったらどうなってるのかねえ? トムや!」
 答えなし。
 伯母さんは眼鏡を下げて、その上から部屋を見渡した。それから眼鏡を上げて、今度はその下から見てみた。伯母さんは、子供なんていうちっぽけなものを探すのに、めったに、いや絶対に、眼鏡を通して見たりはしない。これは伯母さんのとっておきの眼鏡であって、自慢の種、使うためなんかじゃなく品格のために拵(こしら)えたのだ。見るだけなら、ストーブの蓋一対を通して見たって似たようなもの。伯母さんはしばし戸惑っている様子だったが、それから、荒々しいとまでは行かぬものの、それでも家具にも聞こえるくらいの声を上げた━━
「まったく、捕まえたらただじゃ━━」

 マーク・トウェインの小説において「伯/叔母さん」は社会の規範を代表する。その社会規範に呼ばれるところから『トム・ソーヤーの冒険』は始まる。そしてその後も「これは伯母さんのとっておきの眼鏡であって、使うためなんかじゃなく品格のために拵えたのだ」といったふうに、物語を外から見ている、安定した大人の語りが続く。(中略)まず語りとしては、正統的に雄弁な三人称の語りであることを確認したい。
 一方、『ハックルベリー・フィンの冒けん』の書き出しはどうか。
(原文省略)
「トム・ソーヤーの冒けん」ってゆう本をよんでいない人はおれのこと知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク・トウェインさんてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのことが書いてある。ところどころ「こちょう」したとこもあるけど、だいたいホントのことが書いてある。べつにそれくらいなんでもない。だれだってどこかで、一どやニどはウソつくものだから。まあポリーおばさんとか未ぼう人とか、それとメアリなんかはべつかもしれないけど、ポリーおばさん、つまりトムのポリーおばさん、あとメアリやダグラス未ぼう人のことも、みんなその本に書いてある。で、その本はだいたいはホントのことが書いてあるんだ、さっき言ったとおり、ところどころ「こちょう」もあるんだけど。

 いきなり「トム・ソーヤーの冒けん」という実在の書物や、「マーク・トウェイン」なる実在の人物(というか、まさにこの本の作者)が出てきて、その後もウソ/ホントの問題が言及され、『ドン・キホーテ』続篇にも通じるような形で現実・虚構間の境界線が早々と揺らぎはじめ、作品の重要テーマを予告しているわけだが、ここでは言葉自体に話を絞ろう。

(明日へ続きます……)