樋口尚文さんが有馬稲子さんにインタビューして2018年に刊行した『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』を読みました。本の最後に掲載されている、樋口さんの文章「補章 映画女優としての有馬稲子」をできるだけ転載させていただくと、
「戦後まもない頃から平成をまたにかけて活躍を続ける有馬稲子は、こと映画に関しては1950年代から1960年代前半までの日本映画黄金期を中心に、小津安二郎、今井正、内田吐夢、小林正樹、山本薩夫、五所平之助、渋谷実、野村芳太郎といった巨匠、名匠の監督たちの作品で輝いた。本書は、そんな有馬稲子の「映画女優」としての活躍に絞って、その半生を語りおろしていただいた。ここで改めて、鳥瞰図的に駆け足で有馬の横顔をふりかえっておきたい。
昭和7年(1932年)4月3日、現在の大阪府池田市で生まれた有馬稲子は本名を中西盛子(みつこ)といい、幼少時は社会主義のシンパだった父親が大阪を転々と逃げ回っていた。見かねた祖母の芳枝に連れられて、釜山にいた伯母の中西かねの養女となり、以後、有馬は伯母が亡くなるまでママと言って慕い続けた。敗戦後は命からがら密航で引き揚げるも、大阪のすさんだ実父母の家に伯母ともども身を寄せることとなり、辛い日々を過ごす。
この状況から脱するために昭和23年(1948年)に宝塚音楽学校を受験して合格、翌年には花組に編入されて初舞台を踏む。実は養母も大正期に宝塚に在団しており、芸名が「有馬稲子」だったことをこの頃初めて知り、歌劇団の意向もあって「二代目襲名」となった。可憐な容貌で一気に人気スタアの仲間入りを果たすも、彼女の魅力に注目した東宝の藤本眞澄が宝塚に映画出演を打診してきた。歌劇団側は断ったが、東宝のたゆみない説得の結果、有馬は退団を決意して、昭和28年(1953年)1月に東宝専属となる。
東宝では市川崑監督『愛人』などに出演するも、なかなか手ごたえのある企画に恵まれなかった。出演を希望して提案した企画は実現されない一方で、岸惠子とともに出演が望まれた今井正監督『ここに泉あり』など外部の意欲的な作品への出演も許されず、やっと手にした豊田四郎監督『夫婦善哉』への主演がいきなり中止になるに及んで、東宝に辞表を提出する。これに先立って昭和29年(1954年)4月に岸惠子と久我美子が、邦画各社の縛りに拘束されない自由な立場で出演作を決められるよう「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立しようとしていたが、有馬もそこに誘われて参加した。有馬の辞表はにんじんくらぶが預かって、翌昭和30年(1955年)3月に東宝を円満退社し、4月には松竹と優先本数契約を結ぶ。
松竹時代の有馬は、小津安二郎監督『東京暮色』『彼岸花』、今井正監督『夜の鼓』、小林正樹監督『泉』『黒い河』『人間の條件』、五所平之助『わが愛』、山本薩夫監督『赤い陣羽織』、野村芳太郎監督『ゼロの焦点』、中村登監督『白い魔魚』などの巨匠、名匠の傑作に次々と出演し、戦後を代表する名女優としての地位を築いた。
そんな代表作のひとつに内田吐夢監督『浪花の恋の物語』があるが、この作品で共演した中村錦之助から求婚され、昭和36年(1961年)11月の日本映画のトップスタアどうしの結婚は大きな話題となった。(1965年に離婚)。折しも日本映画は高度経済成長期のレジャーの多様化やテレビジョンの普及もあって一気に興行が不振に陥り、有馬の活躍を裏づけた映画黄金期のような映画づくりは質においても規模においても難しくなっていった。この趨勢のなかで、有馬の女優としての関心は映画から舞台へと移ってゆく。あまつさえ芸術座『奇跡の人』のアニー・サリバン、帝国劇場『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラなどの当たり役で華々しい成功をおさめ、有馬は舞台の魅力にとりつかれる。邦画各社の経営が低迷をきわめた1970年以降、有馬の映画出演は途絶え、新劇から商業演劇まで従来の映画スタアの華やかさとは大きく隔たった地道な公演に傾倒するようになる。
こうして見てくると、そもそも宝塚の「舞台女優」であった有馬は、セントの映画興行の隆盛とともに映画界に招かれて「映画女優」になり、映画業界の凋落とともに新劇や商業演劇の「舞台女優」に帰還したわけであり、言葉を換えれば有馬は映画会社の撮影所システムを背景に活躍した「映画女優」なのである。厳密にいえば有馬は既成の映画会社の企画にあきたらず、いくつもの独立プロ作品にも出演しているが、これらとておおむね撮影所システムの培った人的インフラと大手映画会社の配給ルートを活かした作品群なので、今でいるところのインディーズ映画とは異質なものである。
(明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
「戦後まもない頃から平成をまたにかけて活躍を続ける有馬稲子は、こと映画に関しては1950年代から1960年代前半までの日本映画黄金期を中心に、小津安二郎、今井正、内田吐夢、小林正樹、山本薩夫、五所平之助、渋谷実、野村芳太郎といった巨匠、名匠の監督たちの作品で輝いた。本書は、そんな有馬稲子の「映画女優」としての活躍に絞って、その半生を語りおろしていただいた。ここで改めて、鳥瞰図的に駆け足で有馬の横顔をふりかえっておきたい。
昭和7年(1932年)4月3日、現在の大阪府池田市で生まれた有馬稲子は本名を中西盛子(みつこ)といい、幼少時は社会主義のシンパだった父親が大阪を転々と逃げ回っていた。見かねた祖母の芳枝に連れられて、釜山にいた伯母の中西かねの養女となり、以後、有馬は伯母が亡くなるまでママと言って慕い続けた。敗戦後は命からがら密航で引き揚げるも、大阪のすさんだ実父母の家に伯母ともども身を寄せることとなり、辛い日々を過ごす。
この状況から脱するために昭和23年(1948年)に宝塚音楽学校を受験して合格、翌年には花組に編入されて初舞台を踏む。実は養母も大正期に宝塚に在団しており、芸名が「有馬稲子」だったことをこの頃初めて知り、歌劇団の意向もあって「二代目襲名」となった。可憐な容貌で一気に人気スタアの仲間入りを果たすも、彼女の魅力に注目した東宝の藤本眞澄が宝塚に映画出演を打診してきた。歌劇団側は断ったが、東宝のたゆみない説得の結果、有馬は退団を決意して、昭和28年(1953年)1月に東宝専属となる。
東宝では市川崑監督『愛人』などに出演するも、なかなか手ごたえのある企画に恵まれなかった。出演を希望して提案した企画は実現されない一方で、岸惠子とともに出演が望まれた今井正監督『ここに泉あり』など外部の意欲的な作品への出演も許されず、やっと手にした豊田四郎監督『夫婦善哉』への主演がいきなり中止になるに及んで、東宝に辞表を提出する。これに先立って昭和29年(1954年)4月に岸惠子と久我美子が、邦画各社の縛りに拘束されない自由な立場で出演作を決められるよう「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立しようとしていたが、有馬もそこに誘われて参加した。有馬の辞表はにんじんくらぶが預かって、翌昭和30年(1955年)3月に東宝を円満退社し、4月には松竹と優先本数契約を結ぶ。
松竹時代の有馬は、小津安二郎監督『東京暮色』『彼岸花』、今井正監督『夜の鼓』、小林正樹監督『泉』『黒い河』『人間の條件』、五所平之助『わが愛』、山本薩夫監督『赤い陣羽織』、野村芳太郎監督『ゼロの焦点』、中村登監督『白い魔魚』などの巨匠、名匠の傑作に次々と出演し、戦後を代表する名女優としての地位を築いた。
そんな代表作のひとつに内田吐夢監督『浪花の恋の物語』があるが、この作品で共演した中村錦之助から求婚され、昭和36年(1961年)11月の日本映画のトップスタアどうしの結婚は大きな話題となった。(1965年に離婚)。折しも日本映画は高度経済成長期のレジャーの多様化やテレビジョンの普及もあって一気に興行が不振に陥り、有馬の活躍を裏づけた映画黄金期のような映画づくりは質においても規模においても難しくなっていった。この趨勢のなかで、有馬の女優としての関心は映画から舞台へと移ってゆく。あまつさえ芸術座『奇跡の人』のアニー・サリバン、帝国劇場『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラなどの当たり役で華々しい成功をおさめ、有馬は舞台の魅力にとりつかれる。邦画各社の経営が低迷をきわめた1970年以降、有馬の映画出演は途絶え、新劇から商業演劇まで従来の映画スタアの華やかさとは大きく隔たった地道な公演に傾倒するようになる。
こうして見てくると、そもそも宝塚の「舞台女優」であった有馬は、セントの映画興行の隆盛とともに映画界に招かれて「映画女優」になり、映画業界の凋落とともに新劇や商業演劇の「舞台女優」に帰還したわけであり、言葉を換えれば有馬は映画会社の撮影所システムを背景に活躍した「映画女優」なのである。厳密にいえば有馬は既成の映画会社の企画にあきたらず、いくつもの独立プロ作品にも出演しているが、これらとておおむね撮影所システムの培った人的インフラと大手映画会社の配給ルートを活かした作品群なので、今でいるところのインディーズ映画とは異質なものである。
(明日へ続きます……)
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