goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

山田火砂子監督『山本慈昭 故郷の鐘 満蒙開拓団の落日』

2022-10-13 07:30:30 | 日記
 山田火砂子監督・エグゼクティブプロデューサーの2014年作品『山本慈昭 故郷の鐘 満蒙開拓団の落日』をDVDで観ました。
 サイト「KINETONE」の「あらすじ」に一部加筆修正させていただくと、
「昭和20年5月1日、長野県下伊那郡会地村にある長岳寺の住職であり、国民学校の教師・山本慈昭(内藤剛志)は、3つの村の村長に説得され、1年だけという約束で満洲へ渡る。8月9日、日ソ不可侵条約を破り、ソ連軍が一方的に攻めてくる。8月15日、敗戦もわからないまま、女子供を抱えてシベリア国境近く北哈[口馬]の町より逃げるが、列車もなく、橋は逃走する関東軍によって破壊されていた。
 ロシア兵を避け平原ではなく山の中を歩く一行は、食料もなく、それは死の旅であった。
 ある日、一行はロシア兵に捕まり、勃利の街の収容所に入れられる。16歳以上の男性はシベリアに連れて行かれ、極寒の中、労働に従事させられるが、慈昭は奇跡的に一年半後に日本に帰国する。
 ようやく家にたどり着くと、阿智郷はわずかの帰還者はあったものの全滅で、妻と子供たちは亡くなったと知らされる。世の中が民主主義となり、大きく変わりつつある頃、慈昭は開拓団の仲間たちの記録を『阿智村・死没者名簿』としてまとめる。同じ頃、天台宗・半田大僧正に会い、長野県日中友好協会会長を引き受けることを聞いた慈昭は、平岡ダム建設のため強制連行された中国人のことを知り、遺骨を本国へ返す運動に尽力する。
 中国を訪れてから一年あまりがすぎた頃、慈昭のもとに日本人孤児から一通の手紙が届く。戦争で離れ離れになった子供たちが両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが詳しく書かれたその手紙を読んだ慈昭は、目頭から熱いものがこみ上げる。
 満州で多くの日本人が中国人によって育てられていることを知った慈昭は、遺骨収集よりも生きている孤児の日本帰国救済運動に力を注ぐようになる。遂には国を動かし、次々と孤児が発見され、訪中の末その帰国や里帰りが実現していく。そして慈昭が83歳の秋、娘の冬子とようやく再会を果たす。冬子は慈昭と二人きりになると、あの満州のことを語るのであった。
 そして小学校の先生(常盤貴子)は満蒙開拓団記念館を生徒たちと訪れ、ここで見聞きしたことを家に帰って家族に話すように言うのだった。」

 シーンとシーンの間はワイプやフェイドアウト、フェイド・インが多く使われていました。