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蓮實重彦『ハリウッド映画史講義━翳りの歴史のために』その3

2019-02-05 07:17:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 「たしかなことは、ハリウッドの巨匠たちにとって、闘うことが映画の必然的な条件だとはいささかも意識されてはおらず、ましてや、それが映画そのものの不幸だなどとは考えられていなかったという事実だろう。それは、撮影所というシステムが、まるで母胎のように彼らを外界から保護していたから初めて可能となる姿勢にほかなるまい。つまり、ハリウッドの巨匠たちは、いずれも、映画と無意識に戯れることの可能な時期に映画を撮っていたからなのである。
 そうした幸福が約束されていた時代の監督たちを、ひとまず『古典的』な作家と呼ぶことにしよう。ハリウッドが、アメリカ合衆国の語る言葉を遥かに超えたほとんど普遍的ともいえる記号を発信しえたのも、それと無関係ではなかろう。それは、なににもまして、無意識の産物なのであり、そこには不幸の影さえさしてはいない。
 だが、映画を撮ることが意識的な振舞いたらざるをえない時代が不可避的に到来する。第一章で擁護されることになる『50代作家』たちは、まさに、映画であることのさまざまな条件を意識せざるをえない時代に映画との関係をとり結ばざるをえなかった不幸な存在なのだ。彼らは、巨匠たちのように、闘争を涼しい顔でやりすごし、なお傷つくふうもない無意識の振舞いを演じることはできないだろう。あるいは、母胎であることをやめ始めていた撮影所と、なお触れ合わざるをえなかったことが、彼らの不幸を加速させたといってもよいかもしれない。この世代の監督たちは、その意味で、いくえにも不幸なのである。
 こうした監督たちは、ハリウッドが初めて持つことになった『現代的』な作家である。ここで話題になろうとしているのは、まさしく映画における『現代性』の問題なのだ。そして、アメリカ映画の歴史は、いまなお『現代的』であることの意味を評価しかねている。この書物がいだくささやかな意図は、この評価されがたいものをなんとか評価しようとする不幸な試みだといえるかもしれない。それには、例外的な巨匠の作品ではなく、ごくありきたりな映画へと注ぐべき視線を鍛えることから始めねばならないだろう。」

 そして実際に語られる映画関係者の名前は、ジョセフ・ロージー、エリア・カザン、ニコラス・レイ、ジョン・ヒューストン、アンソニー・マン、マーチン・リット、ウォルター・ラング、ジャック・アーノルド、ジュールス・ダッシン、ジョン・ガーフィルド、アーサー・ケネディ、オーソン・ウェルズ、ロバート・オルドリッチ、バッド・ベティカー、ロバート・ロッセン、リチャード・フライシャーらであり、1950年代後半から1960年代にかけて東の大企業がハリウッドの撮影所を次々と買収し、撮影所システムが崩壊していく様が描かれます。ここでの蓮實先生の文章はいつもの難解な文体ではなく、きわめて平易であり、とても読みやすいものでした。

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