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蓮實重彦『ハリウッド映画史講義━翳りの歴史のために』その1

2019-02-03 09:47:00 | ノンジャンル
 蓮實重彦先生の1993年作品『ハリウッド映画史講義━翳りの歴史のために』を読みました。その「序章」を転載させていただくと、
「これから語られようとしているアメリカ映画の歴史には、ハワード・ホークスも、ジョン・フォードも、ラオール・ウォルシュもほとんど登場しない。キング・ヴィダーやウイリアム・A・ウェルマンはいうにおよばず、ジョージ・キューカーも、ルーベン・マムーリアンも、フランク・キャプラも姿を見せないだろう。『アメリカ映画の父』と呼ばれるデイヴィッド・ウォーク・グリフィスにさえ言及されることはなく、エリッヒ・フォン・シュトロハイムも、セシル・B・デミルも、これから始まる映画史にあってはその圏外に位置するしかないのである。チャールズ・チャップリンやバスター・キートンにもほとんど触れられることはなかろうが、それは、彼らの得意とした『喜劇』を視界から排除しようとする意図からでた姿勢ではもちろんない。また、エルンスト・ルビッチやアルフレッド・ヒッチコックのような監督たちの影がいたって薄いからといって、彼らがヨーロッパ系の監督だという理由からそうなのではない。こうした輝かしい名前のほとんど体系的といってよい不在は、ここに始まろうとしているアメリカ映画の歴史にあって、彼らが厳密な意味で傍系的な役割しか演じることがないからなのである。そうしたアメリカ映画がまぎれもなく存在していながら、その歴史がこれまで充分に語られてこなかったことに対する憤りのようなものに煽られて、以下に続く言葉は綴られることになるだろう。
 そこで、まず、断言することにしよう。これから読まれようとしている文章になにがしかの意味があるとするなら、それは、こうした輝かしい名前がどれひとつとして登場することがなくとも、アメリカ映画の歴史は充分に語られうるものだという事実を納得することにつきている。だからといって、この書物の真の目的は、ハリウッドのごく特殊な一面だけに照明をあてようとすることにあるのではない。ここでの主題は、むしろごくありきたりなアメリカ映画の提示にあるとさえいってよい。つまり、あらゆるアメリカ映画が『絢爛豪華』なものではありえないし、また、現実にそうではなかったというごく当たり前な事実の確認から出発したいのだ。かりに、ハリウッドから世界に送り出された映画がいずれも『豪華』な商品だというイメージが広く流通しており、それがある種の現実感をおびていたとしても、そうした美学的な要請の実現を可能にした産業的な構造がはらまざるをえなかった矛盾によって、その対極に『貧困』を生み落としていたのは当然の事態だからである。まずはとりあえず、その事実を明らかにしておく必要があるだろう。
 あるいは、こういいかえてもよい。すなわち、あらゆるアメリカ映画を『楽天的』だと断じることは明らかに事実に反している。そればかりか、映画の歴史にあって真に『悲劇的なるもの』は、ことによると、ハリウッドにのみふさわしい概念なのかもしれない。この書物を支えているのは、まさしくそうした予感なのである。実際、1940年代の後半から50年代にかけてハリウッドで起こったほどの大がかりで『悲劇的』な撮影所システムの崩壊を、二十世紀の人類は、いまだに他の領域では体験していないといってよい。事実、ほんの十年前ならごく当然とおもわれていた映画づくりのシステムが、第二次世界大戦の翌朝、映画の都とすら思われていたハリウッドから不意に崩れ始めるなどと予想しえたものなど、誰ひとりとしていなかったはずである。にもかかわらず、事態はそのように進行してしまった。そこで、この神話的な都市がある時期に蒙った決定的ともいえる変容の実態も、ひとまず鮮明な輪郭で視界に浮上させておく必要があるだろう。映画がやがて百年もの歴史を刻もうとしているとき、1910年代の初めから映画にふさわしい年としておのれを組織してきたハリウッドが、いまなお一貫して機能を演じ続けていると信じられることは、いくらなんでも不可能なはずなのである。(明日へ続きます……)

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