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島尾敏雄『離脱』その2

2019-06-23 10:36:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

「どうしても分からないの。あなたというひとが、どうしてそんなことをしていたのでしょう」
 妻の問いただしがそこのところにもどってくると、その論理に引きこまれないようにおびえたぼくは、じぶんの論理で妻をなっとくさせることには望を絶った。(中略)
「でもあたしはもとのあたしではありません。お炊事も、それからあなたやこどもの世話もしますが、ただ機械的にだけです。いちどくつがえった水は、二度ともとのお盆にかえりませんのよ。(中略)ほんとうに心から改心するのなら、あたし、もうしばらく考えさせてもらいます。そのかわり、今までの女との関係をつづけないこと、自殺は絶対にしないこと、こどもの養育に責任をもつこと、それが誓えるかしら?」
 誓わないことなどと思っていたじぶんの考えをここで又一つ捨てて、ぼくは「ちかいます」と言った。(中略)

 やはり疲れが出て、じぶんのしごと部屋のベッドでついうとうととした。(中略)目ざめてぎくっとし、家の中の気配に気をくばると、妻もこどもも居そうにない。しまった、と思い、がばっとからだをおこすと、ちょうどやぶれ垣根のすきまから妻がこどもふたりの手をひいて家の中にはいってくるすがたが見え、をかぶるように安堵した。(中略)
「だいじょうぶ」とその笑顔を消さずに仕事部屋にはいってくると、妻は「おとうさん」と、こどもにならって使っていたよびかけにもどり、「あたしおねがいがあるの。今までの万年筆と下着をみんな捨ててくださいね。見てるのがいやだから。そのかわり、はいっ」と新しい万年筆をぼくに渡す。(中略)
 夕食のあと、近くのラジウム湯に行くためにぼくはひとりで家を出たが、家の外の空気が、すっかりちがってしまったようで、からだが羽毛のように軽く、ふわっと浮きあがってしまいそうだ。(中略)

 「ひとつだけギモンがあるの。きいてもいいかしら」妻は遠慮がちに言うが、そのときすでに彼女のすがたは鴉の黒いつばさを装っている。(中略)「あなた……に行ったことがあるの?」「……」「だれと行ったの」「……」「だれと行ったのよ」「……」「かくさなくてもいいじゃない。ちゃんと分かっているんだから」「分かっているならいいじゃないですか」「いいえ、あなたの口からはっきりききたいの。あたしには、なんにも包みかくしはしないって誓ったでしょ。あった通り、すっかりそのまま言ってちょうだい。そこだけでなしに、あなたいったい何回旅行をしたの。どことどこに行ったの。どこに泊まったの。なにを食べて、どんな本をよんだの。映画をみたでしょ。なんの映画? どこで、何回、どんなふうに、うれしかった、どうだったの?」ぼくはそれに答えて行く。努力して正確に、つつみかくさず。しかしすべての過去を、ではなく、そんなことは不可能なことだとじぶんに言いわけをしながら、でもそっと通り過ぎてみて、妻の反応がないと大胆にかくそうとし、あいまいなことをあいまいに言うと、妻はそれを責め、すこしちがうのだがはっきり罪の中に書きこみなどして、ぼくのからだはふるえはじめる。(中略)「うそつき」と妻は審き、ぼくはあせって、不在証明を呈出するたびに、うその深さが深くなる。(中略)とうとう「インキ壺が投げられてからこちらのことにして下さい。そのときからのぼくを見て下さい」と絶叫してしまう。(中略)ちぢみあがって思わず立ち上ると、妻は台所の板の間に坐り、「あたしに水をぶっかけてちょうだい」と言う。又夜がやってきて、台所のせまい板のまは、ながしと茶だんすにかこまれ、透ガラスの部分に覆われた小はばの破れカーテンのすきまからあふれてはいってくる夜の大気の色にみたされようとしている。そこは妻の常習の徹夜の場所だから、どんな素材もスクラムをくんで妻の弁護に立とうとしている具合だ。(中略)せきたてられたぼくは従卒のようにバケツに水をみたし、妻の頭からぶっかける。「もっと、もっと」と妻は言い、少しもさからわずにその行為をつづけると、妻の歯の根が合わなくなり、がちがちふるえだして、「あたしのあたまをほんきでぶって」と言う。(中略)ぼくはこぶしをかため、ほんきになって打つと、ぼこっとにぶい肉の音がして、軍隊で下級者をなぐった手が重なる。二つ三つそれをくりかえすと、手はしびれ、妻は「あわわわわ」と女の子が長い水あびから唇をむらさき色にしてあがってくるときそっくりのよくとくのない顔付をして、「もういいわ、風邪をひくといけないから、あたし着がえる」と言う。あたりいったいは水たまりが流れた血のように見えた。(中略)

(また明日へ続きます……)

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