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天童荒太&坂本龍一『少年とアフリカ』(後編)

2007-04-14 17:10:08 | ノンジャンル
 昨日に引き続き、天童荒太&坂本龍一の「少年とアフリカ」の後編を紹介します。
 後半の「アフリカ」では、「いまの若い人に限らず、年配者も含めて多くの人に『俺がこうしたいんだからいいいじゃん』とか『誰にも迷惑かけてないだろ』という雰囲気がありますけど、それは個と集団の関係を見失ってるわけですね。」(天童)迷惑はかけてないかもしれないけど、手間はかけている。なのに、たったひとりで生きているみたいに思ってしまう。それを可能にしているのは、貨幣なの。お金があればなににでも交換できて、支払いをする現場しか見えないから。生産現場や流通というような、レジの向こう側はわからない。お金はそういう部分を見えなくするフィルターの役割をはたしている。(坂本)誤解を恐れずに言えばね、最近、PTSDってよく言われるでしょ。なにか事件に出会ってしまった人の心に傷が残る、と。それが大変だ、どうしようと言うんだけれど、どうして社会がそんなこと---と言ったら当人には悪いけど---を心配しなくちゃならないのか疑問なんです。死ぬか生きるかという経験は、どんな生物も何億年とやってきたわけだから、当然大きなストレスを感じてきたはずだよね。だけどそれになんとか適応して生きてきた。それを社会がそこまでケアしなければならないということは、つまり人間の生きる能力が弱まってるとしか思えない。あまりに正論でつまんないかもしれないけど(笑)、どうしてこんなやわな社会になったのか、僕はほんとに不思議。(坂本)人間はいつでもどこでも、傷を受けることがある。だけど、それをサポートする道筋は、必ずしも傷を受ける以前に戻すことばかりではないと思うんです。人によっては、傷を受けたり、トラウマを持ったことがプラスになる場合だってあるかもしれない。新しい生き方、新しい価値観へ転換できるきっかけを得ることだってある。傷を受けたことが、イコール悲劇だ、マイナスだと見なすことのほうが間違ってないか、周囲からマイナスと見なされるから、本当はマイナスになってしまうという部分だってあるんじゃないかと思うんです。もちろんすべての人や、すべてのトラウマについて言えるわけではない。支えが必要な人は、かなりの数で---ことに子どもの場合はいます。そのための施設も人員も、理解も要る。ただ前回話したよういに、人は救おうと思って救えるものではなく、人としてやむにやまれぬ行為をした結果や、誠実な仕事をした結果として「おかげで救われました、励まされました」と言ってもらえるものだろうと思います。弱っている人、傷ついている人を救おう、助けようという考えに基づく行為は、ときに傲慢になるし、当事者を追いつめることにもなりかねない。心の傷ということに、いまの社会がすごく一元的な価値観を持っているように思えることはよくあります。(天童)自分の立っている場所への疑いがない。自分たちが「普通」とか「人並み」と呼んでいるものは、実は間違っていないのか。自分たちが「幸せ」と呼び、人にもそうなるよう求めている考えは、ときに誰かを苦しめている場合もあるんじゃないか、というような謙虚さや、恐れを抱いていない。(天童)ただ、いまいる家庭、いまいる学校や会社、そのなかの人間関係、あるいはこの社会全体のあり方が、その人にとって、つらく、息苦しく、いたたまれないものであるなら、別に無理して適応しなくていいんじゃない、ってことなんです。(中略)いま日本やアメリカのような場所で、「弱い」と言われている人が、別の場所では、「本当は強い人」、「真に豊かな人」、と呼ばれる可能性があるわけなんですよ。(中略)そして、もうひとつ、引きこもっていたり、傷ついている人に限らず、一般の人々にも伝えられるならと思うのは、他人が怖いという感情は自然なことだということです。他人とコミュニケーションをとるのは簡単なことじゃないし、人間関係などという、他者が相手のものは、思うようにいかないこと、うまくいかないことが自然だと、僕は考えているんです。(天童)
 僕はこれらを読んで正論だと思いましたが、皆さんはどうお考えでしょうか?

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