gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

山田宏一・和田誠『ヒッチコックに進路を取れ』その1

2018-01-21 06:21:00 | ノンジャンル
 先日、久しぶりに東京・千葉を走る地下鉄東西線の木場駅が最寄りの小料理屋「かわ野」で、元同僚の福長さんと飲みました。やはり元同僚だった黒山さん、伊藤さん、これをもし見られたら、連絡をください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。首を長くして返事が来るのを福長さんと待っています。

 さて、‘16年に刊行された、山田宏一さんと和田誠さんの対談集『ヒッチコックに進路を取れ』を読みました。
  山田さんが書いた「序-━━エンドマークが出れば映画が終わるわけではない」の部分から引用させていただくと、
・「和田誠さんとの最初の映画対談集『たかが映画じゃないか』が出たのは1978年でした。(中略)古今東西のいろいろな映画の話をしましたが、なんといってもアルフレッド・ヒッチコックの映画について最も多く語り合ったように思います。『たかが映画じゃないか』という本の題名もヒッチコックの名言からいただいたものです。次は、それでも、語りつくせなかったヒッチコックの映画だけにしぼって論じ合おうという企画が生まれました。おりから、ハリウッド時代のヒッチコック映画のリバイバル上映、戦前のイギリス時代のヒッチコックの日本未公開作品の上映、つづけてヒッチコック作品のビデオ化、特にハリウッド時代の名作の数々がLD(レーザーディスク)で発売され、その解説を和田さんとの対談の形でやることとなり、それが本書のもとになっています。その間に、和田誠は映画監督になり(1984年に『麻雀放浪記』、88年に『怪盗ルビー』、94年に『怖がる人々』、2001年に『真夜中まで』など-----それ以前に短篇アニメーション『殺人(マーダー)!』があります)、私はフランソワ・トリュフォー監督がヒッチコックに体系的にインタビューをしたヒッチコック研究書の決定版として知られる大冊『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』の翻訳にかかわり(1981年に日本語訳が刊行)、ヒッチコックについての知識を深めるチャンスを得ました。
 そもそもはハリウッド時代のヒッチコックの全作品(長篇映画三十本)を一作ごとに分析するという試みでしたが、単行本化に当たってイギリス時代の主要な作品についての論評も付け加えました。ヒッチコック映画だけにしぼって論じ合うつもりが索引をざっとごらんいただければおわかりのようにその他多くの作品にふれる結果になったのは、ヒッチコックがサイレント時代から出発していわば映画史そのものを生きてきた存在であり、そしてまた、ヒッチコックの影響も大きく、ヒッチコック映画の一本一本に映画史の流れが刻み込まれているからなのだと思います。ヒッチコックだけを語ることが大げさに言えば映画史そのものにふれることになる」

・「『スクリーンをエモーションで埋めつくすこと』『エモーションを生み出し、それを最後まで持続すること』、つまりは観客をスクリーンに引きつけ、一瞬たりとも飽きさせないことをヒッチコックはモットーにしていました。そして実際、ヒッチコックの映画は━━サスペンスの巨匠、スリラーの神様といわれる稀有な映画監督の作品だけあって━━息もつかせぬ面白さです。ヒッチコック・タッチの極みとも言うべき血湧き肉躍る冒険のクライマックス、サスペンスに次ぐサスペンス、ラストの、そここそ大団円など、さらには落語の“さげ”のような洒落たユーモラスなオチとか、映画ファンの仁義としてバラしてはいけないところはなるべく控えるようにはしたものの、読まれる前に映画をまずごらんくださいとお願い、おことわりをしなければらないと思います」

・「とはいうものの、エンドマークが出れば映画は終わるわけではないのです。ヒッチコックの映画は何度観ても━━-結末を知って観ても━━面白いばかりか、いつまでもその面白さが記憶に残り、そのエモーションが、興奮が、感動が、ふくらむのです。ふくらみすぎて、思い込みや思い違いもあるかもしれません。その点は識者のご指摘、ご教示を謙虚に仰ぐ次第です」

 次に、本文からも引用させていただくと、
・「Y(山田宏一さん) (前略)すべてのヒッチコックの原点がイギリス時代の作品にあって、エロチシズムにしろ、ユーモアにしろ、サスペンスにしろ、萌芽はすでにイギリス時代にあって、すべてがハリウッド時代に花ひらいたという構成でね。ヒッチコックはイギリスとドイツで映画を撮り始めたわけだけど、というのは当時、1920年代はドイツ映画の全盛期で、イギリスはドイツと協定を結んで合作が多く、1925年のヒッチコックの第一作『快楽の園』もドイツの撮影所で撮った作品なのね」

・「W(和田誠さん) あ、そうだったね。当時のドイツ映画は作品的にも先進国だったでしょう。『カリガリ博士』があるし、フリッツ・ラングはすでに『ドクトル・マブゼ』や『ニーベルンゲン』を撮ってるしね。(後略)」(明日へ続きます……)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

斎藤美奈子さんのコラム・その15 & 山口二郎さんのコラム・その1

2018-01-20 07:07:00 | ノンジャンル
 恒例となった水曜日の東京新聞に掲載されている斎藤美奈子さんのコラム「本音のコラム」の第15弾。
まず、去年の10月4日に掲載された「悪玉トリオ」と題されたコラム。
「絶対的な権力を握る女のボスと、頼りない二人の側近。見覚えのあるチームの編成だなと思っていたが、やっと思い出した。シリーズ化もされた往年のテレビアニメ『タイムボカン』だ。
 『タイムボカン』は、行方不明になった博士や宝物(ダイナモンド)を探して主人公らが時間旅行に出かける物語なんだけど、行く先々で彼らを邪魔する悪玉チームが女のボスと二人の手下からなる三人組なのだ。
 ボスのマージョは高飛車で、ダイナモンドを手に入れるためなら小細工もだまし討ちもあり、手下のワルサーとグロッキーはボスに服従しているが、ドジなので毎度ボスにドヤされる。
 どこかの党にそっくりじゃありません? 一気に政権を取りに行くかと思いきや『政権奪取をめざすのは次の次くらい』と述べてズッコケさせた若狭勝氏。『三権の長を経験された方は、ご遠慮いただいたほうがいい』と述べ『何様』感を露呈した細野豪志氏。その上に君臨し『リセットします』『排除します』と宣告する小池百合子氏。
 踏み絵を踏み、持参金まで納めてこの党から出馬するメリットがあるのかしら。『やっておしまい!』というボスの命令が規範のすべて。仮に当選しても捨て駒にされるだけの外様だよ。アニメの悪玉トリオは最後、必ず自滅する。それもまた教訓。」

 また、10月26日に掲載された「数からいえば」と題されたコラム。
「自民党の圧勝で終わった衆院選。野党の分裂が自民党への漁夫の利として働いた、という人も多い。仮に民進・共産・自由・社民の野党四党が候補者を統一していたら、朝日新聞は六十三、毎日新聞は八十四の小選挙区で勝敗が逆転していた可能性があったと試算している。今となっては後の祭りというわけだ。
 でも、それは数だけの論理である。数の論理でいえば、もともと小選挙区制度は民意を正確に反映しない。小選挙区の自民党の得票率は約48%。それなのに議席占有率は約74%。絶対得票率は約25%にすぎない。
 また、全国の十一の比例ブロックにおける各党の得票率を見ると、自民は29%(北海道)~22%(東北)。七ブロックで立民が希望を上回っている(小数点以下四捨五入)。仮に全国統一の比例代表制なら、自民党は二百議席にも届かず、国会の勢力分布図は大きく変わっているはずなのだ。
 民進党の求心力はすでに落ち、野党共闘にも限界があるとしたら、私たちは二大政党制の幻想から覚めて、選挙制度を根本的に見直すべき時期に来ているのではないか。立憲民主党の躍進はミニ勝利にすぎないが、大きな一票になるかもしれない。反自民の有権者はけっして少数ではないのである。」

 同じく、これはここでは初めての転載となりますが、同じく東京新聞の1月14日の日曜日に掲載された、山口二郎さんの『反逆の意義』と題されたコラム。
「小学館が出しているSAPIOという雑誌の最新号に、中国や韓国のメディアで日本政府を批判するのはけしからんという記事が載っていて、私の発言も反日的と批判されている。けんかを売りたいなら買ってやる。特定の政権を国家そのものと同一視し、政権批判を行う者を反逆者と攻撃するのは、独裁国家に共通した論法である。
 折しも、安倍政権は今年が明治維新から百五十年の節目ということで、維新の指導者を顕彰するキャンペーンを展開しようとしている。歴史は、広い時間幅で見る必要がある。維新の功労者は、江戸時代の末期には徳川政権に対する反逆者であった。今年の大河ドラマの主人公である西郷隆盛は、維新のわずか十年後、再び反乱を起こして失敗し、自害した。歴史の転換期においては、時の権力を恐れず、自らが信じる未来のために反乱を企てる者が、歴史を動かすのである。
 政府が維新を礼賛したいというなら、維新の原動力となった下級武士の反乱精神こそを称揚し、学校教育で広めるべきである。反日などというくだらないレッテルを貼って批判的な議論を抑圧しようという人々にも言いたい。
 権力に尻尾を振って、権力のなすことをすべて正当化する人間こそ国を誤った方向に導く元凶であるという歴史の教訓を学ばなければならない。」

 斎藤さん、山口さんともに、歯に衣着せぬ物言いで、読んでいてすがすがしい思いがしました。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

P.S 昔、東京都江東区にあった進学塾「早友」の東陽町教室で私と同僚だった伊藤さんと黒山さん、連絡をください。福長さんと首を長くして待っています。(m-goto@ceres.dti.ne.jp)

アキ・カウリスマキ監督『希望のかなた』

2018-01-19 05:56:00 | ノンジャンル
 先日、アキ・カウリスマキ監督の’17年作品『希望のかなた』を川崎アートセンターで見てきました。パンフレットの「ものがたり」から、一部改変してあらすじを引用させていただくと……、
 北欧フィンランドの首都ヘルシンキ。港の船に積まれた石炭の山から、煤まみれの男の顔が現れる。それはシリア人の青年カーリド。内戦が激化する故郷アレッポからヨーロッパへ逃れた彼は、差別や暴力にさらされながらいくつもの国境を越え、偶然にもヘルシンキに流れ着いたのだった。駅のシャワー室で身なりを整えて警察に出向いたカーリドは、難民申請を申し入れ、中東やアフリカからの難民や移民であふれる収容施設に入れられる。地中海から遠く離れたこの北欧の町にも、多くの難民が押しよせているのだ。カーリドは一緒に入所した気さくなイラク人マズダックと仲良くなるが、マズダックいわく、難民が異国で受け入れられる秘訣は“楽しそうに装いながら、決して笑いすぎない事”らしい。
 入国管理局での大事な面接で、カーリドは故郷でおきた悲劇を明かす。様々な勢力が対立するアレッポで、誰の仕業かもわからない空爆によって彼の家は派遣され、家族や親類も命を落としていた。そのうえ、家族でただ一人生き残った妹ミリアムとは、ハンガリー国境での混乱で生き別れとなっていたのだ。カーリドは面接官に、今の唯一の望みは妹を探しだし、フィンランドに呼びよせることだと語る。ここには妹の未来があり、自分の未来はどうでもいいのだと。
 ヘルシンキで衣類のセールスをして暮らすヴィクストロムは、さえない仕事と酒びたりの妻に嫌気がさしていた。ヴィクストロムは無言のままに結婚指輪と部屋の鍵を妻に残し、愛車のクラシックカーに乗りこみ家を出る。彼はレストランオーナーとして新しい人生を始める夢を抱いていた。シャツの在庫を処分した金すべてをポーカーにつぎ込んだヴィクストロムは、イチかバチかの賭けに出た心意気が幸運をよびよせたのか、ゲームに大勝し大金を手にする。
 そうしてヴィクストロムはゴールデン・パイントという名のレストランを手に入れる。その店には常連がいて、ベテラン従業員もいるというふれこみだったが、実際には、やる気のない調理人が作る料理はミートボールと缶詰めのサーディンのみ、常連はもっぱらビールを飲むばかりで儲けもわずか。だがひと昔前から時が止まったような店で、風変わりだが気のいい従業員に囲まれて、ヴィクストロムは自分の居場所を築いてゆく。
 ある日、当局はカーリドをトルコ経由でシリアに送還する決定をくだす。カーリドは妹を探すために不法滞在者としてフィンランドに留まることを決意し、収容施設から逃走するが、街中で“フィンランド解放軍”を名乗るスキンヘッドのネオナチに襲われかかる。障害者たちの助けもあり何とか難を逃れたカーリドに、救いの手をのべたのはヴィクストロムだった。店のゴミ捨て場で寝泊まりしていたカーリドと、一度は殴り合いになりながらも、ヴィクストロムはカーリドをレストランに雇い入れる。そのうえ、食事に寝床、偽の身分証まで用意してやる。繁盛を狙った寿司屋への看板替えは見事に失敗に終わるものの、カーリドとヴィクストロム、そしてレストランの従業員の間には、家族のように親密な友情が芽生えはじめるのだった。
 そんな中、マズダックから妹ミリアムがリトアニアの難民センターで見つかったとの一報が届く。ヴィクストロムの機転のおかげでヘルシンキにたどり着いたミリアムと、念願の再会を果たすカーリド。カーリドの未来に光がさしはじめたかに見えたその時、スキンヘッドのネオナチが彼の帰宅するところに再び現れ、飛び出しナイフでカーリドの腹を一刺しする。仰向けに倒れるカーリド。逃げ去るネオナチ。一方、ヴィクストロムの店はダンスミュージックを導入し、盛況だ。店が終わり、車を駐車場に入れたヴィクストロムは、駐車場の倉庫であるカーリドのねぐらが無人のままで、血痕が残っているのに気づく。
 翌朝、ミリアムはレストランの女子従業員に送ってもらい、警察に難民申請に向かう。警察の前の横丁ではカーリドが待ち伏せしていて、ミリアムを励まし、警察へ向かわせる。
 川のほとりの木陰。気持ちよさそうに横たわるカーリド。その顔にはレストランで飼うことになった捨て犬がなついてきて、映画は終わる。

 台詞を最小限にとどませたり、何回も出て来るネオンサインなどのアップという点で、監督が尊敬している小津と共通する面もあると思いましたが、演技がほとんど無表情というか過度の演出を施されていないという点ではブレッソンにも似ていると思いました。カウリスマキ監督特有の人物のフルショットも随所に見られ、作品が主張している社会的問題以外でも、「映画」として楽しめる作品だったと思います。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その8

2018-01-18 05:10:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「『キリストが大統領でもアメリカに帰らない』(セドリック・ベルフッジ〈チャプリン会見記〉『中央公論』1956年2月号)、と映画公開の前年の1956年、アメリカからの亡命者とのインタビューの中で刺激的な発言をしていたが、そのインタビューを読んでも、映画と同じようにもうひとつアメリカへの批判の的がしぼりきれていなかった。このインタビューでチャプリンは、アメリカが豊かさの陰で家族や隣人愛が崩れてきているとして、子供への影響をとくに心配していた。たしかに、ややエキセントリックであったが、映画(『ニューヨークの王様』)にはそれがあふれていた。大げさに言わなくても、やがてそのことが20世紀後半の先進国心理となり、映画のバックグラウンドとなっていく。高度経済成長が生産と雇用と消費などの生活の有り様を根底から変えてしまった。拡大された『モダンタイムズ』の到来である」

・「アメリカの高度経済成長の後ろ側で、人と人との結びつきが空虚になっていくというコミュニケーション不在(ディス・コミュニケーション)社会の到来を鋭く見抜いていた」

・「インタビュアー『そういう点で現在の映画傾向である七十ミリの大型映画をどう思いますか?』
 チャプリン『大きらいだ。大型スクリーンは映画の緊張度---いわば、観客の興味のボーカル・ブレーン(焦点面)を殺してしまう。映画の美しさとは、ひとつにはある広がりを
一点に集中させるという、“サイズ”のなかにあると思う。その“サイズ”には限度があり、それをこえると芸術性が失われてしまうのだ』」

・「インタビュアー『原爆をテーマにした映画をつくるという噂がありますが、また広島へいくのですか?』
 チャプリン『旅行の目的は前にも言ったとおり。もちろん、原爆には大きな関心をもっている。原爆には絶対反対、ぼくは平和を愛する男だ。だが、広島については、すでに山ほどの文学作品に書かれてしまったからね』」

・「女将の畦上輝井(てるい)はチャプリンの心境にふれている。
『チャプリンさんは冷房が大きらいだということでしたので、冷房を停め、窓を開放してお迎えしました。箸を左手にもって、とても器用にすき焼きを召し上がり、日本酒をお飲みになり、琴、長唄に続いて、日本舞踊をごらんにいれました。純日本式のものを、ひどく喜ばれたようです。(中略)琴で〈春の海〉をお聞かせしたら、アンコールされまして、〈鶺鴒(せきれい)〉をやりました。本当に熱心で、耳を澄まして聞くという言葉がぴったりするほどでした。帰りにお言葉をうかがったんですが、『この前来たときと違って、いまの日本はヨーロッパの文化ばかり入って悲しい。でも、ここで純粋な日本文化に接することができた」とおっしゃってくださいました』」(後略)

・「24日、左京区御陵の下町龍安寺へ。
 (中略)百二坪の庭園がなんといっても著名。三方は杮葺(こけらぶ)きの土塀、白砂に七、五、三と十五の石を配しており、海と鳥の象徴という。蔵六庵という草庵風の質朴な茶室に座った。
 チャプリンは、お茶をだす娘の一挙手一投足をみて、
  『優雅だ。そう思わないか、バレエだ』(中略)
 と感嘆、妻におもわず話しかけた」

・「それから西陣へ。
  五、六世紀ごろ、渡来人によって養蚕と機織りがもたらされた。応仁の乱(1467)のときに、細川勝元の東の陣にたいして、山名宗全の構えたこの地が西陣の起源。この跡地に座が生まれ、西陣織が起こった。(後略)」

・「『あなたが日本にいらしたことを存じております。日本のテレビの視聴者になにかおっしゃることはありますか?』
 と黒柳がたずねると、そのせつな、チャプリンは顔面が紅潮して、なみだが浮かんできた。そして、黒柳の手をにぎったまま、言った。
 『日本のことは忘れない! 歌舞伎は素晴らしいものだった。ぼくが皆さんを愛していることを伝えてください。ありがとう。ほんとうにありがとう』(後略)」

・「チャプリンとかれの作品は、20世紀を代表する人物と作品として、これからの世紀にきざみこまれていくことはまちがいない。日本人はチャプリンの映画を見続けてきた。チャプリンもまた日本と日本人を見てきた。
桜の季節に日本を訪れる機会はついになかったが、チャプリンの八十八年の生涯のうち、日本滞在は34日と15時間10分。日本について考えた日々は、はるかにそれを超えていたはずである」

本文以外に「チャプリン シドニー 1932年5月14日 神戸港にて」「ゴダードの母親 ゴダード チャプリン 1936年3月6日 横浜にて」「チャプリン、日本最後の日 1961年7月26日 羽田空港にて」という1ページ丸々使った写真も掲載されています。文句無しにオススメの本です。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その7

2018-01-17 05:29:00 | ノンジャンル
 先日、川崎アートセンターで、アキ・カウリスマキ監督の’17年作品『希望のかなた』を見てきましたが、期待通り傑作でした。関東圏にお住まいで映画好きの方、午前10時からの上映(12時前には終わります)が19日までに迫っています。絶対に見る価値はあると思います。すぐに川崎アートセンターにゴーです!!

 さて、また昨日の続きです。
・「三日、ワシントン発AP 四日、朝日新聞
 『マックグラナリー米司法長官は二日、記者団に対し、「地下街の顔役、破壊活動分子その他好ましからぬ人びと約百名を国外に追放する」と次のように語った。地下街の顔役および組織的犯罪者六名を国外に追放する法的手続きは、すでに先週から開始され、米市民権または居留権を悪用して不法活動を行なったと確定される百人に近い人びとに対して、国外追放の処置をとる準備が進められている。また、この中には前歴を隠し、虚偽の手段で米市民権を獲得した共産党員など好ましからぬ人びと、例えばフランク・コステロやチャーリー・チャプリンも含まれる』
 単に『好ましくない』と追放の理由を明確にしないし、マフィアのボスとならべるなど強引であざとい。要するに、チャプリンをアメリカの保守派、マジョリティ(多数派)が恐がったということだろう。アメリカの市民権をとらないチャプリンが、アメリカにて、核兵器と冷戦下の対決にたいして批判を加えるオピニオン・リーダーとして行動することを、潜在的に、政府のみならず国民も嫌ったのだろう」

・「死を前にしたコメディアンの老残の日々を描いた『ライムライト』という映画は、にわかに脚光をあびた。十月十六日、『ライムライト』がイギリスで公開された。ロンドンからはエリザベス女王の『とても素晴らしいですわ。わたし、ただ泣いては笑い、笑っては泣きました』という談話が、フランスからは、『フランス人はチャプリンを崇拝することによって、チャプリンを非難するアメリカ人より精神的に勝れていると感じている』『殉教者と聖徒の栄光を担った人として映っている』と外電が伝えてきた。テーマ曲『永遠に』は大流行して、イギリス、フランスでのヒットに花をそえたのである」

・「バリー事件は、逆にみると、〈中興の祖〉ゴダードの存在の大きさをきわだたせた。バリーに代わって『影と実体』の候補として、十八歳の女優志願のウーナ・オニールが登場する。ノーベル文学賞の作家ユージン・オニールの娘だ。
 父オニールの強い反対を押し切って、1943年6月、ウーナはチャプリンと結婚した。
 晩節を穢(けが)しかかったチャプリンは、ウーナによって救われ、逆境で結ばれたために、ふたりの結びつきはきわめて強く、そしてチャプリンは晩節を全うするということになる」

・「結局、二人の間には八人の子供が生まれた。
 映画俳優として、やや地味だけれども活躍するようになる長女ジェラルディンの語った、父と母親について、ふれておこう。
 スイス移住当初、マスコミの好餌となり、落ち着く暇が与えられなかった。(中略)母ウーナは父チャプリンの最良の伴侶だった。よき話相手であり、秘書であり、精神安定のペースメーカーであり、料理・衣装から家政にすぐれた腕を見せていた。(中略)世間に出たがらない母親だった。〈自立〉を望む子供たちと、家庭にあって〈偉大すぎる独裁者〉チャプリンの中にたって調整に苦労していたようだ。
 父親としてのチャプリンは、パントマイムやブラック・ユーモアが得意で、子供たちにしてみせた。子供たちには大学を出て医者か弁護士になることを期待していた。チャプリンは語学が苦手で、ジェラルディンがスペイン語のできることを自慢していた。そして、多くの父親のように、子供たちに何かしてやることをたのしみにしていた。有名人としてのチャプリンは、ファンの殺到をうとましそうにしながらも、実は誰にも気付かれなかったりすると落胆していた。芸術家など有名人に会うことも楽しみであったという」

・「チャプリンは、バスター・キートンの芸がうまくて、うらやましいと若いときからずっと思っていたこと、映画製作中はいらいらするので、時々かんしゃくをぶつけさせてくれる秘書が必要なことなどを話した。チャプリンの場合、監督業だけにとどまらない。製作、シナリオ、主演、監督、音楽から、公開するまでの仕事をもチャプリンがしたのだから、かんしゃくを受けるほうはさぞかし大変なことだろう」

・「チャプリンは、
『近ごろどうも太りすぎたようだから運動に歩きたい』
と、人通りの少なくなったセント・ジェームズ街をバッキンガム宮殿の方へ歩いていった。
 このとき64歳、おそらくその後ろ姿には、『独裁者』以降の闘いを終えたチャプリンの安らぎと『ライムライト』で見せた初老の鬱屈した心理状態から立ち直った影があったはずである」(また明日へ続きます……)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto