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千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その6

2018-01-16 05:35:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「チャプリンの見物予定は知らされていた。鵜匠は意気込み、最後ははなやかに総がらみの鵜飼いを見せた。六隻の鵜舟が川幅いっぱいに横にならび、『ホウホウ』の掛け声で狩り下る。闇の中に詩情が漂った。この情景はながくチャプリンの心に残った」

・「(作家武田麟太郎が)『自分は一介の日本の小説家だが、日本の貧しい不運な人びとのための芸術家であろうとしている。そして、その人びとはまた貴下の映画をよく好んで涙を流して悦んでいる』
 と、やや興奮して、どもりながら述べた。
 『ふむふむ』
 とチャプリンはうなずいた。チャプリンは差し出された手を握りかえしてから、こんどはぺらぺらとしゃべった。
 しかし友人は、もうこの世界的な芸術家が何を言っているのか、ほとんど理解ができないまま、ただ、チャプリンがとてもよろこんでいるらしい風と、情熱的に何か訴えたいところのあったことを知った。親身な対応が身に染みた」

・「第一次大戦末期、『担え銃』で〈世界に平和を、人類に善意を〉と結んだチャプリンは、第二次大戦勃発直後、それを拡大、強調したような『偉大な独裁者』(中略)を製作した。アメリカ公開は、1940年10月15日。アメリカはまだ対独戦に加わっていない。このためドイツ人の多いシカゴではボイコットされたという」

・「その『独裁者』のラストシーンでチャプリンは独裁を否定、人種的民族主義を拒否、殺戮や機械化された人類に友愛と自由を説き、国境をこえた自由を説き、進歩、民主主義、希望を訴えた六分間の、映画史上、おそらく内容と説得力において空前の演説をした」

・「『チャプリンの初めてのトーキー映画“The Great Dictator(「独裁者」”)(ユナイト映画、例によって自分で脚本を書き、監督も制作もやっている)は(中略)ひどく後味が悪い映画だった。(中略)ヒットラーの政策を何か批判したつもりかもしれないが、ドイツの今日の躍進の歴史的な意味と必然を理解しようともせず、もう頭からやっつけ、揶揄する態度なのである。結局天にお唾(つばき)をするような結果に陥っている』
 これは作家高見順が1941年、旅行中のジャワ(インドネシア)で『独裁者』を見た時の同時代の批判だ。
 太平洋戦争はその年の暮れの12月8日に始まった。
 『独裁者』の日本公開はこれから二十年後の1960年へと遅れた。
 読売新聞は『不朽の諷刺芸術』、朝日新聞は『チャプリンの名演技』『鋭い風刺』『構成の妙』、毎日新聞は『暴力否定の強い感動』と絶賛した。(中略)
 『天に唾した』のは高見順の方となった。(中略)高見は敗戦後の上映に際して、自己批判をすることになる」

・「アメリカとチャプリンの関係は、1941年1月のルーズベルト大統領三選の大統領就任祝賀会式招待と、そこでチャプリンがおこなった『独裁者』の演説を引用したスピーチがハイライトだった、と長男のチャプルズ・チャプリン・ジュニアは見ている。(中略)。
 反ファシズムの共同戦線で統一していたアメリカなどと観ている。(中略) 
 反ファシズムの共同戦線で統一していたアメリカなどとソ連との新しい敵対関係いわゆる冷戦がはじまり、そのなかで、1946年『殺人狂時代』を製作、完成させて、1947年4月11日に、アメリカで公開した」

・「チャプリンの人生は、大きく分けると、四つの時代を生きていたことになるはずだ。その壮年時代の、世界恐慌とともにやってきたトーキーとそれ以降の時代を生き抜いた二十年間に、『モダンタイムス』『独裁者』を世界に問うた。この時代の総決算が『殺人狂時代』だろう」

・「死刑囚として死んだ男が、自分の死んだいきさつを語るという出だしからブラック・ユーモアのセンス、ギャグとドラマの緊密なこと、対話と場面の複雑な意味合い、表情のゾッとさせるほどの表現力(笑い顔がこれほど怖い映画はない)、個々の挿話の変化にとんだ演出、戦後世界への悲観的な展望と、チャプリンの作家、監督、俳優としての才能が結集して、万華鏡としてここにきわまったと称賛したいほどのできばえである」

・「『チャプリンのユーモアのセンスはしばしば観客に先行していたし、1947年の公衆は〈青髭〉を主題としたこの作品のブラック・ユーモアに準備できていなかった』と、歴史的評価がくだされ、『ムッシュ・ヴェルドゥ(「殺人狂時代」)』はチャプリンの最初の財政上の失敗であり、その名声が最低にいたった作品であって、チャプリンは忘れられていった。しかし、チャプリンの微妙な喜劇的演技術はおそらく最高の演技をしめしていた』と、イギリスの映画事典『オックスフォード・フィルム・コンパニオン』が正確に評価している」(また明日へ続きます……)

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千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その5

2018-01-15 05:33:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「映画(『モダンタイムズ』)のインパクトは強かった。工場の門での労働者たちの最初のシーンで、産業時代と大量生産への人間の従属を諷刺し、羊のショットを挿入する。このシーンはドイツとイタリアでは共産党員の“傾向”として焼き取られ、アメリカでは企業家を明らかに憤激させたと、イギリスの映画事典『オックスフォード・フィルム・コンパニオン』は回顧して解説している」

・「これが、荒井貞夫ら陸軍の一派閥、皇道派の青年将校が、『昭和維新』『尊皇討奸』を唱えて国家改造を武力蜂起ではかった二・二六事件である。陸軍上層部はクーデターが天皇・海軍・政財界の指示を得られないと見て、これを鎮圧して皇道派を粛正した。この事件をきっかけに、陸軍の一派、政治・経済・思想の統制による合法的権力確立をめざす統制派は、寺内寿一陸軍大臣を中心に実権を握り、軍指導国家体制、日本のファシズムの体制をととのえていくことになる」

・「チャプリン『葉桜を知っているかって? ぼくは日本が大好きですから、いろいろ知っていますよ』
 そう言って、また、
『菊五郎氏が「鏡獅子」を撮って、それが渡米したってね、ぜひ見たいものです。(中略)』
 これは驚いた。『鏡獅子』は、六代目菊五郎の名人芸に惚れた小津安二郎が、歌舞伎の海外普及に熱心だった菊五郎の踊りを歌舞伎座で撮影した作品である。1935年に撮影、翌36年完成した。菊五郎が試写会での評判が悪いと聞いて公開を嫌がったため、一般には公開しなかった。小津らしい品のいい記録映画であり、小津のただ一本の記録映画だ。これをチャプリンが知っていたとは驚く」

・「もうひとり、チャプリンが名をあげたドイツの監督アーノルト・ファンク。日本映画の世界への道を打開していた川喜多長政の招きで、二月に来日していた」

・「『モダンタイムス』のようなサウンド映画も、トーキーに遅れた日本映画でさえ、ほとんどトーキーに取って代われれていた。サイレント映画の時代は歴史のかなたへ姿を消しつつあった。それに代わって、フランスの詩的リアリズム映画の全盛時代となり、また日本でもリアリズム映画の勃興する時代を迎えていた」

・チャプリンは(中略)上野美術館で帝展をみた。
『帝展はまったく立派だ。素晴らしい、私どもは日本から種々学ぶものがある』
 というのが新聞へのコメント。チャプリンは絵が好きだ」

・「『よほどこの神戸の明るさが気に入っているらしい』
 これが米森秘書の感想だった。神戸は石英粗面岩の町である。これが明るさの理由だ」

・「コクトーはチャプリンと同じ1889年生まれである」

・(コクトー)「『乗船した鹿島丸の船室を誰かノックする。あけるとチャプリン君だったので面食らったり、喜んだりしたが、僕は英語がダメ、チャプリン君はフランス語がダメだが、おたがいに芸術家だから手真似で通じ、いろんな話もできて愉快だった。神戸に入港したとき、二本の軍艦が入港していたが、色といい形といい実に立派な堂々たるもので、世界のどこの港に持っていっても日本の軍艦だとわかる特質がある。しかしチャプリン君の同伴者ゴダード嬢はその軍艦を見ないので、なぜ見ないかと聞くと、私はパリの最近の衣装を見た方がいいと言った。女性は軍艦より衣装が大事らしい』」

・「波止場でコクトーは、
『日本には大きな期待をもっているが、滞在日数がわずかなので残念だ。ジュール・ヴェルヌの百周年で、新聞記者と「八十日間世界一周』(原作1873年)が可能かどうか論争になって、賭けをした。3月29日にパリを出発、パリ・ソアール紙が旅費一切をもつこと、敗れれば原稿料なしで世界旅行記を書くこと』
 だと、打ち明けている。
 ちなみに(中略)イキな企画ではないか。コクトーは所定の6月17日に無事にパリに到着。翌年『僕の初旅(八十日間世界一周)』を刊行した。同じ1937年、堀口大学によって邦訳されている。こののちコクトーは、シナリオライター、俳優としても活躍したが、監督として名をなしたのは、第二次大戦後である。『美女と野獣』『双頭の鷲』『恐るべき親たち』『オルフェ』を監督、独自の神話のようなファンタジーに、フランス映画の一つの系譜を浮かび上がらせた。パリの戦後の廃墟のリアリティをふんだんに使った『オルフェ』は地下世界の悪夢というべきイメージがほとばしり出た傑作だった」

・「『チャプリンは仕事が好きだ。それにポーレットも好きなので、彼はこれも仕事にしている。これ以外はすべて、彼にはうるさい。誰かが仕事の邪魔をするとさっそく彼は疲労し、欠伸をし、機嫌が悪くなり、目のかがやきが消える』」(また明日へ続きます……)

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千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その4

2018-01-14 06:34:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「(前略)兄シドニー・チャプリンは、弟について、
 『チャーリーの処世の信条は、やはり“努力”と“忍耐”でしょうね。かれの映画をご覧下さい。みすぼらしいが満幅の闘志を抱いた人間がかならず顔を出している。ファイティング・スピリッツ、それは人生におけるかれの真実の姿です。かれは実際精根を尽くして果てるまで働きます』
 と日本で述べた。この言葉がチャプリンの過去と将来とを示していたようだ。もし、チャプリンが『街の灯』を最後にサイレントの時代が終わったと感じて、映画作りを止めてしまったとすると、歴史的評価は大きく後退したことは間違いない」

・「日本でチャプリン暗殺計画が一般に知られたのは、1933年7月25日、横須賀の海軍東京軍法会議の公判二日目だった」

・「1936年に、映画監督の伊丹万作もまた、『巴里の屋根の下』(1930、日本公開は1931)、『百万(ル・ミリオン)』(1931、同年に日本公開)、『自由を我等に』(1931、日本では1932)、『巴里祭』(1932、日本では1933)など、パリ下町のオペレッタと風刺喜劇でトーキーを切り開いてきた監督ルネ・クレールと比較して、チャプリンに死亡宣告をした。
 『最後の喜劇俳優、チャプリン。最初の喜劇監督、クレエル。
  悲劇的要素で持っている喜劇、チャプリン。喜劇だけで最高の椅子を勝ち得た、クレエル。
  ゲテ物、チャプリン。本場物、クレエル。
  世界で一番頑迷なトオキイ反対論者(彼が明治維新に遭遇していたら明治三十年頃まで丁(ちょん)まげをつけていたにちがいない)チャプリン。
  世界中で一番良くトオキイを飼いならした人間、クレエル。
  感傷派代表、チャプリン。理論派代表、クレエル』」

・「(前略)(『モダンタイムズ』は)1920年代に芸術と認められた映画が、世界恐慌の今、それぞれ危機をかかえた国々で、どう〈機械〉というものをとらえたかという観点からみると、こういうことになるだろう。
 まず、その筆頭は、1927年にドイツで公開され、29年に日本に登場したフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』だろう。この作品は、20世紀のモダナイゼーションの危機を、映像によって見せた壮大な幕開きと呼ぶのにふさわしい、威圧する巨大な高層建築、独裁者、巨大な機械を操作するロボットにされた地下の労働者、周囲の労働者地区……。人びとの労働は機械のもとで、もの化されている。ドイツにあっては、第一次大戦後のインフレーションが中産階級の没落を招いた結果、独裁者と労働者という二極に極端に分解していった。その様子が『メトロポリス』でまざまざと映しだされていた」

・「ソヴィエトで1929年に公開され、日本に31年に登場した、エイゼンシュテイン監督『全線』は、スターリンによる農業の集団化という、ソヴィエトの新五ヵ年計画を反映していた。機械は『全線』にあってもひとつの大きな主役であった。一台の牛乳のクリーム分離機が導入されるシーンの歓喜は、サイレント映画末期のモンタージュの饗宴でもあった。農民の素朴なさまやモンタージュのおおげさなこと。ラストの個人農地の境界線をトラクターが心地良さそうに破壊していくシーンも印象的だ。たとえ、その破壊が生産に寄与したものかどうか不明としても」

・「フランス公開が1931年、日本公開が翌32年のルネ・クレール監督『自由を我等に』は、刑務所の木馬作りと工場でのレコード・プレイヤー作りから逃げる二人が主人公。服務者と社長からともに浮浪者となった二人は、工場労働者とコーラスする。ユートピアというより、アナーキーなヴィジョン、モティーフがあり、個人主義と友情を優先するフランス的な庶民性が濃い。『自由を我等に』が、ルネ・クレールの好んで止まないスラプスティック仕立てなことは、アナーキーなヴィジョンとつながっていたはずだ」

・「アメリカからはチャプリンの『モダンダイムズ』だ。万年失業のチャーリーは労働運動と間違えられ、ぶた箱へ。やっと就職して機械工になると、ベルト・コンベヤーのシステムに組み込まれる。ここが映画の見せ場である。巨大機械とのシゴトは自分が機械になることだった。これをむずかしくいうと〈もの化〉という(今日ではあらゆる領域にこの人間のもの化がひろがっている)。(中略)
 失業か、労働運動か、機械化=もの化か、浮浪し放浪するか、状況は劇画化され、そのために選択肢がかぎられ、逆にインパクトは鮮明となっている。『メトロポリス』のように秘密の集団を作って決起することはしない。ノイローゼを引き起こしたもの化から逃走、失業し、浮浪者となって、放浪の旅にでる」(また明日へ続きます……)

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千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その3

2018-01-13 05:13:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「明治維新から十年後の1878年、箱根宮ノ下藤屋を買い取った山口仙之助は、これを富士屋ホテルと改称、外人専門ホテルとして開業した。山口は福沢諭吉門下でアメリカ帰りであった。1890年、自家発電所を設け、1914年に山口正造が自動車の会社を設立。1919年から箱根---横浜グランドホテル間を土曜日に限って一往復した。片道3時間だった。接客、食事はずば抜けており、独特な建物とともに、洋風ホテルとして名声を世界に広めていた」

・「『箱根の風景は、カリフォルニア付近に類似を求めると、アロウ・ヘッドでは、あの木立の茂みの中にも湿気などはいささかも感じられず、したがって青葉を吹く風も乾燥して生温かい気がする』
 二十九日、三十日と、チャプリンは降りこめられた箱根で、乾いたカリフォルニアからハリウッドを想起していた」

・「ぼくは箱根において新緑の美しさなるものをしみじみと見た。いろんな種類の木が若芽を出しているが、木の種類によって、その色がそれぞれ違っている。つまり、それぞれの木がその個性を若芽によって表現しているのだ。これがアメリカだと、オーク地帯にはオークのみが何千里となく生え続く」

・「日本には松が多いと聞いてきた。だが、箱根などを見ていると、松もあるにはあるけれども、必ずしもそれが植物帯のキイノートをなしているとはいえない。実に種々雑多の樹木が混生し、寄生している。
アメリカなどの植物を、自然の大量生産とすれば、日本の手工業的な小規模の生産である。そしてまったく自然のミニチュアという気がする。私はそこに可憐美とも名づくべきものを味わった」

・「六時、ホテルに犬養健が、『このまま悪印象をもたせて、帰すことはできない』と訪ねてきた。
 チャップリンは『世界じゅうが悲しんだろう』と、首相犬養毅の兇変になんども同情の言葉を述べた。犬養は『東洋の道徳は、そんな場合にもいたずらに悲しまず憎まず、物事の真相を静かに眺めていることなんです』と答えた」

・「チャプリン『運命の不可抗力に対する物静かなあきらめ、あの東洋の精神はよく分かります。ぼくの映画のテーマにも取り入れてあるのです。『巴里の女性』のラスト・シーンを見ましたか? あれがそうです。落ち着いた物静かなあきらめ、東洋の精神、ぼくの芸術です』」

・「チャプリン『ひとつ強い印象があるんです。家のなかに入ってみますと、部屋が整頓され、リファインされて、実にきれいなんですね。ところが、どうしてああ部屋の外の街路などはホコリまみれで、モヤッとした彩りなんでしょう』」
 私的空間は美しく、公的空間はよごれているという印象。犬養に応えが見つからなかった」

・「犬養は浜町のお座敷てんぷら、花長へ招待した。(中略)チャプリンは海老を三十本、キス四枚を食べ、日本酒をおちょこで四杯のんでご機嫌だった」

・「『日本では、ご存知の通り、じゅうぶんに美人を語り得るほど女性を見てはいない。ただわずかに接した範囲、たとえば、てんぷら屋の女中や、女将(おかみ)について言っても、こんなにやさしい心づかいのよく行きとどくハートは、おそらくローマ時代の美しくて高貴だった選ばれたる女奴隷のなかにも見いだされないものであろう。その、対者に対する思いやりは、まさしくひとつも驚異だった』」

・「永田(東京市長)『私はね、九年前の関東大震災のときも市長をしていましたが、地震でも市長室の椅子から離れなかったというのが自慢なんですよ』
 チャプリン『そうですか。あなたの顔を見ていると平静だったことがわかる。ユーモアリストは物に動じないものです』」

・「チャプリン『ええ、あそこにバリ島という素敵な楽しい島がありますよ。素朴でとてもいい。平和ですしね。私はとても気に入りました。(中略)平和郷なので政策の上でも教えられるところがあるでしょう』

・「最初の日への旅の滞在時間は十九日と六時間だった。六十年後の今日、チャプリンをシアトルへと運んだ氷川丸は、横浜山下公園に係留されている。氷川丸は戦中病院船となり、やがて、1960年に船籍を除籍されて、今日にいたった」

・「こうして、チャプリンは去ったが、来日中の発言や行動、その信念は、日本人に通じたのかどうか。来日によるチャプリン・ブームは、広く見ると1910年代からの民主主義と国際主義の風潮のフィナーレにあたっていただろう。民主主義は軍国主義へ、国際主義は民族主義へと世界恐慌を境に変貌していく。その最後の狭間(はざま)に沸き起こったブームだった。
 旅は一期一会であり、チャプリンはその変貌のさなかに日本を疾走した。
 チャプリンの世界一周旅行は終わり、日本とチャプリンの行く手は別の方向をたどることになるのである」(また明日へ続きます……)

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千葉伸夫『チャプリンが日本を走った』その2

2018-01-12 05:41:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
・「1921年、最初のヨーロッパからの旅の帰途、ニューヨークでシンシン刑務所をおとずれた。面会室で老婆の手をにぎりしめるひとりの囚人。父母の対話にしがみついている子、子の笑い声は救いだった。独房を見て自分なら発狂するだろうと思う。囚人になんとあいさつしたものか迷い、得意のギャグを披露しておどけて見せた。死刑執行室の陰惨はことばにならない。庭を監視人とひとりの男が歩いていた。処刑前の散策だった。男がチャプリンの方に来た。血の凍る瞬間だった。その印象は消えることがなかった。若いアイルランド独立運動家に会ったとき、会えてよかったと言われて、心のひらかれる思いがしたと『僕の旅』に書いている」

・「こんどの旅に出る前も、シンシン刑務所で千八百人の受刑者に『街の灯』を上映して慰問してから旅に出た。かれらを感動させることができないならば、だれを感動させえることができるだろうか、という思いからだった」

・「『旅行記』によると、ロンドンでは、ロンドン中央刑事裁判所で、作家のオスカー・ワイルドが幽閉されていたワーンズヘス刑務所を訪ねた。女性が色男(情人)の顔に硫酸をかけた事件の裁判を見物した。ロンドンの刑務所の特質は、囚人に沈黙を強いることであり、チャプリンにはとても理解しがたい措置だった。死刑囚監房と死刑室も見た」

・「小菅刑務所は葛飾区の西端、荒川と綾瀬川の間の田野に1930年に建てられた。蒲原重雄の設計による白鳥が翔び立つ姿をデザインしたもので、今日では日本の名建築にあげられている。時計台の中央尖塔の下、X字型の中央舎屋、廻廊の両端にY字型の三階建ての威容だった。バープ・チコン・システム、セセッション式といわれる。(中略)
 チャプリン『ここの建築設計は誰がしたのですか?』
 香椎『日本人によって設計その他全部なされました』
 チャプリン『いや、実に立派なものですね。私は日本にこんな立派なプリズンがあろうとは思いませんでした』
 囚人がチャプリンに礼をして行く。
 チャプリン『これは礼儀正しいですね。囚人の内訳は?』
 香椎『強盗333名、殺人247名、窃盗180名、その他。全員十年以上の刑期です』」

・「監房、教誨室、自動車修理工場、木工場、炊事場、病舎と歩く。
 チャプリン『猥褻犯はどうですか? いやいやご遠慮なく』
 香椎『十名です』
 チャプリン『いや、ありがとう。ぼくはどこの国のプリズンに行っても、この質問を出します。この犯罪の割合でその国の国民性が分かりますから』
 工場へまわって、『頭を使う機械の扱いが巧い』と言って感心する。労働時間の割合も聞いた。
 チャプリン『昨年の死亡率は?』
 香椎『昭和六年度はただのひとりです』
 屋上に出たチャプリンは、
 『明るくて気持ちがいい、シンシン刑務所より立派だね。実によい設備だ。ホテルのぼくらの部屋の方が余程陰気だ、兄さん、ひとつ入ったら』と感心した」

・「(前略)この建築は、監房の錠前、窓格子に至るまで、一切囚人の手によって作られ、十年以上の重罪犯のみ収容している」

・「午前十時に起きて、十一時半に、芝の伊皿子(いさらご)の実業家で裏千家・堀越角次郎邸へ向かった。(中略)チャプリンは茶道に興味津々だった。(中略)チャプリンは堀越梅子夫人にならって、ふくさを手に、お弟子さんの令嬢たちに囲まれてその流儀を真似てみた」

・「ふたたびチャプリンは中世日本の旅に出た。行き先は、和田堀町の大蔵流狂言方・山本東次郎邸である。山本が演じた能狂言は『鎌腹』。

・「チャプリンは、太郎が自殺の方法に工夫、思案するアクションにいたく満足した。
『まことに結構……とにかく、もっとも洗練された芸術だと思います。あの無表情は……』」

。「『お茶こそは、なににもまして古い日の日本人の人となりと精神を表していると思いました。茶道は人生の哲理を表わし、素朴で単純な技術をもって人間の勘定を悦ばし、日常茶を飲むという日本人の習慣をもって、生活の技術を表現しているのです。(中略)お茶を立てている間は、こそとの音もしないのです。身振りもなにもいらない。まったく静寂につつまれた空気のなかで眺めるのです。(中略)人生の最大の目的が美の追究であるとすれば、日常のありふれた事柄にも美を追究することは、きわめて道理にかなったことではあるまいか』」

・「五月二十七日、午後二時半、帝国ホテルを出たチャプリン一行は、ビュイックを飛ばして、(中略)五時間の小旅行のあと、七時半、宮ノ下の富士屋ホテルに到着した。チャプリンはホテルの山口支配人らに迎えられ、ニッコリほほえんで四十五号室に消えた。(私事ですが、私の4つ下の妹は、箱根の富士屋ホテルで盛大な結婚式を挙げました。夫側の親戚が新潟からバスで大挙して押し寄せ、結婚式の後の宴では飲めや歌えの大騒ぎだったのを思い出しました。)(また明日へ続きます……)

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