先日友人から聞いた話を思い出しブログにのせ、みなさまに問題提起することにしました。
このお正月
教育者の友人と話す機会がありました。
その友人は
以前、別の友人と教育について意見を戦わせたことがあり、その友人の意見と自分の意見がまっこうから対立してしまったまま議論は終わり、自分の考えを理解してもらうことができず残念だったと話してくれました。
そのテーマは、大まかに言うと
教育に結果主義をもっと取り入れるべきか。
という内容。
何かに取り組むとき、完璧に近い結果をもたらすことを目指さなければ人は成長しない。
教育においても失敗は絶対に許されないというぐらいの厳しさが必要である。
結果主義は、教育者に対しても、教育をうける立場の子供たちに対しても必要ということ。
友人の一人が主張したそうです。
それに対し教育者の友人は、
教育者というものは、あくまでも教え子の成長過程を重視したい。失敗を体験しながら、すこしずつ成長していけば良い。
結果よりも経過が大事である。時間をかけて、大人も、子供とともに成長していく過程こそが尊い。
という反論しました。
しかし結局平行線のままであったそうです。
この議論は非常に深い、というか考えさせられます。
社会においては、職場では、人は、より完成度の高い成果が要求されます。かなり厳しい現実に皆直面しています。だからこそ、一人前に社会に通用する大人に育ってもらいたいと親は願うのです。幼いころから、目標を掲げて努力することは大切です。しかし目標を達成が必至というやり方はよくないと私は思います。教育者も教育を受ける子供も結果にしばられたとしたら、逆にのびのび出来きず、自分の実力を発揮できないのではないでしょうか?結果を期待するあまり、起きた問題例が大阪の高校でのバスケットを指導した教師の体罰による生徒の自殺でした。
実際に私の子供に聞いてみました。有名な科学者の先生が
経過を重視しない結果は意味がない。
このように話されていたよ。と教えてくれました。失敗の繰り返しを含めての経過の連続が、より精度の高い結果をもたらすのだそうです。結果がすべてなら、スタップ細胞の時だって、できましたの一言で終わりのはずです。しかし、できたの一言では終わりませんでした。どういう手順で、どういう経過を経てできたのかがはっきりしなければ、周りの科学者をなっとくさせることはできないのです。
結果主義の人がもし今子育て中であれば、やはり結果主義だけでは教育は語れないという私の意見にも耳を貸してもらいたいと思います。
私の同級生のひとりが、50歳をすぎてから、フルマラソンにチャレンジし始め。一番最初のチャレンジときは、不慮の故障で途中棄権したももの、そのあとからは、完走しつづけています。40キロを時間内に走るという厳しい目標は、簡単に達成することはできません。人は完走した彼女をほめるけれど、それまでの地道な努力は半端ではありません。何年もかけて、トレーニングを重ね、小さい大会に出場してタイムを縮めてきました。そうそう誰でもできることではないのです。私としては壮大な目標を立てるだけですばらしいとおもいます。
大切なのは、目標に向かって努力するエネルギーではないでしょうか? 力いっぱい努力できる人はまちがいなく、成長します。教育にもとめられるのは、やりたいことを見つけて、目標を決めて、目標に向かって情熱を注ぐ力を育てることなのです。そして実はそれが一番むずかしいことなのではないでしょうか。
マラソンの友人が
努力するエネルギーにめげない心も加えてね。めげんかったら、いつかできるものなんよ。
ぽつり話してくれました。
皆様は、いかがお考えでしょうか?