どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

ありがとう

2014年08月25日 | 日記
今日は私の誕生日である

それは別にどうでもいい

先ほど姉から電話があった

お互い忙しい生活で 姉はメールなどもあまりしないし 電話で長話なんてことも滅多に無い

私から手紙を送っても 返事は滅多に来たことが無い

私は子供のころから姉が大好きで 駄目なところも沢山知っているけれど でも 最高の姉で こんな人の妹で良かったといつも思っている

どちらかというと私のほうがしっかり者で 親に心配をかけない子供だったとは思うけれど 私は 姉のおおらかさにどれだけ助けられてきたか


ほとんど鳴らない私の携帯だが 今日は姉からのメールがあるかと期待していた

それが無くて 忙しいのだろうと思っていたけれど 夜の8時過ぎに電話があった


私へのお祝いの言葉はそこそこに 近況報告

元気そうで良かった

職場でもまだまだ期待されているようで 嬉しかった

私のように 単刀直入 自分の気持ちをあからさまに表現するタイプではない

半分は私と同じ精神で 半分は違う

でも そこから多くの事を学んだのは確か


誕生日なんて 年齢を経るとうれしくもないという人もいる

私は 自分がこの歳まで生きてきたという事実に喜んでいるわけではない

お祝いの言葉なんて無くてもいい

自分が今まで生きてきた間に関わってくれたすべての人に 家族や親せきはもちろん 会ったこともない過去の人も含めて(文学や芸術や科学や哲学や・・・) 近所の人や知り合った仲間や 名前も知らず会話した人も すべての人に感謝し 出会いに喜んでいる

これは本当のこと

私を支えてくれたあらゆるもの 人であれ物であれ自然であれ すべてに支えられて私は今ここにいる

今の私がある

それを実感するのが あらためて感謝するのが 今日 誕生日なのだ

笑ってくれてけっこう

でも もう一度言う

ありがとう
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私の食生活

2014年08月24日 | 日記
昨年までの夏休みは 4~5日の旅とその整理 家のことなどをするとあっという間に過ぎ去ってしまったものだったが 今年はさすがに長く感じた

9日間も休んだのだから もう飽きた 仕事をしたい という気持ちになるのかと思ったがまったくそんなことはなく つくづくダルダルするのが好きな自分にあきれた

それでもいつもの月曜に比べたら何か新鮮な気持ちがしたし 仲間と一緒に仕事をする毎日も悪くないものだと思ったりもした

定年退職後の生活を想定しながらの今年の夏休みではあったのだが これで正しい老人となり 美しい老後を送っていけるのだろうかという不安は残った

よほどの覚悟と計画とある種の信念を持って過ごしていかねば 無為な時を送ることになると予想できる

家族のある人はその関係の中でさまざまな活動が生まれるだろうし それはそれでとても価値のあることだが 私のように一人で暮らすものは 自分で自分をプロデュースしていかない限り何も生み出せないと思い知った夏休みだった


さて ある人のブログのコメントに「私が何を食べているのか 謎だ」とあった

そこにコメントを残そうとしたのだが あまりに長くなりそうなので 今日はそれをここに書く

まず 朝は必ず自宅でご飯(食事をしないで家を出ることはほとんど無い)

味噌汁(冬にはけんちんや煮込みうどんのこともある)とハム・ソーセージ・ウィンナーか豚肉・牛肉を焼いたものに 卵がつくこともあるし 野菜のソテーがつくこともある

休日は 肉ではなく お揚げさんをこんがり焼いたもの あるいは干物 そして納豆や縮緬雑魚 その程度


会社での昼食の量はかなり少ない

みんなからはやる気の無い昼食だと言われるが お腹が適度に満たされればいいだけの食事だ


問題は 夜

今の季節は まず鶴岡産の「だだちゃ豆」

朝に用意して冷蔵庫に入れておければ最高なのだが それができなかった時はホカホカの枝豆を食べることになる

肉を焼いて野菜炒め 大根(これだけはほぼいつも冷蔵庫にある)サラダか大根おろし(プラス雑魚) 厚揚げの網焼き 野菜サラダ 焼き鳥 焼き豚 お刺身 即席漬物 沢庵 たこ焼き・餃子(冷凍) これらの一品から幾品かがその時々の状況でテーブルにのることが多い

10分以内調理?が私の基本

これにビールがつく

週明けならば 休日に作った料理が残っていることもある(ラッキー!)


週末はどうかというと 昼食はカット

以下は普段の夕食に加えて 私がよく作るもの

野菜(人参と牛蒡・ハス)の金平 牛と牛蒡の味噌煮 生のスルメ烏賊をお造りにしたり塩辛を作ったり ハラワタと混ぜて焼いたりもする

すき焼き 肉じゃが 酢の物 アサリのむき身(生)と焼き豆腐(長ネギたっぷり)の味噌鍋 野菜(ほうれん草やオクラなど)のお浸しあるいは胡麻和え 魚のカマ焼き 市販の生地に自分でトッピングしたピザ 筍の煮物 しっかりした椎茸の網焼き(かんきつ類を絞るのがポイント) とろろ汁 酢豚 切り干し大根の煮物 サザエの網焼き ひじきの煮物 牛肉カルビ(焼き) いろいろな野菜のソテー タラコと白滝炒め(和え?) 味噌田楽(こんにゃく・大根) ピーマンと牛肉炒め 豚レバーの煮物 魚の煮物(キンメダイかナメタカレイ) 納豆詰めお揚げさんの網焼き おから(沢山出来るのでちょっと困るが)

少々のアレンジや具材が変わることもあるが 基本こんなものか(プラス ビール)


つまり 麺類やパスタの類はまず無い

カレーやシチュー グラタンもほとんど無い

マヨネーズも使わない

ついでに言うと どんなものであれ缶コーヒーは昔から飲めない(仕方なく飲んだ本数は人生で2~3本だと思う)

ヨーグルトは好きだけれど牛乳はほとんど飲まない

生(もしくはそれに近い)肉はだめだが 馬刺しは食べる(もっとも滅多に口にする機会も無いが)

栄養は別にしても 偏ったメニューであることは間違いない

パンといえばフランスパンだし 甘いパンは食べない

サンドウィッチも滅多に食べないがコロッケパンやカツサンド 焼きそばパンは会社の昼食で時々食べる

鰻は苦手だし 丼物も食べない

美味しいお天麩羅は食べたいなと思うけれど 一人になってからは作らなくなった

たった一度 どうしても家庭のものが食べたくて作ったが 山のようにできてしまった

かといって惣菜屋ものは食べたくないし お店で食べるには小食の私にはちょっと不都合

お菓子は本来大好きだが スイーツと呼ばれるものはほとんど買わないことにしている

時々は食べたくもなるのだが カロリー表示を見てそっと元に戻すことが多い

コース料理も苦手で 全部並べて食べたいほうだ

フルーツは好き 炊き込みご飯も好き おこわは大好き

松花堂弁当はとっても好き(豪華なほど良い)

フレンチやイタリアンは世の中に無くてもいいけれど お寿司万歳


まだ好きなもの 苦手なものがあるように思うが 思い出せる限り書いてみた

毎日 毎週末 メニューには苦労している

これが食べたいと思うこともあれば スーパーを何周しても浮かばないこともある

惣菜コーナーを眺めても こんな味だろうなと思うとなかなか手が出ない

好きなものしか作らないのはもちろんだが それなりに栄養もカロリーも考えてはいるつもりだ

それにしても 子供の頃は椎茸は大嫌いだったくせに(松茸は食べられたのに)今では大好きだし おからなんておかずじゃないと思っていたのにいつのまにか美味しいと思うようになったし 子供の頃に比べたら 食材としても料理としても苦手なものはほとんど無くなったのが驚きである

母にはいつも食事の事で何かしら言われたけれど それでも無理に食べさせるということもなかったのは 案外それはそれで良かったのかなと思う

特別なもの(たとえば鰻)や特別な時を除いて 外食をしたり店屋物をとったりする家ではなく 家庭の味が一番という家に育ったせいなのか それともそもそも私の食欲というものが貧相なのか 確かな理由が無い限り(友人との楽しい食事とか お寿司であるとか あるいは空腹でどうしようもないとか) 納得できない食事を外でするよりも家で簡単なものを作ってでも食べたほうがよいと思う生活で そういうところは我ながらこだわりがあって嫌だと思うところだ

何事にもこだわりの無い人は 私にはとても大きな人間に見えるからだ

こんな私だから 大きく育たなかったのかもしれないと この年になって思う

 
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夏の記憶―横浜(9) またね 横浜!

2014年08月17日 | 日記
通称キーケン 旧横浜生糸検査所倉庫事務所 横浜日本郵船ビルと見ながら 最後は(やっと最後です)クイーンの塔まで歩く

この時 地図を見ながら立ち止まっていたら 初老の男性が「どこを探しているの?私 地元だからどこでもわかるよ」と声をかけてくれた

前にも書いたがこうして声をかけてくれるのは 皆さん おせっかいというよりもこの街が自慢なんだろうなと思う


なんとなく撮った日本郵船ビル(今は日本郵船歴史博物館)


クイーンの塔の玄関部分


すでに雨がぽつぽつと落ち始め 夕立にもなりそうな すぐに上がりそうでもあるような微妙な具合

雨宿りに飛び込めるような店も近くには見当たらず まだまだ見たいところも もう一度見ておきたいところもあったのだが そのまま家に帰ることに決めた

4時過ぎ 始発駅の元町・中華街から電車に乗る

これ1本で家まで乗り換えしなくて良いのをいいことに 1時間20分ほどの車内での時間のほとんどを眠って過ごした


今回 なるべくオートでは写真を撮らないことを決めていた

もっと絞りやシャッター速度などを変えることを勉強したいと思うのだが 一年で数回しか撮影しないとあってはとても上達は無理なこと

初心者のスタートラインからいつまでたっても進めないことを反省


横浜デビューは 私が7歳ごろだったと思う

高島町の親戚の家に父母と一緒に行った時だ

そそっかしい父は 親戚の家に持参するはずだったお土産を電車の網棚に置き忘れた

山下公園や氷川丸(多分そうだと)にも連れて行ってくれたのを なんとなく覚えているが 一番の記憶はその家で初めてコカ・コーラを飲んだことだ

飲み物といえばサイダー カルピス ジュースといったものしか知らなかった私は その薬のような味にびっくりして なんて不味い飲み物なんだろうと思ったことを今もはっきり覚えている

それから 姉と 友達と 一人でと 数えるほどではあるにせよ出かけたことはあったが 今回 初めて街のおおよそを掴むことができた


開港と開国 近代から現代にかけての日本の歩みは日本各地 あらゆるところで見られるが 横浜はそれを最前線で見てきた街であるかもしれない

近代建築でいえば それが生き残るかどうかはそれ自体の価値によるが 施主自体の持つ運命のようなものもあるように思える

企業が所有する建築物であれば 社会変化によって業績不振になり 廃業になることもある

経済や産業の変化がそのまま建築にも反映される

それを知るのも面白いことだが 近代建築は とりわけ都市の中にあってはスパイスでもあり 歴史を語る顔でもある

そして 美しい

今回見てきたものの多くはすでに何かしらの認定を受けているので そうすぐに消えるということは無いと思う

修復中で見られなかった教会なども含めて また近いうちにあの海風と潮の香りに誘われて出かけたいと考えている


恒例の夏の旅は無かったが 今年も記憶に残る夏休みとなったことに感謝
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夏の記憶―(8) 銀行と思いがけないアートとの出会い

2014年08月17日 | 日記
え~ もうしばらく続きます

「馬車道大津ビル」(旧東京海上火災保険)は簡素ですっきりとしたデザインのビルである

そしてその隣にあるのが「旧安田銀行横浜支店」 今は 東京藝術大学映像研究科の横浜キャンパスとなっている







これは見るのを楽しみにしていたものの一つだったのだが 何しろ車も人も多くて全景を撮ることができなかった

しかし 銀行っていうのは信用第一だからだろうか こうも安定感のあるというか どっしりとした大きな構えを好むのっていうのは・・・

近年であればいささかハッタリと思われてしまう面もあるだろうけれど


さて 次もまた銀行であるが 現在は県立歴史博物館として使われている「旧横浜正金銀行本店本館」である

国指定重要文化財にふさわしく その前に立つと圧倒される





中に入ってはみたものの博物館の展示物は見なかった

次回 是非ゆっくりと中をみてみたい

さて あと一つ 見たいと思っていたのもやはり銀行

これは切り取りつぎはぎだけでなく移築された建物(の一部)だが 先端部分の半円形の部分が特徴的で それが二本の道が一本になるという現在位置に実によく合っている

港町だけに船首のようにも見えて面白い



ここも大通りであり地下鉄の出入り口でもあり 信号もある場所で 人や車が入らないように写真を撮るのはとても大変だった(仕方なくトリミングした)

この先端の半円形部分が「第一銀行横浜支店」の名残である

今は「ヨコハマ創造都市センター」として アーティスト・クリエーターの制作・発表の場所 藝術を通しての国際交流 さまざまな創造的活動の支援を行う場所となっているらしい

中に入ってみた

そして 職員につかまった

いやいや つかまったというのは 作品を紹介され説明を受けてしまったのだ 心ならずも

中国・韓国・日本の若い芸術家の作品を展示してあったのだが クリエイトする情熱のようなものは感じたものの これでどれだけの人が食べていけるのだろうかと下世話なことを思ったりもした

そういった問題ではなく 自分が好きな素材で今の自分の心や思想や面白いと感じることを表現したい 

それだけのことであり それがアートかもしれないが どうもしっくりこないまま私は説明を受けていた


地下の部屋で 中国人の作品を見せられた

毛沢東の遺体をまねて 自分のそれを作った作品だった

髪も眉も全部自分のものを使って縮小版を作ったと説明され 暗い地下室で私は気持ち悪かったのだが 中国は私にとっていかに遠い国であるかを知った

赤い布をかけられたその下は裸体のようだが 毛沢東は人民服を着ていたと思う

それは意味がある表現なのか 若い彼は毛沢東を父と仰ぎ尊敬しているのだろうか

作品そのものより 中国に関してほとんど何も知らない自分を知らされた思いがしてはっとした


職員の人は見に来た人を再び案内することになり 私はお礼を言ってそこを去った

横浜トリエンナーレの一環だったのかもしれないし それを見に来たのだと思われたようで 私としてはとても建築を見たかっただけで・・・と言って断る勇気は無かったのだが こうした突然の経験もまた善しだ

さぁ 残りも少なくなってきたが なんだか雲行きも怪しくなってきたぞ
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夏の記憶―横浜(7) かさぶた?

2014年08月17日 | 日記
馬車道駅付近は近代建築のたまり場である

どちらを向いても駆け寄りたくなるものばかりだ



旧東京三菱横浜中央支店(横浜市認定歴史的建造物)のプレートがある

遡れば第百銀行横浜支店として昭和9年に建てられたものだ

実はこの建物 高層マンションを戴いている

こうした建築をどうやら「かさぶた建築」と呼ぶこともあるらしい(批判の意味が含まれているのかも)

復元や外壁の一部を利用したものなども含めて こうしたものは近年少なくない

私は建築に関しては全くのド素人で門外漢もいいところであるから こうした保存方法についてあれこれ批判はしない

勿論竣工当時そのままの姿で現役というのが何よりなのはもちろんだが 価値判断は人それぞれなのも十分承知している

ただ どう改造するのであれ ライオンの体にネズミの頭をつけるようなものだけは避けてほしいと願う

この建物(復元部分)は見てわかるように いかにも銀行らしいイオニア式オーダーを持ち その高さ(人を避けて撮ったため大きさはわからないかもしれないが3階分はある)と重厚感が圧倒的な存在感を示している 





これは日本興亜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)である



実は こうなっている

この建物の規模に見合った残し方だと私には思える

川崎財閥と関係の深い日本興亜だからこそだったのかもしれないが 解体の危機を免れることができたのは近代建築好きとしてはありがたいことと思う

ちなみに横浜市認定歴史的建造物の記念すべき第一号(昭和63年)である

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