どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

義務と権利と反省

2016年07月31日 | 日記
今日は都知事選の投票日なので またまた早起き

結果はすでに見えているような選挙だが 参加することに意義がある

食事も片付けもお風呂も済ませて 7時前に家を出る

すでに太陽は元気いっぱいだが 日陰は流れる風もあって涼しい

夏の朝の散歩は悪くない


早歩きで往復40分以上 ちょうど良い朝の散歩だ

帰宅してから 汗でしっとりした服も洗濯機に放り込んでスタートを押し お昼の冷やし中華の具を作る

習慣になった「机に向かう」をしたあと 朝食が早かったのでお昼も早めにとる

習慣というよりも これをしないと夕方から始まるご褒美がもらえないのだ

もらえないと言うよりも 有り難く嬉しく頂くことができないと言ったほうが正しいかもしれない

義務を果たしてこそ権利が得られる というか 十分言い訳がきくというか^^


午後からは 昨日読み始めた本の下巻を手に取り 何度か雨が降ったり晴れたりするたびに窓の開け閉め

それが面倒になり 窓を閉めて冷房を入れたところでやはり早めの一杯

そして寝た


目が覚めたら 始まる前から見えていた通りの選挙結果で終わっていた

ワクワクもドキドキも無い選挙にすっかりしらけきって 投票に行かない人の気持ちもわからないでもない

投票は権利であって義務ではない

義務化することには私は反対だが(誰でもいい とか 誰も嫌だとかというのが有効票になるのなら賛成するけれど どう結果に反映させるのかは責任持たない) 権利も大事なものだ

あるのが当たり前と思ってしまうが当たり前では無かった時代もあり もしも平等に与えられていなければ不当だと不満を言っているにちがいない


時々私は その日に果たした義務以上の権利を夕方のイッパイに主張する

そして翌日にはきまって 反省を求められることになる

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小さな小さな夏休み

2016年07月30日 | 日記
やっと夏らしい日になってきた

午前中机に向かうが 風があるせいか比較的過ごしやすい

午後からは横になりながら 友人が貸してくれたミステリを読み始める

読書の時間の大半が通勤時間 次点が入浴時間という生活が長かったためか 今はどちらも無くなったせいでなかなか落ち着いて読み続けることができない

それでも 今日はじっとしていても汗が流れるということもなく ひっくり返って本を読んでいると 庭から風の入ってくる午後に同じように横になりながら過ごした子供の頃の夏休みの記憶が自然と蘇ってきた


ラジオのパーソナリティもそろそろ夏休みに入り あるいはこれからという人もいるが 顔ぶれや番組内容が変更になり始めた

夏休み なんて素敵な響きなのだろう

私には親の郷里や祖父母の居る地方の場所を指す「いなか」というものが無く 夏休みに入る前に誇らしげに「いなかに行く」と同級生が言うのを聞いて いなかってなんだろ どうして私には無いのだろうと思ったことがあった

一家4人で旅行に行くということも全く無く 友人家族と一緒だったり 叔父や叔母がどこかに連れて行ってくれる程度だったが それでも夏休みは楽しいことが沢山あった

朝の蚊帳を畳むことから始まる一日(これが出来るようになった時は なんとも大人になった気がしたものだ) 涼しい午前中に宿題を済ませ とうもろこしの皮むき 枝豆をむしる手伝い 庭の水撒き お風呂の炊きつけ 

手伝いとよべるほどでは無かっただろうけれど それでも日頃は何もしないものだから そんなことも生活の学びにはなった

おやつのスイカ 友達とのプール 夜の花火 姉と戯れて叱られた眠れぬ暑い夜 夏休みだけに活躍するゴムぞうり

小さな商店とスーパーマーケットしか並んでいないまだまだ人口が少なかった町の かんかん照りで歩く人も少ない道をひとり本屋まで歩いた日々の あの熱も光も影もはっきりと思い出すことができる

  
夕方になる頃上巻を読み終えたので 冷蔵庫から残り物を引っ張り出して晩酌を始めた

今日は私の小さな小さな夏休み

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「ポンピドゥー・センター傑作展」と「バラ色の人生」

2016年07月29日 | 日記
昨日見に行った「ポンピドゥー・センター傑作展」は 1906年からポンピドゥー・センターがパリで開館される1977年までを さまざまなジャンルの芸術と「イズム」を中心に 一年ごとに一人の作家 ひと作品という構成で見せるものだった

71作品のうち 名前を知っていた人はほぼ四分の一だったので なかなか興味深く見ることができた

作品ごとに作家自身の芸術に対する言葉が掲げられている

自分が作品を作る時の姿勢 芸術とは何か 何を求め何を第一義に置いているか それぞれ全く違うが そのどの言葉も説得力を持って私の心に響く

ひとつひとつ作品を単に展示するわけではなく 時代とその流れと個人と社会を感じさせる なかなかの企画展だったと思う 


この展覧会のデザインは パリを拠点として活躍する建築家・田根剛という人だそうだ

この71作品のうち なんとあのル・コルビュジエの作品もあった

彼が美術学校に通っていたこと また当初 ポンピドゥー・センターの設計を彼に依頼する予定だったこと(彼の死によって流れた) そしてこの日本にある彼の作品が世界遺産になったこと そんなことが関係しているのだろうか

彼はなんといっても ミースやライトと並ぶ近代建築の三大巨匠なのだ

そして建築家というのは当然かもしれないが 芸術にも造詣深く また実際に絵を描いたり家具のデッサンや設計をする人も少なくない

単に美術館という箱の設計ということではなく 芸術を理解し いかに見せるかを演出するのも非常に大事であることを思えば 今回のこの展覧会が「ポンピドゥー・センター」という建築物も含めた上でのフランスアートの紹介となったのも わからないでもない

期間中の公式サイト→ 「ポンピドゥー・センター傑作展」 


私のお気に入り3作品

ブレッソンの写真「サン・ラザール駅裏」(あんな瞬間は何度も試しながら作ったものだろうか 偶然とは思えない)

カンディンスキーの「30」(直線も曲線も円も楕円も あんな風に自由自在に しかも美しく描いてみたい)

ジャン・プーニーの「赤いヴァイオリン」(知らない人だったが 色彩も構図も何もかもが気に入った)

他にも幾つか印象に残ったものがあった


ところで1906-1977までの年ごとの作品であれば 72作品でなくてはならない

なぜに71作品か

それは1945年が欠けているからである

白いボードにはただ年数だけが書かれている

その前に立つと小さな音量ではあるが ある女性歌手の有名な曲が耳に入ってくる仕掛け 

これも一つの展示と考えて良いだろう

そしてその曲とは・・・エディット・ピアフの「バラ色の人生」

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関東地方梅雨明けの日に

2016年07月28日 | 日記
平年よりかなり遅い関東の梅雨明けが発表された今日 上野の東京都美術館で開催されている「ポンピドゥー・センター傑作展」のチケットがあるからと友人が誘ってくれたので 喜んで出かけた

久しぶりの美術展だ

これについては 明日にでも書こうと思う


ウィークデーではあるけれど夏休みに入っているせいだろうか それとも国立西洋美術館が世界遺産になったせいだろうか 上野の森に人は多かった

展覧会を見たあと「黒田記念館」「国際こども図書館」などを見学

黒田記念館は 黒田清輝の遺産の一部で昭和3年に竣工した建物である

スクラッチタイルがいかにもこの時代らしく あまり私の好みでは無い建物ではある


 
黒田記念館 正面玄関及び階段手すり

途中 何度か休憩所で座ってはおしゃべりをする

昼食の時 友人は私の分のお弁当まで用意してきてくれた

私は上野駅で買ったカツサンドがあったので 彼女手作りの漬物を頂いたがとても美味しかった




こども図書館 外観 階段室から天井を見上げる


最後に「東京国立博物館」に行った

私は ここが好きだ

特に通常展示で 人がまばらにしかいない・・・ ん? けっこう混んでるじゃん

やっぱり夏休みだからだろうか コルさん景気で上野全体が人気スポットになったせいだろうか

西洋からの外国人が多いのにはびっくりした

久しぶりに行ったのでじっくり見たかったが おしゃべりの時間が多すぎて少々時間が足りなくなってしまった


帰りに軽くビールを飲みながらまたおしゃべり

そして6時半 労働者が沢山乗っている山手線に乗り込んだ時のこと

ふと私よりも半ダース年上の友人が「まだ席を譲られたことは無いでしょ?」と

それからそんな話になり「私は 譲って欲しいというオーラを出す」と冗談半分で友人が言った時 前に座っていた30代後半くらいの男性が急に立ち始めた

この会話を耳にしてはっと思ったのだろうと その時気が付いた

私たちは慌てて そじゃない そじゃない と なんとかそのまま座ってもらった

相手はそれを嫌味と受け取ったのだろうかと思うと申し訳ないと同時に 少し面白い出来事でもあった

何気ない会話であっても 多くの人が周囲にいる時は気をつけないといけないと悟った 

私はまだ譲られたこともなく またそのつもりも無いけれど いつかはそんな日が来るのかなぁ


気心の知れた人と会って話すという機会が減ったけれど 今月はみなさんのおかげでけっこう充実した時間を持つことができた

帰宅はすっかり夜で とはいっても労働者の普通の帰宅時間ではあるけれど すっかり早寝となった私にはもうイッパイイッパイ

友人への感謝メールは明日にしよう

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小さなヒトラー

2016年07月27日 | 日記
ラジオからポケモンの話題が切れない中 大事件が起きた

申年は騒々しく荒れるというけれど これは相場に関してだけなのだろうか

私はあまりこうしたことは信じないので 申年だからというわけでもないだろうと思っているけれど 今年はアメリカの大統領選も 問題の多いオリンピックも 都知事選もあり(これは小さいことだったか?) ゴシップも年明けから話題に事欠かない

大事件についてひとつだけ 今思っていることを書いておこうと思う


容疑者本人の人物像や背景 施設での雇用や労働問題 警察その他の対応問題 薬物の問題 障害者(特に知的障害者)にまつわる問題 

色々な側面から社会も個人も考えることは沢山あるだろう

私が思うことはそうした側面とはまた少し違うものだ

彼の行為はナチと同じだということであり もしかしたら世の中全体が わずかながらもこうした思想や行為を正当化する方向に向かっているのではないか そうした精神的下地がじわじわと湧きだしているのではないかという危惧についてである

だからといって彼の行為を擁護しようとは爪の先ほども思わないし また多くの人はそんな精神の持ち主では無いと信じている

それでもヘイトスピーチから始まり ネットでの見苦しい偏見や世界で起きている差別問題など 実際に行為に及ぶかどうかは別にしても 彼の行為に及んだ心情と決して遠くは無いそれが ここかしこに私には見えてきている気がするのだが 考え過ぎだろうか


人は誰でも邪悪な心を持っている

そして弱く だから言い訳をする

自分を自分できっちり分析するのは難しいことだし 他人の判断を期待し それに一喜一憂し 優越感や劣等感を抱く

だが 優越も劣等も無い

小さなヒトラー(実際彼は小柄だったが)が自分の中にも棲んでいないか 今いちど 誰もが自問してみる価値はあると私は思っている

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