どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

バナナひと房五本を八日で

2015年10月31日 | 日記
本日も整理からスタート

書類関係の整理も もうこれでほとんど終わっただろうと思われる

さほど重要でもなく また情報としての価値も低くなっただろうと思える物でも ひとつひとつ本当にそうであるかの確認をし そのあとで必要とあらばシュレッダーにかけるというところまで含めると 意外と時間がかかるものなのだ

今日も やったと思えるところで終わりにした

買い出しはさぼった


明日から11月ともなれば更に秋は深まり 今日は寒いとか 今朝は冷え込んだといった言葉も出始めるようになるのだろう

すでに起床の時は真っ暗だし 日の入りはこれからまだまだ早くなる

う~~~ん 毎年のことだから仕方が無いとしても 一年で一番悲しい三カ月がやってくることになる

長いこと 炬燵は無精になるし動きも鈍くなるからと 仕事をしていた時は使わなかったが 家にいる時間の多くなる生活が始まったとなると あの炬燵がなんとも懐かしく思えてくる

うっかり寝てしまって暑いのと喉の渇きで目を覚まし おもむろに食べ出すミカンがめちゃめちゃ美味しかった

週末しか食べる時間が無いためにほとんどミカンも買わずにきたけれど 今年は買ってみようかな 

そういえば 先日買ったバナナひと房五本付き 八日ほどかかったけれど これもすごく久しぶりのことでした(でもしばらくは バナナはもういいとも思ったけれど)




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結局 毎日

2015年10月30日 | 日記
8月中旬に始まった歯医者通いも 本日の歯垢除去でようやく終わりとなる

その帰りにスーパーに寄り 偶然目に入ったヤリイカの握りを買って祝杯をあげる

今日は一日頑張ったといってはイッパイ

お祝いだといってはイッパイ

嬉しいからイッパイ

美味しい食事を作ったからイッパイ

色々な理由をつけては 毎日 結局こうなります











 



  

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変化というよりも成長か?

2015年10月29日 | 日記
廊下には七つのゴミ袋 庭には一袋 部屋には回収用の衣類と捨てる衣類の山

したがって 今日は自分の部屋を少し整理して終わりとする


年齢を重ねるうちに変わってくることがある

スタイルや肌のつや 髪などの見かけの変化は当たり前だろうが 体力の減退も感じるし 味覚や精神面 物の見方や考え方が変わることもある

基本的趣味嗜好は大きく変わることは無いけれど 最近 クラシック音楽に耳を傾けることが多くなった

以前は好きでも嫌いでもなかった

サティなんかは大好きだったし ラヴェルのボレロなんか朝に聞くとやる気が湧いてきたもの

ピアノを習っていた時は なぜかバッハが好きだった

誰もが耳にするような楽曲は当然耳にしてきているし CMや映画の中でも効果的に使われることがあり あれだ と思うこともあったが 自分から意識的に聞こうするまでにはいたらなかった

子供の頃は ピアノの先生に誘われたりで何度かコンサートに行ったこともあったが 正直言って退屈以外の何物でもなかった


それが 最近 身に染みるような感じでごく自然に入ってくるようになったのだ

ジャズだ ソウルだ ブルースだ ロックだ とさんざん聴き倒してきた私がだ

ただ基本は 自分がかじったことがあるせいだろうか ピアノが一番である

先生の ここはこうしたタッチで とか 強弱 指を下ろすことから離すことまで一つ一つ注意され それを忠実に守ろうとして出来ずに せっかちな私はジレンマに陥って 4年間ほどやったピアノを8歳になる頃にやめてしまった

あんなに一生懸命だったのになぜ と先生に言われたが これは私の退職の時と同じことで もうこれまで これ以上は無理と思ったからだ

だが今では その先生の指導の意図がはっきりとわかる

曲想を掴むことはテクニックを学ぶことと同じくらいに大事なのだ

だがその曲に惚れなければ何も表現はできないし 表現するにはまずはテクニックのための練習しかないのだが 練習のための練習では疲れるのは当たり前だった

あとあと楽典を習えば もっと多くのことがわかってくる


もしかすると変わったわけではなくて 眠っていた親不知の歯がもぞもぞと動き出したということかもしれない

変わるものなのか それとも 潜在的なものがある時突然に表出するものなのかはわからない

昔 父の酒の肴に卯の花を食卓に出すことがあったが こんなものはおかずにはならんと子供の頃に密かに思ったそれを いつの間にか美味しいと感じるようになったのは 味覚が成長したせいだろう

私の耳も変化したというよりは やっと少し成長したということかもしれないと思うと 少し嬉しくなる 
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ぎったんばっこん ぎったんばったん

2015年10月28日 | 日記
天気が良い

良すぎるくらいで 今日は暑い

そのせいかどうかはわからないけれど 今日の整理はやめることにした

だらだらと過ごしたくなったのは 飽きたのか 疲れたのか めんどくさくなったのか

こんな日もあるさと寝転がって本を読んだり 落語を聞いたり 旅のことを考えたりと ダルダルの一日を過ごす


ひとたび心配となれば 明日の天気さえ気になり

ひとたび苦しいと思えば 息を吸うのも苦しくなり

ひとたび悲しいと思えば 葉が落ちても悲しくなる

明日は明日 なるようになると思えば心配も無くなり

その時が来れば 自然に息は止まるもので

葉が落ちるのも道理とあれば 悲しむこともない


誰もが こんなシーソーを心の中に持ってぎったんばっこん 

あれ? ぎったんばったん だっけ?

それとも ぎっこんばったん?

あぁ 生きるって悩みが尽きないものなのねえ
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履く足があれば・・・・

2015年10月27日 | 日記
本日 桐箪笥の中を整理し終える

家の中はまだまだゴミの山ではあるけれど かなり進んだ

霊の姿が足元から少しずつ消えていくといった映画のワンシーンのように 家から二人の魂が抜けていくような気がする

少し前までは いつ戻ってきても困らない家だったのに


寂しくもなり これがひとの営みであり定めだと自分に言い聞かせた

労働者だった時 週末の休みに僅かでも進めておけばと思わなかったわけでもなく またほんの1時間程度ならできたはずなのに 私は退職まで延ばした

それは ひとつことを始めるとなかなか止められなくなる自分の性格を知っていたせいもあるし そうなったら大変だという気持ちと同時にめんどくさいとも思ったのは確かだけれど 色々な意味で覚悟をしなければ手をつける気になれなかったというのが本音かもしれない

私自身が 人生の最後の階段を見上げる踊り場に立ったと自覚するようになったからこそ 寂しいとか大変だとかいった気持ちを超えて出来るようになった

退職は勿論 色々な意味での自由を求めたからではあるけれど 家の整理が無かったら私はふんぎりがつかず(あるいは言い訳が考えられなくて) まだ労働者でいたかもしれない


忙しかった時 親は私の体のことを心配し 安易にも仕事を辞めたらどうか とまで言った

辞めてそう簡単に次の職が見つかるご時世でも無く また 私が遊んで暮らせるほどの余裕が家にあるわけでもなく 両親が 私が老いて死ぬまで健康で生きていてくれるというなら大いに甘えてもいいけれど そんなことはありえない

それに第一 私はこの仕事自体も仲間も嫌いでは無かった

心配してくれるのはありがたいけれど 無責任な発言だよなぁ と心の中で思っていた

家の整理をするという仕事を そして そのために退職するというきっかけを 親が私に最後のプレゼントとして贈ってくれたように今は思える

その時々に応じて何が一番大事かを考えて やるべきことをやる


部屋をぐるり見回してもまだそう物が減ったようには見えないだろうけれど 中身は随分と減ってるんだよ~

お気に入りも記念の品もあったかもしれないけれど おいおい あらあら それも捨ててしまうの というあなたたちの声は無視します

大事だったら生きていなさい!

あっ でもまだ靴はそのままだよ~ 履く足があれば・・の話だけれど・・・・
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