常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

七夕

2017年07月08日 | 万葉集


日帰り温泉の玄関ホールに、今年も七夕飾りが出された。短冊が添えられてあり、願いを書いて飾りに下げることができる。老人専用の温泉だから、願いは自ずから「長寿健康」というのが主流となる。古来、7月7日に、七夕の行事が行われるが、これは陰暦で、夏が極まって秋を迎えるころである。この日上弦の月が沈むころ美しい銀河が天頂に現れ、西に牽牛星、その向いの東には織女星が、相対して明るく瞬いて見える。ここから、彦星と織姫の一年一度の逢瀬の伝説が語られるようになった。

彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし天の河原に霧の立てるは 万葉集巻8・1527 山上憶良

中国で始まったこの説話は、牽牛星のもとへ織女星が逢いに行くのであるが、日本に入って来て
妻問い婚であったため、彦星が織姫を迎えに行くという設定になったいる。その伝説を背景に持ちながら、七夕の行事は家々の庭に机を置き、酒、瓜、果物を添えて牽牛・織女を祀った。牽牛が畑仕事する男、織女は家にあって養蚕、機織りに精をだす。その年の豊作を祈ることにその趣旨があった。

伝説によると、牽牛星は織女星と結婚する資金を天帝から借りたが、いつまでもそれを帰さなかったために怒った天帝が、二人の仲を裂くき、年に一度七夕の日にだけ逢瀬を許した、いう話が伝わっている。
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藤の花

2017年05月09日 | 万葉集


山に自生する藤に先駆けて、公園の藤棚の花咲きだした。藤は桜とならんで、日本人が古くから愛した花である。古事記には、藤にまつわる話が出てくる。新羅から渡来した美しい乙女、伊豆志袁登女をめぐって、男たちの求愛がくり広げられた。その中の一人、春山之霞壮夫という青年がいたが、彼の母親が、息子のために衣装と弓矢の揃えを、すべて藤の木でしつらえた。息子をかの乙女にあわせたところ、衣服や弓矢から藤の花が一斉に咲きだした。その花のあまりの見事さに乙女は心が動かされ、この青年と恋に落ち、やがて結ばれた。

この逸話から想像できるが、麻のように、藤蔓から繊維を取り出し、衣服の素材として用いられた。衣や麻の糸が普及してくると、藤で作った着物は、仕事着の役割を果たしたのでないかと、ものの本には書いてある。藤の花の美しさは、女性の心を動かす力があったことから、古代では霊力を持つ木として尊重された。

恋しけば形見にせむとわが屋戸に植ゑし藤波いま咲きにけり 万葉集巻8 山部赤人

藤波は女性のふくよかな黒髪を連想させる。その黒髪の持ち主とは縁が切れてしまったが、この季節になって咲き、その面影を偲ばせる。赤人の余情に富んだ歌である。


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笑いを誘う歌

2017年01月27日 | 万葉集


万葉集に戯笑歌というのがある。万葉集は恋も悲しみも素直に詠む歌が多いが、軽妙なやりとりで笑いを誘うものがひとつのジャンルを占めていた。鰻で有名な「石麻呂に吾もの申す夏痩せによしというものぞ鰻取り喫せ」という家持の歌があるが、軽妙なユーモアに思わず笑いを誘う。万葉集の歌の多くは、貴族たちが開いた宴会で、その場を盛り上げる余興として詠まれたものが多いことも、戯笑歌の存在の理由かもしれない。

石川郎女という女流歌人がいた。額田王とならんで多くの男性との恋の冒険を試みたやり手の女性である。近所に大伴田主という美男子が住んでいた。この男は、有力者大伴旅人の弟で身分の上からも申し分がない。郎女はなんとかこの美男子を陥落できないものかと計略を考えた。ある夜、郎女はお婆さんに扮装し、小鍋を片手に田主の家に行き、「隣の貧しい女ですが、火種を分けてもらえませんか」と言った。田主は取り合う風もなく、「どうぞご自由に。火種ならそこの竈にありますよ。」と言って家に入ってしまった。明くる朝、郎女が田主が贈った歌

遊士(みやびお)とわれは聞けるを屋戸貸さずわれを還せりおその風流士 郎女

みやび男と評判の田主さま。でも評判だおれですね。一夜の宿も貸さずに私を返すなんて、鈍感な間抜けた風流人だったのね。

この歌を見て、田主は夕べのお婆さんが郎女であることを知って、慌てずに返歌を送った。

遊士にわれはありけり屋戸貸さず還ししわれぞ風流士にはある 田主

相手の語句をそのまま使って返すの応答歌の気のきいた手法と考えられていた。こんな、応答が宴会の居並ぶ貴族の前で披露されれば、満場の喝采を得たに違いないであろう。
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合歓の花

2016年07月13日 | 万葉集


合歓の花が東の丘に今年も咲いた。山野に自生する花で、すでに万葉集にも登場する日本古来の植物である。葉は羽状の複葉で、昼の間は開いているが、夜には閉じる。この習性から、万葉人は男女の共寝のシンボルと考えられていた。万葉では、合歓をねぶと読んでいた。大伴家持と紀郎女の贈答歌に、合歓の花を介した戯れの歌がある。

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ 紀郎女

紀郎女は合歓の花の枝を歌にそえて送った。家持と紀郎女は親しい間がらではあったが、歌では紀郎女が主人で自らを君と呼び、家持は下僕で戯奴(わけ)と呼ぶ、遊びの歌になっている。独り寝の主人から、暗に共寝の誘いとも見られないことはない。

我妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじか 大伴家持

あなたがくださった形見のねむは、花だけ咲いてたぶん実を結ばないのではないでしょうか、と家持は見事にやりかえす返歌になっている。ざっくばらんに言えば、あなたの口先だけのきれいごとでは、共寝などとても無理。ぐらいの意味である。名に郎女とつく女性は高貴な身分だが、宴席などで、このように戯れあって歌を送りあって楽しんでいた。そんなやり取りのなかで、恋が実現することがあったかも知れない。万葉学者のなかには、この歌を贈った紀郎女は、もう女性の盛りを過ぎて、若い家持をからかったとする人もいる。
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躑躅

2016年05月06日 | 万葉集


万葉集で詠まれた躑躅は、短歌が6首、長歌が4首と意外に少ない。当時から、身近にあった花らしく挽歌に歌われていることが多い。5月になって、花は繚乱として咲いていなところがないほどだが、なかでも躑躅は大抵のお宅の庭に咲いている。そのなかで、白躑躅は清楚な感じで好ましい。

風速の美保の浦廻の白つつじ見れどもさぶし亡き人思へば (巻3・434)

この歌の詞書に、「松原の美人の屍見てかなしびて作る」とあり、海に沈んだ乙女が化して白つつじになったという伝説を背景に詠んでいる。この国では、路傍や浜辺に人の亡きがらが、打つ捨てられているのは、珍しい光景ではなかった。それらの死骸が白骨化している姿に、人生の運命を感じた。

水伝ふ磯の浦みの岩つつじ茂く咲く道をまた見むもかも(巻2・184)

草壁皇子は天武天皇と持統天皇との間に生まれた皇子である。皇位に就くことなく、28歳で早世した悲劇の皇子。死因は病死説、他殺説があるが、いずれも確証はなく謎に包まれたいる。若い皇子の死を悼んだ歌は多く残されている。皇子の取り巻きは、墓のそばで宿直をした。一周忌を終わって、それぞれの任地へと引き上げていくが、皇子の側を離れるのを悲しんだ歌である。

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