常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

つるかめ助産院

2012年10月26日 | 読書


年をとると涙腺がゆるんで涙もろくなるというが、本当らしい。小川糸の『つるかめ助産院』を読んでいて、感動的な場面に来るとどうにも涙が止まらないのだ。そういえば、子どものころ、『フランダースの犬』を読んだときもそうだった。そんな子どものころの感情の起伏が、年を重ねて戻ってきたのであろうか。

例えば、長老が海に落ちて死んだシーン。
「私とパクチー嬢は、肩を抱きあい、お互いを支えるようにして泣いた。二人とも、滝のように涙がこぼれて、いつまでたっても止まらない。私がつわりで苦しんでいた時、水中出産用の湯船に薪をくべてお湯を沸かしてくれたのは長老だった。その時に交わした会話は何気ないものだったけれど、思えば長老は、人見知りの私を、優しく見守ってくれていた。いつだってニコニコと笑うばかりで、長老が不機嫌にしているところなど、一つも思い出せない。たった十時間前だって、あんなに元気にタコと格闘していたではないか」

こんな文章に涙を流している姿を見て、妻は、「何、泣いているの」と問いかけてくる。理由を説明するのももどかしい気がする。たかが小説で泣くなんて恥ずかしい気がする。思えば、昨年の震災の後、こんな現象が増えたような気がする。茫然自失していながら、生きていこうとしている被災した人の姿がテレビに放映されるたびに、自然と涙が流れた。

仙台のT氏から、震災の生々しい体験を聞く機会があった。マンションの13階にいて、地震のエネルギーが人体や家具に及ぼす力がいかに大きなものであるか。生と死の分かれ道は、ほんの偶然に過ぎない。また、あの時の記憶や映像がまた蘇えってきて目頭が熱くなる。涙を流したり、笑ったり、怒ったり、感情の起伏を制御する機能が年とともに衰えているのかも知れない。

この小説は主人公のマリアが出産するシーンがクライマックスであり、結末である。いわば女性が出産という人間の最大の営みを経験することによって生長を遂げていく様子を書いた小説である。家出した夫が赤ちゃんが生まれ落ちるときに、唐突にも帰ってくる。夫に何があったのか、どんな事情で帰ってきたのか。作者はそのことに一切触れない。あたかもそれは、また別な小説で書きますと言わんばかりなのだ。そのシーンを不自然だと思いながら、読むのだが、新たな涙はまた止まらない。


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