ホテルキャッスル前の十字路に立ってみた。ここがいなり角という名で呼ばれていたことを知る人はもう数少ないかもしれない。この角を山形駅の方へ行くと、数百m右手に、歌掛稲荷神社がある。山形城主斯波兼頼が、城の守り神として建立したのが初めとされる。縁日の十日には、境内で市が立てられ、十日市と呼ばれ城下の人々から親しまれた。
この歌掛稲荷にあやかって、ここがいなり角と呼ばれる由縁である。私が山形へ来た昭和34年には、いなり食堂があり、ここでカレーライスを食べた。向かいの高層マンションは長く開業していた医院のあった場所だ。この通りをまっすぐに北進すると元の県庁舎にぶつかる。その手前が、デパートのある山形市一番の繁華街だ。
斉藤茂吉の弟子である歌人結城哀草果は、随筆『村里生活記』に山形の街の様子を書いた一文がある。
「山形市の盛り場は、七日町両銀前から、旭座までの通りとその界隈だ。夜になるとそこはイルミネーションの海だ。そして市民の各階級が一緒になって人の波を打ち返す街だ。演芸館は松竹の封切り場、旭座は日活の現代、霞城館は日活時代劇の各映画の封切館だ。演芸館の付近には花小路いう街がある。待合四五十、カフェーにサロン等々。」
ここには書かれていないが、その傍には「ドッペり横丁」と呼ばれた、戦後の闇市を転用した飲み屋街があった。学生がもの珍しく飲み歩く安居酒屋街であった。あまり度々通うと、落第してしまうから「ドッペり」と呼ばれたのである。ここで1杯30円のウィスキーを割らずに飲んだ。飲むと、昼間とはうって変わって、態度が大きくなる友人を眺めながら、何度この街に通っただろうか。
七日町に生まれた詩人の神保光太郎は、戦争中に疎開して、山形にあった。『豊かな町で』はこの詩人が、ふるさとの人と町へ寄せる親しみの言葉たちである。
豊かな町で
私はとある食堂へ入った
ぼういは慇懃に私をむかへて
白磁の皿にいっぱいの料理をはこんできた
窓には
花が爛漫と咲き零れ
道行く人は
みんな眩しそうに花をあふいで
春の挨拶をした
あの頃の店も街並みも、残されているのは、裏小路にある朽ちかけた古い家たちばかりだ。映画館もすっかり姿を変えた。旭座の建物だけが、当時の面影をのこして立ち続けているばかりである。