部屋から見える西の空、夕焼けがきれいに見えることが多くなった。唱歌に秋の空の夕日が歌われてもいて、秋の澄んだ空が夕日に染まるのがぴったりくるのかも知れないが、ここのところの夕焼けも目を見張るものがある。晩唐の詩人に李商隠がいるが、この人の夕陽の詩は忘れ難い。
晚に何んなんとして意適わず
車を駆りて古原に登る
夕陽無限に好し
只是れ黄昏に近し
古原は長安の東にある行楽地の楽遊のことだ。日が暮れていくと、人は何か物思いを抱く。離れた土地にいる恋人を思うのかも知れない。そんな心を晴らそうと馬車を駆るのはあの楽遊原である。そこから見る夕陽のすばらしさ。日はたちまち落ちて夕闇がやってくるのはわかっていてもその素晴らしさに見とれてしまう。
詩人は馬車に乗って郊外の高台に向かうが、自分の場合はカーテンを開いた先に夕日が見える。詩人の目の先には広大な土地が広がり、夕陽の景色も我が家のものとはスケールが違うであろう。李商隠は獺祭魚という号を用いたことがある。カワウソが獲った魚を食べるとき、岸に魚をならべて祭る習性がある。詩人は詩を創るとき、多くの書物を机に並べて参照するのでそれを号にしたと思われる。李商隠の詩は、歴史を詠んだものが多く典故を駆使するため、資料としての書物が必要であったのであろう。