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散歩学などというものがあるのか。多分ない。散歩の楽しみをどう多様にしていくのか。そこらへんは学などと名付けなくとも、考えていく必要はありそうだ。カメラを持って街や郊外を歩く。そこでカメラに収める価値のある被写体に出会うのも散歩の楽しみひとつになる。霞城公園に行く途中、山形美術館の前を通ると、ブロンズの彫刻が置いてある。日に照らされ、雨や雪に降られ、大気の温度も振幅が幅が大きい。そんななかに置かれた、ブロンズの彫刻は、自然の変化、時間の経過によって深みを増していくような気がする。
大学病院の周りを散策しても、様々な光景を目にできる。何という名かしれないが、早咲きの桜が雨に濡れて咲いている。工事現場で、巨大なクレーンが作業を行っている。枯れ葦の繁る川原で、カルガモの群れが、飛び立ってすぐ先の川の深みへ移動した。どの景色も、そこに足を運ばなければ目にすることができない。やはり、散歩は生きていることを証明する営為である。
ある学者の晩年の日記に2000歩の散歩が書いてあった。自分の歩けるコースを、1000歩、2000歩と2コースの合計の3000歩に決めて、体調に聞いて歩いていた。ガンにの手術後、孫たちから「無理しないで」と言われながら出かけた散歩であった。
「透きとおるような青空をバックに逆光に輝くいちょうの葉がじつにきれいで、元気な孫たちの声だけしか聞えぬ静寂な並木道を歩いていると、いかにも秋を満喫しているような満足感がありました。それも、やっと2000歩を歩いた、というよろこび、それだけ病気がよくなったのだといううれしさあればこその満足感だったのです。」
私は今、カメラやスマートウォッチなど機能の刺激を受けながら毎日の散歩を続けている。そんななかで、日一日と足が軽くなり、目にする素晴らしい景色も多くなってきた。散歩から登山、脚を使う生活は人生の終盤を演出する最後の砦のように思える。
歩けるうちは、まあ健康かなと思います。