「あなたは趣味人ですね」と8つ年上の人に言われた。大和塾の講師をお願いに行った時のことだ。大和塾がどういうものか、何をやってきたか、わかるように2つのファイルを持って行った。それに大和塾で発行している機関誌『風』も見てもらった。こうした資料をもとに話していた時に呟かれた言葉だ。趣味人とは何だろう。褒め言葉というより、皮肉や卑下が篭った響きがある。
考えてみれば、私はその通りに生きてきたようなものだ。自分では生活するために必死だったけれど、他所から見ればまことに気ままな生き方をしているように思われても仕方ない。職も何度か変わった。変わりたくなかったけれど、そうせざるを得なかった。人から見れば順風満帆のようであったかもしれないが、自分では続けることが出来ない状況にあった。変わる度に、苦しくなるのに、「好きなことばかりやっている」と言われてしまう。
それをわざわざ弁解することはない。実際、好きなことをやってきた。夢を追ってきた。その時その時で、私にとってであるが、もっとも理想的と思われるものを求めてきた。身勝手でアホかと言われるだろう。「あなたは極楽トンボね」とも言われた。自分では苦労し努力もしているつもりだけれど、勝手気ままに生きているように見えるのだろう。本当にそういう人間なのかもしれないと、近頃では思うようになってきた。
「首長選挙には出ないのですか?」と言う。「趣味人はどうも政治家にはなれないようです」と答える。「あなたのような人こそ出るべきですよ」とありがたいことを言ってくれるが、「私の人生設計ではもう選挙はありません」と話す。「どうして?」とさらに聞かれるので、「私は65歳ですが、首長は2期8年務めなければ成果は出ません。すると73歳になってしまいます。私の計画では70歳で全てを終わりにするつもりなんです」。そう言ってから、ああしまったと思った。相手は私よりも8つ年上ということは73歳である。これは失礼千万なことを口にしてしまった。
「私は若い時は、年を取るに従って人は保守的になると思っていました。けれど、今65歳になってみると、考え方や気力は年齢に全く関係ないことを知りました。若くても保守的な人はいくらでもいますから」と話を曲げる。「自分から引退を決め付けることはよくありませんね。日本には隠居という制度がありましたが、家督は譲るが意見は言うという、そういうことも大事ではないかと思います」と言われる。この話は平行線だったけれど、自分を評価してくれる人がいることは幸せなことだと思った。
おそらく何もかも捨てたなら人は生きる気力を失ってしまうだろう。人から求められるものがあってこそ、生きていくことが出来る。愛する人がいて、自分を必要とされるのであれば、人は何事にも頑張るだろう。頑張るものがあることは、それは充実なのだ。生まれてこなければ出会いはないし、生きていなければ、幸せに巡り合うこともない。
考えてみれば、私はその通りに生きてきたようなものだ。自分では生活するために必死だったけれど、他所から見ればまことに気ままな生き方をしているように思われても仕方ない。職も何度か変わった。変わりたくなかったけれど、そうせざるを得なかった。人から見れば順風満帆のようであったかもしれないが、自分では続けることが出来ない状況にあった。変わる度に、苦しくなるのに、「好きなことばかりやっている」と言われてしまう。
それをわざわざ弁解することはない。実際、好きなことをやってきた。夢を追ってきた。その時その時で、私にとってであるが、もっとも理想的と思われるものを求めてきた。身勝手でアホかと言われるだろう。「あなたは極楽トンボね」とも言われた。自分では苦労し努力もしているつもりだけれど、勝手気ままに生きているように見えるのだろう。本当にそういう人間なのかもしれないと、近頃では思うようになってきた。
「首長選挙には出ないのですか?」と言う。「趣味人はどうも政治家にはなれないようです」と答える。「あなたのような人こそ出るべきですよ」とありがたいことを言ってくれるが、「私の人生設計ではもう選挙はありません」と話す。「どうして?」とさらに聞かれるので、「私は65歳ですが、首長は2期8年務めなければ成果は出ません。すると73歳になってしまいます。私の計画では70歳で全てを終わりにするつもりなんです」。そう言ってから、ああしまったと思った。相手は私よりも8つ年上ということは73歳である。これは失礼千万なことを口にしてしまった。
「私は若い時は、年を取るに従って人は保守的になると思っていました。けれど、今65歳になってみると、考え方や気力は年齢に全く関係ないことを知りました。若くても保守的な人はいくらでもいますから」と話を曲げる。「自分から引退を決め付けることはよくありませんね。日本には隠居という制度がありましたが、家督は譲るが意見は言うという、そういうことも大事ではないかと思います」と言われる。この話は平行線だったけれど、自分を評価してくれる人がいることは幸せなことだと思った。
おそらく何もかも捨てたなら人は生きる気力を失ってしまうだろう。人から求められるものがあってこそ、生きていくことが出来る。愛する人がいて、自分を必要とされるのであれば、人は何事にも頑張るだろう。頑張るものがあることは、それは充実なのだ。生まれてこなければ出会いはないし、生きていなければ、幸せに巡り合うこともない。