友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小学5年のストライキ

2010年02月20日 23時06分00秒 | Weblog
 小学校の6年のクラス会の打ち合わせに出かけた。私の小学校は小さな城下町のお城の近くにあった。随分古い学校で、私が通っていた頃に、ちょっと自信がないけれど開校70年か80年だった。私自身の記憶では開校百年と思っていたけれど、学制が発布されたのが1872年なので、私の小学校時代に百年はありえない。ただ、藩校としてすでにあったということならば、そういうこともありうるかとも考えた。

 とにかく古い学校で、モルタル塗りの校舎の南には天皇陛下の写真が置かれたという奉安殿が残っていた。私たちが通う頃は、松、竹、梅、桃、桜、藤、桐の7組あったように思う。クラス替えは2年毎だったので、5年と6年は同じクラスだった。その5年生の時、まだ始まってそんなに経っていなかったけれど、とても気心の知れた仲の良いクラスだったのか、男子はみんな授業の始まる前から学校に来ていて、学校にある沼で遊んでいた。その時、誰かが「今日はストライキだ」と言った。丁度その頃、私たちの町の工場ではストライキが流行っていた。

 小さな城下町だったけれど、自動車を中心に工場がどんどん建設され、そこで働く人たちの子どもが増えてきた時だった。だからストライキと言う言葉も自然だったと思う。学校から近くの公園に移動し、ドジョウやフナを捕って遊んでいた。学校の授業開始の鐘がなり、一瞬みんなに緊張感が走った。誰かが「今日はストライキだから学校へは行かない。ここにいては捕まるかもしれないから、これから境川へ行こう」と提案した。みんなそれに賛成して、学校からさらに遠い川へと向かった。

 けれども、学校から遠のくにつれて、「もう、学校へ帰らないと叱られる」とか「やっぱり、帰った方がいい」とか、言い出す子がいた。そういう子は学校へと帰っていった。そうなると、「ここにいたら捕まる」と言う子もいて、「もっと遠くへ行こう」と言う子と「学校へ帰った方がいい」と言う子に分かれた。そして、歯が抜けるように残る子が少なくなった。どういうわけか、私は学校へ戻ろうというグループではなかった。むしろ、みんなで決めたのにそれを裏切ることが許せなかった。人は当てにならない、自分の身のために友だちを見捨てる、そういういうことがあることをこの時思い知った。

 このストライキ事件がきっかけで私は大人になった。それまでは、教室でも手を上げたことのないおとなしい消極的な子だった。どうして手を上げることが出来ないかと言えば、自信がなかったからだ。そこで、それまでは予習を一度もやったことがなかったのに、前の日に教科書を読むようになった。人前に出るのが恥ずかしかったけれど、出なければ自分の引っ込み思案の性格を変えることは出来ないぞと言い聞かせて、できる限り人前に立つように努力した。6年生では児童会の会長に自分で立候補した。

 自分が努力すれば性格も変えられると小学校の6年の時にはっきりと判った。それを教えてくれたのは亡くなった同級生の坂田英行君だった。あいつのおかげで私は大人になれた。そのことを彼に言ったことがあるが、彼は何のことだかわからないという表情だった。ありがとう、坂田。オレはお前の分まで生きてやるよ。
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