友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

幻想に生きるもよし、現実に生きるもよし

2010年02月16日 22時44分30秒 | Weblog
 いよいよ五木寛之氏の『親鸞』がもう少しで読み終わるところまできた。残りは50ページほどだから今晩中か明日の午前中には終わるだろう。新聞に連載されていた時、ちょっと興味があって読もうとしていたのに、どういうわけなのか読みづらかった。それが1冊330ページほど上下2巻もあるのに、あっと言う間に読める。太宰治が言うところの「小説は面白くなければならない」というものだ。五木寛之氏の作品を他に読んだことがないのでえらそうなことは言えないけれど、こんなに読みやすい作家だったなら他の作品も読んでおけばよかったと今更ながら思った。

 それで最後のクライマックスを楽しみに取っておいた。親鸞がどういう人なのか、どうして念仏門に光を見たのか、そのことがよくわかって面白い。歴史上の人物としての親鸞は知識と知っていても、親鸞が浄土真宗を打ち立てる過程を物語として読んでみると、信仰とは何かが分かるような気がした。私には親鸞とキリストがダブって見える。いや、釈迦も孔子もキリストも、そもそも人と神あるいは絶対的な存在もしくは真理の関係について、考えた人は一つの結論に達するまでには同じような苦悩を背負い込むものなのかもしれない。

 そういう人生の先駆者はその生きた時代の社会との軋轢の中から、思想を生み出してきている。太陽が降り注ぐような日の当たる場所ではなく、むしろ社会から弾圧されたり冷遇されたりする日陰から生まれている。思想とはそういうものかもしれないと読みながら思った。しかし現実の社会は釈迦や孔子やキリストの時代と何も変わらない。人間は魚や貝を食べ、牛や豚や鶏を食べ、大地が恵む穀物を食べ、そうした生き物の命を食べて生存してきた。自然を壊して物を造り、商品を売り買いして富を蓄えてきた。「なにか罪深いことをしているといううしろめたさが、どこかにつきまとう」(『親鸞』下279P)生活が続いている。

 今日は離婚の相談を受けたので、弁護士のところへ一緒に出かけたが、人と人の営みも人類の誕生以来ほとんど変わっていないかもしれない。男と女は互いに好きになり、恋しく思い口を吸い、身体を重ねていく。生活を共にするようになると、相手を自分の所有物のように、あるいは全く逆に空気のような存在感のないものに、勘違いしていく。そうした心のズレが表面化してきた時は離婚という現実が表れる。結婚が幻想ならば離婚は元に戻ったと思えばいいような気もした。それでも長く幻想のままに生涯を閉じる人もいるし、それこそが幸せだと考えている人もいる。

 私の解釈する親鸞さんによれば、どれも真実、幻想に生きるもよし、現実に生きるもよしである。ひとりで生きるよりもふたりで生きる方が楽しいと思う人はそうすればよいし、ひとりで生きる方が楽と思う人はそれもよしである。人にはそれぞれの生き方がある。肝心なのは自分がどう生きるかである。『ぼくはこう生きている 君はどうか』(重松 清&鶴見俊輔 潮出版社)。
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