友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小学5年のストライキ その2

2010年02月22日 21時27分50秒 | Weblog
 小学校のクラス会を行なうに当たって、5年生の時の担任である早苗先生に会いに行ってこようと思った。認知症が進んでいるようであるし、足腰も弱っていたから一度会って確かめた方が良いとの判断だった。先生のお宅へ電話をしてみた。先生が嫁いだ先なのか、それとも先生の娘さん夫婦と同居しているのか、そんなことも私は知らないけれど、とにかく会いに行くべきだろう。先生には大変に迷惑をかけたのに、未だに一度も謝ったことがない。先日、ブログに書いた「ストライキ」の時の担任である。あの時、私たちのことばかりに関心があったけれど、先生はどんな思いだったのだろう。3学期が終わるまで、どんな気持ちで過ごされたのだろう。

 先生はとてもきれいだった。声も高くて澄んでいた。あだ名は七面鳥だった。今から思えば当然のことだけれど、先生は毎日洋服が変わっていた。華やかだった。ストライキは5月か6月ではなかったかと思う。池や川に入ってドジョウやザリガニを捕まえようとしていたから、もうすっかり暖かくなっていたはずだ。先生は肌の色が白かった。それで白いブラウスがまぶしいくらい似合っていた。腰が細くてお尻が大きかった。いつもタイトのぴったりしたスカートだった。何よりもブラウスの下の胸が大きく見えた。

 これは私の説だけれど、思春期に入る子どもたちにとって、若いきれいな先生は魅力的だった。けれども先生は自分たち男の子にはなかなか声をかけてくれない。先生の関心を勝ち取りたいという思いがストライキになったのだと私は思う。口ではいかにも先生への反抗とか嫌がらせのようなことを言っていたけれど、内心ではその豊かな胸で抱きしめて欲しかったのだ。たとえ、それが真実であったとしても、先生にはひどく迷惑な話である。子どもたちの勝手な思い込みが男子児童全員による授業放棄となったのだから。

 当時は何も考えなかった。格別に誰かがリーダーというわけではなかった。全く自然発生的な行動だった。でも、女の子の話では「参加しなければいじめられる」「ハバにされるのが怖かった」と言っていた男子もいたようだ。実際は誰かが強制したわけではなかったし、学校から遠くへ遠くへと逃げた時も、ひとりふたりと脱落者が出た時も、それを無理やり引き止めたりもしなかった。私が最後まで行動を共にしたのは、みんなで決めたことだという思いがあった。授業前に池に集まることも、「今日はストライキだ」とはしゃいで学校を出たことも、多数決をとったわけではないけれど、みんなの自然な行動だった。

 「24日にお邪魔します」と伝えた。後になって娘さんから「その日は私がいないので、28日にしてください」と電話があった。朝、電話した時、この家のご主人と先生のやり取りが電話口から聞こえてきたが、その様子から当然かもしれないと思った。先生はわかったのかどうか定かではないけれど、私が名前を告げると、「どういう字を書くの?」と聞かれる。私が答えると、「あら、懐かしいわね。じゃあ、待っているわね」と言われる。小学校5年生の坊主頭も今では禿げ上がった白髪のジジイだ。本当に先生は覚えていてくださるのだろうか、不安と共に、一度キチンと謝りたい気持ちが湧き上がってきた。
コメント
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