友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

立松和平氏の訃報

2010年02月09日 21時52分27秒 | Weblog
 作家の立松和平氏が亡くなったとテレビニュースが報じていた。立松氏は私よりも若い団塊世代だから、訃報が流れてもウッソとしか思えなかった。死因が何かは知らないけれど、人の死は実にあっけない。私は立松氏の小説は連合赤軍事件を扱った『光の雨』しか読んでいない。誰かの手記を無断で使ったとかいうので、裁判になっていた記憶がある。連合赤軍事件は、団塊世代には重くのしかかる問題だったと思う。立松氏がどこまで学生運動にかかわっていたのかは知らないが、団塊世代には解き明かさずにおれない問題であったのだろう。

 作品はこれしか読んだことがなかったけれど、久米宏氏の『ニューススティーション』によく出演していたし、何よりも朴訥なしゃべりが印象的な作家だった。私は自分が中学生の時から書き綴ってきた日記を自分で小説に書き上げるつもりでいたけれど、どうやら自分にはその才能が無いと思った時、最初に頭に浮んだのが立松氏だった。そうだ、この人に送り届けたなら何かの役に立つのではないか、そんな風に勝手に思っていた作家だった。紀行文とか、子どもの話とか、悪意の無い人だと思っていた。

 立松氏が亡くなって、わたしの日記は誰の役にも立たなくなってしまったが、また、誰か片思いの作家を見つけ出さなくてはいけないなと思っている。今日も五木寛之氏の『親鸞』を読んでいた。昔、そう言ってもつい少し前のことだが、遠藤周作氏の『イエスの生涯』『キリストの誕生』を読んでいた頃を思い出した。遠藤氏よりも世俗的な、だから簡単な、わかりやすい言葉で、五木氏は信仰とは何かを解き明かしてくれているように思った。

 私がキリスト教に興味を抱いたのは小学校の高学年の時で、実際にキリスト教会の門を叩いたのは中学1年になった時だった。それから聖書研究会に参加し、学んだけれど、私は学校の勉強と同じように理解しようとばかり努めた。今から思えば当たり前のことだけれど、理屈で覚えてみてもそれは信仰には変わらなかった。キリストが何故そのようなことを行い、また言葉を口にされたのか、書かれてある事柄を覚えてそれを理屈で組み立てていっても、肝心なところが理解できなかった。

 それを遠藤氏も五木氏も、頭で理解してはならないと説く。遠藤氏の2作を読んだ時、ああこういうことが信仰なのかと思ったけれど、五木氏はもっとわかりやすかった。それは釈迦もそして法然も親鸞も人間であるからかも知れない。迷って当たり前ではないか。苦しんでいいのだ。煩悩に悩まされるから人間なのだ。そう思えば、人は死ぬまで罪に生きる存在だとわかる。一歩でも二歩でも気高くなくてはならないと決め付けることはない。凡庸な者は凡庸なりに生きていけばよい。なるほどなと私が言うと、それは自分に都合のいい解釈ではないのかとお叱りを受けそうだ。それまた、仕方ないか、そう思ってみる。
コメント
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