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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

親鸞とキリストはよく似ている

2010年02月07日 23時08分54秒 | Weblog
 先日、短歌教室で隣のご夫人が五木寛之氏の『親鸞』上下2冊を貸してくれた。「とてもすぐには読めないので1冊だけお借りします」と断ったけれど、「この本はすぐ読めますから」と言われ、仕方なく2冊借りてきた。読んでみると、確かにぐんぐん読める。昨日と今日ですでに1冊目の3分の2ほどまで読み進んでいる。太宰治が「小説は面白くなければならない」というようなことを書いていたけれど、本当にどこまでも読み進むことが出来る。

 小説から何かを学ぼうとか、何か教訓となるものを探そうするのは邪道と太宰治は言うが、そのとおりだと思った。学生の頃、高橋和己の小説に魅了された。高橋和己の文章はとてつもなく長い。読点が1ぺージに1つもない時すらあるような、どこで始まりどこまで続くのか、わからなくなるような文章だった。その難解さが面白くて、夢中になって読んだことを思い出した。読み物はそれでいいのだと、この歳になって思う。

 『親鸞』に、下人とといった最下層の人々が登場してくる。とかという言葉で表される人々のことだ。平安末期から鎌倉時代にかけて、都市がつくられてくると、たとえば馬や牛の糞を始末する必要があり、そうした仕事をする人々がいた。疫病が流行り、あるいは使用人が年老いて、死人が出たりすると、葬らずに河原や荒れ野に放置した。そうした始末されない死者の後片付けをする人々がいた。人々が嫌がるような仕事をしていたのが最下層の人たちだ。

 それまでの仏教はどちらか言えば、身分の高い人々の死後の救済が役目であったと言ってよいものだった。それが本当に釈迦が説いた仏の道なのか、親鸞はそう思う。私は仏教について余り知らない。それでも、子どもの頃は仏教が毎日の生活の中に生きていた。祖母は毎日、仏壇にご飯とお水をお供えし、硬くなった線香臭いご飯をひとり食べていた。私は祖母が毎日していることなので、一度そのご飯を食べてみようと思い、口にしたことがある。けれど2度と食べたいとは思わなかった。祖母だって、決してうまいとは思っていなかったはずだが、だからといって捨てることは出来なかったのだろう。仏さまに供えたものを捨てたりしたら、罰が当たると思っていたに違いない。

 祖母はよく「そんなことをしたら罰が当たる」「ウソをついたら閻魔様に舌を抜かれる」と、そんな迷信のようなことを平気で口にしていた。お寺で見た地獄絵には、火あぶりや針の筵ややっとこで舌を引き抜く鬼が描かれていて本当に怖いと思った。怖いと思ったのに、そこに描かれている女は裸だったから目がいってしまった。子どもながら、そうした女の裸に目がいったのはエロティズムなのだと大人になってわかった。

 小学校の演劇で狩人が鉄砲を撃ち、撃たれたウサギが影絵で舞台のスクリーンに映し出されるだけの場面を、今でもはっきり覚えている。それは女の子の2本の足が大写しになっていたものだったが、子どもの私はものすごく性的な場面のように見ていた。そのことを長い間恥ずかしく思っていたけれど、『親鸞』を読んでいると、人の原罪ともいうべきものを感じた。親鸞とキリストはよく似ているなとも思った。
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