豊洲市場の移転問題も森友学園の問題もどうも曖昧糢糊に終わるようだ。曖昧も糢糊も意味は同じではっきりしないということ。ハッキリしないものを2つ並べて「ぼんやりしている」と強調する不思議な言葉だ。しかも「模」は「木」へんでも「米」へんでもどちらでもよいとあるからますます「訳が分からない」。
考えてみると物事をはっきりさせないのは日本人の特質なのかも知れない。中学2年の日本史の授業の時、先生が「日本には昔から住民自治があった」と言われた。室町時代の大津の坂本で馬借たちが一揆を起こし、合議で物事を決めていたという。そういえば、戦国時代は専制君主が支配していたが、どのようにするかは重臣たちの合議で決められていたし、江戸幕府も合議制を取っていた。
武将たちは戦いの前に集まって作戦を練っていたし、負けた場合は君主が責任を取って首を差し出し終わりとしていた。村落も責任者を置いているが、決め事はみんなが集まる合議制であった。合議制だからといっても結論について全員が責任を負うことはなく、長が責任を取る形だった。昔から天皇は頂点にいるが象徴でしかなく、その名の下で権勢を振るう仕組みが続いてきたから、下々までそれが行き渡っていたのだろう。
私は子どもの頃、戦争に負けたくさんの人が死んだのに、なぜその責任を潔く受ける軍人や政治家がいないのか、天皇は利用されたとしてもなぜ腹を切らなかったのか、不思議でならなかった。それが日本人の体質なら、せめて自分はそうでない日本人になろうと思い、キリスト教の門をくぐった。庶民に流れている仏教との違いに心がワクワクした。
けれど今、4月には73歳となる。嫌いだった曖昧糢糊でいいじゃーないか、それは日本人の最も賢い生き方なのかも知れないと思えるようになった。ただ、積極的にそれを肯定できない自分がいるということも確かだ。いやまてよ、それもいいじゃーないかと思う。