友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

文章の解釈と数字の間違い

2017年03月09日 17時50分36秒 | Weblog

 森友学園が小学校の建設で、金額の違う工事契約書をそれぞれの関係機関に提出していたと報じられている。「思い違い」だったのか、「勘違い」だったのか、「分からないだろうと思った」のかは定かではないが、「美しい国」の礎となる小学校を建設しようというのに、ウソはダメでしょう。安倍首相夫人は「素晴らしい教育」と絶賛していたが、実体はこんなものだった。

 昨日のブログを立ち上げる時、孫娘に原稿を見せた。「さて、問題です。この筆者は何を伝えたかったでしょう。文章の中で筆者が伝えたかった部分に線を引いてください」と孫娘に問うと、「大人になったと感心するでしょう」と答える。「正解。読解力があるねえー」と褒めた。そう言っておきながら、「昔なら陰口だったものが、今ではスマホだから表口になっている」ではいけないだろうかと思ってしまった。

 「大人になったと感心する」と結んでいるから、孫娘の成長を喜んだ文章であることは間違いない。けれど、表題にもあるように昔なら手紙だったから1対1で意志がつながっていたのに、スマホを使えば多くの人とつながる。しかも顔が見えないから言葉がドンドン激しくなる。そうした時代の変容を憂いていると答えても間違いではないような気がした。

 私が高校生の時に遡る。国語の時間に先生が、文章を指して「これはどういうことを意味しているか?」と質問した。優秀な生徒が答えると先生は、「その通りだ。よく覚えておけ」と言われた。でも、私は納得できないものがあった。確かに間違いではないが、そうではない解釈があってもいいのではないかと思ったが、言えなかった。文章の受け止め方は1つとは限らない。筆者の思いとは違ったところで受け止めたとしても、それを間違いと言えるのだろうか。

 音楽にしても絵画や彫刻にしても、受け止め方は様々に違う。どちらが正しくてどちらが間違っているとは断言できない。森友学園が3通りの書類を出したのは、それぞれに意図があったと受け止めた方がいいだろう。数字の間違いを幅広く解釈することは無理だから。

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