友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『表現の不自由展』には入れなかった

2019年10月08日 17時03分05秒 | Weblog

 仲人業をしている卒業生とデートした。現役の時なら出来ないが、私は75歳で彼女も64歳、喫茶店で落ち合って話をしても問題にならないだろう。姪っ子の長男の結婚について相談するためだが、話を聞いてそう簡単にはいかないことも分かった。仕事でやっているのだから当然のことだが、ひとりではなく何人かで会社を立ち上げてやっているのでお金がかかる。どうするかは、姪っ子夫婦や本人が決めることだ。

 せっかく名古屋まで出てきたのだから、県美術館で「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」を見ようと栄に向かった。今朝の新聞に『きょう午後再開』と出ていたので、どんな風にやるのか、それだけでも自分の目で確かめておきたかった。見通しが甘かった。案内嬢に、「並べば入れますか?」と聞くと、「抽選で入場数を制限していますが、丁度受付が始まりましたので、10階へお上がりください」と言う。地下には私以外にはいなかったので、案外空いていると思ってしまった。

 10階に行くと、もの凄い人の数だ。どこが受付なのかも分からない。スタッフの章をつけている人を見つけて、「どうしたらいいの?」と聞くと、「列に並んでください」と言う。余りに人が多くて、どこに列があるのか分からない。最後尾という看板を持っている人に、「ここに並べばいいんですか?」と聞くと、「この階段を登って行ってください」と言う。結局ぐるぐると上へ登り、やっと最後尾に辿り着いたが、こうなるともう途中で帰る訳にもいかない。

 やっとの思いでリストバンドを手首に巻いてもらい、抽選の時を待った。大勢の報道関係者がこの様子を撮影していた。「かなりの人気ですね」と隣の記者らしい人が言う。「野次馬が多いのではないですか」と答えてしまう。表現は常に政治性を持つ。「芸術に政治を持ち込むな」と言う人は無知なのだ。「中立」とか「公正」とか、あるはずの無いものを求めることの恥ずかしさを知るべきだ。当選番号が表示された。800人くらいが並んで30人が入場できる高倍率だ。やっぱり当たらなかった。

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